10 まだマシなようです
困りましたわ。子爵夫人の頑固さが、想像の遥か上を行っています。
少しでも絆されてくれそうなところがあれば、そこから攻められるのですが、彼女はどうあっても貴族と結婚させるつもりのようですわ。付け入る隙がありません。
それならばと、夫人ではなくて子爵が結婚を許可してくれる可能性はないかと考えたのですけど、やっぱりそれも無理なようですし。子爵は通常の会話すらままならないという状態だと、コレットから聞きました。
しかも子爵の意識がはっきりしていたとしても、実は夫人よりも子爵のほうが、いわゆる成り上がりの人たちに対する見下し方か酷いようなのです。
とても自然に蔑む態度を取るらしく、父親のそんなところが好きになれなかったと、コレットは気まずそうに言った。
子爵に比べれば、夫人は特に関わり合いにならなければ、進んで見下すようなことはないそうですわ。今回は娘の結婚問題なので、いつもより過剰な反応を取っているのでしょうね。
コレットによると、夫人は子爵の思想を忠実になぞっているらしく、夫の言うことが全て正しいのだという考え方の人のようですわ。
以前わたしに説教してくれた通りに、貴族の女性として理想的な、夫に忠実な妻を体現していますわね。
でもかと言って、夫婦仲が良かったというわけではないのですから、わたしには理解できない感覚ですわ。
とにかく説得を諦めるつもりはないので、今は何度もしつこく訪問して粘るしか、方法がないという現状です。あとはハルトンさんの方から攻めなくてはいけないのですが・・・。
わたしは周囲をぐるりと見渡してから、扇の陰でこっそりため息を吐いた。
今夜はフィルの親戚にあたる、とある伯爵家の主催する夜会に出席しています。
夜会自体は普段と何ら変わりはないですけど、フィルの隣にいる人物に視線が集中しているのです。
別に女性がいるわけではありません。ハルトンさんです。彼のことをフィルが知り合いに紹介して回っているのですわ。
ハルトンさんは一応夜会に出席したことはあるようなのですけど、上流貴族が集まる今回のような夜会は初めてらしいです。いきなりハードルが高いのではないかしらと思ったけど、フィルによれば、下流貴族よりも上流貴族のほうがお金持ちの平民に寛容なのだそうですわ。余裕があるから、らしいです。
でもそれでも不愉快そうに顔をしかめている人もいる。ほとんどの人はハルトンさんのことを知らないので、あの公爵家の嫡男と仲のよさそうな若い男は誰なのかと噂し合っているだけですけど、一部の知っている人や、紹介された後の人の中には、あからさまにさっさと帰れという眼差しを向けている人がいます。
フィルが見ていない間にひそひそと囁き合って、ハルトンさんが目を向けると馬鹿にしたように笑うのですから、質が悪いですわ。
それでもフィルが隣にいる分、まだ大分マシなはずですから、ハルトンさんが何度か出席したことのある夜会では、どんな扱いを受けたのか、想像するだけで気分が悪くなりますわ。彼が貴族嫌いになった理由がよくわかりますわね。
ここから子爵夫人が認めるだけの立場を確立しなくてはいけないのですから、相当な気力が要りそうですわね。
「大丈夫ですか?」
わたしはこっそり隣にいるハルトンさんに尋ねた。
彼は先ほどフィルに紹介された伯爵にもあまり相手にされず、その伯爵とフィルが話している近くで居心地が悪そうにしていた。フィルも爵位を持つ年長者を無碍にはできないから、こちらを気にしつつも伯爵に話を合わせている。
「ええ、大丈夫ですよ。正直この程度で済んで、驚いているくらいです」
ハルトンさんは笑顔で答えた。やっぱりかなり酷い目にあってきたようですわね。
「僕の家は公爵家ほどではないですが、引けを取らないくらいにはお金を持っていますから、反感を買いやすいのですよ。庶民のくせにやりすぎだと思われているのでしようね」
なるほど。成功者の中でも群を抜いているのですわね。もしかしたら彼の顔を知らない人でも、名前を聞けばどこの誰だかわかるのかもしれませんわ。
「ーーがに平民は図々しいな」
突然、嘲笑するような声が聞こえてきた。ギリギリ耳に届くくらいの大きさで。
「こんな所まで商売をしに来るとは。随分と仕事熱心なことだ。恐れ入る」
今度は別の声だった。声がした方を振り向くと、ハルトンさんと同じ年頃の男性が二人いて、わたしと目が合う前にさっと顔を逸らした。
さっきの言葉は間違いなく彼らが言ったのでしょうね。
ハルトンさんを見ると、困ったように笑っている。
伯爵と会話しているフィルには聞こえないように、でもハルトンさんにはわざと聞かせているのだわ。
「しかし公爵家にまで取り入るとは、ハルトン家の商才は本物らしい。素晴らしいよ。あやかりたいものだ」
「全くだ。その手腕をぜひお見せ願いたい。我々には真似できないくらい高度なものかもしれないがね」
わたしが視線を外すとまた忍び笑いを含んだ声が聞こえる。
皮肉ですわね。貴族の男性って直接的な悪口は行儀が悪いと思っているのか、すぐに皮肉を言いますわ。言ってる内容は何にしろ酷いのですけど。
「確かに。真似をするのは抵抗があるくらい高尚な技術かもしれないな」
くくっと笑い合う。
これって、どうせ下劣な手段を使ったんだろ。貴族である自分たちには、真似できないような。っていう意味ですわよね。
根も葉もないというのに、商売で卑怯な手を使ったのではないかという疑いをかけるのは、名誉を傷つけることに値しますわよ。もしそんな噂が広まってしまったなら、ハルトンさんは破滅しかねません。
これはちょっとやり過ぎですわね。
わたしはこっそりとほくそ笑んだ。
目を逸らす隙を与えないために、わたしは素早く振り向き、彼らににっこりと笑いかけた。
何もわかっていなさそうな、それでいて男性の好みそうな可愛らしさを演出した笑顔ですわ。
案の定、こそこそと話をしていた彼らは、気まずそうな顔をしながらも曖昧な苦笑いを返してくる。わたしが会話の意味をちゃんと理解していないと思っているのでしょうね。
わたしは不思議そうな顔をしてから、ハルトンさんに視線を戻した。
「ハルトンさんってすごいんですのね! どなたかわかりませんけど、今褒められているのが聞こえてきましてよ」
わざと少し大きな声で言った。
ハルトンさんはわたしが頭の悪い女のフリをしていることには気づいたようですけど、どうすればいいのかわからずに困っている。
「商売で素晴らしいことをなさっているとか。ぜひ見せて真似させてほしいと言われていましたわ」
わたしは横目でそれを言った彼らのぎょっとしたような態度を確認した。内容はちょっとだけ曲解しましたけどね。ちょっとだけですわよ。
いけない。何だかウキウキしてきてしまいましたわ。最近は夜会では大人しくしていたので、この感じ久々ですわ。
「アイリーン、どうかしたのか?」
伯爵との会話を切り上げたフィルが近づいて来た。
「どなたかがハルトンさんの商売が素晴らしいから真似したいと言っているのが聞こえてきましたの。ですからハルトンさんってすごいのですねって言ってましたのよ」
やや大袈裟な口調で言うと、フィルはすぐに状況を理解したらしい。
「へえ、誰か商売を始めたい人でもいるのか」
「そのようですわね」
フィルは止めるつもりはないようで、参戦してくれるようですわ。友人を馬鹿にされたら、そりゃあ怒りますわよね。
下級貴族ならともかく、上流貴族が投資ではなく商売を始めるということは、家が傾きだしたのだと捉えられます。それが悪いことかどうかはともかく、そうは思われたくない貴族が圧倒的に多いですわ。でもあやかりたいと言っていましたし、わたしたちがこんなことを言っても何ら問題ありませんわね。
「それなら遠慮せずにデリックに聞けばいいのに。こいつならちゃんと教えてくれる」
フィルの言葉に皮肉を言った彼らはかなり慌てた。なるべく目立たないように、距離を取ろうとしている。
フィルとハルトンさんは注目されていたので、わたしたちの会話を聞いている人も多いのですわ。
「それがどなたが言ったのかわかりませんの。近くにいらっしゃるはずなんですけど」
「へえ、誰なんだろうな」
そう言いながらフィルは的確に、それを言った男たちに視線を向けた。挙動不審でしたから、すぐにわかりますわね。
意味ありげな目で見られた彼らは、一瞬固まったあと、そそくさとその場を去って行った。周囲から注目されていてもお構いなしですわ。
あっけないですわね。人を中傷するなら、やり返されることも考えておくべきですわ。
まあ、離れた場所から人を貶めることを言うような人間には、無理なことでしょうけど。
わたしは心の中で勝ち誇った笑みを浮かべた。
これでハルトンさんがフィルと本当の意味での友人なのだと、ここにいる人たちは理解してくれたはずですわ。
満足して二人を見ると、まだ少し怒っている様子のフィルと、唖然とした顔でわたしを見ているハルトンさんがいた。
彼の中でのわたしのイメージが崩れたようですわ。