2 機嫌を取られました
「わたしが若かった頃には考えられないことですよ」
「ええ・・・」
厳しい顔をするご夫人に、わたしはしおらしく返事をする。
「最近では時代が変わったのだとよく言いますけどね、慎み深さを忘れることと時代が変わったことに何の関係があるのです。淑女だなどと、とても言えたものではありませんよ」
「仰る通りですわ。子爵夫人」
説教なのか嫌味なのかよくわからない小言を食らっていますわ。もちろんこの間のアレが原因です。
好意的な意見が多いというだけで、もちろんこういった否定的なことを言う人だっています。むしろ真っ当な意見ですわ。
だから夜会の華やかな空気の中で説教されていようが、大人しく聞いております。わたしだけ怒られているというところが、少しだけおかしいと思うのですけど。
「あなたが貞淑さを忘れれば、公爵令息の品位も疑われるのです。そのところをよく理解なさいまし」
「は・・・い」
いえ、大分おかしいですわ。
確かにわたしの行動が要因ではあるのですけど、今日まともに話したばかりのご夫人が、詳しい経緯など知っているはずもありません。なのになぜ、人前であんなことになった原因が、わたしの貞淑さのなさで、フィルは責められないんですの。わたしからやったわけではありませんわよ。
この年代の方ってなんでも男性に従って、彼らが正しいのだと思い込んでいる人がいますけど、そういう考え方のせいかしら。
でもここで反発するのはよくないですわ。子爵は伯爵よりも下位ですけど、わたしはまだ社会的地位のない親の庇護下にいる小娘です。しかしあちらはれっきとした子爵夫人。
まだ子供だと判断される貴族の子女って、大人からすれば結構扱いが低いのですわ。
とは言えやはり理屈が理不尽です。
わたしは帰りの馬車でムスッとしてしまっていた。
でも機嫌が悪いのは何もそのせいだけではない。数日前にブリジットから考えろと言われたことのせいでもある。
彼女があまりにも熱心に言うものだから、ちゃんと考えようとはしているのですけど、でも考えようとすれば嫌な気分になってしまうのよ。
おかげで最近は微妙に不機嫌な状態が続いている。
向かいに座っているフィルだって苦笑しているくらいよ。彼は夜会でのことだけが原因だと思っているでしょうけど。
「アイリーン、明日は夜会がないだろう?」
フィルは特に怒るでもなく、優しく聞いてきた。
「ええ、ないわ」
特に出席しなくてはいけないものがなければ、夜会は休むことにしている。さすがに毎日参加はできない。
「ならオペラを観に行かないか」
わたしはピンと顔を上げた。
「行く、行くわ!」
即座に返事をする。
やったわ、オペラ。わたし大好きなのよ。
と言うよりオペラだけではなくて、外出することが好きなのですけど。だって社交界デビューするまでは、ほとんど家に籠もってばかりで、あまり外に出られなかったんですもの。
夜会だって嫌いではないですけど、比べるなら断然オペラです。しかも公爵家のボックス席はかなり場所がいいのですわ。
「演目は? 今は何をやっているんですの」
一気に機嫌がよくなったわたしにフィルは笑った。
夜会ほどではないにしろ、オペラハウスもやはり社交の場ではあります。
知り合いを見かけたら一々挨拶をしなくてはいけない。おかげで早めに出たというのに、もうすぐ始まってしまいそうだわ。
わたしとフィルは急いでボックス席に入ろうとした。
「ん? あれは・・・」
フィルが奥の通路を見て呟いた。視線の先には一組の男女がいる。
二人とも若い。通路は角が多いから横顔が見えた。
「知り合い?」
「ああ、友人だ。でも時間がないし、終わってから挨拶をしよう」
フィルはそう言って係員が開けた扉を通ってボックス席に入った。
「友達ですの? わたし会ったことがないわ」
フィルの友達にはもう夜会で全員会ったと思ってましたわ。
「彼は貴族じゃないから、俺たちが出るような夜会にはあまり出席しないな」
貴族ではない。なのにボックス席のある通路にいるということは。
「実業家ですの?」
「ああ、貿易商だ」
「どこで知り合いますの。そういう人と」
公爵家の嫡男であるフィルと、貴族からは煙たがられることの多いお金持ちの商人が友達だなんて不思議な感じがしますわね。
「紳士クラブ」
なるほど。女には未知の領域ですわ。
わたしも普段は貴族や使用人以外の人と話すことがありませんから、知り合いにはなってみたいですわね。
しかし、オペラの演目が全て終わる頃には、わたしは他のことはすべて忘れ去っていた。
だってそれなりに長いですし、感動的だったんですのよ。別にわたしが馬鹿なわけではありません。
「よかったわね。わたしこのお話好きだわ」
「普通は歌手の良し悪しを語るものだけどな、オペラを見終わったあとってのは」
「そんなもの批判が大好きな新聞記者に任せておけばいいのよ。だいたい舞台に出れるのだから、みんな上手いに決まっているじゃない」
「君が将来、歌手のパトロンになることはなさそうだな」
フィルはどこかほっとしたように言う。
「パトロン! ねえ、貴族のご夫人が男性歌手のパトロンになって、愛人のようなことをさせてるって本当のこと?!」
「いらん知識を仕入れてくるな! そんな事実はない!」
「別に舞台裏に行って、誰が愛人関係なのか確かめようとしているわけではないわよ」
援助していたりコネがある場合は、終わった後に舞台裏まで挨拶に行ける。パトロンなら当然行っているでしょうけど、でもわざわざそこまでして確かめたいわけじゃない。機会があれば行きますけどね。
「・・・君は舞台裏に行くのは禁止だ」
違うと言っているのに、なぜ止められているのかしら。
「さて、そろそろ出よう。もう人混みも落ち着いているだろう」
フィルが立ち上がって手を差し出してきたので、わたしも席を立った。もう少しここにいたかったですけど、フィルと一緒とはいえ、あまり遅く帰っては怒られますわね。
扉を開けて通路にでる。
「どうしてそんなことを言うのよ!」
出口に向かおうとしたところで、突然大きな声が聞こえてきてびっくりした。
振り返ると、上演前に見たフィルの友人だという男性と同伴していた女性がいる。
そういえば後で挨拶しようと言っていたんでしたわ。わたしもフィルもすっかり忘れていましたけど。
二人は周囲のことなど見えていないようですわね。女性は後ろ姿しか見えませんけど、男性は動揺しながらも、なんとか必死で彼女を宥めようとしていますわ。
これって、もしかして。
「修羅場?! 修羅場ですわね!」
「嬉しそうに言うな!」
小声ながらも興奮してフィルに問うと、小声で怒られましたわ。
でも初めて見るんですもの。とても興味深いですわ。どうなるのか気になります。
この場に留まろうとするわたしと、連れ出そうとするフィルの静かな攻防が始まりました。その間もフィルの友人だという男性が、女性を落ち着かせようとしています。
「コレット、そういう意味ではないんだ。ただなんというか、現実的に考えると・・・」
「考えるとどうなるって言うのよ! あなたにとってはその程度のことだったの?!」
そうよ、もっと言っておやりなさい。
わたしは心の中で彼女に声援を送っておいた。同じ女性として味方になってみただけで、特に深い意味はありませんけど。
「違う!」
「違わないわよ!」
女性は一際大きな声を出すと、くるりと男性に背を向けた。
その顔が泣き顔だったので、わたしもフィルも驚いて動きを止める。
彼女も人に見られていたことに驚いて、一瞬目を見張ったけど、すぐに顔を逸らして走り出してしまった。
「コレット!」
「来ないで!」
男性の呼びかけに彼女は全力の拒否を示した。追いかけようとしていた彼の足が止まる。
カツカツと彼女の足音だけが通路に木霊した。
その後は気まずい沈黙が落ちる。
「フィル・・・」
男性がようやくわたしたちの存在に気づいたみたいですわ。呆然としています。
「あー、すまない。見るつもりはなかったんだが」
ボックス席ではなくて通路で喧嘩していた人に、フィルは律儀に謝った。でもわたしは見るつもりでしたわ。ごめんなさい。まさかそこまで深刻な喧嘩をこんなところでするとは思わなかったのよ。
「少し時間を置いてから、迎えに行った方がいいんじゃないか?」
フィルが男性に提案した。
わたしもそう思いますわ。彼女が冷静にならないと、また言い争いになるだけですもの。
「しかし・・・」
彼は彼女を一人にすることが心配のようですわね。
「わたしが様子を見に行きましょうか?」
男性の名前を知らないので、わたしはフィルに聞いてみた。
でもオペラハウス内とはいえ、こんな時間に女性が二人でいるのも問題ですので、結局フィルと二人で行くということですけど。
「それがいいな。デリック、彼女の名前を教えてくれ」
「すまない・・・。彼女はカーディウェルス。コレット・カーディウェルス子爵令嬢だ」
「え・・・?」
珍しい家名ですわ。
でもわたしはつい最近その名前を聞いた。それも昨日の夜会で。
カーディウェルス子爵夫人。わたしに貞淑さについて説教をしたご夫人と同じ名前だった。