10 そうなりますわよね
ホッとすればいいのか、終わったと思えばいいのかわからなかった。
「アイリーン!」
フィルがわたしを呼ぶ。
シズリーの腕の力が緩んで、突き飛ばすようにして離れた。実際にはあまり力が入らず、シズリーはよろめいてもいないようだった。
視界が開けて、周囲の様子がよく見えるようになってくる。
全員がこちらを見ていて、驚いたり眉をひそめてひそひそと話したりしていた。多くの人がわたしを集中して見ているような気がする。
人の多い場所にいたことが、却って災いしている。
本当にまずい。
恐らくメリッサ様もシズリーもこの後起こるべきことを理解してはいない。シズリーはきっと今までと同じように、多少強引な手を使えば、結婚相手も手に入ると思っている。
でもそんなわけがない。立場が逆だったならあり得たかもしれないけど、シズリーは子爵家でフィルが公爵家なのだから。こればかりは身分が物を言う。
そして通常、婚約者を持つ男性が、衆目の中で自分の婚約者の名誉を落とされたり、横取りされそうになったらどうするか。
━━決闘になる。
法律で禁止されているなんてことは関係がない。貴族は名誉というものが一番大事だと思っている人がほとんどなのだから。名誉を守るためなら、それが人から見てくだらないものであったとしても命も賭ける。
そう、命も賭けるのよ。昔ほど決闘で亡くなる人は多くないけれど、いないわけじゃない。
もしこの場の空気が決闘をするべきだというものになってしまったら、フィルにその気がなくても、決闘を申し込まなくてはいけなくなる。
そんなの冗談ではない。
動揺している間に、気がつくとフィルが目の前にいた。
わたしの肩をぎゅっと抱く。シズリーに抱きつかれてから強張ったままだった体の力が抜けた。ほっと息を吐く。
いえ、違うのよ。安心している場合では全くないのよ。
わたしはフィルを見上げて、必死で目で訴えようとした。でもフィルはわたしを見ていない。
「邪魔しないでくれよ、フィリップ」
シズリーが抗議の声を上げる。
「アイリーン嬢は君よりも、僕の方がいいってさ。ねえ?」
彼は上機嫌でわたしに同意を求める。まるでわたしがそう思っているのだと本気で信じているみたいに。
「そんなこと言っていませんわ!」
驚いて否定する。
でも彼が演技で言っているようには見えない。と言うよりそんな器用なことができるとは思えない。これは嘘を吹き込まれたということ?
あっさり信じるほど馬鹿なのかと思うけれど、そう言えばメリッサ様も自分に好意があるのだと思い込んでいたわ、この人。
わたしは周囲を見渡した。けれどどこにもメリッサ様の姿が見えない。
彼女は逃げたのだ。シズリーを置き去りにして。
利用するだけして捨てたってことなの。
ちょっとこれどうすればいいのよ。彼女がいなければ、糾弾もできない。
フィルが小さくため息を吐いた。
体がびくっと震える。
お願い、やめて。そう言おうとしてフィルの顔を見て、面食らった。
「駄目だろう、アイリーン」
「え?」
フィルの声は優しい。この緊迫した空気に似合わず、顔も穏やかに微笑んでいる。
とりあえず彼に決闘をする意志はないらしいけど、何が言いたいのかわからない。
「喧嘩したからと言って、他の男と必要以上に仲良くするのはよくない。勘違いをさせてしまうだろう?」
「え、ええ・・・」
よくわからないけど話を合わせていた方がいいのよね。フィルは多分、この場を丸く収めようとしている。
「でも私も悪かったよ。だからもう喧嘩は終わりにしよう」
「ええ、わたしも悪かったわ」
わたしがフィルと喧嘩して怒ったから、当てつけに他の男性に近づいて、勘違いさせてしまったというのとにしたのかしら。誤魔化したのだと思われなければいいけど。
「じゃあ仲直りだ」
聞いたことがないくらい甘い声でフィルが言った。頬に両手を添えて、上を向かされる。
え? なに?
疑問に思っている内に、わたしの目はフィルの顔しか映さなくなった。他には何も見えない。
それだけ近いということですわ。
ええ、つまりキスされています。口と口で。
しかもすぐには離れない。見せつけるように長い間、唇は合わさったままだった。
いえ、実際見せつけている。
周囲がどよどよとざわめく。わたしがシズリーに抱きつかれた時の比ではない衝撃が走った。
そりゃあ、そうですよね。
そりゃあ、そうですわよね!
離れたフィルの顔を見て、わたしは真っ赤になって、口をパクパクさせた。こんな人前でなんてことをするの。
「では、帰ろうか」
周りの人々を全て無視して、フィルはわたしの肩をしっかり抱いて歩きだした。
なぜか黄色い声援がいくつも上がる。やめて恥ずかしすぎて死にそう。
フィルはすぐに立ち止まると、後ろを振り返って思い出したように言った。
「そうだ、ダミアン。君も恋人を妬かせたいからって、こんなことをしてはいけないよ。メリッサ・コート嬢が可哀想だろう?」
フィルの発言に、少しだけ落ち着いていた衝撃がまた大きくなった。
それを満足そうに見てまた歩き出す。
わたしは顔を真っ赤にしたまま、歩くというより引きずられるようにして連行されていった。
「嫌です! 絶対に嫌ですわ!」
わたしは自分の部屋に立てこもって、フィルの侵入を防ぐために、扉に張り付いていた。かれこれ三日間に及んでいます。
「もう一週間だぞ、アイリーン。この社交シーズンにこれ以上夜会を欠席できるわけないだろう」
フィルは何とかわたしを夜会に連れ出そうと説得している。もう一週間って、まだ一週間しか経っていないでしょう。
「あんなの大勢の人に見られて、平然と夜会に顔が出せるわけないですわよ!」
思い出しただけで羞恥で顔が赤くなる。もしそれについて話をされたら、走って逃げ出してしまうかもしれない。
周囲の人の気を逸らすためにやったのだとわかっていても、それで恥ずかしさが消えてくれるわけではないわ。
「・・・アイリーン、怒るぞ」
それまで子供を宥めるようだったフィルの声音が急に低くなった。
驚いて慌てたわたしは、バンッと扉を開ける。
仁王立ちしたフィルがそこにいた。
すごく気まずい。
わたしは今回のことでフィルに迷惑をかけたという自覚がある。謝らなくてはいけないとは思っていたのだけど、アレのせいで後回しになっていたのよ。
「あの・・・フィル、いろいろごめんなさい」
わたしがメリッサ様のことを愛人候補だと勘違いして、陰険バトルを楽しもうとしたことがよくなかったのよね。更に結婚目当てだとわかった後に、さっさと決着をつけるために、高圧的に脅しをかけたことが悪かったと思う。メリッサ様みたいな人には、神経を逆撫でするだけだった。彼女はきっとわたしにダメージを与えられるなら、何でもよかったのでしょうね。最後まであきらめなかったわけでは、きっとない。
「それはもういい。俺も始めに気がつかなかったし、ちゃんと止めるのが遅かったしな」
そんな言われ方をしたらますます気にする。フィルはきっとそれをわかってて言ってますけど。
「・・・メリッサ様はどうしましたの?」
フィルの捨てセリフでどんな事態になったのかは気になった。
「彼女は田舎に帰ろうとしていたようだが、怒った侯爵夫人にダミアンと婚約させられて、さっさと結婚まで済まそうとされている。ダミアンも父親から強制されたらしいな」
らしいなってフィルがあんなことを言ったからよね。未婚女性にとって恋人とは通常、結婚を前提につき合っている人ということになるのだから。
「でもそれならメリッサ様は子爵家に嫁入りできたということね」
准男爵の娘としては十分良縁でしょう。本人の好き嫌いはともかく。
「子爵家ならな」
なんだか含みのある言い方をする。
「ダミアンは気づいていないが、シズリー子爵家は借金を重ねている。にもかかわらず当主は貴族としての贅沢な暮らしをやめられないでいるからな。そのうち・・・結婚直後ぐらいに爵位を売らなくてはいけない事態になるんじゃないか?」
あっさりとフィルは言う。でも爵位を売るということは。
「それって平民になるということですわよね」
そして時期がやたらと具体的なことには触れない方がいいのかしら。
「そうだな。ちなみに准男爵だからメリッサ嬢の家に金があると当主は思っているが、あそこは数年前に事業に失敗している」
准男爵は主に事業に成功したお金持ちが、金銭面で国に貢献して、与えられる称号だからお金持ちが多い。でももちろん事業は大失敗することもある。
お互いに親はメリットがあると思い込んでいて、でも実際はデメリットしかないのね。
つまりメリッサ様は嫌いな相手だというだけでなく、お金も爵位もない家に嫁ぐということになる。しかもお互い騙し騙された相手なのだから、結婚生活の荒みっぷりは想像を越えるでしょうね。
「でもシズリーは家にお金がないことを知っていたのではないの? だからわたしにあんな強引な手を使ったのかもしれないわ。いえ、知っていたのならもっと強引なことをしたかしら?」
「アイリーン。爵位も財産も上の女性と結婚したところで、男にメリットはあまりないぞ。むしろ金がかかるといって敬遠されるくらいだ」
「え?! そうなんですの?」
「持ちつ持たれつだった場合は違うけどな。しかも無理やり結婚したとなると女性の親だって援助なんてするわけがない」
そういえば女性の身分が何であれ、結婚後は嫁ぎ先の生活水準に合わせるものだし、持参金だって妻の財産だから、夫の自由にはできない。大抵の女性は夫が亡くなった時のために手を付けないですし。
「じゃああの人、何のためにあそこまでやったのよ」
わたしの疑問にフィルは答えなかった。
「さて、そろそろ支度をしろ」
おしゃべりは終わりとばかりにわたしの背中を押す。やっぱり行かなくてはいけないのね。
「なんでフィルはあんなことしておいて、堂々と夜会に出席できるんですの!」
フィルはわたしが出席していない間に、一度一人で出かけていた。どんな神経をしているのよ。
「ちょっとからかわれるくらいだろ。笑っておけばいい」
「からかわれるんじゃないの! どういうこと。納得できませんわ。そんなに面の皮が厚かったかしら」
なぜかフィルは無言でわたしの顔を見た。じっと凝視している。なんなんですの。
「俺も自分に納得がいかない時がある」
「はい?」
何ですの、それ。
「いや、いい。いいからさっさと支度しろ」
うぅ。今日ばかりはフィルの言うことを聞かなくてはいけないわね。でも行きたくありませんわ。
わたしは渋々準備を始めた。
そして気力を振り絞って出かけた夜会会場で、やっぱりわたしは来たことを後悔する羽目になった。