1 喧嘩を売られましたので
贅を尽くし、美を凝らした夜会会場。
テールコートを着こなした紳士たちが、人脈の確保に勤しみ、色とりどりのドレスを身に纏った淑女たちが、噂話や結婚相手の物色に精を出す。
一見優雅でいて、少しでも裏を覗き込めば、その実態はまるで違うのだと知れる。この世界から弾き出されないように必死で足掻き、時には他人を蹴落とし、自己の立場を死守する人々の住処、それが社交界。
今年デビューを果たした小娘にも、それはすぐに理解できた。
だからこそわたしはにっこりと微笑み、目の前の紺色のドレスの女性を言葉で攻撃する。
「本当に田舎者丸出しですわね。不躾にもほどがありますわ。あなたの出身地では、それが常識なのかしら。だとしたら余程、王都から離れた地からいらしたのね。それとも外国に住んでらしたのかしら。それなら、その礼儀のなさも致し方ないですわね。ごめんあそばせ」
申し訳なさそうに眉尻を下げて言ってみせる。
彼女は美しい顔を悔しげに歪めた。
扇で隠したわたしの口角が自然に上がり、気分が高揚する。
「まあ、不躾だなんて大袈裟ですわね。わたくし王都に来てからしばらく経ちますが、たまにいらっしゃる矜持の高すぎる方々には、未だに驚かされますわ。いえ、あなたのことを言っているわけではございませんのよ」
見事な反撃が来た。ええ、こうでなくてはいけませんわ。
「あら、それは大変ですわね。それはそうと、あなたのその袖のレース、有名なデザイナーの模造品かしら。いくら似ているとは言っても、あまりにも偽物とすぐにわかるものは避けた方がよろしいんではなくて?」
彼女の頬がさっと赤く染まった。
どうやら本当に偽物だったらしい。それとも今その事実に気づいたのかしら。レースの値段を考慮して当たりをつけただけなのだけど。
「アイリーン様はとても高そうなドレスを身に纏っていらっしゃいますものね。でも流行のものであればそれでいいというわけではないと思いますけど。似合うかどうかが重要ではありませんこと? 隣に立たなくてはいけない彼に恥をかかせては可哀想ですもの」
「あらまあ、その台詞そっくりそのままお返しして差し上げるわ。そのような格好で彼の隣に立つおつもりですの?」
わたしと彼女の間で火花が散る。
どちらも引く気はないと態度で示している。
会場の片隅でひっそりと始まった舌戦は、その後しばらく続いた。
しかしそれでも人々の注目を集める前に、決着が付かぬままひっそりと終了したのだった。
「何をしているんだ、君は」
翌日、わたしは説教を受けていた。
両親でもお目付役でも家庭教師にでもない。わたしの家の応接間で、向かいのソファーに座り、怒りのオーラを漂わせているのは婚約者のフィリップ・アーノルド。
彼はこの国に四つしかない公爵家の嫡男で、スクールを優秀な成績で卒業した将来有望と言われている男らしい。婚約者さえいなければ、理想的な結婚相手の筆頭となっていただろうと、誰かが言っていましたわ。わたしには実感が湧きませんけど。
「何のことかしら?」
「すっとぼけるな! 昨日の夜会で俺がいない間に、どこぞのご令嬢とやり合っていただろう!」
せっかくこの人が戻って来る前に中断できたというのに、しっかりバレてしまっている。
「あら、あの方あなたのお知り合いでしょう? とても親しそうな話しぶりでしたけど」
彼の眉間に皺が寄った。
「誰だ?」
「メリッサ・コート様ですわ」
「・・・ああ、確かに紹介されて何度か話はしたな」
ちょっと考えてから頷く。誤魔化しているようには見えないけど。
「あなたの愛人候補ですわよね」
「はあっ?!」
素っ頓狂な声が部屋に響いた。
「わたしだって何もしていないご令嬢に喧嘩をふっかけたわけではありませんわよ。彼女がわたしに、あなたの婚約者なのに大したことないだとか、親の決めた相手ならもう少し控えめな態度で身をわきまえていろだとか、言ったからですわ」
ちなみにわたしは大したことない女ではありません。美人で教養のある立派な淑女です。
「それは・・・相手の女性が悪いが、それで何で愛人候補ということになるんだ」
「それは事前に教えてくださった方がいるからですわ。あなたすごいですわね。愛人候補が列をなしているなんて」
わたしは本気で感心していた。
彼は地位もお金も持っているし、顔も標準より上だ。すごくかっこいいと言われているけれど、それは相乗効果によるものだとわたしは思っている。
そこまでは理解していた。
でもまさか結婚前から愛人の座を狙っている女性がたくさんいるなんて、わたしは社交界に出てから初めて知った。
愛人というのはあまりお金の持っていない貴族に嫁ぐよりも、余程いい暮らしができる場合があるらしい。最近は没落してしまう貴族も多くなっているから、なりふり構っていられないようだわ。
「そんなわけあるか。俺は愛人を持ったことも、持つ予定もないんだぞ」
馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに脱力する。この人、女性の心の機微が全く理解できないタイプね。今確信しました。
まあ、それはどうでもいいですわ。
「そんなことは関係ないんです。重要なのは相手がその気かどうかということですわ!」
「関係ないわけあるか!」
わたしが声を大きくして断言すると、彼は即座に怒鳴り返してきた。
いいえ、わかっていませんわ。わたしにとってはそこは問題ではないんです。
「・・・ちょっと待て、アイリーン」
何かに気づいた彼が、胡乱気な眼差しを向けてきた。
「君は何をそんなに嬉しそうにしているんだ?」
言われてわたしはようやく自分がだらしなく頬を弛ませていることに気がついた。あらやだ、わたしとしたことが。
「だって愛人候補と婚約者なんですのよ。愛人と正妻ほどの生々しさはありませんけど、十分にドロドロしていると思いません? 陰険な女の戦いが幕を開けそうではないの。これを楽しまずして何を楽しめと言うの!」
「楽しむな、陰険な戦いを!」
「これぞまさしく『後宮』の世界ですわ。まさか自分が体験できるなんて! いい仕事してくれましたわ、フィル!」
「してねぇよ! まだそんなもの読んでいたのか、君は!」
ちなみに『後宮』というのは一昔前にあった側室制度で、王の側室たちが住んでいた後宮を舞台にした、ノンフィクションのようなフィクション小説ですわ。それはもう、身も凍るような女たちのドロドロとした戦いが描かれていて、読んでいるだけでゾクゾクしてしまいます。わたしの愛読書ですわ。
さすがに毒殺やら子供を産めない体にするというようなことはできませんが、やられたら憎しみを込めてやり返すという、その応酬がたまらないのよ。
「一度は全力で蹴落とし蹴落とされる関係というものを築いてみたいではないの。メリッサ様もその気になってくれたようですし、こんな状況、願ってもないですわ」
これからの熱き戦いに思いを馳せて、うっとりとしてしまう。
「頼むから大人しくしていてくれ・・・。社交界デビューした途端に、なんでそんな状況に陥れるんだ」
フィルは胃のあたりを手で押さえて、苦悩の表情を浮かべている。
「あなたこそどうしてそう、男のくせに平穏に過ごそうとばかりするのかしら。しみったれた根性ですわね。男なら宰相とかになって裏で国政を牛耳ってやるとか、この世の全ての女は俺の物だとか言ってみなさいよ」
「そんな男はただの阿呆だ!」
「例えですわ」
それくらいの気概を持てということですわよ。まあ、今更フィルがそんな漢気を見せるわけがないですけど。
わたしと彼は父親同士が親友で、歳が一歳違いとちょうどいいからという軽いノリで、婚約者にされている。だから子供の頃から付き合いがあるし、どちらかというと幼なじみという印象が強く、お互いの性格もそれなりに把握している。
フィルは昔から公爵家の嫡男だというのに、穏やかに生きたいとか枯れたことを言っては、わたしを呆れさせていたのだ。
「でもとにかく今回はフィルのおかげで楽しくなりそうですわ。愛人候補と婚約者。一度は婚約者が負けるのがセオリーですが、わたしはもちろん全勝してみせますわ!」
「どんなジャンルのセオリーだよ、それは・・・」
会話をしていただけだというのに、フィルは疲れきっていた。相変わらずジジくさい。
「今度会ったときは何をしようかしら。ドレスにワインを零すというのはありきたりですわね。でも外見と教養を侮辱するというのは外せませんわ。ダンスの最中にみっともなく転けさせるというのがいいかしら。問題はどうやってそれをするかですけど」
「いや、問題は俺に愛人を持つ気がないというところだよ・・・」
「もう、水を差すようなことを言わないでちょうだい。女同士の戦いに男が介入する隙はないのです」
「俺、当事者だよな・・・」
うるさいですわね。しつこく抗議しているフィルは、この際無視しましょう。
だいだいメリッサ様だってあの様子じゃあ、フィルにその気がなくとも、簡単には諦めませんわよ。ガンガンにアプローチして来るに決まっていますわ。
まあ、フィルがそれに気づくかどうかは別問題ですけど。
わたしはなぜか両手で顔を覆って、天井を仰いでいるフィルを見ながら、こっそりとため息を吐いた。