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耳鳴りが静まり始める。
疼くような痛みが和らいで、わたしは縮こまった身体から顔を出した。中天に居座っていた太陽は地に落ち始め、今は雲に遮られてやや光量を落としている。ざまあみろ。とはいえ、やはり傘がなければ外の世界は危険だとよくわかった。すばやく周囲に視線を配って傘を捜す。男はいない。人通りは絶えている。通路の先はまだ人が多く見えるが、やや距離があるためかこちらの様子に気づいたものはいないようだ。道路の端で仰向けに寝転がる傘を見つけた私は四つん這いのままで傘の元まで進むと爛れた指先で拾い上げた。傘の柄に指が触れたときに痛みを覚えたものの、陽光のソレと比べればなんということはない。落ち着かなく傘を握り締め、盾の様に太陽へ掲げると、私はその場に丸くなって細く息を吐いた。
相も変わらず、体内を這い回る奇妙な感覚は、けれどそれが自身の身体を慈しんでの免疫作用であることに思い至ると、不可解さは愛しさに変わった。敵中にある自分にとって、味方と呼べるものはこれだけだ。
味方。
その思考に胸の内が震えた。
そうだ、もう一人、味方はいた。タクミ。彼に会いに行かないと。タクミには味方はいるのだろうか。あの家にいる女は、仲間とは言い難い。協力者と呼ぶほうが、まだ近いのではないか。わたしがタクミを見つけたように、タクミにわたしがついていると教えたい。手を繋いで大丈夫だよって言いたい。ありがとうって頭を撫でて欲しい。ずっと傍にいてほしい。ずっとずっと。けれど、今はいない。タクミは心細く思っているに違いない。あの社屋にいたわたしのように、本当は寂しく思っているに違いない。大丈夫だよ、タクミ。わたしがついているから。わたしが守ってあげるから。だって、彼にそう誓ったんだから。
キシキシと嘲る間接に蔑視を呉れて、わたしは立ち上がった。
傘の柄は柔らかく、靴の底は泥が詰まったように気持ちが悪い。
そんなことは些細なことだ。タクミが待ってるから、はやく学校に行こう。学校への道順はちゃんと覚えてる。はやく顔は見たいよタクミ。
ぼんやり、ゆらゆらと取り留めのない思考の先に、懐かしい学校の姿が見えてくる。けれどその門扉は閉じられ、わたしの背丈をゆうに越す高さに尻込みする。それでも勇気を出して取っ手を掴むと、それをゆっくり下げようとして、固まった。どうやらこの扉はこうして開けるのではないらしかった。では押すのか? 引くのか? どうもそうではないらしい。一向に門扉は開こうとしない。ではどうすれば開くのか。わたしは頤に指先を当てて首を捻る。ゆっくりと記憶も巡らせてみても、男と女ばかりが現れてままならない。残念ながらわたしにはこの扉を開く術がないようだった。
がっくり項垂れ、次いで聞こえてきた歓声に視線を上げた。声のした方向を見てみると、そこには両手の指を超える、咄嗟に数えられないほどの人がいた。その人間たちは一葉に揃えて誂われた服を着て、なにやら地を駆けていた。その中に、タクミがいた。お揃いの服を着た彼は、何やら周囲の人間から頭や背に攻撃を受けていて、それだけに留まらず、可笑しな形の光線を浴びせられて困ったような笑みを浮かべていた。
わたしは愕然として、たまらず門扉を握る手に力を込めていた。微動だにしない門扉に一瞥を呉れて、焦燥の視線をタクミに向ける。視線の先でタクミは彼らに何やら言葉をかけていた。さすがにこの距離ではその言葉まではわからないが、険悪なムードというわけではない。タクミにとっては大したことがない攻撃かもしれないが、わたしは心配だった。きっと辛さを押し隠しているに違いない。出来ることならその辛さを拭ってやりたい。けれど今、二人の間には冷然と立ちはだかる強大な壁があった。そしてその壁を乗り越えられる手段を持ち合わせていないことを、わたしは身に染みて感じていた。先ほど感じた後悔に倍する痛恨。どうしてわたしは生まれたばかりなのか。もっと色んなことを覚えていれば、きっとこの扉だって開けられたのに。
だけど、わたしに出来ることがないわけじゃない。あの変な光線、あれはきっと女のトゲや男のヘビと同じようなものだ。あれを食べてしまえばタクミの負担も和らぐはずだ。問題は少し距離があることだけど、何とかなりそうな予感があった。
わたしは骨が外れてしまいそうなほどに指先へ力を込めながらその光景を注視していると、唐突にそのやりかたが思い浮かぶ。べりと門扉から指先を剥がし、わたしはそのまま人差し指を食いちぎった。引き裂かれた筋肉組織の束の隙間から、鮮血が翼を広げたかのように飛び出していく。それを上手く丸め、いくつもの小さな球状にすると、遠くまで届くように腕を打ち払うようにして投げつける。血球は光線に当たると弾けるようにして透明なあぎとに姿を変える。ぞろりと生えた長い牙で光線を噛み砕くと、それは端から形を失ってほつれるようにして空中に融けていった。
いくつもの光線が弾け、解けていくにつれて、腹の底に満腹感が満ちていき、同時に倒錯的な酩酊が襲う。ざまあみろ。わたしは再び嘲って、恍惚を相貌に浮かべる。けれどそれは長くは続かなかった。幾度かそうしてタクミを守ったところで、集団は歓声に沸いた。彼らは再度と集まると一人の背などを攻撃した。しかしそれはタクミではない。むしろ、タクミは自らその輪の中に入っていった。先ほどの腹いせか。わたしは溜飲を下げる。それもつかの間、タクミの表情を眺め、顔色が変わった。
笑顔だった。
どうしようもなく楽しげで、屈託無い、心からの笑顔。
それは幾万の雷や吹雪の波よりも強烈に、まさに裂帛の勢いで、よもやわたしの呼吸を止めんがための行為であるかのように胸を貫いた。
衝撃。
しばし呆然とした後、わたしは一歩、二歩と後ずさりをしながら力なく首を振るった。
信じられない。
まさか、あれでは……あれでは、タクミは、彼らの仲間であるかのようではないか。
わたしにはタクミしかいないのに。
そのタクミはわたしの仲間じゃなかった?
混乱して、思考がまとまらない。苦悩が奥歯を軋ませ、体内の熱は繊維に行き場を遮られて高ぶり続ける。わたしは頭を抱えて、灼熱の吐息を吐き出しながらふらふらと覚束無く歩き、学校の門扉に背をつけるとずるずると蹲った。もうイヤだ。一人はイヤだ。痛いのはイヤだ。白いのはイヤだ。細いのはイヤだ。苦しいのはイヤだ。辛いのはイヤだ。苦いのはイヤだ。明るいのはイヤだ。暗いのはイヤだ。イヤだ。怖い、怖い。
膝を抱えて丸くなったわたしはうわ言のように繰り返す。奇異の視線も、不審の視線も、意味不明な言葉も、接触も、噛み千切り、食い千切ってなかったことにする。どれほどそうしていたのかも判然としない。周囲が橙に染まっていて、黒に堕ちて行く前の頃合。驚嘆の声。その声に聞き覚えがあるような気がして、わたしは首を擡げる。
「おい、お前。何やってんだ?」
初めて聞いた人間の言葉。あのとき意味はわからなかったけど、今ならわかる。そこに篭められた感情の差異にも。わたしは途端、たまらなく嬉しくなって彼を見た。
そこには先ほど着ていたものと同じユニフォームを纏ったタクミと、その手に繋がった見知らぬ女が寄り添うようにして立っていた。
思考は弾けて、真っ白になる。
瞬間、どろどろに融けて熱を持った胎の内が、まさに凍えるような冷たさに変わるのを、わたしは知覚した。




