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 いっそのこと誰か、愚かなわたしを殺しに来てくれないものかしら。



 *



 わたしがわたしになった初めての朝。霞靄が爛れた汚泥のように地を這っていた。

 周囲はまだ薄ぼんやりと浅暗く、動くモノもない死の世界を思わせる静謐が満ちる。まるで人形のように華奢で繊細な造形を孕んだ両指を掲げ見、指呼の間に迫る太陽に隙間から目を焼かれた。驚懼の悲鳴をあげながら掌で瞼を覆い隠して頽れるわたし。じくじくと疼痛を堪える間に空は恐るべき速度で白み始め、蹲るわたしの背を、まるで攻め立てるようにして焦がした。慌ててすぐ近くの社屋へと転がり込む。煙を上げる背の無事を薄い繊維越しに確かめて、わたしは目をこすった。社屋の外の世界は寂寞の様相を呈していた。暖かい。懐かしい。心地好い。思わずふらりと足を踏み出して手を伸ばせば、陽光は激情を以って爪先を焼いた。ひっくり返って転がるわたし。かろうじて悲鳴を飲み込む。忌まわしい。呪わしい。陽の光はこの身に苛烈なほどに桎梏を強いるのか。点々と血を垂らしながら屋内の隅まで後退して膝を抱える。明るすぎない暗闇でも視界は悪くない。焦げ削れた四肢先の赤黒い肉片が蠕動しつつも絡み合い太っていくのがよく見える。息を殺して見張ること数分。目の前には最初に見たものと寸分違わぬ肉体が現れていた。わたしはそれを何度もひらひら裏返しながら訝しんで見る。けれどおかしなところは見当たらない。それが正しいことであるかのように、指先は粛々とわたしの意志に従う。

「……あ」

 声が漏れた。

 差し込み始めた陽光の下、活動を始めた人影が戸口から見え隠れする。その光景を、わたしは驚愕を以って受け止めた。あの恐るべき陽光に受け入れられる存在が信じられなかった。そのような存在であるならば、きっと自分が受け入れられることもないだろう。先刻受けた激痛を空想して身を振るわせる。硬く膝を抱えて室内の隅で縮み上がり、じっと行き交う影の観察に注力した。

 身動ぎもせず長い間そうしていると、白光は黄みを帯びていき、やがて橙が混じりこんで濃紺へ変わり、わたしはまた身を振るわせた。恐怖からではない。寒さからだ。寒い。凍えてしまう。震えを押さえようと両腕を抱え込むがシバリングは止まらない。原因は寒さにあると本能は言うけれど、それを解決するための知識がない。どうすればいい。どうすればいいのかわからない。半ば恐慌状態に陥って、わたしは外に飛び出した。あの肌を焼く痛みが必要だ。そう思った。それ以外にこの得体の知れぬ震えを止める方法がわからなかった。

 硬く目を閉じて飛び出した。

 直後、襲い掛かるだろう激痛に身を硬くさせたが、一向に痛みはやってこない。薄ら目を開いてみる。

 なにもない。

 わたしは完全に日の落ちた街中にひとり佇んでいた。

 呆然。自失。一拍おいて、震えが思い出したように全身を駆け抜ける。張り詰めていた気が解けて座り込んでしまった。

 寒い、寒い。寒いよぅ。

 わたしはそのまま蹲って動けなくなってしまった。

 まるで自分が自分でないような感覚。恐怖。自分以外の誰かが自分を震わせている恐怖。今なら陽光ですら喝采を上げて迎え入れそうだった。憎むべき敵がわかるだけマシ。細く息を吐きながらじっとしていると、ひたり、ひたひた。足音。

 わたしは視線だけで背後を伺った。

 人影。

 悲鳴。上げられない。喉すら震えていて、それどころではなかった。

「おい、お前」

 意識が向けられる感触。頭の隅にナニカが入り込むような、そんな不快感があって、わたしは呻いた。そんなことを、相手は知る由もなさそうに言葉を続ける。

「何やってんだ?」

 わたしには、答えられない。言葉は理解できる。けれど、それが意味することが結びつかない。向けられた意識が一本筋の通ったように鋭敏化される。ちくちくと脳内を刺激されて、不快感がむせ返りそうだ。

 ひたひた。

 近づく音、止まった。

「お、お前っ!」

 切迫したような声音には驚きが混ざっているように感じられた。それがたまらなく恐ろしい予感を孕んでいるように思えて、わたしは思わず逃げ出そうかと四肢に力を込めようとした。けれど震える身体は言うことを聞こうとしない。がたがたと震えるだけで一向にままならない身体に怨嗟の視線を投げつける。それでも何も変わりはしない。忌々しい。

 声の主が駆け寄ってくるのがわかる。逃げられない。わたしはただ身を縮めて痛みに備えるしか方法がない。すると、両腕を掻き抱いた指先から背中にかけて何かが触れる感触。思わずびくりと震えてしまって、わたしは薄目を開けてそれを確認する。

 身に纏うソレよりも幾分分厚そうな繊維。

 それが意味することがわからなくて、わたしは恐る恐る人影を窺い見た。

 すると人影は紅潮した頬を隠すようにそっぽを向いたまま「お、女が真冬にそんな薄着で出歩いてんじゃねぇよ」口にして頬を膨らませた。

 行為と言葉の意味が分からず、わたしは繊維を摘み上げてみる。すると開いた隙間から冷気が潜り込んできてわたしの胎に抱きついた。たまらず「ひゃ」と声を上げて、わたしは分厚い繊維を手放した。どうやら薄い繊維より分厚い繊維のほうが寒くない。それを理解して、わたしは人影のほうに視線を移す。

 すると、なぜかおたおたと慌てた様子を見せたかと思うと、完全に背を向けてしまった。

 人間の男。それはわかる。なんとなく幼稚気なことも。

 わたしはまだ、立ち上がることが出来ない。

 逃げよう、という意思がいつの間にか消え失せていた。

「こ、こんなとこでなにやってたんだ?」

 妙に高い声。けれど、わたしには答えられない。

 わたしが答えられないでいると、少年は視線をあらぬ方向へ向けたままこちらに向き直った。そしてこちらへ手を伸ばすと、繊維の一部を繋ぎ合わせ始める。透けるような薄い紗幕の如き繊維越しに見える鎖骨、乳房、臍が順に分厚い繊維に覆われていくと、途端にじんわりとした暖かさが満ちてくる。頭の中に入り込むような感覚は未だにあるものの、今はもう鋭さはなく、どこかじんわりとなまぬるい。少なくとも、不快ではなかった。

 ほっと息を吐いた少年は掌で頬から口元にかけてを覆うとわたしの頭頂部から裸足の足先まで眺めて、眉をしかめさせた。わたしも同じように少年の頭から足先までを観察してみる。黒かった。背はわたしと同じくらい。それだけだ。

「お前、迷子かなんかか? こんな時間に、親はどうしたんだよ」

 わたしがぼぅっとその様子を眺めていると、少年は周囲を見渡してからため息を吐いた。おもむろに足先の革を脱いで、わたしの足先の前に並べる。

「お前どっから来たんだよ。いくらアスファルトでも裸足はないだろ、裸足は」

 言いながら革をわたしの足先にかぶせてくる。これにはいったい何の役目があるのだろうか。不思議そうに見ていたのに気づいたのか、少年はチラと見上げて、再び嘆息。

「警察に電話か……? それより先に家に帰ってなんか着せないと、こんな格好じゃマズい」

 そうして作業を終えて立ち上がった少年はわたしの手を取った。

「はぁー……。迷子なんだろ? いいよ、ちょっとうち来なよ。こんなところに女の子放置してきたなんてバレたら姉貴に殺されるし」

 手を引かれる。指先を眺める。なんだか、妙な気分。足が変だ。きっと革がついてるから。その代わりチクチクしない。どうせすぐに元通りになるんだけど。まぁ、いいか。

 カポ、カポ、カポ。

 ペタペタ。

 シン。

 太陽は嫌いだ。その下を進む人間も恐ろしい。けれど、目の前で手を引く少年は、それらとは違うんだ。夜の住人。太陽に追われる者。

 あぁ、そうか。

 これはきっと、仲間っていうモノなんだろうな。

 月を見上げながら、そんなことを考えた。



誤字修正

私→わたし

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