資本主義
資本主義をテーマに出されて書いたのですが、発刊予定だったフリーペーパーの企画が頓挫したのでこちらでUPいたします。
僕は成績が良かった。だから、当たり前のように、あっさりと入学した県内で一番の進学高校を出て、そのまま一流の大学に入って、一流の企業に就職する。誰もがそう信じて疑わなかったし、僕だってそういう人生を生きると思っていた。現実を、目の当たりにするまでは。
社会の授業で資本主義を習った。資本主義がどういうものか、僕は容易に理解したし、この現代においてその資本主義というものがどういう風に動いているのか、それも僕には容易に想像ができた。頭が、よかったから。
だから耐え切れなくなった。
信じて疑わなかったこれからの僕の人生。エリート街道まっしぐらで、いつか僕も、当たり前のように人を部下にし、使役して、そしてのし上がっていく。僕の周囲の誰もがそれを信じて疑わなかったし、僕だって疑わなかった。
だけど僕はその道を歩むことを止めたのだ。資本主義が現代に生きているということを知ってしまったから。資本主義の行く末を理解してしまったから。
校内一の優等生、成績優秀で将来も見込まれていた、そんな僕、伊藤房生が落ちたという噂はあっという間に広がった。親には何度も泣かれた。教師にも幾度も呼び出しをくらい、その度に不躾な質問をされた。説教ではない。誰もが言った。「他校の人間だっておまえの名前を知っているぐらいなんだぞ。それなのにどうした、全国模試で二桁のおまえが、どうしてしまったんだ一体」
僕は薄暗い放課後の相談室で、まるで自分の事のように頭を抱える担任を不憫にも思ったし、愚かだとも思った。夕日が担任を教室を、赤く染めて、頭を抱える担任は狂いそうな程病んでいるように僕には映った。どうして? そんなこと、簡単なんだ。
僕は現実の惨さに夢を捨てた。それだけだ。
夏になりかけの太陽が眩しくて暑くて、僕は日陰を探して木の下に腰を下ろすことにした。まだ蝉も鳴かない六月なのに、もうすぐ始まるはずの梅雨も始まらず、空気はすでに夏だ。夏休みの頃にはもっと日差しが痛くなる。僕が幼い頃より日差しが痛い気がするのは、たぶんオゾン層の破壊が原因なんだろう。どんどん地球が壊れていく。木漏れ日からはみ出してきらきら呑気に光る太陽の眩しさに目を瞑りながら、僕は芝生に横になった。ちょうどお腹も膨れて、眠気がとろんと僕を包む。暑さに脱いだ黒い詰襟を目隠し代わりに顔にかける。川の匂いが時折風に運ばれて、潮と泥の間の匂いが僕の嗅覚を満たす。あまり、いい香りじゃない。芝生と土の匂いの方がはるかにマシだ。
心地よい日陰の温度の中で、まどろみがゆっくりと僕を飽和させていく。学校の隣にあるこの土手なら授業開始の鐘の音も聞こえるだろうけれど、きっとその頃には僕は夢の中にいる――
「あんた、今日もさぼるの?」
真っ黒に包まれていた視界が急激な明かりに耐え切れず僕は思わず開いた目を再び閉じた。でも、声だけで、僕の目隠しを取ったのが誰なのかはすぐにわかった。
「いいじゃん別に、個人の自由でしょ」
「そのうち出席日数足りなくなるよ」
目が明るさに慣れてきた頃、僕の頭上に凛々しく立ちはだかっていたのは、やはり、クラスメイトの加賀有紀だった。真っ黒の髪の毛を肩からそのままこぼしっ放しにしている。その髪が、川の匂いと一緒に風に遊ばれる。僕の詰襟を片手に仁王立ちして、セーラー服のスカートの中身が丸見えでも、まるで気にしていないらしい。まあ、僕だって、何度も何度もショートパンツを忍ばせただけの色気がないスカートの中身を見ているから、もう動じないけど。
加賀はそのまま、僕の目隠し兼制服を僕の足元に放り投げて、僕の頭の横に腰を下ろした。
「加賀こそ、もうすぐ予鈴が鳴るんじゃないの?」
「あと十五分ね。お昼寝なら教室でやりなよ、伊藤」
「僕はいいんだ、このまま退学になっても、さ」
言いながら体を起こして、僕の詰襟を取り戻す。背後からは「子供だな、へたれ」という暴言が飛んできた。
「誰が子供でへたれだって?」
振り返って睨む。
「あんたのこと以外に誰がいるのよ。早く戻る準備して。私まで遅刻しちゃうじゃない」
気の強そうな、目じりの上がった猫みたいな瞳に睨まれた。
「なら先に行けばいいよ」
「先に行ったら確実にあんたまたさぼるでしょう」
「だから、個人の自由だって。クラス委員だからってなんでそんなに僕に構うのさ。何をしようが僕の自由だろ」
言い終えて、加賀のにやりと笑う口元にしまったと思った。
「そうね、自由ね。私が何をしようが、自由よね」
僕はため息をついて、詰襟を肩からぶら下げた。もちろん戻る気はない。僕は隣に座る加賀を盗み見る。視線は絡まなかった。加賀は前方の、川原に視線を飛ばしている。
加賀は、僕が落ちぶれてから、何度も僕を授業に引き戻そうとする。正直、そんなことをするのは教師だけでもうおなかいっぱいなのに。
「ねえ、さっきの子供って、どういう意味?」
「そのままの意味だけど?」
加賀は僕に振り向かずに言った。
「どういう根拠があってそんなこと言えるわけ? 加賀に何がわかるのさ」
「伊藤は夢ってなかったの?」
不意打ちで、加賀が振り向いた。それもすごく真剣な表情で。
僕はその視線が気まずくて、加賀の視線からすぐに逃げた。
「あったよ」
ぶっきらぼうに、それだけ答えた。
そう、あった。僕は社長になることが夢だった。一流の中で一流に生きて、のし上がって社長になること。一番頂上になること。それが僕の夢で、目標で、家族の期待でもあった。
「過去形? 一体なにに挫折したんだか知らないけどさ、その夢ってそんな簡単に諦めつくようなことだったわけ?」
「そうだよ」
言葉ごと、夢だと信じていた物を吐き捨てた。
隣からため息が聞こえた。
「訂正するわ。子供っていうより、弱虫だね」
「加賀にはわからないよ」
「そうだね、学年一位の地位を捨てる人間の気持ちなんて、理解できないわ。私、模試の結果表に名前がのったこともないしね。まあ、おかげで私はやっと学年一位になったけど。不本意だけどね」
その言葉を境に、沈黙が、風で揺らぐ芝生と木の葉の音で占領された。さわさわと擦れる土手の芝生。土の匂いを圧倒して、川から潮と泥の混じった生臭い匂いが鼻につく。僕の尻の下の雑草や、周りに茂る雑草が春を終えた夏の匂いを運んでくる。風は強い日差しの太陽に乾燥させられて、その乾いた匂いが夏を僕に実感させる。これから梅雨だというのに。
「僕の夢は、社長になることだったんだ」
何故だか自分でもわからない内に、僕はそんな言葉を吐き出していた。僕が落ちぶれた理由を誰かに話すのは、初めてだ。どうしてそれが、加賀なんだろう。
不思議に思いながらも、僕の唇からは吐露が止まらない。沈黙している加賀の表情を見るのが少し怖くて、僕は前を向いたまま吐露を続けた。
「でも、この間、資本主義を習っただろう」
「それが? 社長になりたいなら当然習っておくべきことだと思うけど?」
加賀の冷たいけれど、突き放すような冷たさではない、ライバルに対する怒りが冷気に変換されただけの返答が返ってきた。僕はその答えに、首を横に振った。「違うんだ」
「何が」
「僕は、嫌になっちゃったんだ。加賀の言う通り、子供なのかもしれない。資本主義の概念はさ、資本を持った人間が労働者を使役するということだろう? でも今の現代じゃ、それはいつか崩壊する。ライバル会社が値下げをしたから自社も値下げをする、ライバル会社がヒット商品を作ったからそれも真似をする。そんなことをしていたら、ひとつひとつの価値が下がっていくばかりで、不況を呼ぶばかりだ。もちろん、そんな社会の中で社長になったとしても、僕は負ける気がしない。でも、負けた人はどうなる? 仕事を失ってしまうんだ。お金がなければ生きていけない。生き場所を失って、自殺者はこれからも益々増えるんだろうな。今まで社長になるって、その夢を見ることでその現実を雲に隠して見えないフリをしていたけど、もうできなくなっちゃんったんだ。そんな、誰かを地獄に追いやってまで僕は、社長になりたいとは思わない」
一息にそう言う間、加賀はずっと黙って話を聞いてくれていた。僕は加賀を見なかった。加賀は僕の方を、ちらりとでも見ただろうか。
返答のない静寂に、不安になって加賀を見やる。待っていたとばかりに、目線が合って、一言投げつけられた。
「本当に、子供で、弱虫」
その言葉は、思いのほか重たく僕の胸に響いた。鉛が落ちてきたみたいに、胸元がだるくなる。
そう、子供なんだ、僕は。
僕が自分の拳を握り締めて悔しさに耐えている時、唐突に、加賀は立ち上がった。その立ち姿は、やはり凛々しく、僕を睨む。
「私の夢は、弁護士になることなの。私だって、夢を叶える過程で誰かを泣かしたり、絶望させたり、蹴落としたりしていくでしょうね。でもだからって私は、こんな世の中だからって夢を諦めない。一人が笑えば一人が泣く世界だとしても、しょうがないでしょう。そういう時代に生まれてしまったんだから」
颯爽と凛々しく、そう言ってのけてしまえる加賀が、木漏れ日の所為もあって、目を瞑りたくなる程、眩しく映る。
眩しい。
加賀は僕を睨むのを止めて、生臭い風を運んでくる川に目をやった。同じように僕もそちらを見やる。透き通っていない川の水は、それでも、太陽の光を受けて、さざ立つ波が岩のようにごつごつしていて、その岩は生きている水晶みたいにきらきら輝きながら動いている。
「私は、諦めないよ」
加賀が言った。
「私は、あんたみたいに優しくないから、諦めない。自分の夢を叶えたいから、諦めない、もがくよ。あんたみたいに、そうやって腑抜けて、生きることを放棄したくはないからね」
僕は加賀を見ていないといのに、加賀が眩しかった。目を瞑って、加賀から逃げ出したくなるくらい、眩しかった。
加賀が僕の方を振り向いたらしいのが、髪が揺れる音と気配でわかった。僕はすかさず、膝を畳んで、その膝に顔を埋めた。
「悲しい?」
憐憫にも似た、だけどまだ僕をライバルとして見ているからこその冷たい声が僕の聴覚を刺激する。
悲しいのだろうか。そんな世界が、悲しくて、僕は加賀の言うように生きることを諦めてしまったんだろうか。もがいて、地に足をついて、がんばるということを。
僕は加賀を見た。加賀はやはり凛々しくて、顔の中に同情の色は見えない。
そして、眩しい。
「頭が良いと、わからなくていいことまでわかってしまって、苦しいことも多いだろうけど」そこで一区切り置いて、僕から視線を逸らし、遠くの、川の方を見やった。「でも、現実だよ」
昼休みの終わりを告げる予鈴が、土手にも鳴り響いた。