『レア――愛されなかった妻の祈り』
レア――愛されなかった妻の祈り
天幕の隙間から吹き込む風が、乾いた羊の脂の匂いと、夜気を含んだ砂塵を運んできた。
遠くでは婚礼の宴が続いている。
男たちの笑い声。葡萄酒を注ぐ音。太鼓の低い響き。
そのすべてが、私とは別の世界の出来事のように聞こえた。
「行きなさい、レア」
父ラバンの声が、背後から落ちてきた。
振り向く間もなく、重い亜麻布のベールが頭に被せられた。粗い織り目が視界を覆い、呼吸をするたびに布が唇に触れた。
「父上……」
私は震える手でベールの端を握った。
「本当に、これでよいのですか」
父は答えなかった。
「ヤコブが七年もの間、待ち続けたのは私ではありません。ラケルです。あの人が愛しているのは、妹なのです」
「分かっている」
あまりにも平然とした返事だった。
「ならば、なぜ……」
「お前は私の長女だ」
父は私の肩に手を置いた。
「この土地では、姉より先に妹を嫁がせることはしない。それが昔からの習わしだ」
「けれど、ヤコブには……」
「ヤコブは働き者だ。あれほどの男は滅多にいない。お前があの男の妻となれば、将来を案じる必要もなくなる」
父の声は、まるで娘の幸福を願う慈愛に満ちたもののようだった。
「私はお前のためを思っているのだ、レア」
その言葉が、何よりも恐ろしかった。
父は私を見ていなかった。
私の顔でも、私の涙でもない。
父の目に映っているのは、七年間の労働によって肥えた羊の群れと、さらに七年間働かせることのできる逞しい男の姿だった。
「父上……あの人は、朝になれば私を憎みます」
長い沈黙があった。
やがて父は、私の肩を軽く叩いた。
「夫婦とは、そういうものではない。子を産み、年月を重ねれば、情も生まれる」
そして、少しだけ声を低くした。
「お前も、いつまでもこの家にいるわけにはいくまい」
胸の奥で、何かが小さく砕けた。
父はそれ以上何も言わず、私の背を押した。
私は歩き出した。
自分の足で。
けれど、どこへ向かっているのか分からないまま。
妹のラケルは美しかった。
その瞳は、夜空に冴える一番星のように澄んでいた。笑えば周囲が明るくなり、黙っていても人々の視線を集めた。
それに比べて、私の目は弱々しいと言われていた。
幼いころから、幾度となく耳にした言葉だった。
「レアは目が弱いが、ラケルは美しい」
人々は悪意なくそう言った。
まるで、羊の毛色の違いでも語るように。
私は鏡代わりの磨かれた銅板を覗き込み、自分の目を何度も確かめたことがある。
そこには、確かに私がいた。
けれど、どこが悪いのか、自分では分からなかった。
ただ、ラケルが隣に立つと、人々の視線は必ず妹へ移った。
やがて私は、人の顔を見るとき、先に目を伏せることを覚えた。
ヤコブが井戸端でラケルに出会った日のことも、よく覚えている。
彼は大きな石を動かして井戸を開き、妹の羊に水を飲ませた。
そしてラケルに口づけし、声を上げて泣いたという。
私はその場にはいなかった。
けれど、その話を聞いたとき、胸の奥が不思議に痛んだ。
そんなふうに誰かを見つめる男がいるのだと思った。
そんなふうに誰かを愛することができるのだと思った。
そして、そんなふうに愛される女が、私の妹なのだと思った。
七年の間、私は何度もヤコブを見かけた。
夏の日差しの下で羊を追う姿。
冬の夜明けに、凍えた手を擦り合わせる姿。
井戸から戻ったラケルを見つけると、疲れ切った顔にたちまち笑みが浮かぶ姿。
私は彼と何度も言葉を交わした。
水を差し出せば礼を言ってくれた。
傷ついた羊の手当てをしていると、手を貸してくれた。
重い荷を運んでいれば、黙って肩代わりしてくれた。
優しい人だった。
だからこそ、残酷だった。
彼の優しさは誰にでも向けられた。
けれど、彼の喜びは、ただ一人に向けられていた。
婚礼の天幕には、甘い葡萄酒と香油の匂いが満ちていた。
敷き詰められた絨毯が足音を吸い込み、灯火が揺れている。
その奥に、ヤコブがいた。
荒野の太陽に焼かれた顔。
羊飼いの労働で逞しくなった腕。
七年の歳月を費やし、ようやく愛する女を迎えた男の姿だった。
「……ラケルか」
その声を聞いた瞬間、私は立ち止まった。
甘やかな、震えるような声だった。
私は一度も、そんな声で呼ばれたことがなかった。
「こちらへおいで」
足が動かなかった。
今なら、まだ言える。
私はラケルではありません。
あなたが待っていた女ではありません。
その一言を口にすれば、すべては終わる。
けれど、父の言葉が耳に蘇った。
――お前も、いつまでもこの家にいるわけにはいくまい。
私はゆっくりと歩み寄った。
ヤコブが私の手を取った。
大きく、温かな手だった。
「長かった」
彼は小さく笑った。
「七年も待たせてしまった」
私は何も言えなかった。
「だが、不思議なものだ。お前のために働いた七年は、ほんの数日のようだった」
その言葉を聞いて、私は泣きそうになった。
私のために七年働いてくれる人など、この世にいるのだろうか。
私を得るためなら、七年でも、さらに七年でも惜しくないと言ってくれる人が。
「……ラケル」
彼の腕が私を抱き寄せた。
私は目を閉じた。
その腕の温かさが、胸の奥まで染み込んでくるようだった。
彼が触れているのは私の髪だった。
彼が抱いているのは私の体だった。
それなのに、彼の心の中にいるのは妹だった。
私はそれを知っていた。
知りながら、その腕を拒めなかった。
ほんの一夜だけ。
たとえ偽りでも。
誰かに望まれる女になりたかった。
彼の胸に顔を埋めたとき、私は声を殺して泣いた。
ヤコブは、それを花嫁の喜びの涙だと思ったのかもしれない。
夜明けは、あまりにも早く訪れた。
天幕の上部から淡い光が差し込み、寝具の上に細長い影を落とした。
ヤコブが身じろぎした。
私は眠っていなかった。
夜が明けなければよいと、何度も祈っていた。
彼は私の方へ顔を向けた。
まだ眠気の残る、穏やかな微笑みを浮かべていた。
その微笑みが消えるまでに、ほんの一瞬しかかからなかった。
「……レア?」
私は答えられなかった。
彼は目を瞬かせた。
そして、もう一度、私の顔を見た。
「レア……なのか」
その声には、怒りより先に、理解できないものを見た人間の戸惑いがあった。
「なぜ……」
彼は身を起こした。
「なぜ、お前がここにいる」
私は寝具を胸元まで引き寄せた。
「父が……」
声が掠れた。
「父が、私をあなたの妻として……」
「ラケルは?」
私は目を伏せた。
「ラケルはどこだ!」
その叫びに、肩が跳ねた。
ヤコブは立ち上がり、両手で顔を覆った。
長い沈黙があった。
やがて彼は、私を見た。
昨夜、あれほど優しく私を抱いた男の目だった。
けれど、その目には、もはや私の知っている温かさがなかった。
「お前は……知っていたのか」
私は頷いた。
「私がラケルを待っていたことを」
もう一度、頷いた。
「それでも……」
彼は言葉を失った。
私は何か言わなければと思った。
父に命じられたのだと。
私も望んでいなかったのだと。
そう言えば、少しは許してもらえるかもしれなかった。
けれど、私は昨夜、自分の意志で彼の腕に身を委ねた。
その事実だけは、誰のせいにもできなかった。
「……申し訳ありません」
ヤコブは唇を噛んだ。
「私は七年、ラケルのために働いた」
低い声だった。
「七年だ、レア」
私は頷いた。
「知っています」
「ならば、なぜだ」
答えられなかった。
どうしても、答えられなかった。
――あなたに、一度でいいから愛されたかった。
そんなことを言えば、彼をさらに傷つけるだけだった。
ヤコブは天幕を出ていった。
幕が乱暴に開かれ、朝の光が差し込んだ。
私はその光の中で、いつまでも座っていた。
昨夜、彼が触れた髪も、頬も、肩も、何一つ変わっていなかった。
変わったのは、彼の目だけだった。
父の天幕から、ヤコブの怒声が聞こえた。
「なぜ私を欺いたのですか!」
父は落ち着いた声で答えていた。
「この地では、姉より先に妹を嫁がせることはしないのだ」
その言葉を、父は私にも言った。
まるで、初めから決まっていた道理であるかのように。
「婚礼の一週間を終えなさい。そうすればラケルも与えよう。ただし、もう七年、私のために働いてもらう」
私は天幕の中で、そのやり取りを聞いていた。
ヤコブは、しばらく黙っていた。
私は祈った。
どうか、断ってください。
どうか、私を妻として受け入れると言ってください。
どうか、一度だけでも、私を選んでください。
やがて、彼の声がした。
「……分かりました」
それだけだった。
私は膝の上で両手を握り締めた。
爪が掌に食い込んだ。
それでも、痛みは感じなかった。
一週間の後、ラケルがヤコブの妻となった。
妹は何も悪くなかった。
七年待ったのは、ラケルも同じだった。
婚礼の日、妹は私を見つめた。
その美しい目には、喜びと戸惑いと、私には読み取れない感情が浮かんでいた。
「姉さん……」
私は微笑もうとした。
「おめでとう、ラケル」
それ以上、何も言えなかった。
ヤコブはラケルを愛した。
そのことは、誰の目にも明らかだった。
彼女が天幕から出てくれば、彼の顔は明るくなった。
彼女が笑えば、彼も笑った。
彼女が病めば、夜通し傍らに座った。
私は、それを見ていた。
ヤコブは私を粗末に扱ったわけではなかった。
食べ物を与え、衣を与え、妻としての務めも果たした。
子どもが生まれれば喜び、家族を守るために働いた。
私が重い水瓶を運んでいれば、代わりに持ってくれることさえあった。
「無理をするな、レア」
そう言ってくれる人だった。
私は、その優しさを憎むことができなかった。
むしろ、そんな小さな親切を受けるたびに、心のどこかで期待してしまった。
今日こそは。
今夜こそは。
いつか、あの人が私を見る目も変わるのではないか。
けれど、ヤコブがラケルを見るときの眼差しを、私は一度も向けられなかった。
愛されないことよりも苦しかったのは、愛することをやめられない自分だった。
ある夜、私は天幕の外に出た。
荒野には、数え切れないほどの星が輝いていた。
遠くで羊が鳴き、冷たい風が頬を撫でた。
私は地面に膝をついた。
「神よ……」
声が震えた。
「あなたは、私をご覧になっていますか」
答えはなかった。
「私は、誰にも選ばれませんでした」
涙が落ちた。
「父は私を差し出し、夫は妹を選びました。妹を憎みたくはありません。夫を恨みたくもありません。けれど……」
私は両手で顔を覆った。
「苦しいのです」
その夜、私は初めて、誰にも聞かせられなかった言葉を口にした。
「私も、愛されたかった」
星は何も答えなかった。
それでも、私は祈り続けた。
やがて、私の胎に命が宿った。
初めてその動きを感じた夜、私は思わず腹に手を当てた。
そこに、確かに誰かがいた。
まだ顔も知らない、小さな命。
私の内側で生きている者。
その存在が、私には奇跡のように思えた。
産みの苦しみを経て、男の子が生まれた。
産婆が赤子を胸に抱かせてくれたとき、私は泣いた。
小さな手。
柔らかな頬。
懸命に動く唇。
この子は、私を見ていた。
まだ何も分からない目で、ただ私の方を向いていた。
「ルベン……」
私は囁いた。
「あなたの名は、ルベン」
神が私の苦しみをご覧になった。
そう思った。
そして、もう一つの願いが胸に浮かんだ。
今度こそ、夫は私を愛してくれるだろう。
ヤコブは息子を抱き、嬉しそうに笑った。
「よくやった、レア」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
けれど、彼が赤子を私に返した後、その足が向かったのはラケルの天幕だった。
私は息子を抱き締めた。
小さな額に口づけした。
「ごめんね……」
赤子は何も知らず、眠っていた。
「あなたが生まれただけで、私は喜ぶべきなのに」
私は、息子の誕生さえ夫の愛を得るための望みに変えてしまった自分を、恥じた。
それでも、願わずにはいられなかった。
二人目の息子が生まれた。
私はその子をシメオンと名付けた。
神は、私が疎まれていることを聞いてくださった。
そう信じたかった。
夜、子どもたちが眠った後、私はヤコブの足音を待った。
足音が近づけば胸が高鳴り、通り過ぎれば、何もなかったように灯火を整えた。
三人目の息子が生まれた。
レビと名付けた。
「今度こそ、夫は私に結びついてくれるでしょう」
私は赤子を抱きながら言った。
三人もの息子を産んだのだから。
これほど長く、同じ天幕の下で暮らしてきたのだから。
夫婦とは、そういうものではないのだろうか。
父も、そう言っていたではないか。
年月を重ねれば、情が生まれると。
確かに、情は生まれていたのかもしれない。
ヤコブは私を家族として大切にしてくれた。
私の子どもたちを愛してくれた。
けれど、それは私が求めていたものとは違っていた。
ある夕暮れ、私はヤコブがラケルと話している姿を見た。
二人は何かを語り合っていた。
ラケルが笑った。
ヤコブも笑った。
そのとき私は、ふと気づいた。
私は、あの人が私といるとき、あんなふうに笑う姿を見たことがない。
七年待ち続けた女といるとき、彼は今でも、井戸端で出会った日の男に戻るのだ。
私は静かに背を向けた。
その夜、レビを抱いて眠りながら、私は初めて思った。
この子たちは、私のために生まれてきたのではない。
夫の愛を買うために生まれてきたのでもない。
この子たちには、この子たち自身の命がある。
それなのに私は、いつまで彼らに自分の願いを背負わせるのだろう。
四人目の子を産んだ朝、天幕の中は不思議なほど静かだった。
長い産痛が終わり、私は疲れ切った体で赤子を抱いた。
男の子だった。
朝日が天幕の隙間から差し込み、柔らかな産毛を黄金色に染めていた。
私はその小さな顔を見つめた。
いつものように、心の中に言葉が浮かびかけた。
――今度こそ、夫は。
けれど、私はその続きを口にしなかった。
赤子は小さな口を開き、泣いた。
私はそっと頬を寄せた。
温かかった。
その温もりだけで、胸が満たされるようだった。
私は初めて、夫の天幕の方を見なかった。
「神よ……」
小さく呟いた。
「私は、ずっと求めていました」
誰かに美しいと言われることを。
誰かに選ばれることを。
誰かの一番になることを。
「けれど、あなたは私をご覧になっていたのですね」
私は眠る息子たちを見た。
そして、腕の中の赤子を見た。
私が愛されていないと思いながら過ごした日々にも、命は与えられていた。
泣きながら祈った夜にも、朝は訪れていた。
私は一度も、見捨てられてはいなかったのだ。
「今度こそ、私は神を賛美します」
私はその子をユダと名付けた。
その名を口にしたとき、胸の奥に、長い間閉ざされていた扉が静かに開くような気がした。
もう、夫の愛を乞うまい。
あの人が私を選ばなくても、私はここにいる。
私には、この手がある。
この声がある。
この命がある。
そして、私を母と呼ぶ子どもたちがいる。
私はレアなのだ。
ラケルの影ではない。
誰かの代わりでもない。
ただ、レアとして生きてよいのだ。
けれど、人の心は、一度の祈りですべてが変わるものではなかった。
ユダが歩き始めたころ、私はある夜、ヤコブがラケルの肩に衣を掛けてやる姿を見た。
夜風が冷たかったのだろう。
それは、何でもない仕草だった。
私は立ち止まった。
胸の奥に、懐かしい痛みが走った。
私にも、あんなふうにしてくれたら。
そう思った。
思ってしまった。
私は自分の天幕へ戻り、しばらく灯火を見つめていた。
ユダを産んだ朝、もう愛を乞うまいと誓ったのに。
私はまだ、夫に愛されたかった。
そのことが、少し悲しかった。
けれど、以前のように自分を責めることはしなかった。
愛されたいと願う心は、恥ずべきものではない。
ただ、その願いが叶わないからといって、私の命まで空しいものになるわけではない。
私は灯火を消した。
暗闇の中で、静かに祈った。
「神よ。私はまだ、弱い女です」
少しだけ笑った。
「それでも、あなたを賛美します」
その夜、私は泣かなかった。
歳月は流れた。
私にはさらに息子たちが与えられ、娘ディナも生まれた。
子どもたちは成長し、天幕の中は笑い声と喧嘩の声で満ちるようになった。
私は母として喜び、母として苦しんだ。
息子たちは決して、私の思い通りに育ったわけではなかった。
怒りに任せて過ちを犯すこともあった。
互いを傷つけることもあった。
私は幾度となく、彼らのために涙を流した。
ラケルとの間にも、埋められない溝があった。
妹は夫に愛されていた。
けれど、長い間、子を授からなかった。
私は子に恵まれていた。
けれど、夫の愛を得られなかった。
私たちは互いに、自分にないものを相手の手の中に見ていた。
ある日、ラケルが子どもたちを見つめていることに気づいた。
その目には、私がヤコブを見るときと同じ色があった。
渇望だった。
私は、そのとき初めて思った。
妹もまた、苦しんでいるのだ。
美しいラケル。
誰からも愛されるラケル。
私が生涯羨み続けた妹。
けれど、妹もまた、自分には与えられないものを求めて泣いていた。
私たちは、どちらも満たされない女だったのかもしれない。
そのことに気づいても、すぐに妹を抱き締められるほど、私は立派な人間ではなかった。
長年の嫉妬は、そう簡単には消えなかった。
それでも、ラケルが涙を隠して天幕に戻っていく姿を見たとき、私は心の中で祈った。
神よ。
どうか、妹にも目を留めてください。
やがてラケルにも、ヨセフが生まれた。
ヤコブの喜びは大きかった。
彼は幼子を抱き上げ、何度もその顔を見つめた。
ラケルは泣きながら笑っていた。
私は少し離れたところから、その光景を見ていた。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
それでも、私は妹に歩み寄った。
「おめでとう、ラケル」
妹は私を見た。
何かを言おうとして、唇を震わせた。
私はその手を握った。
小さな手だった。
幼いころ、私の後を追ってきた妹の手と、少しも変わらないように思えた。
私たちは長い間、互いを見つめていた。
けれど、何も言わなかった。
言葉にできないものが、あまりにも多かった。
カナンへ向かう旅の途中、ラケルは再び身ごもった。
そして、ベツレヘムへ向かう道で、難産に苦しんだ。
知らせを受けた私は、妹の天幕へ急いだ。
ラケルは青ざめた顔で横たわっていた。
汗に濡れた髪が頬に貼りつき、呼吸は浅かった。
私はその手を握った。
「ラケル」
妹はかすかに目を開けた。
「姉さん……」
その声は、幼いころの妹の声に似ていた。
私は何を言えばよいのか分からなかった。
大丈夫だとも、すぐによくなるとも言えなかった。
ただ、その手を握っていた。
やがて赤子の泣き声が響いた。
男の子だった。
けれど、妹の命は戻らなかった。
私はラケルの顔を見つめた。
あれほど美しかった瞳は、もう何も映していなかった。
私は泣いた。
長い間、妹を羨んできた。
憎みかけたこともあった。
その美しささえなければと、思った夜もあった。
けれど、今、目の前にいるのは、ただ私の妹だった。
同じ父の家で育ち、同じ男を愛し、それぞれに満たされない思いを抱えて生きた、一人の女だった。
「ラケル……」
私は妹の冷たくなっていく手を握った。
「私たちは、もっと話せばよかったね」
答えはなかった。
ヤコブは、深く嘆いた。
彼の悲しみは、見ているこちらの胸が裂けるほどだった。
私はその姿を見つめながら、かつてのように嫉妬することはなかった。
ただ、思った。
この人は、本当にラケルを愛していたのだ。
その愛は、妹が死んでも消えることはないのだろう。
ラケルは道の傍らに葬られた。
ヤコブはその墓に石の柱を立てた。
私は妹の墓の前に立ち、長い間、祈った。
どうか、安らかに。
どうか、もう何も求めずに眠れますように。
それからも、年月は流れた。
ヤコブの髪には白いものが増え、私の手にも深い皺が刻まれた。
かつて逞しかった夫の背は、少しずつ曲がっていった。
私たちは、若いころのように多くを語らなくなった。
ある夕暮れ、ヤコブが私の天幕を訪れた。
私は灯火のそばで、衣を繕っていた。
「レア」
顔を上げると、彼は入口に立っていた。
「少し、ここにいてもよいか」
私は頷いた。
彼は私の向かいに腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
外では、羊の鈴が鳴っていた。
「長い年月だったな」
ヤコブが言った。
「ええ」
私は針を動かしながら答えた。
「本当に」
彼は私の手元を見ていた。
「お前には、苦労をかけた」
私は針を止めた。
その言葉を、どれほど待っていたことだろう。
若いころの私なら、きっと泣いていただろう。
そして、続く言葉を待っただろう。
愛している、と。
本当は、お前も大切だった、と。
けれど、ヤコブはそれ以上何も言わなかった。
私も、尋ねなかった。
しばらくして、私は再び針を動かした。
「あなたも、苦労なさいました」
ヤコブは小さく笑った。
「そうだな」
その笑い声は、若いころの彼とは違っていた。
疲れと、悲しみと、長い歳月が混じった声だった。
私はふと、婚礼の夜を思い出した。
あの夜、彼は私をラケルと呼んだ。
私は、その声を一生忘れることができなかった。
けれど今、彼は私をレアと呼んだ。
それだけでよい、と私は思った。
すべてが報われたわけではない。
失われたものが戻ってきたわけでもない。
それでも、私はこの人と長い年月を生きた。
子を産み、家を守り、喜びも悲しみも分かち合った。
それは、ラケルの代わりに生きた年月ではなかった。
私自身の人生だった。
やがて、私にも終わりの時が近づいた。
体は衰え、かつて容易に運べた水瓶も、今では持ち上げることが難しくなった。
息子たちは成長し、それぞれの道を歩んでいた。
私は寝床に横たわり、天幕の天井を見つめた。
風が吹くたび、布が静かに揺れた。
あの婚礼の夜と、同じ風の音だった。
私は目を閉じた。
若い日の自分が見えた。
重いベールを被り、震える足で天幕へ向かう娘。
誰かに愛されることだけを願い、自分の価値を知らなかった娘。
私は心の中で、その娘に語りかけた。
大丈夫。
あなたは、愛されなかっただけの女ではない。
あなたは、母となる。
幾度も泣き、幾度も祈る。
間違えることも、嫉妬することもある。
それでも、あなたは生きる。
そしていつか、自分の名を恥じずに呼べるようになる。
私は微笑んだ。
「神よ……」
唇から、かすかな声が漏れた。
「あなたは、私をご覧になっていましたね」
それが、私の最後の祈りとなった。
私はマクペラの洞穴に葬られた。
そこは、アブラハムとサラが眠る場所。
イサクとリベカが眠る場所。
父祖たちの記憶が受け継がれてきた、静かな岩の洞穴だった。
愛されたラケルは、ベツレヘムへ向かう道の傍らに眠っている。
私は、父祖たちの墓に眠っている。
けれど、どちらが幸せだったかなど、誰に決められるだろう。
妹には妹の愛があり、悲しみがあった。
私には私の命があり、祈りがあった。
私たちは、それぞれに与えられた人生を生きたのだ。
そして、長い年月が過ぎた。
ヤコブも年老い、死の床に就いた。
息子たちを呼び集め、最後の言葉を告げた。
「私は、わが民のもとに加えられようとしている」
かつて、七年間を数日のように感じながら愛する女を待った男。
その男も、今は人生の終わりに立っていた。
「私を、父祖たちのもとに葬ってくれ」
ヤコブは息子たちに、マクペラの洞穴のことを語った。
そこにアブラハムとサラが眠っていること。
イサクとリベカが眠っていること。
そして、静かに言った。
「そこに、私はレアを葬った」
レア。
それは、かつて婚礼の朝、驚愕とともに呼ばれた名だった。
「レア……? なぜお前がここにいる」
あの日、私は答えることができなかった。
けれど、今なら答えられる。
私は、ここにいます。
あなたが愛した女ではなかったかもしれません。
あなたの心を最も深く満たした女でもなかったでしょう。
それでも私は、あなたの妻として生きました。
あなたの子どもたちを産み、育てました。
あなたと同じ荒野を歩き、同じ星空を見上げました。
そして、あなたが私を見ていないと思っていた日々にも、神は私をご覧になっていました。
やがてヤコブも、父祖たちのもとへ葬られることになる。
私が眠る、あの洞穴へ。
それは、若い日の私が夢見た愛の成就ではなかった。
長い年月の末に、夫の心が妹から私へ移ったという物語でもなかった。
ただ、私たちが確かに同じ時代を生き、夫婦として歩んだという、消すことのできない証しだった。
そして、私の産んだユダの子孫から、やがて王たちが生まれる。
ダビデの家が興り、遥かな後の世まで、その名は受け継がれていく。
私は、その未来を知らずに生きた。
自分の産んだ小さな命が、どれほど遠い時代へとつながっていくのか、知ることはなかった。
ただ、あの朝、腕の中の赤子を見つめ、こう言っただけだった。
「今度こそ、私は神を賛美しよう」
私はレア。
人々が弱々しい目をした女と呼んだ者。
愛する男に選ばれなかった妻。
妹の美しさを羨み、幾夜も涙を流した女。
けれど、私は知っている。
人の目に映らないものも、神の目には映っている。
誰かの愛を得られなかった人生にも、実りはある。
そして、愛されなかったことは、愛することのできなかったことを意味しない。
私は愛した。
夫を。
子どもたちを。
妹を。
そして、幾度も傷つきながら、ようやく自分自身を。
あの婚礼の夜、私は誰かの名を借りて天幕へ入った。
けれど、人生の終わりに、私は自分の名を取り戻した。
私は、レア。
誰かの影ではない。
神がその苦しみをご覧になり、その声を聞かれた、一人の女である。




