第二十五話 国民議会
一七八九年六月。
ヴェルサイユ。
五月五日に全国三部会が開会してから、すでに一か月以上が過ぎていた。
王国各地から集められた千名を超える代表者たちは、連日のように議場へ集まり、演説を行い、抗議し、決議案を提出していた。
それにもかかわらず、国家財政を立て直すための具体的な方策は、何一つとして決まっていなかった。
国庫は依然として空に近い。
官吏や兵士へ支払う俸給は滞り始め、政府は目先の支払いを乗り切るため、金融家たちへ新たな融資を求め続けている。
小麦価格は高騰したまま下がらず、パリではパンを求める民衆が店先に長い列を作っていた。
本来ならば、税制改革や新たな借款について、一日でも早く審議を始めなければならない。
だが、議員たちが争っている問題は財政ではなかった。
税率でもなければ、支出削減でもない。
議論されているのは、ただ一つ。
「誰がフランスを代表するのか。」
それだけだった。
三部会は、聖職者からなる第一身分、貴族からなる第二身分、そして平民を代表する第三身分によって構成されていた。
問題は、投票方法である。
聖職者、貴族、平民がそれぞれ一票を持つ身分別投票を採用すれば、第一身分と第二身分が結束することで、第三身分の要求は常に二対一で退けられる。
一方、すべての議員が一人一票を持つ人数別投票を採用すれば、定員を倍増された第三身分は、改革に同調する下級聖職者や自由主義貴族と協力することで多数を得られる。
それは単なる議事手続きの違いではなかった。
身分別投票を認めれば、聖職者と貴族が持つ旧来の特権は守られる。
人数別投票を認めれば、特権身分にも課税する改革が実現する可能性が高まる。
そして何より、一人一票を認めることは、フランス人を三つの身分に分けて統治してきた旧来の秩序そのものを揺るがすことになる。
第三身分の議員たちは、第一身分と第二身分に対し、三つの身分が同じ議場へ集まり、全議員の資格を合同で確認するよう要求していた。
だが、貴族の大多数はそれを拒否した。
高位聖職者たちも態度を決めかねていた。
一か月にわたって繰り返された交渉は、ほとんど進展しなかった。
議場では長い演説が続き、廊下では使者が行き交い、宮殿では大臣たちが妥協案を作り続けた。
しかし、時間だけが過ぎていった。
国庫の残金は日に日に減っている。
その一方で、第三身分の議員たちの言葉は日に日に激しくなっていた。
六月上旬。
ヴェルサイユ宮殿。
国王執務室へ、財務総監ネッケルと国璽尚書バランタンが入ってきた。
二人の表情を見た瞬間、ルイ十六世は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
悪い報告がある。
そのことだけは、何も聞かなくても分かった。
「陛下。」
バランタンが一礼し、手にしていた報告書を差し出した。
「第三身分が、第一身分と第二身分へ最後の召集を行いました。」
ルイは報告書を受け取ったものの、すぐには開かなかった。
指先が微かに震えている。
それを二人に悟られまいとして、書類を机の上へ置いた。
「最後の召集とは、どういう意味だ。」
「合同で議員資格を確認するため、ただちに第三身分の議場へ出席するよう求めています。」
「もし聖職者と貴族が応じなければ?」
ルイの問いに、バランタンは一瞬だけ口を閉ざした。
代わってネッケルが答える。
「第三身分だけで議員資格の確認を進め、そのまま審議を開始する構えです。」
「三部会としてではなく?」
「はい。」
「では、何として会議を始めるつもりなのだ。」
ネッケルは慎重に言葉を選んだ。
「彼らは、自分たちがフランス国民の圧倒的多数を代表していると主張しています。」
「たとえ特権身分が参加しなくとも、国民を代表する会議は成立する、と。」
ルイの喉が小さく鳴った。
(ここまで来たのか。)
三部会を招集したのは自分である。
全国の声を聞き、特権身分にも負担を求め、崩壊寸前の国家財政を立て直すためだった。
少なくとも、招集を決断したときにはそう考えていた。
三部会を開けば、人々は危機を理解してくれる。
国王一人では実行できなかった改革にも、王国全体の同意を与えられる。
そう信じようとしていた。
だが、王が招いた代表者たちは、いまや王の許可を待たず、自分たちだけで国家の意思を決めようとしている。
ルイは椅子の肘掛けを強く握った。
「止められるか。」
バランタンは答えなかった。
ネッケルも目を伏せた。
その沈黙こそが、何より明確な答えだった。
⸻
六月十日。
第三身分は、第一身分と第二身分へ最後の呼びかけを行った。
「すべての代表者は、この議場へ集まっていただきたい。」
「我々は身分によって分かれた三つの団体としてではなく、同じ国民から選ばれた代表者として、合同で資格を確認することを求める。」
呼びかけに応じ、数名の下級聖職者が第三身分の議場へ姿を現した。
彼らの多くは地方の貧しい教区を預かる司祭だった。
大司教や司教のような莫大な収入を持たず、農民や都市の庶民と近い暮らしをしている者たちである。
一人の司祭が議場へ足を踏み入れると、第三身分の議員たちは立ち上がり、盛大な拍手で迎えた。
続いて、また一人。
さらに、もう一人。
人数はまだ少なかった。
だが、その意味は小さくない。
第一身分が、一枚岩ではなくなり始めたのである。
議員資格の確認は、第三身分の主導によって進められた。
名前が一人ずつ読み上げられ、選任状が確認される。
儀礼的に見えるその作業は、実際には重大な政治的意味を持っていた。
誰が議員であるかを確認する者は、誰に会議を成立させる権利があるかを決める。
第三身分は、国王の裁定を待つことなく、自らの手でその権限を行使し始めていた。
六月十七日。
第三身分の議場。
朝から、建物の周囲には大勢の群衆が集まっていた。
ヴェルサイユの住民。
パリから来た新聞記者。
政治冊子を売る行商人。
議員の知人や使用人。
中へ入れなかった者たちは窓や扉の近くへ押し寄せ、議場で何が話されているのかを知ろうと耳を澄ませていた。
議場の中にも、異様な緊張が漂っていた。
今日、何かが決まる。
誰もがそれを感じていた。
議長席には、天文学者として名を知られたジャン=シルヴァン・バイイが座っている。
その周囲では、ムーニエ、ミラボー、ル・シャプリエをはじめとする議員たちが小声で言葉を交わしていた。
やがて、一人の男が立ち上がった。
エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス。
聖職者でありながら第三身分の代表として選出され、『第三身分とは何か』という政治冊子によって、一躍その名を知られるようになった人物である。
シエイエスが演壇へ進むと、議場のざわめきが少しずつ消えていった。
「諸君。」
その声は大きくなかった。
しかし、静まり返った議場の隅々にまで届いた。
「我々は、いつまで自らを第三身分と呼び続けるのでしょうか。」
議員たちは息を潜めた。
「第三という言葉は、第一と第二が存在し、その下に我々が置かれていることを意味します。」
「しかし、我々が代表しているのは、王国に生きる国民の圧倒的多数です。」
「畑を耕す者。」
「商品を作る者。」
「商いを行う者。」
「税を納める者。」
「軍に入り、国を守る者。」
「フランスを実際に支えている者たちのほとんどが、我々をここへ送り出したのです。」
議場の各所から、同意の声が上がった。
「その我々が、なぜ国民の一部にすぎない二つの身分の許可を待たなければならないのでしょうか。」
「彼らが来なければ、フランス国民は存在しないのでしょうか。」
「違います。」
シエイエスは一度言葉を切った。
「国民は、すでにここにいる。」
その瞬間、議場が大きくどよめいた。
机を叩く音が響く。
立ち上がり、拍手を送る議員もいた。
シエイエスは騒ぎが収まるのを待ち、ゆっくりと続けた。
「我々は、もはや一つの身分の代表ではありません。」
「我々はフランス国民の代表です。」
「ゆえに、本日より、この会議は――。」
わずかな沈黙。
その沈黙が、旧い時代と新しい時代の境界となった。
「国民議会を名乗るべきです。」
次の瞬間、議場は割れんばかりの歓声に包まれた。
「国民議会!」
「国民議会万歳!」
「国民万歳!」
賛成する議員たちは立ち上がり、帽子を掲げ、互いの手を握った。
慎重な議員たちは青ざめた顔で席に座り続けていた。
彼らにも分かっていた。
これは名称を変えるだけの決議ではない。
三部会とは、国王が必要に応じて招集し、三つの身分から意見を聞くための会議である。
だが、国民議会は違う。
その名は、議会の権威が国王から与えられるのではなく、国民から与えられることを意味している。
王が招集したから存在するのではない。
国民が選んだから存在する。
その論理を受け入れるならば、国王が解散を命じても、議会は消滅しない。
国民が存在する限り、その代表もまた存在し続けるからである。
採決が行われた。
結果は、四百九十一対九十。
圧倒的多数によって、「国民議会」の名称が採択された。
さらに議会は、国家の租税についても決議を行った。
国民の同意なく徴収される租税は、本来ならば違法である。
ただし、国家の混乱を避けるため、国民議会が存続する間に限り、現在の租税を暫定的に認める。
それは一見すると穏健な決定だった。
だが、王権にとっては恐るべき宣言でもあった。
税を課す権利の根拠が、国王の命令から国民の同意へ移されたのである。
議会はさらに、国家債務と債権者の権利を保障することを宣言した。
国王政府が倒れても、国民議会が公債の支払いを守る。
それは金融家たちに向けた言葉であると同時に、国家の信用を管理するのは国王だけではないという宣言でもあった。
三部会を招集した国王の目の前で、第三身分は立法権、課税承認権、国家信用の保護を自らの手へ引き寄せ始めていた。
歴史が、大きく動いた瞬間だった。
ヴェルサイユ宮殿。
その日の午後。
国王執務室へ駆け込んできた使者から報告書を受け取ったルイは、最初の一行を読んだまま動かなくなった。
『第三身分、自らを国民議会と宣言す。』
紙を持つ手から、ゆっくりと血の気が引いていった。
耳の奥で、自分の鼓動だけが異様に大きく響いている。
「……国民議会。」
その言葉を口にした途端、胸が締めつけられた。
遠い前世で読んだ教科書には、ほんの数行しか書かれていなかった。
一七八九年六月十七日、第三身分は国民議会の成立を宣言した。
その三日後、球戯場の誓いが行われた。
ただ、それだけだった。
試験のために年号と出来事を覚え、答案用紙へ書き込めば終わる一文。
だが、国王としてその宣言を突きつけられたいま、ルイには、その一文が持つ本当の意味が分かってしまった。
それは革命家たちが突然起こした反乱ではない。
何年も積み重なった政治への不信が、ついに一つの形を得た瞬間だった。
財政改革の失敗。
特権身分の抵抗。
高等法院との対立。
王令の強制登録。
大臣たちの更迭。
相次ぐ借款。
凶作。
パン価格の高騰。
そして、三部会における一か月以上の停滞。
それらすべてが、「国民議会」という一つの名前へ流れ込んでいた。
ルイは報告書から目を離せないまま尋ねた。
「つまり、彼らはもう第三身分ではないと言っているのか。」
「はい。」
バランタンが重い声で答えた。
「王が招集した三部会の一部ではなく、自分たちこそがフランス国民の代表であると宣言しました。」
「私の許可は?」
「求めておりません。」
「私が認めなくとも?」
「国民から選ばれたという事実だけで、議会は成立すると主張しています。」
ルイの唇が微かに震えた。
「では、私が解散を命じたらどうなる。」
バランタンは返答に詰まった。
ネッケルが低い声で答えた。
「従わない可能性があります。」
その一言が、ルイの胸へ深く突き刺さった。
王命に従わない議会。
これまでのフランスでは考えられなかった存在である。
高等法院でさえ、王の命令に抗議し、登録を拒むことはあっても、最後には国王が親臨座を開き、強制登録を命じることで屈服させられた。
だが、国民議会は、自分たちの権威が国王より下にあるとは認めていない。
「これは、財政問題ではないな。」
ルイが呟いた。
「はい。」
ネッケルは静かに頷いた。
「統治権そのものを、誰が持つのかという問題です。」
「国王か。」
ルイは掠れた声で続けた。
「国民か。」
誰も答えなかった。
答えられる者など、そこにはいなかった。
翌日。
宮殿では緊急の閣議が開かれた。
長い机を囲んだ大臣や王族たちは、開会直後から激しく対立した。
「国民議会などという名称を、絶対に認めてはなりません!」
「第三身分へ、ただちに元の議事手続きへ戻るよう命令すべきです!」
「命令に従わなければ、議場を閉鎖して解散させるのです!」
「それではパリが暴動を起こします!」
「だからといって、反抗を放置するのですか!」
「軍を動かすべきです!」
「ヴェルサイユの周囲に兵を配置し、首謀者を逮捕すればよい!」
「議員を逮捕すれば、全国が王権に敵意を抱きます!」
声が重なり、机を叩く音が響いた。
強硬派は、国民議会の宣言を明白な反逆と見なしていた。
ここで譲歩すれば、王権の権威は二度と回復しない。
国王が命じても議会が従わないという前例を作れば、地方の高等法院も、都市も、民衆も、同じように王命を無視し始める。
そう主張した。
一方、ネッケルをはじめとする穏健派は、国民議会との交渉を求めた。
三身分の合同審議を認め、国王自らが税制の平等、定期的な議会招集、個人の自由、出版規制の緩和を約束すれば、主導権を取り戻せるかもしれない。
議員たちが求めている改革を、国王が自ら与えるのである。
だが、それは絶対王政の大幅な後退を意味していた。
議論はまとまらなかった。
ルイは両手を組み、俯いたまま、飛び交う言葉を聞いていた。
指先が冷たい。
呼吸が浅い。
強硬策を採れば、前世で知る革命へ近づく。
譲歩すれば、王権が切り崩される。
どちらを選んでも、処刑台へ向かう道に見えた。
不意に、あの音が蘇った。
頭上を滑り落ちてくる刃の音。
木枠が軋む音。
群衆が叫ぶ声。
――市民ルイ・カペー。
ルイは反射的に首筋へ手を当てた。
「陛下?」
ネッケルの声で我に返る。
大臣たちが一斉にこちらを見ていた。
国王の決断を待っている。
逃げることはできない。
ルイは乾いた唇を動かした。
「……武力は使わない。」
議場が静まり返った。
「陛下。」
強硬派の一人が身を乗り出した。
「これは国王の統治権に対する公然たる挑戦です。」
「分かっている。」
「ならば、軍をもって服従させるべきです。このままでは王命が通じないという前例を残します。」
「相手は外国軍ではない。」
ルイは絞り出すように言った。
「フランスの国民だ。」
「しかし、反逆者でもあります。」
「まだ反逆者と決まったわけではない。」
「彼らは陛下の許可なく、国民議会を名乗りました。」
「だからといって、議員の集まる建物を兵で包囲し、銃剣を突きつけるのか。」
ルイの声がわずかに強くなった。
「その銃が一発でも撃たれれば、もう後戻りはできない。」
誰も答えなかった。
ルイは震えを隠すように、膝の上で拳を握った。
「私は、国民へ銃を向けた王にはなりたくない。」
その言葉は慈悲だけから出たものではなかった。
恐怖でもあった。
兵士が民衆へ発砲する。
血が流れる。
怒りが広がる。
パリが武器を取る。
そして、王が処刑台へ送られる。
前世の最期が脳裏に焼きついているルイにとって、武力行使は、自らギロチンへの道を開く行為にしか見えなかった。
だが、武力を使わずに国民議会を従わせる方法も、彼には思いつかなかった。
六月十九日。
事態はさらに悪化した。
第一身分である聖職者部会が採決を行い、僅差ながら第三身分への合流を決定したのである。
地方の下級聖職者たちは、国民議会への参加を求めた。
彼らは教区民の貧困を知っていた。
収穫を失った農民が、十分の一税を支払うために最後の小麦を差し出す姿を見てきた。
子供へ与えるパンを買えず、教会の扉の前で助けを求める母親たちを知っていた。
そうした司祭たちにとって、特権を守ろうとする高位聖職者より、第三身分の主張の方が身近だった。
採決の結果を聞いたルイは、椅子から立ち上がることさえできなかった。
「聖職者まで……。」
第三身分だけの反抗なら、まだ一身分の暴走として扱えた。
だが、第一身分の多数が加われば、国民議会は名実ともに身分の境界を越えた代表機関となる。
第二身分の中にも、ラファイエットら自由主義貴族を中心として、合流を求める者がいた。
亀裂は、すでにすべての身分へ広がっていた。
もはや三部会を元の形へ戻すことは難しい。
ルイにも、それが分かっていた。
「時間がない。」
ネッケルが告げた。
「陛下が自ら改革案を示さなければ、議会が先に憲法制定へ動き出します。」
「憲法……。」
その言葉にも、ルイの胸は強く締めつけられた。
憲法が制定されれば、国王の権限には明確な限界が設けられる。
課税。
立法。
予算。
軍隊。
大臣の任命。
これまで国王に属するとされてきた権限の一つ一つが、議会の同意を必要とするようになるかもしれない。
それでも、王位が残るなら受け入れるべきなのか。
それとも、ここで踏みとどまるべきなのか。
ルイには判断できなかった。
過去を知っているはずなのに、未来を選ぶことはできない。
知っているのは出来事の名前と、その結末だけである。
どこで譲れば革命を止められたのか。
どこで強く出れば秩序を守れたのか。
教科書には、そんなことまで書かれていなかった。
宮廷は、国王臨席会議を開くことを決定した。
国王自らが三身分の代表者たちの前へ出て、改革の方針と今後の議事手続きを宣言する。
それによって、議論の主導権を王室へ取り戻す。
当初、会議は六月二十二日に予定された。
だが、国王評議会での調整が長引き、二十三日へ延期される。
国王の演説を行うには、議場の内部を整えなければならない。
玉座を設置し、王族、大臣、三身分の代表者たちが座る場所を決め、儀礼に必要な装飾を施す。
その準備のため、第三身分が使用していたムニュ=プレジール館の議場は、一時的に閉鎖されることになった。
王室側にとっては、国王臨席会議を開くための通常の準備だった。
だが、第三身分側へ十分な説明は届かなかった。
誰かが伝え忘れたのか。
命令系統の途中で連絡が遅れたのか。
あるいは、王室内部の強硬派が意図的に曖昧な指示を出したのか。
真相は分からなかった。
ただ一つ確かなのは、王の意図と議員たちの受け取り方が、決定的に食い違ったということだった。
六月二十日。
朝。
空には厚い雲が垂れ込め、冷たい雨が降っていた。
国民議会の議員たちは、いつものように議場へ向かった。
だが、入口の扉は固く閉ざされていた。
周囲には衛兵が立ち、大工たちが内部で作業をしている。
扉の前には、国王臨席会議の準備のため入場を禁じるという通告が掲げられていた。
「扉が閉められているぞ!」
「中へ入れない!」
「衛兵まで配置されている!」
「国王は我々を締め出したのだ!」
雨の中、議員たちの声が次々と上がった。
議長バイイが役人へ事情を尋ねた。
「なぜ、国民議会の議員が入場できないのです。」
「国王臨席会議の準備です。」
役人は必死に説明した。
「議場の設営を行うため、一時的に閉鎖しております。」
「我々には、正式な連絡が届いていない。」
「急な決定でしたので……。」
「国王は国民議会を解散させるつもりなのか。」
「そのような命令は聞いておりません。」
だが、議員たちは納得しなかった。
一か月以上にわたって無視され続け、合同審議の要求を退けられ、ようやく国民議会を成立させた直後である。
その三日後に、衛兵が立つ閉ざされた扉を見せられた。
これを偶然だと信じられる者は少なかった。
「騙されたのだ!」
誰かが叫んだ。
「国王は我々が集まれないよう、議場を封鎖した!」
「一人ずつ逮捕するつもりではないのか!」
「軍が来るぞ!」
不安は瞬く間に恐怖へ変わり、恐怖は怒りへ変わった。
王宮の役人がどれほど説明しても、誰も耳を貸さなかった。
積み重なった不信は、あらゆる出来事を最悪の方向へ解釈させる。
王室にとっては、演説を行うための準備。
議員たちにとっては、国民議会を消滅させるための陰謀。
同じ閉ざされた扉を見ながら、双方はまったく異なる現実を見ていた。
やがて、一人の議員が声を上げた。
「ここに留まっていても仕方がない!」
「別の場所で会議を続けるのだ!」
「しかし、これほどの人数が入れる建物があるのか?」
議員たちは雨に濡れながら周囲を見回した。
そのとき、医師でもある議員ギヨタンが、近くにある建物を指した。
「屋内球戯場があります!」
「そこならば、全員が入れるはずです!」
「球戯場へ行こう!」
その言葉が、群衆の間を駆け抜けた。
議長バイイを先頭に、数百人の議員たちが歩き始めた。
濡れた石畳の上を靴音が連なっていく。
書類を服の内側へ抱え、帽子や外套で雨を避けながら、それでも誰一人として家へ帰ろうとはしなかった。
ヴェルサイユの住民たちも、その後を追った。
「国民議会を守れ!」
「代表者たちを解散させるな!」
叫び声が雨の街へ広がっていく。
議員たちは、ただ会議を続けるための場所を探しているつもりだった。
だが、その行進はすでに一つの政治的意思を示していた。
王によって扉を閉ざされても、議会は消えない。
王宮から追い出されても、国民の代表者たちは集まり続ける。
その意思である。
ヴェルサイユ宮殿。
「陛下!」
雨に濡れた使者が、息を切らして執務室へ駆け込んできた。
ルイは椅子から立ち上がった。
「何があった。」
「国民議会の議員たちが、閉鎖された議場の前へ集まっております。」
「説明はしたのか。」
「役人が、国王臨席会議の準備であると説明しました。しかし、議員たちは解散命令の前触れだと受け取ったようです。」
ルイの顔から血の気が引いた。
「違う。」
思わず声が漏れた。
「私は解散など命じていない。」
「はい。しかし、議員たちは別の場所へ移動を始めました。」
「どこへ。」
使者は一度息を整えた。
「近くの屋内球戯場です。」
その言葉を聞いた瞬間、ルイの全身が凍りついた。
球戯場。
遠い前世で覚えた言葉が、鮮明に蘇る。
球戯場の誓い。
教科書に描かれていた、一枚の絵。
右手を掲げる議員たち。
中央に立つ議長。
窓から吹き込む風。
熱狂する群衆。
憲法が制定されるまで、決して解散しないという誓い。
「……まさか。」
ルイは机へ手をついた。
そうしなければ、立っていられなかった。
「私が、起こしたのか。」
「陛下?」
「私が議場を閉じさせたから、彼らは球戯場へ向かったのか。」
「閉鎖は会議の準備に必要な措置です。陛下に責任はございません。」
バランタンがそう答えたが、ルイの耳には届かなかった。
前世の記憶では、出来事は初めから決められた順番で並んでいた。
国民議会の成立。
議場の閉鎖。
球戯場の誓い。
それぞれが歴史上の事件として、整然と記されていた。
だが、現実は違った。
そこに明確な計画があったわけではない。
誰か一人が革命を起こそうとして、すべてを動かしたわけでもない。
連絡の遅れ。
説明の不足。
王室の警戒。
議員たちの不信。
ほんの小さな判断の積み重ねが、巨大な歴史の流れを作り出していた。
そして自分は、その流れを止めようとしながら、また一つ、その流れを強める石を投げ込んでしまった。
ルイの呼吸が浅くなった。
首筋に、存在しない刃の冷たさを感じる。
「止めなければ……。」
掠れた声で呟く。
だが、何を止めればよいのか分からない。
兵を送れば、議会を武力で威圧したことになる。
使者を送って解散を命じれば、彼らの疑念を事実に変えてしまう。
何もしなければ、球戯場で誓いが交わされる。
どの選択肢も、ルイを救う道には見えなかった。
「陛下、ご命令を。」
使者が待っている。
ルイは答えようとした。
しかし、声が出なかった。
夕刻。
雨はまだ降り続いていた。
宮殿の窓辺に立ったルイは、灰色の空に沈むヴェルサイユの街を眺めていた。
球戯場の方角から、かすかに鐘の音と群衆の歓声が聞こえてくるような気がした。
「国民議会。」
ルイはもう一度、その名を口にした。
王が呼び集めた三部会は、王の許可なく、自らを国民の代表へ変えた。
もはや問題は税制改革だけではない。
国家を誰が統治するのか。
法律を誰が作るのか。
税を誰が認めるのか。
国王は国民の上に立つのか。
それとも、国民から権限を預かる存在となるのか。
フランスの政治そのものが、根底から問い直されようとしていた。
ルイは窓枠へ額を寄せた。
冷たい感触が、熱を持った頭に心地よかった。
「私は……。」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「本当に、何も変えられなかったのか。」
テュルゴー。
ネッケル。
カロンヌ。
ブリエンヌ。
誰もが、それぞれの方法で王国を救おうとした。
支出を減らそうとした。
税制を公平にしようとした。
信用を守ろうとした。
特権身分にも負担を求めようとした。
それでも、改革は一つとして最後まで実行できなかった。
抵抗が起きるたびに妥協し、危機が迫るたびに借金で時間を買い、決断を先送りにした。
そうして失われた時間が、いま国民議会という形になって自分の前へ現れている。
歴史は、一本の大河のように流れていた。
ルイは流れを変えようとして、何度も手を伸ばした。
だが、その手は水面をわずかに乱しただけだった。
川は向きを変えない。
処刑台へ続く、あの恐ろしい方向へ向かって流れ続けている。
そしてこの日、ヴェルサイユの小さな屋内球戯場で交わされようとしている誓いが、王政と革命の関係を、二度と元には戻せないものへ変えようとしていた。




