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「奈津美、トマト食べていいって。確認してきた」

 オーヤと話をつけて戻ってくると、俺は奈津美にそう伝えた。

 それにしても異常な暑さだ。ちょっと外に出て走っただけで、めちゃくちゃ汗をかいた。Tシャツを首元からスポンと抜き取るようにして脱ぐと、横で見ていた奈津美が、洗濯カゴに持っていくよう、指で示す。

「オーヤって、お隣さん? でも仕事でしょ……あ、もしかして由菜ちゃんと話したの?」

 洗面所まで届くように、奈津美が大声で聞いてきた。

 ユナ……ああ、そういう名前だったっけ。完全にオーヤで覚えていた。

「うん、話した」

「それで? 食べていいってほんとに言ってた?」

 もちろん、と言いかけて、鏡に映った自分の顔を見ながらもう一度思い出してみる。

 待てよ。正確には、「いいよ」って言葉をもらったわけじゃない。だけど最後に確認したとき、オーヤは確かに笑ってた。あれはきっと「OK」って受け取って大丈夫だと思う。

「たぶん、笑ってたし」

 そう言いつつ、鏡の中の俺の表情は、影が差したように暗くなっていった。

 やっぱり、また間違ったんだろうか。

【人の気持ちがわからない】は、俺に貼られた見えないシールの中でも、かなり大きいヤツだ。ベッタリ貼り付いて、絶対剥がすことのできないタイプのシール。

 それも一つじゃない。何度も繰り返し、貼り付けられてきた。小さい頃から、何か問題が起きるたびに、最後はこのシールが、まるで何かを終わらせる印のように、ペタン、と。

 鏡に映った自分の顔を、近づいてじっと見つめた。

 ブリーチして金色にした髪、日焼けした肌、茶色い目、いつも「俺」として一緒にいるやつらだけど、こうやってまじまじ見ていると、これが本当に自分の顔なのかわからなくなるような、不思議な感じがしてくる。

 自分のことでさえこうなのに、他人の、しかも見えない気持ちなんて、どうやってちゃんとわかってるって言えるんだろう。

 他人の気持ちなんて、わからなくて当たり前じゃないのか。俺にシールを貼る人たちは、ちゃんと他人の気持ちをわかっているんだろうか。

 じゃあ、俺の気持ちも?

 鏡に顔を寄せたまま、ギュッと顔全体をすぼめたり、ジョーカーのようにわざと大きく口を広げてみたりする。怪物のお面のような不気味な姿がガラスの中に映った。

「こわ」

 自分の顔なのに恐ろしくなって、慌てて元に戻した。時々、自分を見失いそうになったとき、俺はこうやるのが癖だった。そうすることで、戻した顔が自分の顔だって思える気がして。

 顔にいくつか残っていたケガの跡も、ほとんど消えている。

 ケンカの傷なんて慣れっこで、痛みにもいつの間にか鈍感になっていた。だけど母さんは反対で、俺がケンカをするたびにどんどん心が傷ついていったんだ、たぶん。

 たぶん、って言うのは、いくら言葉で説明をされても腹の底に落ちるように理解できてたわけじゃないから。それもきっと、俺がシール通りの人間だからだよな。いつか、努力すればシールの剥がれる日がくるんだろうか。

「どうしたの? ハルト」

 Tシャツを洗濯カゴに入れにきたまま戻ってこない俺を呼びにきたんだろう。奈津美の顔が鏡の後ろに映った。

「なんでもない」奈津美につづいて洗面所からリビングへと戻る。

「ありがとね、ハルト」

「なにが?」

「トマト、私が料理に使えるようにって、大家さんに頼んでくれたんでしょ」

 振り返って、奈津美はポンと俺の頭に手を置いた。昔から変わらない、大切なものを包むようなあったかい手。

 そうか、奈津美みたいな人のことか。他人の気持ちがわかるっていうのは。

「きっと大丈夫でしょ。ゆなちゃん、笑ってたなら」

 そう言って、奈津美が微笑んだので、ほっとした。たぶん、間違えてないだろうなって。あの子が笑っていたのは、「OK」の意味で合ってたんだよな、って。

「ほんと、美味しそうなトマト。これ使って色々作ってみるね」

「うん」

 奈津美はずっと東京のレストランで働いていて、少し前に辞めたらしい。別の店で働くことも考えたけれど、ずっと夢だった自分の店を開くことに挑戦してみようか、そう思って、その場所を探して、ここに来ることにしたみたいだ。

 まだ決めたわけじゃないけど、しばらく住んでみてやっていけそうだったら、この島に移住しようかなと思ってる。そう言っていた。少し前、俺のことで母さんが連絡したんだろう。奈津美から久しぶりに電話がかかってきたときに。

 ボロボロで何もかもイヤになってたときだったけど、スマホに奈津美のアイコンが見えた瞬間、泣きそうになった。バレるのがイヤだったから、出ないでおこうかと思ったけど、声が聞きたかった。

「ハルト、久しぶり。元気にしてる?」

「ん……まあ」

「ね、瀬戸内海って分かる? 今度そこにある島に行くんだけど、ハルト、夏休みの間だけでも来る?」

 いつもと同じように、明るい声でそう言った。

 小さい頃から変わらない。奈津美はいつだって俺に選ばせてくれる。来たければ来ればいいし、無理しなくていいよ。ハルトのしたいようにすればいい、って。

 本当はもう、俺に他の選択肢はなかったのに。でも、奈津美が出してくれるのはいつだって、最高のカードだった。

 だから、ここにくるときに決めたんだ。俺には何もできないけど、奈津美の邪魔だけは絶対にしない。応援しようって。

「せっかくだからお昼に使おうか、何が食べたい?」

 奈津美が、鼻歌をうたいながらキッチンに立っている。トマトを手に取って、嬉しそうに眺めながら。

 よかった、少しは役に立てただろうか。

 庭を見ると、色々な大きさのトマトが、ポツポツと色づいているのが見えた。

 俺は、この家の庭にトマトがあったことに、感謝した。


 


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