48話 下の名前
バイトを終えて俺は事務所へと入った。
流石にあれだけ走ったりした後だったからかいつもよりもだいぶ疲れが来てしまっている。
ただ、満足感はある。
…………何があったかは分からないけど、絶対に命の味方になってあげよう。
あれほどまでに取り乱すなんて尋常ではない、きっとなにか酷い目にあっているんだと思う。
バイトが始まって直ぐに命は居なくなって居たから多分、もう帰ってしまったのだろう……急がなくては。
俺はすぐさま退勤すべく事務所の奥の方に進む。
「あ、お疲れ様」
「うわぁっ!?」
俺がパソコンに向かっていると、パソコンを置いてある机の物陰から命がでてきた。
「おま、なんでこんなとこに…………」
「いや、仕事の邪魔しちゃ悪いかなって思って」
いや、確かに仕事中に事務所の中に入って作業したりするけども、何もそこまで隠れなくても良いのに…………。
俺は命のちょっと変な行動に困惑しつつも、この前と同じように……いや、なんならこの前よりもちゃんと会話が出来てる事に少し嬉しさを感じていた。
「えっと、命、それで…………」
「…………名前」
「え?」
「命って呼んでくれるんだね」
「え、あ!」
命の家に行っていた時は少し興奮していて何とも思わなかったが、いざ今言ってしまうとなんだか少し気恥ずかしい。
というか、よく考えたら女の子の下の名前を呼び捨てで呼ぶのってあんまり良くないんじゃないか!?
「えっと、命、呼び捨てで呼んじゃってごめん、嫌だったらその……すぐ辞める」
俺はすぐに照れくさくなり、顔を真っ赤にして俯いた。
「……ふふ、別にいいよ、彩斗くん」
命は笑いながらそう呟いた。
っていうか、命も俺の事を下の名前で……うん、まぁ嫌な気はしない。
「って、そうじゃなくて、さっきの話の続きで…………」
「うん、分かってる、分かってるけど…………ごめん、もうちょっとだけ時間を貰えないかな?」
顔では笑顔を作っていた命だったが、俺にはその下辛そうな顔が隠れているようにしか思えなかった。
「……分かった、命の好きな時に話してくれればいいよ、辛かったら話さなくてもいいし…………けどこれだけは覚えてて欲しい、俺は絶対に命の味方だから」
「……ふふ、うん、分かったよ、ありがとう」
時間はまだある、だからもう少しだけ事務所で話していこうと思い、俺は積極的に話しかけた。
甘いものが好きなことや、苦いものが大の苦手な事、色んなことを二人で話した。
しかし、一つだけ答えてくれなかったことがある。
「あ、そういえば、あの家にギターみたいなのあったけどさ、あれって命の?」
「…………」
「…………もしかしてあんまり話したくない?」
「…………うん、ごめんね」
「分かった、こちらこそ嫌な事聞いちゃってごめん」
こんな調子で、ギターや音楽のことについては全く話してくれないのだ。
そうなってくると流石に鈍感な俺だとしても気づいてしまう。
……命が傷ついている原因が音楽にあるということにだ。
命がギターや音楽の話を避ける様子を見て、何かしら深い理由があることを感じ取った。
音楽に関することで傷ついている、またはその思い出に関わる何かが命の中で重くなっているのだろうと。
それでも無理に問いただすわけにはいかない。
命がそのことを話す準備ができるまで、待つしかない。
だが、あまりに辛そうな命を見ていると、どうしても心が痛む。
「…………命」
俺は小さな声で呼びかける。命は少しだけ顔を上げて、俺を見つめる。
「うん?」
彼女の目にはまだどこか悲しげな影が宿っていた。
「……もし、今は話せなくても、いいんだ。命が話したいと思った時に、俺が聞くからさ」
俺は少しだけ勇気を出して、言葉を続ける。
命が少しでも楽になれるようにそばにいることができればそれでいい。
しばらく沈黙が続いたが、命は静かに頷く。
「ありがとう、彩斗くん」
俺の言葉に、少しだけ命の表情が柔らかくなる。
それから、しばらくの間、二人は静かな時間を共有した。
ただその場にいるだけで、少しでも命が楽になれるようにと、心の中で祈りながら。
「…………そろそろ、帰らないとね」
命は立ち上がりながら、そう言った。
「うん、そうだね」
俺も立ち上がり、命を見送る準備をする。
俺の中には、まだ命が抱える苦しみをどうにかして取り除いてあげたいという気持ちが渦巻いていたが、今はそれ以上に命が自分のペースで少しでも前に進めるよう、待つことが大切だと思った。
「じゃあ、またね」
命が微笑みながら言う。
「うん、またね」
俺は少し寂しげにそう返したが、それでも少しでも命が安心できるように、心から願っていた。
「……あ、そうだ」
命がくるりと振り返ってこちらに来た。
「私、学校行こうと思う、だからさ、登校したらよろしくね?」
「え、本当?」
「うん、だって彩斗くんも居るからさ、それに…………」
「それに?」
「ううん、なんでもない、とにかく来週からよろしくね」
「お、おぅ」
俺は少し照れながらもそう返し、去っていく命を見送った。
それにしても、明日から命が学校に…………少し楽しみだ。




