♯29 他の誰にも
蹲るクルツに駆け寄って顔を覗き込むと、彼の顔は青くなっていた。また口からは白い息を吐いている。
寒さによるものか、もしくは強い魔力に当てられた事による魔力酔いか。
けれども意識ははっきりしているようで、クルツはイスカに気付いて顔を上げた。
「……イスカ?」
「クルツ、大丈夫?」
「ああ、俺の方は大丈夫だ。だけどリブロが限界を越えちまった」
「リブロ様、最近、だいぶ溜め込んでいらっしゃったから。上手く発散させてあげられなかった私が悪いよ」
「いや、お前が傍にいたから、あいつはまだ落ち着いていたんだよ。予想外の事態が立て続けに起き過ぎたせいだ」
クルツはそう言うとリブロの方へ目を向ける。
「リブロの奴、どうも自分じゃ止められなくなっているみたいだ。魔力が垂れ流しになっちまってる。頼む、イスカ」
「もちろん」
頷きながら、イスカは今度は雷虎の方へ顔を向ける。
「雷虎。クルツをお願いできる?」
『うむ、良いぞ』
そう頼むと、雷虎はのそりと動き出し、クルツの身体を囲むように、身体と尻尾で彼の身体を覆ってくれた。雷虎の身体はふわふわで温かい。これなら冷気も防げるし大丈夫だろう。
クルツの顔の強張りも少し緩んだ。
それを見てイスカは微笑むと立ち上がり、リブロの方へと歩き出す。
「…………」
その間もずっと氷が生み出され続けている。
けれどもクルツがいる方向へは、だいぶ少ない。避けている様にも思える。
魔力を止められないけれど、リブロの感情が傷つけたくない人達を守っている。
イスカのよく知るリブロらしい魔術だ。
一歩、また一歩。近づくたびに氷風が強くなる。
目に氷の粒が入りそうで、イスカは腕で顔を庇いながら、しっかりと足を踏みしめてリブロの元へ向かう。
口を開けば身体の中から凍り付いてしまいそうだ。
こんな冷たい中にリブロがぽつんと座り込んでいる。
その後ろ姿が酷く不安定にイスカの目に映る。
早く傍へ行きたい。そう思いながら足を動かし。
ようやくたどり着くと、イスカはリブロの目の前にしゃがんで視線を合わせた。
「リブロ様」
「……イスカ」
リブロの手を取り名前を呼び掛けると、彼はぼんやりとした顔でイスカを見上げる。
「冷えてしまっていますね。寒いでしょう」
「…………うん。でも、どうやって魔術を止めるか、分からなくなってしまって」
リブロは僅かに視線を彷徨わせたあと、目を伏せた。
声に抑揚がなく力もない。
魔力を使い過ぎた事による疲労かとも思ったが、それ以上に落ち込んでいるようにイスカには見えた。
心配で顔を覗き込むと、
「君を、あの時ちゃんと守れなくて……ごめんね」
リブロはぽつりとそう謝った。
イスカは目を見開いた。
こんな時までリブロが気にしてくれていたのはイスカの事だった。
リブロはいつもそうだった。そういう人だ。
それが申し訳なくて、けれども嬉しくて。
――たぶんこの気持ちを愛おしいと言うのだろう。
「何を仰います。いつも守ってくださっているではないですか。リブロ様がいつも誠実であったから、私は信じて貰えたんですよ」
「……そうかな」
「そうです。リブロ様が私を好きだと、ずっと言ってくれるから。私が嫉妬をして暴れたと言われても、誰も信じたりしなかったんですよ。嫉妬をする必要なんてないからと」
「そっか。……ふふ。でも、ちょっとだけ嫉妬して欲しい気持ちも……あるかな。イスカが私に向けてくれる感情なら全部欲しい。見た事のない感情も全部」
ほんの少し笑顔が浮かんだかと思ったら、そこまで話して、リブロの顔が苦し気に歪んだ。
悲しくて悔しくてたまらないという感情がその表情に滲んでいる。
他人には決して見せない顔だ。
「こんなに君が好きなのに。君だけがいいのに。どうして邪魔ばかりされなくちゃならないんだろう」
くしゃり、と泣き出しそうな顔になる。
それを見た瞬間、イスカの中で何かが弾けて、気が付いたらリブロを抱きしめていた。
「あなたと家族になるのは私です」
「イスカ……?」
「私だけです。アーリヤ姫にも、アンジェリカさんにも、他の誰にも。リブロ様だけは渡しません」
ぎゅう、とリブロを抱きしめる腕に力が籠る。
リブロと家族になる。それは婚約してからずっと、イスカが思い続けてきた事だ。
欲しいと言われたって、リブロが望まない限りは誰がくれてやるものか。
イスカの言葉にリブロは目を見張る。
「何なら今このまま攫って、二人でどこかへ行っちゃいましょうか」
「……ふふ。いいなぁ、それ」
冗談ではなく、リブロが望めば本当にそうするつもりでイスカは言う。
すると腕の中でリブロはくすくすと笑った。
それから彼はおずおずとイスカの背中に手を伸ばし、抱きしめ返してくれる。
身体にリブロの熱を感じる。
「いいなぁ。誰も私達を知らない場所で、君と一緒にいられたら……楽しいだろうなぁ」
そうしている内にだんだんとリブロの顔の強張りが緩んでいく。
それと同時に放出されている魔力もゆっくりと収まり始めた。
「――でも、放り出せないものが、ある」
少しだけ間を空けてリブロは言う。残念そうな声だ。
リブロは責任感が強い人だ。そういう人だとイスカはよく知っている。
「はい。知っています。……少々わがままを言いました」
「ふふ、そっか」
リブロは微笑むと、
「ねぇイスカ。私もわがままを言ってもいいかな」
と聞いて来た。少しだけ甘えるような口調だ。
イスカは頷く。
「何なりと」
「名前を呼んで。様をつけずに。……ずっと、羨ましかったんだ」
そのお願いはとてもかわいいものだった。
婚約して七年。身分があるからと、ずっとイスカは彼の事を『リブロ様』と呼んでいた。
そう言えば一度も『様』を取って名前を呼んだ事がなかったなと気が付く。
イスカはぱちぱちと目を瞬いたあと、
「何度でも。……リブロ」
彼の名前を呼ぶ。不思議とリブロが前よりも近くに感じられた。
リブロは「うん」と、とても嬉しそうに笑う。
すると完全に魔力の放出は止まり。
周囲を凍り付かせていた氷は、ゆっくりと溶けていったのだった。




