魔王、呆然とする
もぬけの殻である離宮を見て、ラフェオンは呆然とした。
(まさか、もうすでに人間界へ帰ったのか?……俺に一言もいうことなく?)
そしてすぐにハッとする。今自分は何を考えた?
そもそもセシリアは勝手に魔界に残り、勝手に魔王城の隣に離宮を建てて居座っているのだ。あらためて整理するととんでもない事実であるが。
そんなぶっとび聖女セシリアの行動として、勝手に人間界へ帰り、ある日突然いなくなってしまったとしても、なんら不自然なことではない。
「ま、魔王様……!」
セシリアのいなくなった離宮には彼女の使用人としてそばに仕えていたノンナがいた。ラフェオンを見つけ、肩を震わせる。
「セ、セシリア様が、セシリア様が出て行ってしまいました!」
信じたくないと震えつつ、そう報告するノンナ。
セシリアが出て行ったことが確信に変わった瞬間である。頭にガツンと殴られたような衝撃が走るが、かろうじて表情には出さなかった。
そのまま、ラフェオンはなんでもないような顔でうなずいた。
「ああ、そのようだな。おそらく人間界へ帰ったんだろう」
ラフェオンのその平然とした様子にノンナは絶望した。セシリアが戻るのを待ち望んで彼女の好物を作り続けているデイミアンも、余計なことを考えないようにと庭園の雑草むしりに無心で励むキャスも、きっとノンナと同じ感情を抱くに違いない。
「ラフェオン様、ひどいです!どうしてセシリア様を蔑ろにして、あんな人を選んだんですか!?」
「……は?」
「あんなに一途にラフェオン様をお慕いしていたのに!あの素晴らしいセシリア様にこんな仕打ちが待っているなんて、おいたわしや……ウウッ!」
「待て待て待て!」
泣き崩れるノンナを前に、ラフェオンの頭には疑問符が浮かぶ。
「一体どういうことだ……?あんな人を選ぶとは、誰のことを言っている?」
ノンナがラフェオンに向ける目が、人でなしを見るそれになる。
「ラフェオン様の幼馴染様ですよ!セシリア様にマウントとりまくって、セシリア様に暴言吐きまくって、セシリア様を傷つけた!あのいけすかないご令嬢です!ラフェオン様はお相手にしていないのだと思っていました。まさかセシリア様を捨てて選ぶほどあの方に心を許していたなどと思わず」
「いや、待て待て!まさか彼女はセシリアに会いにこの離宮にまできたのか?」
「そう言っています!」
いや、それは今初めて聞いたが!?
ラフェオンは心の中で絶叫した。自分のあずかり知らぬところでセシリアが攻撃されていた事実に、さあっと血の気が引いていく。いろんな意味でだ。本当にいろんな意味で……複雑な胸中で考えはごちゃごちゃと混ざり合い、混乱する。
魔族令嬢──ギゼラ・エラルドは、ラフェオンにとって『幼馴染といえば、幼馴染といえるのか?確かに幼いころから知っているのだから、そういわれればそうか……』くらいの認識の存在である。もちろん、彼女を愛しているだとか、特別な感情を抱いたことなどはこれまでに一瞬たりともない。
しかし、エラルド家は過激派で、いつもラフェオンを追い落とすべく策略を巡らせているような存在で、表立って何かがあるわけではないものの、長く緊張状態が続いていた。
ラフェオンはできる限り争いことを避けたいと考える平和主義である。ギゼラを無下にはしないことで、その間この微妙な均衡が保たれるならば難しいことではないと、好きにさせていただけだったのだ。
(そういえば……)
自分に会いにセシリアが魔王城に来た際、ギゼラと鉢合わせてしまったことがあった。人間か魔王城に再び現れる少し前のことだ。
憎らしいことばかり並べるギゼラの様子はいつものことであり、相手にせずに放置することに慣れきってしまっていたラフェオンはその時も好きに言わせていた。
そんな中で顔を見せたセシリアに、離宮へ戻るように告げた。
(あの時、セシリアはどんな顔をしていた……?)
ひどくショックを受けたような、そんな顔をしてはいなかったか。
今更そのことに思い至り、胃の底が重くなるような感覚がした。
まさか、セシリアがそんなことで傷つくなど思いもしていなかった。
エラルド家の影響力は決して弱いとは言えない。もちろん、ラフェオンがその気になれば抑えられないものではないが、少なくとも今のパワーバランスは多少崩れてしまうだろう。
そうなった場合に生まれる鬱憤が、暴力や破壊に向かったら?
そんなことを考えると、ギゼラを無理やり引き離すことは望ましくないように思えていた。
だから、セシリアに甘えたのだ。
そう、甘えだった。セシリアにはあとで話をしよう。セシリアならば話せばわかってくれるだろう。
いつのまにか、意識せずラフェオンはセシリアのことを信頼していたのだ。
……あと、あのまま二人に会話させていたら、セシリアが暴れそうだったので……。
セシリアが暴れればきっとギゼラは無事ではすまない。ラフェオンとしてはそのこと自体にさほど興味はないのだが、人間であり聖女であるセシリアが、実際に魔族を、それも権力をもつ魔族の令嬢を傷つけたとなれば……他の魔族がどのような目でセシリアを見るか分からない。ラフェオンは何よりもそれを危惧していた。
そしてギゼラが傷つけられたとなればエラルド家がどんな手を使ってもセシリアを排除しようとするだろう。いまだ広く影響力を持つエラルド家に目をつけられれば、いくらセシリアでも居心地が悪くなるに違いない。
しかし、そんなあれやこれやはすべていいわけでしかない。
事実はひとつ。セシリアがラフェオンの言動に傷つき、絶望したことだけなのだから。
「そりゃ、いくらセシリアでも、俺に何も言わずに人間界へ戻ってもおかしくないよな……」
はは、と乾いた笑いがこぼれる。
ラフェオンは自分の胸にはしる痛みの正体が一体何なのか、いまだはかりかねていた。