婚約破棄必至の場面から、溺愛展開になるとは聞いておりません
私、リサ・フィリスには婚約者がいる。
眉目秀麗、頭脳明晰。剣をとれば、この国一番の誉れ高き、侯爵、ルカリオ・ディナン。
子爵家の子女で、取り立てて目立つところもない私が、なぜ、この国の令嬢たちのあこがれの侯爵の婚約者なのか。
それは私が生まれた年に遡る。
帝国歴百十八年。ディナン侯爵領に未曾有の大雨が降った。大河レナ川が氾濫、大洪水が起き、帝都につながる道路は、土砂崩れで寸断された。
その際、ディナン家の救援要請を受け、真っ先に救助隊と救援物資を送り込んだのが、我がフィリス家だった。
単純に、ディナン領とフィリス領が比較的近く、交通網が無事だったということもある。それでも、ディナン侯爵は、フィリス子爵家に恩義を感じたらしい。
そこで、生まれたばかりの私をディナン家の跡取り息子の婚約者と決めた。以降、両家は、未来の親戚として親しくつきあっている。
というわけで。
今日も、私はルカリオ・ディナンにエスコートされて、夜会に顔を出したわけだけど。
正直、胃痛がする。
令嬢たちの射殺さんばかりの憎しみのこもった視線の集中砲火。
加えて、ルカリオと私の関係があまりよろしくない。
彼は真面目で律儀だから、表面上、婚約者としての私を立ててくれる。
完璧なエスコート。挨拶回りを二人でして、ファーストダンスも踊る。
このうえもなく、大切にしてもらってはいるけれど。
そこに愛は、たぶん、ない。
二人でいる時、ルカリオは、その黒曜石のような黒い瞳でじっと私をにらむように見る。
その目がとても怖い。
そして、会話は最低限のものだけ。
もともとそっけないところがあったけれど、私が社交界にデビューしたあたりから、顕著になった。
ルカリオは、現在二十三歳。彼にとって、私は、五歳の時に親が勝手に決めた結婚相手である。
年は五年も離れている。きっと彼から見たら、今でも私は子供だろう。
幼いころは、婚約とかお互い意味が分かっていなかった。
たぶん、親戚の子くらいの親しみだったのだと思う。遊んでくれたこともあった。
でも、だんだんルカリオは私から距離を取りはじめ、会話がほぼなくなっていった。
私は流行に疎く、学問も人並みだ。当然、楽しい話題を提供することもできないし、際立って美しいわけでもない。
それに子爵家としては裕福な方かもしれないけれど、ディナン侯爵家と比べたら、天地の差があって、私が手に入れられるものは当然、彼は簡単に手に入れることができる。
彼はとてもモテる。
いくら恩義があるとはいえ、二十年近く前の話だ。
そのために、かなり格下のさえない貴族の娘と結婚など、理不尽だと考えていてもおかしくない。
ただ、ディナン家とフィリス家の関係は、帝国内でも有名な美談となっている。
政治的な意味はないにせよ、破談にするのは難しいのだろう。
「リサ、飲み物でももらわないか?」
ファーストダンスを終えて、私たちはダンスの輪から抜ける。
ルカリオは奥のテーブルの方を指さす。
相変らず、気遣いは完璧だ。そこに愛がないとわかっていても、その優しさに心が躍る。
「あら、ルカリオさま」
思わず頷きかけた私は、一人の令嬢がルカリオに声をかけたのに気付いた。
ディナ・スルント侯爵令嬢だ。金の髪に青い瞳。絵にかいたような美女。年は私と同じ十八歳。
ルカリオのことが好きで、いつも私を目の敵にしている。
彼女の無邪気をよそおったアタックに、ルカリオもまんざらではないみたい。
そういえば、以前、彼女に『名目だけの婚約者が、独占欲を出すのはよくない。彼を自由にすべきだ』と説教をされたことを思い出す。
失礼な言われようだけれど、でも──ルカリオが義務で私と婚約しているのは事実。
ずっと私と一緒にいたら、義務で息が詰まってしまうだろう。
「外に出て、風にあたってきます。しばらくご自由になさってくださいませ」
一通りの挨拶は既に済んでいる。少しの間、別行動をしたところで、彼の評判が落ちることはない。
「大丈夫か?」
「はい。どうかお構いなく」
私は微笑み、彼の手を離した。
一瞬、ディナが満足げに口の端を上げたのが見えた。
普通に考えたら、ディナの方が格上の令嬢であっても、私はルカリオの婚約者だ。譲らなければいけないってものではない。
でも、彼女と私を比べた時、私が選ばれる要素なんて、どこにもないのだ。──だから、強気に出るなんてできない。
私が離れると、ルカリオはディナと談笑し始めた。
私といる時よりずっと楽しそうな彼を見るのがしんどくて、私はそのまま中庭に出る。
秋のバラの咲き誇る庭園は思ったより明るかった。
「満月ね」
こうこうと月が辺りを照らしている。
青ざめた月の光に照らされた景色は、どこか冷ややかな色合いだ。
喧騒は聞こえてくるけれど、どこか遠く感じて、もの悲しい。
足元を照らすだけのランプに、白い道が浮かび上がっている。
「少し寒いかも」
昼間はまだ暖かいが、夜になると気温は下がってくる。
長い間外にいるのは、あまり賢明ではなさそうだ。
屋敷に、もう帰りたい。
庭園の半ばまで、歩いたところで、私はため息をつく。
会場に戻ったところで、壁の花だ。
それはともかく、ルカリオに気を使わせてしまうし、何より、彼が楽しそうにしているのを邪魔したくない。
ルカリオは昔から私のあこがれだった。ルカリオと同い年の実の兄より、大人で、誰よりもかっこいい。
婚約者でなくても、私は彼に夢中だっただろう。
もっとも、そうだったら、私は完全にモブと化して、彼の視界に入ることさえできなかった。
ただ、彼にとってはその方が幸せだったに違いない。
「おや、月の女神かと思いましたが、フィリス嬢ではありませんか」
甘ったるい声に振り返ると、ミック・ロイバー伯爵令息が立っていた。
一見すると、整った顔で、優雅なしぐさ。甘い言葉。
にやにやとする口元は、下心を隠しきれていない。
あまりいい噂を聞かない令息である。
しまった。
あたりに人がいないことを狙って、声をかけてきた可能性がある。
「ごきげんよう、ロイバーさま。良い夜を」
甘い言葉に一切答えず、私はその場を離れようとした。
「つれないねえ。ちょっと話そうよ」
ロイバーの手が伸びて、私の腕をがしりとつかむ。
「放してください。大声を出しますよ」
「出したら、君の方が困ると思うよ」
いやらしい笑みをはりつけ、ロイバーの手の力が強くなる。
なるほど。
結婚する前の令嬢にとって、たとえ未遂であっても、男に乱暴されかけるというのは『醜聞』になる。
そんな場所にいたところを責められ、男を誘惑する女というレッテルを一方的に張られてしまうのだ。男性側は、数日謹慎して、謝罪金を払えば許されてしまう。特に格下の家門の令嬢ならなおさらだ。それがこの国の社交界である。
屑を守るような理不尽な風潮は、前大公が、色欲の権化みたいな人だったからだ。
皇帝はまともな人で、そういったけしからぬ輩を取り締まろうとはしていたのだけれど、大公を更迭するまでに時間がかかった。風潮はかわりつつあるけれど、それでも、急に世界が変わるわけではない。
「つまり、あなたはそうやって、たくさんの女性を食い物になさったのですね」
にらみつけた私の口をロイバーの手でふさがれる。そしてそのまま地面に押し倒された。
「だから何? 君だって、侯爵家の縁談をぶっ壊されたくないよね?」
私が抵抗しないと確信している笑み。
ここで、この男に一方的に襲われても、黙っていれば結婚はできる。
乙女であることはそこまで大事とは思われていないから、批難される問題ではない。むしろ、その場合は、男性側が狭量と言われることもある。
ただ、私とルカリオの関係を考えた時。
私が彼にささげられるものと言えば、貞節だけだ。それがなくなったら、私はどうやって、彼の義務感と誠実さに報いればいいのだろう。
「誰か!」
私は抗い、声を出したが、馬乗りになられているせいか、思ったより声が通らない。
ロイバーは私の頬を強く二度打った。
痛いのと恐怖で、体がすくむ。
男の手が私の胸にのびた。
「嫌っ!」
たとえルカリオと結婚できなくなったとしても、このままこの男に触れられるのは嫌だ。
「やめて、助けて……ルカリオさま」
涙がにじむ。
「ここまで抵抗するのは珍しいね。外聞は気にならないタイプ? 残念だが、どのみち、この辺りに人はいないから、気づかれないよ」
ギラギラとしたロイバーの目が怖い。
何とか逃げなくては。
私は必死で体を動かし、ロイバーの耳にかみついた。
口の中に、自分のものでない血の味が広がる。
「ギャー」
ロイバーは私を突き飛ばし、絶叫を上げた。
「こいつ」
何とか逃げようとしたところを後ろから髪の毛を引っ張られた。
痛い。
「いやぁぁ!」
泣き叫びながら、それでも逃げようとする。
靴が脱げ、あちこち痛いけど、そんなの気にしていられない。
「リサ!」
声とともに現れたのはルカリオだった。
ルカリオがロイバーの腹を蹴り上げ、ようやく私は自由になる。
「大丈夫か、リサ」
「はい」
伸ばされた手をとろうとして、私はためらう。
誰がどう見ても、私はきっとボロボロだ。髪もドレスも、そして化粧も。
ルカリオから見て、私はどう見えるのだろう。それが、先ほどまでの恐怖とは全然違うけれど、やっぱり怖くて、震える。
「ルカリオさま……」
「怖かったな。大丈夫だ。もう、大丈夫だから」
ルカリオの手が私の頬に触れる。優しい声だ。
そして着ていたコートを脱いで、私の肩にかけてくれた。そして、その大きな胸に私を抱き寄せる。
「さて。これはどういうことなんだ、ミック・ロイバー」
ルカリオは冷ややかに問う。
ミック・ロイバーの耳から、血がだらだらと垂れていた。
「フィリス嬢が、わ、私を誘惑して」
「仮にそれが本当だとして、お前は、誘惑してきた女に暴行を加えるのか?」
「耳を噛まれたんですぞ!」
ミック・ロイバーは自分が正しいとばかりに声を上げる。
「だからなんだ。そもそも、誘惑されたとしても、侯爵である俺の婚約者に手を出したということは、それなりの覚悟があるということだな?」
「侯爵さまは、ことを荒立てるおつもりで?」
ふっとロイバーは口の端を上げた。
「つまりフィリス嬢がふしだらだと、世間に公表なさるというのですか? 冷たいですねえ。そんな侯爵さまは、私に感謝すべきなのでは」
「──なっ」
ロイバーはにやにやしている。
この男を告訴すれば、私が男に襲われたことは世間に知れ渡ってしまう。そうなれば、ルカリオはそれを理由に婚約破棄ができる。
つまり、この男は私のことを考えるなら事件を伏せておけと言っているのだ。
そして、公にするのであれば、事件を利用して、ルカリオが利を得るのではないかと、言いたいらしい。
「ルカリオさま。私は平気ですから、この男を衛兵に突き出してください」
私の評判がたとえ守られたとしても、ルカリオには知られてしまっている。
たとえ知られてなかったとしても、私は、この男を許せない。
「最初に言われたのです……大声を出したら、困るのは私だって。侯爵家の縁談をつぶされたくないだろうって」
呼吸を整えながら、私はルカリオの顔を見上げた。
その目は、困惑しているようだった。
「絶対にこいつは余罪があります。事件を伏してもろくなことはないでしょう。世間の噂などどうということはありません。そもそも、その風潮が理不尽で間違っているのですから」
たとえ、それで私の婚期が遠のいたって、別にいい。ルカリオもこの機会に、もっと条件の良い女性と婚約したほうがいいだろう。
「リサは本当に、昔からまっすぐだな」
ちょっとあきれたように、それでいて甘やかすように、ルカリオは私の頭をなでる。
「あのね。侯爵家が圧力をかければ、事件を公表しなくても、こいつに制裁することは可能だよ。しかも、法で裁くより、もっと陰惨な刑に処することもできる」
「え?」
まるで暴君のようなセリフに驚いたのは私だけではなかった。
「そ、そんな。不仲だって……聞いていたのに」
ロイバーの膝ががくがくと震え始めた。
おそらく。
不仲の格差婚だから。襲っても私は外聞を恐れて従順に従うだろうし、そうでなかったとしても、ルカリオがこんなことを言い出すとは思っていなかっただろう。
「明日までに、自分で罪を名乗り出るか、俺を敵に回すか、しっかり考えるんだな。自首する気がないなら、今日中に国境を越えて二度と戻ってくるな。そうでなければ、絶対に逃がしてやる気はない。肝に銘じて選ぶといい」
ルカリオは言い捨てると、私の身体を抱き上げた。
ロイバーは腰を抜かしたように地べたに座り込む。周囲が濡れているところを見ると、失禁したのかもしれない。
「それより、早く帰って手当てをしよう。傷だらけだ」
言われて、初めて自分が擦り傷だらけなことに気づく。
「ご迷惑をかけてすみません」
「リサは謝らなくていい。俺の方こそ、一人にしてすまなかった」
ルカリオはそれだけ言うと、私を抱えたまま、人の多い場所をさけながら、馬車止めへと向かった。
ディナン侯爵家の馬車は四人掛けで、普段、私たちは対面に座る。
だけど、今日は、ルカリオは「馬車が跳ねると、あちこち痛いだろうから」と私の隣に腰かけ、私をすっぽりと抱きしめた。
痛いのは事実だけど、並んで座っても、それほど痛みは変わらない。
どちらかといえば、私の体の震えが止まらないのに、彼は気づいているのだろう。
こんな時にこんな風に接してくれると、胸が苦しくなる。この優しさを失いたくないと願ってしまう。
ルカリオは今後、どうするつもりなのか。
ロイバーに言い放った言葉は、本気かどうかはわからない。
彼にそれだけの力があるのは事実だけれど、実行するかどうかは別問題だ。
それに。ロイバーが素直に自首したら、事は公になる。
今は仮にそう思っていなくても、私との婚約は外聞が悪いってことになるかもしれない。
そうなったら、私は素直に婚約破棄を受け入れよう。彼は義務から解き放たれて、幸せになるべきだ。
大好きだったけれど、これまで一緒にいられたことと、今日、助けてもらっただけで十分だ。
「どうした?」
「ひとつ、お願いしてもいいですか?」
彼の同情が消えないうちに。
欲張りかもしれないけれど、婚約者だった思い出をもう一つだけ。
「キス、してください」
「え?」
ルカリオの目が大きく見開かれた。
「忘れるために、良い思い出をください」
「わかった」
ルカリオの手が私の頬に添えられる。
私はずるい。こう言えば、先ほどのショッキングなことを忘れるためだと、言っているかのように聞こえるのをわかっていた。
今の彼は、私に同情的だから、いつもなら断っても断らない。
目を閉じた私の唇に彼の唇が重なる。
「んっ」
真面目な彼は、軽く済ませてはいけないと思ったのか。
馬車が屋敷につくまで、私たちは深いキスを交わし続けた。
半月が過ぎた。
ロイバーは七日後、自首した。
翌日でなかったのは、伯爵家の領地に潜伏してほとぼりを冷まそうとしていたからだ。
話によれば、ルカリオは一日待った後、約束通り伯爵家にロイバーの身柄を引き渡すように圧力をかけた。
伯爵家そのものをつぶしかねないルカリオの態度に、ロイバー伯爵が震え上がり、息子を説得したようだ。
私は、といえば、なぜか未だに婚約破棄されていないどころか、あれから家に帰してもらえていない。
「ルカリオさま、私、一度、家に帰ろうと思うのですけれど」
ロイバーが捕まるまでは、報復の危険があると言われて、留まっていたのだけれど。
もう、その危険はない。
「駄目。だって、リサが俺を捨てようとするから」
言いながら、ルカリオは私の頬をなでる。
ルカリオの目には銀縁の眼鏡。眼鏡をかけた彼は、さらに知的に見えて素敵だ。
どうやら、私が睨まれていると思っていたのは、彼の視力が悪かったからだった。私に指摘されるまで、きづいてなかったらしい。
「あの、別に捨てようと思ってません」
私が否定しても、ルカリオは聞き入れてくれない。
あの日──キスをねだった時。
彼は私の意図に気づいたらしくて、私が勝手に身を隠して、身を引くのではないかと恐れている。
「リサを大事にしようとしすぎて、不仲説が流れていたとかありえない。しかもリサにもそう思われていたなんて、ショックだ。だから、もう、いつでも俺の手元において、絶対に盗られないようにする」
「でも……その、ルカリオさま、変わりすぎです」
ルカリオが義務でなく愛してくれているのはようやく理解できた。でも、一緒にいたいと言ってくれるのはとても嬉しいけれど、こんなに流ちょうに愛を語られると、別人のようだ。
「リサが綺麗でエロすぎて、気を抜くと押し倒したくなりそうで、何言っていいかわからなかっただけだ。それで、誤解されるなら、積極的に欲望をたれ流そうと思っただけさ」
ルカリオは言いながら、私の唇に指を這わせる。
「というわけで、キス、しよう」
「脈絡がないです」
私が抗議すると、ルカリオは甘く微笑む。
「フィリス家には一緒に行くよ。結婚を早める許可をもらうから」
「へ?」
驚く私にルカリオはキスをする。
その甘いキスは、すぐに終わりそうもなかった。