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きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
9/14

手紙

 病院から駅までの数百メートルの距離をのろのろと歩いて、観光案内板の前で足を止めた。

 南に数キロ行くと漁港があるようだ。その海の写真に吸い寄せられるように、わたしはふらりと南を目指した。

 海から離れた場所で育ったわたしにとって、海は現実の対岸にあって、格好の逃げ場所に感じられた。


 空は厚い雲で覆われていて、太陽がどこにあるも分からない。住宅街を歩くうちに、昔ながらの民家が増えてきて、やがて潮の香りが漂ってきた。

 凍てつく風が息ができないほど強く吹き付けて、魚の生臭いにおいがしてきた頃、コンクリートに区切られた灰色の海が見えてきた。

 海べりに繋がれた数艘の小型舟が上下に揺れている。空と海の境界は見えず、あちこちで大きな波しぶきが上がっている。

 コンクリートの淵から見下ろすと、数十センチほど下にある海面は寒々とした色を帯びて、落ちたらきっと死ぬだろうなと思った。

 恐怖心は感じなかった。むしろ、ここから一歩踏み出せば死ねることを魅力的にさえ思った。


 わたしはこのアルバムと一緒に心中するのだ。

 あの輝く思い出たちを共有していた人格は、消えてしまった。それでも、わたしはきっと生きている限り、陸に会いたい誘惑と戦い続ける。わたしのことを忘れてしまっていても、陸という人間を愛さずにはいられない。

 陸は優しいから、頼めばわたしと生きることを選んでくれるだろう。思い出せない罪悪感を抱きながら、一緒にいてくれるだろう。

 わたしはその誘惑に負けない自信がない。俺を忘れろと言った彼の言いつけを破って、いつか陸の元に舞い戻ってしまう。わたしの存在は陸を不幸にするだけだ。

 それならば、死んでしまった方がーー。

『おじちゃんね、海で死にそうな思いをしたことがあるんだよ』

 打ち寄せる波の隙間を探していたわたしは、不意にそんな声を思い出した。

『いつかサッちゃんから陸に話してやってくれねえか』

 それは、陸のお父さんとの約束だった。


 陸と付き合い始めて半年が経った晩秋のことだった。

 確か陸は塾に行くところで、それを家の前で見送った。するとそこに陸のお父さんが帰ってきた。

 陸と付き合っているのかと訊かれて恐る恐る肯定したら、陸のお父さんはなぜかとても喜んで、家に上げてくれた。

『サッちゃんあんまり可愛いから、うちの子にしちまおうかと思ったこともあったけど、思いとどまって良かったなあ』

 わたしに甘いココアを飲ませてくれながら、陸のお父さんはそんなことを言って、豪快に笑った。

『悪いな、おじちゃんのせいで寂しい思いさせるな』

 今思えばそれは陸が遠くに行くことを指していたのだけど、当時のわたしはまだ聞かされていなかったから、どういう意味か分からなくて首を傾げた。

『そうか、あいつまだサッちゃんに話してねえのか』

 わたしの反応を見て陸のお父さんは独り言のように呟くと、優しい顔で微笑んだ。

『サッちゃんは進路とか考えてんのか?』

 軽い調子でそう訊かれて、わたしは言葉に詰まってしまった。やりたいことが見つからなくて悩んでいた時期だった。

『おじちゃんね、サッちゃんくらいの時に、海で死にそうな思いをしたことがあるんだよ』

 わたしが困った顔をしていたのだろう。陸のお父さんはそれ以上追及せず、自分の話を始めた。

『俺は、海辺の町で代々漁師をやっている家で生まれ育ってね。ガキの頃から自分も漁師になるもんだと思っていた』

 その育ちを聞いて納得したのを覚えている。陸のお父さんは、浅黒く日焼けしていて、がっしりとした体格の人だった。学校で王子と呼ばれていた陸とは、少し雰囲気が違っていた。

『高校一年の夏休みに、船を操縦する免許を取ったんだ。俺は漁師の親父の背中を見て育ったから、親父に追いつけた気がして嬉しくてね。早く親父の船を操縦してみたくてウズウズした。けど、海の状態が良くない日が続いて、なかなか親父に操縦を任せてもらえなかった。そうこうしているうちに夏休みの終わりが迫ってきて、俺は焦っていた。学校が始まったらますますチャンスが減るし、当時好きだった子に格好つけたかったっていうのもあるな。それで俺は、小学生だった弟を連れて、親父に黙って船を出したんだ』

 陸のお父さんは話し上手で、わたしはすっかり引きこまれた。

『親父は波が高いからダメだと言ったが、俺には静かな海に見えた。海をなめてたんだな。でも、親父の言葉の意味はすぐに分かったよ。四、五人乗るのがやっとの船だったから、沖に出るにつれて大きく揺れ出した。そこでちょっとやばいかもと思ったけど、弟を乗せてる手前、引き返せなくてね、馬鹿な俺はさらに沖合を目指した。そのうちに霧も出てきて、これは本当にやばいなと思った時には、もう遅かったよ。高波に煽られて、あっという間に転覆した。

 俺と弟は何とかひっくり返った船に掴まることができたが、霧のせいで陸がどこかも分からねえ。夏の昼間とは思えねえほど海水が冷たくて、容赦なく俺たちから体温を奪っていった。どうすることもできねえまま時間ばかり過ぎて、俺は生まれて初めて死を意識したよ。自分が死ぬのも怖かったが、弟を死なせてしまうかもしれねえ恐怖の方が強かった。

 やがて霧が晴れて、船がないのに気付いた親父が助けに来てくれたから、海の上で漂っていたのはたかだか二時間か三時間かそんなもんだったんだろう。だけど、あん時の恐怖は忘れられねえ。それ以来船に乗るのが怖くなっちまった。親父にも、お前に船乗りになる資格はねえってどやされてな。今思えばあれは、漁師を継がなきゃなんねえと思いこんでいた俺に対する、親父の優しさだったのかもしれねえが』

 臨場感たっぷりにそこまで話すと、陸のお父さんはゆっくりとお茶を啜って、再び口を開いた。

『俺はそれまで漁師になることしか考えてなかったから、他にやりてえことが見つかんなくてな。何にも決まらねえまま高校を卒業した。その後も五年以上はブラブラしてたかな。まあ、そんな俺でも曲がりなりにも社長になれたんだ。サッちゃんもゆっくり考えりゃいい』

 そう言って、話を閉じようとした。

 その着地に物足りなさを覚えたわたしは、もっと話を聞きたくて、どうやってやりたいことを見つけたのかと尋ねた。

 陸のお父さんは、面倒くさそうな顔ひとつせずに答えてくれた。

『ブラブラしてた時に地元の定食屋でバイトしてたんだが、そこに来た客が、こんなおいしい刺身食べたことないって言うんだ。地元で生まれ育った俺からしたらごく普通の刺身だったから、何言ってんだと思った。思ったっつーか、声に出して言った。その人は他所から研修で来ててな、そんなに信じられないなら普段私が刺身だと思っているものを食べにいらっしゃいよ、とこう言やがる。何て気の強え女だと思ったよ。まあ、そいつが陸の母親なんだがな』

 え?と声をあげたら笑われた。

『俺は嫌な奴だったからな。嘘つけって言いたいがために本当に食いに行った。度肝を抜かれたよ。刺身が何をしたらこうなったんだっつうくらいゴムみたいにまずくて、しかもそれがまたぼったくりの価格なんだ。そんで魚の卸売りの業者に話を聞いて回って、流通システムに改善の余地があるんじゃねえかと思った。やりたいことを見つけたのはそん時だ。日本中の人に新鮮でうまい刺身を食わせたい。そこが俺の原点だった、はずなんだけどなあ』

 最後に後悔の響きを滲ませた。

 あまりそこを掘り下げても困らせるだけだろうし、詳しく話されても分からないだろうと思ったから、そこは相槌だけに留めた。

 それよりも、陸のお母さんのことが気になって、どんな人だったのかと尋ねた。

『そこに興味持ったか』

 陸のお父さんはそう呟いて苦笑いした。

『いい女だったよ』

 少し照れくさそうに言って、頭をかいた。

『ビジネスを始めようにも、俺は高卒のド素人だったから、経営を学ぶために大学に通うことにした。あいつは、それを経済面でも精神面でもサポートしてくれた。在学中に会社を立ち上げたんだが、慣れねえことだらけで大変で、何度辞めちまおうと思ったか分かんねえ。その度にあいつは俺に原点を思い出させてくれた。身体があまり丈夫じゃなくてな。結婚する時に子供を産めないかもしれねえのを気にしていた。そんなの全然構わねえって俺は言った。あいつがいれば、子供なんか要らねえって、本気で思ってたんだ』

 陸のお父さんが視線を転じた先に、写真立てがあった。陸のお父さんとお母さんが身を寄せ合って、幸せそうに笑っている写真だ。陸に、似てねーよな、となぜかわたしの顔と見比べながら言われて、何でか分からないけど凹んだことがあった。

『結婚してしばらくして、会社経営もそこそこ軌道に乗った頃、あいつが、やっぱり子供を産みたいと言い出した。かなり反対したんだが、子供が欲しいっつうのを諦めさせるのも可哀想で、最終的に俺が折れて、陸が生まれた。

 産んですぐ、あいつは危篤状態になった。一回だけ意識を取り戻して、陸を抱いた。陸という名前は、その時にあいつが付けたんだ。俺が海で死にかけた話をしたことがあったからな、その時に俺が見た陸のように、いるだけで周りの人が安心するような、何があっても揺るがない子に育ってほしい。そう、あいつは言った。その後また意識を失って、それっきりだった』

 その口ぶりが寂しそうで、後悔しているのかとわたしは尋ねた。

 陸のお父さんはそれを否定した。

『俺の人生は後悔することばかりだったが、陸が生まれたことだけは後悔してねえ。子供ってのはね、サッちゃん、文句なしに可愛いもんだ。この手に抱いて、こいつが生まれてこない方が良かったなんてことは、到底思えないもんだよ』

 思い出すように手を広げて、とても優しい顔をした。でも、その表情はすぐに陰った。

『だが、陸との向き合い方に関しては後悔ばかりだ。言い訳するようだが、俺の家は大家族で、八人兄弟の三番目で長男だった俺は、親父にはどやされた記憶しかない。俺は、陸の親父として、たった一人の家族として、陸とどう向き合えばいいのか分からなかったんだ』

 悔やむような声だった。

『まだ小学生だった陸に、サッちゃんと同じことを聞かれたことがあるよ。今みたいに後悔していないと言ってやれば良かったのに、俺は真逆のことを言っちまった。こんな奴を産ませるくらいなら、あいつに生きていてもらった方がよっぽど良かったって。つくづくひどいことを言ったもんだ。俺はただ、陸に発破をかけたかっただけだったんだが』

 陸のお父さんは、スーツの胸ポケットから手帳を取り出した。表紙をめくったところに、赤ちゃんの写真が挟まっていた。

『陸が赤ん坊だった頃は、一日一日元気に育ってくれればそれで良かった。だが、成長するにつれてダメなところばかり見えてきて、まあ実際、陸はクソ生意気なガキだったからな。俺の育て方が悪かったんだろう。こんなんじゃ命と引き換えに陸を産んでくれたあいつに顔向けできねえって、そう思っていたんだ』

 手帳の写真をしばらく眺めて、スーツの胸ポケットにしまった。そして、わたしに優しく笑いかけてきた。

『俺はね、サッちゃんが陸のそばにいてくれて、本当に感謝してんだ。周りがちやほやしてくれるもんだから、陸はわがまま放題で、自分が世界の中心だと思っているような奴だった。サッちゃんに会えて、陸はやっと人間らしくなれた』

 感謝されるようなことはしていないと首を横に振ると、本当のことだよ、と陸のお父さんは言った。

『だから、陸が医者になりたいと言った時は、本当に嬉しかった。自分でやりたいことを見つけて、人を助ける仕事がしたいって、あの陸が言ったことが、俺は嬉しくて仕方がなかったんだ』

 その目尻は少し濡れているように見えた。

『陸は立派だ。陸を見て俺は、こんなことしてちゃいけねえって……』

 最後の方は独り言のように小さく呟いて、パッと表情を切り替えた。

『サッちゃんは聞き上手だな。おじちゃん、ついベラベラ喋っちまった。こんな話、陸にもしたことねえのに』

 話してあげたら喜ぶと思う、そう言ったら、陸のお父さんは困ったように笑った。

『おじちゃん、照れくさくて無理だな。いつかサッちゃんから陸に話してやってくれねえか』

 冗談めかしてはいたけど、結構本気な口ぶりだった。

 わたしは、そんな大事な伝言を、軽く引き受けたのだった。


 部屋に着いた時、もうすっかり日が暮れていた。

 座卓の前に座って、帰る途中で購入したレターセットを取り出した。白地に淡い水色の小さな花が数個描かれているだけの、飾っ気のないデザインだ。

 封筒に陸の家の住所を書いた。一度も行くことはなかったけど、わたしの家の場所を一方的に知っているのはフェアじゃないからと、住所を教えてくれたのだった。合鍵を渡されたのも同じ理由からだった。陸は昔から変なところで真面目だった。

 封筒と同じデザインの便箋の罫線に沿って、ボールペンを走らせた。



 相馬陸さま


 突然このような手紙を差し上げることをお許しください。二度と相馬さんの前に姿を現すつもりはありませんが、相馬さんのお父様のことでどうしてもお伝えしなければならないことがあり、メールや電話で済ませてよい内容ではないと思いましたので、筆を取りました。

 まず、相馬さんを騙し続けていたことをお詫びいたします。忘れられているのが惨めで、昔からの知り合いであることを言い出せなかったのです。

 私たちは家が近所で、母親がいない者同士だったこともあり、相馬さんは私に優しくしてくださいました。ほんの少しの間だけ交際したこともありました。ですが、それはお互いの寂しさを埋めるおままごとのような付き合いで、十年余りの年月を経て、私も相馬さんのことを忘れておりました。ですから、相馬さんが私のことを完全に忘れてしまっていても、それは無理のないことかと存じました。

 台風の日、相馬さんを偶然お見掛けして声を掛けたのは私です。お医者様になられたことを知って、思い出していただけなくても、あわよくば玉の輿に乗れればと、そのような不純な願望を抱きました。

 約一ヶ月の間、お付き合いをさせていただきましたが、私は、相馬さんの肩書きに惹かれていただけで、相馬さんという人間のことは愛しておりませんでした。ですから、相馬さんとお別れできて良かったと思っております。

 もしも覚えていらっしゃらかった時のために、別れた経緯を補足いたします。相馬さんは、見舞いに行った私に、もう会うのはやめようとおっしゃいました。記憶が飛ぶのは私のせいだとおっしゃいました。詳しい事情は分かりませんが、もしそうなら、私と会いさえしなければ今後相馬さんの記憶に空白が生じることもないかと存じます。

 しかしながら、最後に一つだけ、私は相馬さんの実のお父様から十二年前に伝言を預かっておりました。家が近所でしたので、何気ない立ち話の中で言付かったのです。お父様が相馬さんに直接伝えるのは照れくさいとのことで、僭越ながら私が取り次ぎを頼まれたのでした。大変遅くなってしまいましたが、相馬さんにとって大切な内容かと存じましたので、こちらに記載させていただきます。

……

 そんな嘘だらけの前置きの後、陸のお父さんから聞いた話を書き綴った。

 陸のお父さんがとっくに陸のことを認めていたこと、陸のお母さんのこと、陸の名前の由来のことを。

 そして、手紙をこう締めた。


 拙い長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。末筆になりましたが、相馬さんの今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。


横峯幸

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