陸の夢
幸が斜向かいに住むばあちゃんの家にやってきたのは、二学期が始まってしばらく経った頃だった。
俺はその時、家の前でリフティングをしていた。会社を継ぐだの継がないだので親父と揉めた後だったと思う。サッカーボールが思うようにコントロールできなくて、苛立ちを募らせていた。
『りくちゃん』
そんな俺に、ばあちゃんが声をかけてきた。
小学五年生にもなってその呼び方は勘弁してくれと思ったけど、俺は感じよく挨拶した。ばあちゃんの後ろにいる女の子が、結構可愛かったのだ。
『この子、サチっていうの。お母さんが死んでしまって、ここで私と一緒に暮らすことになったのよ。仲良くしてやってね』
幸は俯いていて、俺のことを見ようともしなかった。
『サチっていうのか。俺は関口陸。サチは何年生?』
顔を覗きこむようにして尋ねると、幸は目を合わせないまま小さな声で、『三年生』とだけ答えた。その声も可愛くて、俺は幸を笑わせてみたくなった。
『俺は五年生だ。困ったことがあったら俺に言えよ』
幸は小さく頷いただけで、ばあちゃんの後ろに隠れてしまった。そんな反応をされるのは新鮮で、俺はすっかり機嫌を直して家の中に戻った。
攻略のしがいがあるゲームを見つけたような気分だった。
その日以来、俺は幸の気を引こうとやっきになった。
毎朝家に迎えに行って、一緒に登校した。道すがら思いつく限りの面白い話を聞かせた。度々幸の教室に出向いていって、女子からの人気をアピールした。放課後は幸が暮らすばあちゃんの家に上がりこんで、勉強を見てやったりした。
俺を好きにならない女などいないと、本気で思っていた。
でも、幸は一向に俺になびかなかった。全く心を開かず、逆に俺をイラつかせることばかりした。勉強を教えていても変なところで分かりが悪かったり、俺のランドセルを勝手に持っていこうとしたり、赤信号なのに道を渡ろうとしたりして、なぜそんなことをするのか分からず俺はイライラした。
ある日、校庭で体育の授業を受けていた俺は、一階の図工室の窓越しに幸を見つけた。
幸は、絵の具のチューブを手に取って、ラベルをまじまじと見ていた。変なことに興味を持つんだなと思いながら、俺はその様子を眺めていた。
彼女はいくつかラベルを確認すると、絵の具をパレットの上に出してチューブをそのすぐ横に置いた。その作業を繰り返し行っていた。
それで、もしかしてと思い至った。
『色、分かんねーのか?』
オブラートに包むなどという発想は持ち合わせていなかったので、俺は幸に向かって単刀直入に尋ねた。
そしたら幸は、初めて俺の前で感情を露わにした。
『お願い。誰にも言わないで』
泣きそうな顔で、すがりつくように懇願されて、何だかドギマギした。
『いいけど。誰にも言ってねーの?』
幸は頷いた。ばあちゃんを心配させたくないから、と理由を説明した。
当時の俺にはその理由が理解できなかったけど、幸と二人だけの秘密が嬉しくて、誰にも言わないと約束した。
それから幸は俺に懐いた。少しずつ俺に笑顔を見せてくれるようになった。
笑った顔はすごく可愛かった。でも、俺はまだ満足できずにいた。俺が始めたゲームは、幸の笑顔を見ることがゴールだったはずだったけど、いつしかそれは遊びではなくて、本気になっていた。
『お母さんが死んでから、世界が白黒みたいに見えるの』
幸はそう言った。
彼女が見ている世界を想像してみて、寂しい世界だろうなと思った。
幸をその場所から助け出してやるには、大人に話すべきだと分かっていた。でも、身勝手な俺は、幸が俺だけを頼っているという状況に浸っていたくて、迷った末に当時家にいた使用人にだけ打ち明けた。
その使用人は、ちゃんとお医者様に診ていただいた方が良いですよ、と前置きした上で、もしそれが精神的なものなら、色を知りたいと自然に思えるような、何かワクワクするものを見せてあげたら良いのではないかと言った。
その助言を受けて、じゃあ俺が絵を描いてやろうという発想に至ったのは、今考えると恥ずかしいくらいの尊大な自意識がゆえだったけど、とにかくも俺は机の上に画用紙を広げた。
ワクワクするものとして真っ先に頭に浮かんだのは、親父に連れていってもらった水族館だった。
親父はたまに俺を遊園地やら動物園やらに連れていってくれたけど、水族館で魚を見ている時の親父が一番楽しそうだった。それで、また行きたいと思って水族館のパンフレットを取ってあった。そこには色とりどりの鱗を持つ魚の絵が描かれていた。
自分がそれを見るとワクワクするから、サチもきっとそうだろう。そんな安直な発想で、俺はその絵を画用紙に描き写した。なかなか思ったように描けなくて何度も描き直して、下書きだけで何時間も費やした。色鉛筆で色を塗り終えた時には夜が明けていた。完成した絵は、悪くない出来栄えだった。
絵を渡したら幸はとても喜んだ。魚の鱗の一つひとつを指さして、俺に色を尋ねた。色が分かったらもっとすごいんだろうなあ、と目を輝かせた。
幸の目が早く色を取り戻すことを、俺は心の底から願った。
それからというもの、幸に綺麗なものをたくさん見せたくて、どこにいても色を探した。公園の片隅に咲く花の色を、道端に積もった落ち葉の色を、野良猫の毛の色を、幸に教えた。
俺はそれまで、世の中にこんなにもたくさんの色があふれていることを知らなかった。幸に説明しながら俺は、コスモスの花のピンク色に、淡い色や、鮮やかな色、紫がかった色、赤に近い色があることを知った。
色が視えないと空模様が分かりにくいようで、幸は俺によく天気を尋ねた。
それまで、大雨でも降っていない限り天気を気にしたことがなかった俺は、初めて空を見上げた。
薄い雲が空全体に散らばっているような日は、目を凝らして、晴れと曇りの境界線に悩み続けた。
空が見事な夕焼けに染まった日、俺は幸を丘の上の公園に連れていった。
その空の色をどんな言葉で表現すれば良いか分からずに口ごもっていると、ベンチに並んで座っていた幸が、不意に俺の名前を呼んだ。
幸は静かに涙を流していた。
『ど、どうしたんだよ。悲しいのか』
動揺して尋ねると、幸はふるふるとかぶりを振った。
『夕焼けのお空は、こんな色だったなあって』
沈んでいく太陽が、幸の瞳を茜色に染めていた。
『こんなに綺麗な色を、教えてくれようとしてたんだね』
その瞳から大粒の涙が真っ赤な頬を転がり落ちて、彼女がこちらを向くまで俺はその涙の色に見惚れていた。
『ありがとう、りっくん。ずっと色を教えてくれて、ありがとう』
ぽろぽろと涙を落としながら俺を見上げてきた幸のことを、思わず抱きしめた。
初めての感情が胸の中に一気に湧き起こって、抱きしめずにはいられなかった。
『よく頑張ったな』
やっとのことでそれだけ言うと、後は言葉にならなかった。
自分以外の誰かを想う気持ちの温かさを、幸が俺に教えてくれた。その感情が、愛と呼ばれるものだと知るのは、それからだいぶ後になってからのことだった。
『俺、医者になりたい』
日が落ちて暗くなった帰り道、俺は幸に告げた。
『苦しんでる人を助けられる人になりたい』
小学生だった俺には、その職業として医者しか思いつかなかったのだ。
『かっこいいね』
幸のその一言で、それは夢に変わった。
親父には医者になる夢を黙っていた。
親父はいつも、俺が親父の会社を継ぐ前提で話をした。俺がそれに反発すると、他にやりたいことがあるのかと返してきた。俺が答えに詰まると、やりたいこともないくせに生意気を言うな、お前みたいに何の信念もない奴にやりたいことが見つかるものか、と決まって嫌味を言った。
こんな調子だったから、医者になりたいなどと言えば、頭から反対されるに決まっていると思ったのだ。
俺は親父の会社が嫌いだった。詳しい事業内容は知らなかったけど、魚を安く仕入れてきて高級旅亭に高く売りつけるようなことをしていると聞いたことがあった。たまに親父が電話で狡猾なやり取りをしているのを耳にすることがあった。そんな仕事のどこに魅力があるのか分からなかった。家でゆっくり過ごす時間も取れないくらい価値のある仕事だとは、どうしても思えなかった。だから俺は、親父の会社を継ぎたくなかった。
他にやりたいことがあるのか。親父にそう訊かれる度に、真っ暗な気持ちになっていた。医者になる夢は、俺の目の前を明るく照らした。幸は俺に希望をくれた。
親父に俺の夢をバラしたのも幸だった。
口止めしていなかったから、幸は親父が知っているものだと思ったのだろう。
その日は俺の中学の入学式だった。親父と式から帰ると、幸が家の前に立っていた。俺に気付くと駆け寄ってきて、入学祝いだと言ってお菓子をくれた。
いつもだったら一緒に食うかとか言うところだったけど、親父がいたから、簡単に礼を述べただけでさっさと家の中に入ろうとした。幸に親父を会わせたくなかったのだ。
それなのに、親父が幸に話しかけた。
『こいつに良いところってあるかい?』
俺を親指で指して言った。
『入学式の間じゅう考えていたんだが、一つも思いつかなくてね』
『何だよそれ。いいから家入ろうぜ』
親父のスーツの袖を引っ張ったけど、ビクともしなかった。
『おじちゃん、りっくんのお父さんなのに分からないんですか?』
幸は、信じられないというように目をぱちくりさせた。
『ああ。おじちゃんに教えてくれるかな』
『サチ、親父の言うことなんか気にしなくていいよ』
親父との間に割って入ったけど、幸は親父の質問に答える気まんまんといった様子で手を開いた。
『りっくんは、優しいです』
数えるように親指を折った。
親父は、面白そうに「ほう」と相槌を打った。
『りっくんは、頭が良くて物知りです。サッカーが上手で、運動神経も良いし、姿勢が良いし、勉強を見てくれるし、困ってたら助けてくれるし、あと……』
もっとたくさん言わなければいけないと思ったのか、焦り出した幸を見て、親父は声をあげて笑った。
『サチ、もういい……』
居たたまれずに止めようとしたら、幸が思い出したように声を弾ませて言った。
『あっ!あと、りっくんはお医者さんを目指しててかっこいいです』
空気が固まった。
と思ったら、親父が急にワハハと豪快に笑いだしたからビクッとした。
『そうかそうか。こいつにそんなにたくさん良いところがあるなんて、おじちゃん嬉しいよ』
幸は大真面目な顔でこくこくと大きく頷いた。
『おいで、サッちゃん。こいつと一緒に写真に写ってやってくれるかい』
何を思ったか、親父はカメラを取り出して幸を俺の横に並ばせた。幸と写真を撮るのは満更でもなかったけど、親父の構えるカメラに笑顔を向けるのは抵抗があって、俺は幸の隣でふてくされた顔をしてしまった。
その晩、親父と一緒に夕食をとった。
親父は滅多に俺の前で酒を飲まなかったけど、その日は珍しくワインを傾けていた。見るからに上機嫌で、医者を目指していることについて何か言われるだろうと身構えていた俺は、拍子抜けした。
『お前、サッちゃんが好きなんだろ』
親父はニヤニヤして言った。
『はあ?何だよいきなり』
『分かるぜ。サッちゃん可愛いもんな』
『サチは親父のことが好きなんだよ』
幸はなぜか、親父のことをかっこよくて好きだと言っていた。
フハッと親父が吹き出した。
『それで俺がサッちゃんと話すの嫌がってたのか』
図星だった。
完全にからかいモードに入っている親父を見て、怒られるのよりもタチが悪いと思った。早く食べ終えて部屋に戻ろうと夕飯をかきこむ俺に、親父はさらに言った。
『お前の母親に少し似てるかな』
『え?』
顔を上げると、親父はまだニヤニヤしていた。
『やめろよ、分かりにくい冗談言うの』
『別に冗談じゃねえけどよ』
少なくとも写真を見る限りは似ていなくて、真偽のほどは定かでない。
『どんな人だったんだよ』
俺を産むのと引き換えに死んだと、十歳の誕生日に聞かされた。
俺はそれなりにショックを受けて、俺は生まれない方が良かったかと尋ねた。すると親父は肯定して、あいつに生きていてもらった方がよっぽど良かったと言った。その時はとても傷ついたけど、いつしか、それならもっと立派な人間になって、親父に認めてもらおうと思うようになった。
『まあ、そのうち話してやるよ』
親父は、母親のことを話してくれなかった。
『今でもいいだろ』
『今は無理だな。そうだな、お前が酒を飲めるようになったらな』
『八年も先じゃねーかよ』
『八年なんてあっという間だぞ』
俺にはあっという間じゃねーよ。そう言いたいのを飲みこんだ。親父に言うつもりがないなら、いくら食い下がっても無駄だと分かっていた。
『それで、俺がせっかく会社を継がせてやるって言ってんのに、お前は医者になりたいんだな』
不意打ちのようにその話を蒸し返してきたから、慌てて身構えた。
『なんだよ。悪いかよ』
『悪いとは言ってねえ。ただ、医者になるのは大変だぞ。どうしてそんなもんになりたいんだ』
頭ごなしに反対されるものだと思っていた俺は、また拍子抜けした。
『人を、助けたくて……』
声がうまく出なくて、あ?と聞き返された。
『苦しんでる人を、助ける仕事がしてーんだよ』
勇気を振り絞って、腹から声を出した。
『それなら別に医者じゃなくてもいいだろ。そんな仕事、他にもいくらだってある』
そう返されて、俺は一瞬言葉に詰まった。
医者を選んだ理由は、苦しんでいる人を助ける仕事が医者しか思いつかなかったからだったし、サチがかっこいいと言ったからというのが大きかった。
でも、親父にそのことを正直に言ったら今度こそ反対されると思ったから、それ以外の理由を口にした。
『母親に命をかけて産んでもらったから、俺は人の命を助けるために生きたい。俺は勉強が苦手じゃねーし、体力もあるし、人に好かれる方だから、医者に向いてると思う』
フンと鼻で笑われて、真面目に答えたのにと腹が立った。
『人に好かれるとか自分でよく言えるな。外面がいいだけだろ』
『何でそんな言われ方しなきゃなんねーんだよ』
『そうやってすぐにカッとなる奴は医者向いてねえんじゃねえか?』
親父はニヤニヤしていて、何を考えているのか分からなかった。それが怖かった。
『反対すんならはっきり言えよ。こっちも親父に頼る気ねーし。大学は奨学金とかバイト代で通う。だからーー』
『寝言言ってんじゃねえ』
親父はワイングラスをテーブルの上に置いて、立ち上がった。
『お前は本当に馬鹿だな。こんだけ稼いでる親父がいんのに、奨学金なんか出るわけねえだろ。お前に覚悟があるんだったら学費くらいいくらでも出してやるっつってんだよ。あと、好きな子泣かすんじゃねえぞお前』
ひと息にそう言って、親父はリビングを出ていってしまった。
『泣かすわけねーだろ。意味分かんねーよ』
その背中に向かって言い返した後は、居心地の悪い沈黙が降りた。夕食はもう喉を通らなかった。
結局、親父は俺が医者になることに反対なのだなと思った。他にやりたいことを見つければ少しは認めてくれるのではないかと、どこかで期待していたけど、やっぱり会社を継ぐ以外の選択肢は全て、親父を失望させるのだと。
幸がそばにいてくれなかったら、俺は医者になる夢を諦めていたかもしれない。幸のおかげで俺は、自分の選択が間違っていないと信じることができた。幸の存在はいつも俺を強めてくれた。
期せずして幸に対する想いを親父に言葉にされてからも、幸との関係は変わらなかった。
二年の歳の差は大きく、幸はどこまでもあどけなかったから、ただ俺の隣で笑って、俺を慕ってくれればそれで良かった。長い間、それで満足だった。
幸との関係に変化が生じたのは、俺が高校に上がった頃だったと思う。俺が幸を女として意識するようになったのと同時に、幸との間に温度差を感じることが増えたのだ。
高校の入学祝に親父にデジタルカメラを買ってもらったのが嬉しくて、写真を撮るために幸を花見に誘った。その時、幸に渋られて、あれ、と思った。それまでの幸だったら、喜んでついてきたはずだった。
写真を撮られるのが恥ずかしいのかと思って強引に連れ出したけど、並んで歩いても距離があって、会話してもぎこちなくて、それは、その次に会った時も、そのまた次に会った時も、変わらなかった。
幸を女として意識しているのがバレて嫌われたのかと思った。それで、俺は思いきって幸に、俺のことを嫌いになったのかと尋ねた。
幸はそれを否定した。
『だったらどうして俺のこと避けるの?』
みっともなく追及した俺に、幸は困ったような顔をした。
『りっくんと一緒に外を歩いたりするのはもう、恥ずかしい』
そう返ってきて、動揺した。
幸も俺のことを男として意識しているのかと思って、俺の方もますます幸をそういう目で見るようになった。
それからしばらくして、幸が男と一緒に歩いているのを見かけた。男は、幸と同学年の菊池とかいう奴だった。
幸は楽しそうで、俺にはそんな顔を見せてくれないくせに、と腹が立った。
『ムカつくんだけど、あいつ』
前を歩く女が言ったから、一瞬心を読まれたかと思ってギクッとした。
『誰にでも色目使ってさ』
続く言葉に、自分とは関係のない話だ、とホッとした。
『ホント、鏡見てみろって感じ。地味なくせに』
一緒にいたもう一人の女が応じた。
『りっくんとはただの友達だよ、とか何とか言っちゃってさ。馬鹿にしてんのかって』
聞き流していた俺は、『りっくん』というワードに再び反応した。俺のことをそう呼ぶのは幸だけだった。見ると、二人とも幸と同じ中学の制服を着ていた。
『まあでも関口先輩もいつまでも相手にしないっしょ、あんなつまんない奴』
耳をそば立てた俺は、そこで彼女たちが幸のことを話していると確信した。
『相手にされなくなって菊池に乗り換えたとか?』
『うわー、菊池かわいそー』
『何だそら』
黙っていられなくて口を出したら、女たちはすごい勢いで振り向いた。
『せ、関口先輩!』
二人とも、見たことがあるような、ないような顔だった。
『サチが何だって?』
問いたださずにはいられなかった。
『ちが、違うんです。あの、ファンなんです、うちら、関口先輩の。それで、横峯さんにちょっとヤキモチ妬いちゃって。家が近いだけで優しくしてもらえていいなー、みたいな。まさか、先輩が後ろにいるなんて……』
女は弁解しながら涙目になっていた。
幸が自分の顔を地味だと言って気にしていたのを思い出して、頭に血が上った。
『泣きゃあ許してもらえると思ってんのか?てめーらこそ鏡見てこいよ。人のこと言えるような顔か』
『りっくん』
俺に気付いた幸が駆け寄ってきたけど、構わず続けた。
『家が近いから優しくしてるだ?てめーらなんか隣に住んでても話しかけねーよ。俺はサチがーー』
好きなんだ、と言いかけた。
『やめて、りっくん』
幸に腕を揺すられた。彼女の柔らかい手の感触に、怒りが少し引っこんだ。
『だって、こいつらがめちゃめちゃ腹立つこと言ったんだ』
言い訳するように俺は幸に訴えた。
幸は怒った顔をしていた。
『女の子泣かすりっくんは、嫌い』
『えっ?』
嫌いと言われて、頭の中が真っ白になった。
幸は俺から手を離してプイッと顔を横に逸らした。
『えっ?』
アホみたいに繰り返したら、『聞こえなかった?』と怒ったように訊かれた。
もう一度言われては敵わないので、『聞こえた』と小声で答えた。
『帰るよ』
尖った声で幸は俺に言った。
『え、一緒に歩いていいの?』
一緒に外を歩くのは恥ずかしいと言われて以来、外で見かけても話しかけないようにしていた。
『いいから。ごめんね』
幸は女たちに謝って、菊池のところに走っていって謝るような素振りをしてから、戻ってきて足早に歩き出した。
幸の斜め後ろを黙って歩きながら、嫌いだと言った幸の声がずっと頭の中に響いていて、一歩ごとに凹んだ。
このまま家に着いてしまったら、この先永遠に口を利いてもらえないのではないか。そんな恐怖心を抱いた俺は、途中で勇気を振り絞って呼びかけた。
『あの、サチ?』
幸は振り向いてくれなかった。
『怒ってる?』
恐る恐る尋ねたら、
『怒ってる』
と、幸は前を向いたまま短く答えた。
『ああいうりっくんは嫌い』
とどめを刺されて、それ以上は何も言えなくなって、家までの道をとぼとぼと歩いた。
幸の家の前を通り過ぎようとした俺を、幸は呼び止めて、家の中に招き入れた。口も利きたくないくらい嫌われたのかと思っていたから、少し安心した。
『何で正座するの』
幸の部屋で正座したら怒られた。麦茶を持ってきた幸のばあちゃんが、『あらあら、修羅場』と楽しそうに言った。
『どうして俺に怒ってるんだよ』
床にあぐらをかいて、俺は率直に幸に尋ねた。
『俺、間違ったことしてねーだろ。あいつらが悪いんだ。サチのこと僻みまくって悪口言うから』
この時の俺には、幸がなぜ怒っているのか、さっぱり分からなかった。
『だからって、あんな風に攻撃するのは最低だよ』
『サチは腹立たねーのかよ』
幸が怒りを向けるべき対象は、俺ではないはずだと思っていた。
『わたしは関係ないよ。りっくんが勝手にムカついてるだけじゃん。何でもりっくんの感覚が正しいわけじゃないんだよ』
後になって思えば、幸は俺に大事なことを教えてくれようとしていたのだけど、当時の俺には難しすぎて理解できなかった。
『自分が全部正しいなんて思ってねーよ。けど、さっきのは明らかにあいつらが悪いだろ。陰でコソコソいい加減なこと言いやがって』
彼女たちの言葉を思い出して、俺は怒りを再燃させた。俺の世界には、自分と幸しかいなかったのだ。
『あの子たちはりっくんのことが好きなんだよ。それなのにりっくんがわたしにばっかり優しくしたら、そりゃ面白くないでしょ』
『そんなの知らねーよ』
そこで俺ははたと思い至った。
『もしかして、俺と一緒に歩きたくないっていうのは……』
俺を意識しているのかと思っていたけど。
『そうだよ。恥ずかしいからって言ったけど、そうじゃなくて本当は、りっくんのファンの子たちを悲しませたくないから』
すごくがっかりした。
『放っとけよ、そんな奴ら』
幸の前ではできるだけ優しい言葉遣いを心掛けていたけど、乱れるのを止められなかった。
『放っとけないよ。だって、気持ち分かるもん』
幸はとても真剣な顔をしていた。
俺は、幸が話すのを聞きながら、この顔のどこが地味なんだ、などと思っていた。
『わたしだって陰口叩かれるのは嫌だよ。でも、もしもりっくんが他の子のことを特別扱いしてたらって想像してみたの。そしたら、すごく寂しい気持ちになった。あの子たちもこんな気持ちなのかなって思ったら、あの子たちのこと責められないよ』
幸はなぜそんな無駄なことを考えたのだろうと不思議に思った。俺が幸以外の誰かを特別扱いすることなどあり得ないのに、と。
『俺のことが嫌いになったわけじゃないのか?』
俺はそう尋ねた。俺にとってはそっちの方がよっぽど重要だった。
『そんなこと言ってない。りっくんが追い打ちかけるみたいにあの子たちを攻撃するから、そんなりっくんを見るのが嫌だったの』
嫌われたわけではなさそうだと分かって安心した。
『じゃあ俺はどうすれば良かったんだよ。黙って見てれば良かったのか?あ、そうか。俺がサチを庇ったらあいつらますます陰口ーー』
『違う』
焦れるように幸が遮った。
『わたしのことはどうでもいいの。わたしが地味なのは本当のことだし』
『サチは地味じゃねーよ』
『地味だよ。それはどうでもいいけど、りっくんはお医者さんになるんでしょ?』
『うん』
脈絡が分からなかったけど、頷いた。
『すごいなって思う。苦しんでる人を助けたいっていうりっくんのこと、わたし尊敬してるんだよ。だから、りっくんが人を傷つけるのを見るのは嫌なの』
『だけど、サチが傷つけられてるだろ』
『わたしは平気だから』
『俺が平気じゃねーし』
『だから、りっくんが中心なわけじゃないんだってば』
幸はもどかしそうだった。
俺には、幸の言いたいことが理解できなかった。ただ、自分が間違っていると言われた事実だけを受け取った。幸のことを守りたいと思う気持ちも何もかも否定されたような気がして、足元がぐらついた。
どうすれば幸の理想に近づけるのか全く分からなくて、泣きたくなった。
あいつらなんかより俺のことを助けてくれよ。俺は情けなく心の中でそう呟いていた。
その日以来、俺は幸の言葉の意味を考え続けた。
幸は俺が中心ではないと言った。でも、自分を中心に物事を考えるのは仕方のないことではないかと思った。
例えば、サッカーの試合で味方があり得ないミスをしたら腹が立つ。その、あり得ない、というのは、自分を中心に考えた時の感覚だけど、そのミスを許容していたら負けてしまう。
でも、あれこれ考えているうちに、もしかしたら他に事情があったのかもしれないと思うようになった。
足場が悪かったり、見えないところで妨害されていたり、どこかを怪我しているのかもしれない。
事情を汲み取ろうともしないで、自分の歪んだ物差しで判断して責めるのは横暴だ。そんな風に、俺は時間をかけて考えを改めていった。
俺はそれまで、自分と幸以外の人間のことはどうでも良いと思っていた。常に注目される側だったから、他人に気を遣わなくても不自由しなかったのだ。
幸のおかげで、いかに自分の視野が狭かったかを思い知らされた。
自分の至らなさを自覚するにつれて、ありのままの自分は幸に受け入れてもらえないと考えるようになった。
俺は、良い人間を演じるようになった。
雰囲気が丸くなったと言われて、女から告白されることが増えた。
それまでの俺だったら、女を泣かせようが傷つけようが、構わず無下にあしらっていたけど、丁寧に対応するようになった。
告白してきた女の中には、幸と付き合っているのかと訊いてくる女もいた。否定しながらも幸に対する好意を仄めかすと、幸の悪口を聞かされることもあった。それはやっぱり腹が立ったけど、ここでキレたら幸の理想から遠ざかると思って、グッと堪えた。
幸と恋人になりたかった。他の奴に取られたくないという焦りもあった。でも、フラれるのが怖かった。かつて自分が女を冷たくフッてきたことが、ブーメランになって自分に返ってきた。
幸はますます俺と距離を置くようになっていた。
俺と外を歩くのが嫌ならせめて家の中で話そうと乗りこんでも、話が弾まないまま早々に追い返された。受験生になった幸の勉強をみようかと申し出て、激しく断られたこともあった。
幸が同じ高校に入ってきてからは、幸が男と笑い合っているのを目にすることがあった。
幸が俺以外の男に笑顔を向けるのが許せなくて、鬱陶しがられていると感じながらも、幸を笑わせようとムキになった。その度に空回って、落ちこむことを繰り返した。
幸に好意を伝えたのは、何の計画性もなく、完全に衝動的だった。
五月の試験期間中だった。
電車の中で友達と別れて車両を移ると、幸が座席の端でぐっすり眠っていた。向かいに座る大学生くらいの男が、そんな幸のことをじっとりと見ていた。
起こそうかと思ったけど、寝顔を見ていたい欲に負けて、男の目から隠すように幸の前に立った。
彼女の膝の上には生物の教科書が広げられていて、勉強しながら眠ってしまったのかと思ったら、愛おしくてたまらなかった。
幸は座席の仕切り板にもたれて眠っていたから、顔がよく見えた。長いまつ毛も、小さな鼻も、ぷっくりした唇も、柔らかそうな頬も、全部が可愛くて、手に入れられたらどんなにいいだろうと妄想した。
時が経つのも忘れて見惚れていた俺は、降りる駅のアナウンスを聞いて我に返った。
慌てて起こしたら驚かせてしまって、幸は逃げるように降りていってしまった。寝ている幸を堪能していたのが後ろめたくて、しばらく黙ってその後ろを歩いた。
駅を出た時、天気雨が降っているのに気づいて、それを幸に話しかけるきっかけにした。傘を持っていなかったから、鞄からセーターを取り出して彼女に被せた。そしたら顔が隠れてしまって、被せたことを後悔した。
『きつねの嫁入りだな』
天気雨を幸が好きそうな言葉で表現したら、初耳だったようで聞き返された。
晴れた空から雨が降ることをそう呼ぶのだと教えたら、子供の頃のような無邪気な目でその理由を訊いてきた。答えられないのが格好悪くて、空を見上げてごまかすと、幸は、きつねが結婚式をしているのではないかと、きらきらした瞳で言った。
『娘の晴れ姿が、嬉しい、嬉しいって、きつねのお母さんが泣いてる涙なのかな』
幸が描いたそんな物語に、平静を装って相槌を打ちながら、内心はすごく動揺していた。
幸が結婚を幸せなことのように描写したからだ。結婚願望があるのだろうか、誰か気になっている奴がいるのだろうか、などと考えて、焦燥感に駆られた。
母親を知らない俺は、結婚がどういうものか分からなかった。でも、一生一緒にいられるということなら、幸としたいと思った。
『俺、サチのことが好きだ』
本当は、もっと景色の良い場所で伝えたかった。少なくとも、セーター越しに告げるつもりではなかった。
どこが好きかとか、どれだけ好きかとか、いつから好きかとか、どうして好きかとか、たくさん用意していた言葉が、蒸発して消えていった。
その代わりに俺は、言い訳がましい言葉を続けた。幸の顔が見えないせいで、突然の告白をどう思ったか分からず、不安だったのだ。
『だから、嫌なんだ。サチが電車の中であんな風に無防備に寝てたり、雨に濡れて制服を透けさせてたりすんのは。そんなサチを他の奴らに見せたくない。サチは俺にとって、たった一人の大事な女の子だから』
俯いたままの幸を見て、やっちまったと後悔した。幸にとってはとんだ迷惑だ。明日も試験があるのに。電車の中で勉強しながら寝落ちしてしまうくらい疲れているのに。
どうしよう、取り消そうか、いやそれはそれで、などと考えていると、幸が小さな声で、でも確かに、『嫌だ』と言った。
ぐらりと俺の世界が揺れた。
『そうだよな、いきなりこんな、嫌だよな』
せめて幸に罪悪感を与えないように、脈がないのを分かりきっていた振りをした。
『ごめん、勝手だよな、俺。サチがずっと鬱陶しがってんの、分かってたのに』
幸の前から消えたくて、足早に立ち去ろうとした。
そんな情けない俺の背中に、幸が抱きついてきた。心臓が止まるかと思った。
『わたしだって、ずっと嫌だった。りっくんが他の女の子と喋ってるのとか、りっくんの前じゃうまく喋れなくなる自分とか。勝手なのはわたしの方だよ』
身体じゅうに幸の声が響きわたって、夢ではないかと疑った。
幸が俺の背中から離れたから、夢でも放したくなくて振り向いた。セーターがずり落ちて、真っ赤になった幸の顔が見えた。
『りっくんのことが好き』
俺の目を見て、幸ははっきりと言った。
『ずっと、好きだった』
そう繰り返すのを聞いた時、感情が爆発するみたいにあふれて、幸のことを抱きしめた。
腕の中に彼女の体温を感じた時、実感が追いついた。世界でたった一人の特別な女の子が、こんな俺のことを好きだと言ってくれたのだと。幸が俺の腰のあたりを掴んだから、本当に爆発するかと思った。
『ごめん、こんな場所で。見られたら困るよな』
幸を気遣うというよりは、自分を戒めるために言ったら、
『平気。りっくんはもう、わたしのものだから』
と、あまりにも破壊力のある言葉が返ってきて、腰砕けになりそうになった。
しっかりしろ、と自分で自分に言い聞かせた。
『ああ。俺の全部、サチのもんだ』
きっと初めて会った日から、俺は幸に心を奪われていた。
『だから、俺とずっと一緒にいてください』
俺の胸の中で頷いた幸を、もっと深く抱きしめた。
幸と生きていく未来を信じた。
幸と家族になって、子供が生まれて、二人で育てて、育てあげて、老後を二人で過ごすことまでを、その一瞬の間に思い描いていた。
その日からは煩悩との闘いだった。
幸を抱きしめることもままならなくて、受験勉強を口実に図書館デートでお茶を濁した。
幸を大事にしたかったし、大事にできる自分でありたかった。幸が不用意に身を寄せてくるから、邪念を振り払うために意味もなく勉強の内容を解説したりした。
夏休みが終わる頃、親父に書斎に呼ばれた。
久しぶりに会う親父は、見るからにやつれていた。
『すまない』
生まれて初めて、親父に頭を下げられた。髪に白いものが目立っていた。
『俺にはお前を医学部に行かせてやれなくなった』
最初はタチの悪い冗談かと思った。
『でも心配するな。俺の代わりに学費を出してくれるっていう男がいるんだ。俺の高校の同級生で開業医をやってる奴でな、跡継ぎを欲しがっている。お前が医学部に受かったら面倒をみるって言ってくれた』
戸惑う俺をよそに、親父はすらすらと話した。
『は?何言っ、待てよ』
親父が話を続けようとするのを遮った。
『意味分かんねーよ。今頃になって何なんだよ。やっぱり親父は俺が医者になんの反対だったんだろ。だったら最初からそう言やあいいだろ!』
悲しみを怒りでコーティングして、力任せに壁を蹴った。脆い鎧はすぐに剥がれて、鼻がツンと痛んだ。
『すぐにカッとなる奴は、やっぱり医者に向いてねえんじゃねーか?』
この期に及んで、親父はニヤニヤと軽口を叩いた。
『るっせーよ!こんな嫌がらせされて怒んねー奴いるかよ』
書斎を出ていこうとしたら、呼び止められた。
振り向くと、親父は真剣な顔になっていた。
『お前、本気で医者になりたいんだろ?』
『だからそう言ってるじゃねーか』
親父は、重厚感のあるレザーチェアをデスクから引き出して、キャスターを転がして俺の方に差し出した。
『座れ』
有無を言わさぬ口調で命じられて、渋々従った。
子供の頃、こっそり書斎に忍びこんで座ったものだった。記憶の中の椅子は、もう少し大きかったような気がした。
『話を最後まで聞かずに勝手に判断するのがお前の悪い癖だ』
『そっちがちゃんと説明しねーからだろ!』
『頼むから黙って最後まで聞いてくれ』
親父は少しふらついたようだった。すました顔で壁に寄りかかったけど、顔色が悪かった。
俺が椅子から立ち上がると、引き留めるように『陸』と呼んだ。
『聞くから、親父が座れよ』
『……ああ』
親父は椅子に身体を沈めて俺を見上げた。
なぜか、小学生の時に親父に通知表を見せに来た時のことを思い出して、泣きそうになった。
『会社を畳もうと思っている』
詳しいことは何も教えてくれなかった。
ただ、会社の経営がうまくいかなくて、いろんな方面から金を借りたこと、それでも業績が悪くなるばかりで、借金が膨れ上がっていることを、親父は淡々と語った。
俺の高校卒業までは持ちこたえるつもりだ、と親父は言った。というのは、悪どいことばかりしてきた親父は、会社を畳めば多くの人間を敵に回すことになって、息子の俺にまで危害が及ぶかもしれない、だから俺が高校を卒業するまではここで平穏に暮らせるように、会社を持たせておく、ということだった。
『医学部に受かったら、相馬のところに養子に行って、しばらくそこでおとなしく過ごせ』
親父は、さらっと養子縁組の話をした。
医者になって診療所を継ぐこと。それが、俺を養子に迎えて学費を出す条件だということだった。
『大丈夫だ。相馬は馬鹿がつくぐらいお人好しな奴でな。本当に継ぐかどうかはお前が決めりゃあいい。何、医者になっちまえば何とでもなるだろ』
遠慮する必要はないぞ、と親父は言った。目的のためならどんな手段でも使え、と俺に言った。親父もそういう生き方をしてきたのに違いなかった。
『ただ、そうだな、相馬は大学はどこでもいいと言っていたが、あいつの家から通えるところにしといた方がいいな。交渉しやすいように、早いうちに懐に入っておけ』
そんなことを、親父は勝負師みたいな目つきで言った。
勝手だ、と腹が立った。でも、それ以上に悲しかった。親父に反発しながらも、俺はずっと親父に認められたかった。母親が命と引き換えに俺を生んだことを、それだけの価値があったと言わせてみたかった。親子の縁を切られたら、俺はもう親父の自慢の息子になれない。
『俺の話は以上だ。何か訊きたいことは』
親父はやっと俺に質問を許した。
『本当に会社畳まなきゃなんねーのかよ』
諦めるなんて親父らしくないと思った。
『親父から会社取ったら、何も残んねーだろ』
寝食を忘れるくらい、親父は仕事に明け暮れていた。会社は親父の全てなのだと、俺の目には映っていた。
親父はわずかに笑ったように見えた。
『いいんだ。一番大事なもんは守れたからな』
それを聞いて、意外に思った。
『親父に会社以上に大事なもんなんてあったのかよ?』
そう尋ねたら、親父は呆れたようにため息をついて立ち上がった。
『そんなことも分かんねえなんて、とんだ間抜け野郎だな、お前は』
いつもの調子で俺をけなして、書斎を出ていってしまった。
『やっぱりちゃんと説明しねーじゃねーかよ、クソ親父』
親父の背中に向けて投げつけた俺の言葉は、書斎の中で虚ろに響いた。
親父はそれ以来、俺の前にほとんど姿を現さなかった。それでも、使用人がいなくなって、家の中のものが少しずつ片づけられていって、着実に準備を進めているのが分かった。
大学は、養子入りする家から通えるところを選んだ。冬休みの前に推薦で決まっていたけど、担任の教師に事情を話して口止めした。
俺が通う大学を、幸にだけは知られたくなかった。それは、俺に危害を加えようとする人間に幸が俺の居場所をバラすのを恐れたわけではなくて、俺の居場所を知っていることで幸が危険な目に遭うことを恐れたからだ。幸は嘘をつくのが下手だったから、知らないふりなどできるはずがないと思った。
養子入りの話も、直前まで黙っていた。話せばきっと、幸は俺のために胸を痛めてくれるだろうと思った。幸には、俺の前で笑顔でいてほしかった。
俺が志望大学をはぐらかした時、幸は傷ついた顔をした。その時、何もかも話してしまいたい衝動に駆られた。ほとぼりが冷めるまで幸と離れることにした決意も、幸を目の前にするといとも簡単に崩れそうになった。
それで俺は、冬休みに入った頃から、勉強に専念しているふりをして幸に会うのを避けた。家のドアに、『がんばってね。幸』というメモとともに合格祈願のお守りが吊り下げられていた時は、泣きたくなった。
卒業式の日の夜に、養子入りする家に発つことになっていた。
その前に幸を家に呼んだのは、しばらく会えないことを伝えるためだけではなくて、彼女の身体に俺を刻みつけたかったからだった。
離れている間に幸を他の男に取られてしまうのではないかと、不安でたまらなかった。幸を俺のものにしてしまいたかったのだ。
でも、俺が親父と縁を切ることを聞いてぽろぽろと泣く幸を見たら、とても押し倒せなかった。
『ごめんね』
幸は謝ってきた。
『わたしが頼りないから、ずっと言えなかったんでしょ』
俺の隣で大粒の涙を落としながらそう言った。
幸がそんな風に受け取ると思わなくて、自分の身勝手さが本当に嫌になった。
『違うよ。俺が勝手だっただけだ。サチの悲しい顔を見たくなかったんだ』
幸は首を横に振って信じてくれなかった。
『ちゃんと、戻ってくる?』
嗚咽を漏らしながら、俺に尋ねた。
『うん。絶対にサチのところに戻ってくるから、待ってて』
幸を安心させたくて指切りをした。
それでも幸は泣きやまなかった。
『笑ってよ』
懇願する俺に、サチは応えようとしてくれたみたいだった。でも、すぐに拗ねたような顔をした。
『わたしの笑顔は、りっくんが戻ってくる時までお預けだよ』
頬を膨らませているのが可愛かった。笑おうとしたけど無理だったんだからしょうがないでしょ、と言いたげな表情だった。
『怒るなよ、サッちゃん』
抱き寄せると、幸も抱きしめ返してくれた。
俺はそれで満足することにした。
『じゃあ、次会う時は笑ってな』
彼女の涙を手の平で拭きながら頼んだ。
幸は頷きかけて、思い直したように口を尖らせた。
『りっくんが何か面白いことしたらだよ。何もなかったら笑わないもん』
『分かったよ。変顔でも何でもするから』
『変顔なんてできるの?』
『ん、練習しとく』
幸の髪をなでながら、愛しさがあふれて、俺たちは絶対に大丈夫だと信じていた。
親父の高校の同級生だったという相馬さんは、人の好さが顔面に表れているような人だった。
高校時代の親父は荒れていたそうで、当時はほとんど喋ったことがなかったと相馬さんは言った。
『でも、一度ね、関口に掴みかかられたことがあるんだよ。あれは怖かったなあ』
俺を迎えにきてくれた車の中で、おっとりと回想して笑った。
『私は父の跡を継いで医者になるか迷っていてね。その話をしているのが耳に入ったんだね。親の跡を継ぎたくても継げない奴の気持ちも考えろって、すごい剣幕でねえ。怖くて何も訊けなかったけど、関口にも何か事情があったんだろうねえ』
親父の家は漁師だったと聞いたことがあった。でも、親父がその跡を継ぎたかったとは知らなかった。
『五年くらい前にね、関口が急に電話してきたんだよ。息子が医者になりたいと言うんだが、親は何をしてあげたら良いのだろうか、と言ってね。会社を興したのは知っていたから、継がせないのかと訊いたら、子供がやりたいことを見つけたのに応援しないのは親じゃねえよと、こう言うんだ。ああ、こいつ親になったんだなあって、何だか眩しいような、微笑ましいような、不思議な気持ちでねえ。それからも時々リクくんのことで連絡してきていたんだ。相談に乗っているうちに、何だかリクくんのことが他人に思えなくなってねえ。私たちは子供に恵まれなかったから、子供がいたらこんな風に悩んだりしたんだろうなあって。だから、関口がうちにやってきて、私に頭を下げてきた時は、何とかしてあげたくなったんだよ』
相馬さんの話を聞いて初めて、親父が応援してくれていたことを知った。だったら最初から素直にそう言えよクソ親父、と俺は腹の中で悪態をついた。
『リクくん、私はねえ、リクくんに診療所を継ぐことを押し付けるつもりはないんだよ。そんな条件を出したのはね、そうでも言ってやらないと、関口が安心しないだろうと思ったからなんだ。ほら、あいつは身一つで会社を興したような奴だから、対価を求めることが身に染み付いているだろう。何の見返りもなく学費だけ出すなんて言ったら、何か裏があるんじゃないかと疑われてしまいそうでねえ』
相馬さんはいつもこんな調子で、よく開業医が務まるなと思うくらい、お人好しで優しい人だった。
相馬さんの奥さんも、最初のうちは優しかった。だから、肥料を運ぶのを手伝ってほしいと言われた時は、何の疑いもなく請け負った。
色とりどりの花が咲く庭で、奥さんは、手が塞がっている俺のものをまさぐった。奥さんに嫌われたら追い出されるかもしれない、そしたら親父に申し訳が立たない。そう思って、強く拒めなかった。
こんなババアに反応するわけがないと自分に言い聞かせて、他のことを考えようとした。でも、ちらっと幸の顔がよぎった途端、どうにもならなくなってしまった。
庭のデッキチェアで奥さんに跨られて、とてつもない嫌悪感の中で果てた時、晴れた空から冷えた雨が、俺の汚れた身体に降り注いでいた。
『娘の晴れ姿が、嬉しい、嬉しいって、きつねのお母さんが泣いてる涙なのかな』
幸の無垢な声を思い出して、絶望した。
俺は、幸の前で少しでも自分を良く見せようと、いつも背伸びをしていた。そうして初めて、幸に受け入れられる自分になることができた。
等身大の自分でもダメなのに、汚れてますます幸の理想から遠ざかった俺は、もう二度と幸に触れることができないと思った。あの子はどこまでも純粋で、こんな汚さとは無縁であるべき女の子だと思った。
『絶対にサチのところに戻ってくるから、待ってて』
安易にそんな約束をしたことを、心の底から後悔した。幸に手を出さなかったことだけが唯一の救いだった。
幸に手紙を書こうとした。
幸のところに戻れなくなったと。だから、俺のことをもう待つなと。
幸はきっと俺のために泣いてくれるだろうけど、彼女のことを大事にしてくれる奴は、きっといくらでも現れるはずだと思った。他の男と楽しそうに話す幸の顔が、目に焼き付いていた。
でも、ダメだった。思いと裏腹の言葉をレポート用紙に書き殴っては、途中で耐えられなくなって、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てることを繰り返した。幸を他の奴に取られるかと思ったら、気が狂いそうになった。
幸に会いたい思いに、絶望や不甲斐なさが乗っかって、寝ても覚めても葛藤した。幸と別れなければならないと思ったら、生きていく気力すらなくなるほどだった。
やがて俺の心は、幸のことを考えると苦しくなることを学習した。
そして、俺の弱い心は、幸を忘れることを選んだ。