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きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
6/14

別れ

「明日からしばらく自宅に戻るね」

 陸がそう言ったのは、ニ日後の晩のことだった。

 論文を急ぎで書き上げる必要があって、帰りが遅くなるのが申し訳ないから、と陸は理由を説明した。

 正直、少しホッとしてしまった。

 裏側の陸を意識するあまり、陸との接し方が分からなくなっていた。少し距離を置くのも良いかもしれないと思った。


 それでも、その翌日、陸の帰って来ない部屋は寂しくて、広く感じた。

 しばらく自宅に戻るね、と言ったその『しばらく』が、どのくらいの期間なのか訊かなかったことを後悔した。スマホを手にしては、邪魔してはいけないと思い直して手放すことを繰り返した。

 夕飯を作る気になれず、ベッドの上でゴロゴロしながら見るともなくスマホで動画を見ていた夜の九時過ぎ、陸から電話がかかってきて跳ね起きた。帰ってくるのかと期待して、意味もなく正座して電話に出る。

『相馬だけど』

 ひそひそと陸が名乗った。

『今、大丈夫?』

 いつもよりも声が硬い。まだ病院にいるのかもしれない。

「はい。大丈夫です」

 何か忘れ物だろうか。今から届けに行ったら、陸の家に泊まることになるだろうか。そんなことを先走って考えた。

『もう寝ようとしてた?』

 わたしの飛躍した思考をよそに、陸は声を少し柔らかくした。

「いえ。まだ九時ですし」

『そっか。何か声が元気ない気がしたから』

 すぐに見破られてしまう。

 会えなくて寂しい。そう素直に言ってしまおうか迷っていると、わたしの反応がなくて心配になったのか、『サチさん?』と呼びかけてきた。

「あ、えと、寂し……」

 勇気を出して言おうとしたのに。

『ごめん、ちょっと待って』

 陸に遮られた。

『おい、ヨーコ』

 遠くの方で誰かのことを呼んでいる。

 ヨーコって、女の人だろうか。そう思って一気に不安になる。遠慮のない声だったからなおさら。

『ごめん』

 再び陸の声が耳元でした。

『もうごはん食べた?』

 優しく問いかけてくる。

『いえ』

 構ってほしくなって、正直に否定した。

『食べてないの?体調悪い?やっぱりあんまり元気ないよね』

 案の定、すぐに心配してくれる。

「今日、怒鳴られちゃって」

 調子に乗って愚痴った。

『え?仕事で?』

「はい。薬の処方についてお医者さんに確認しようとしたら、そんなことでいちいち電話して来るなって」

 本当は、大したことではなかった。

 よくあることだし、その医者の横柄さを知っているから心構えはできていた。

 ただただ陸に甘えたくなったのだ。

「それは、どこの医者?」

「……え?」

 思いもよらない返しが来て戸惑う。

『そいつ医者としてあり得ないよ。ちょっと僕からーー』

「え、あ、いや、だ、大丈夫です。ごめんなさい。話を聞いてほしかっただけなんです」

 慌てて押し留めながら、思わず泣きそうになった。

 陸は昔からこういう人だった。わたしの小説にケチをつけた森崎先生を殴りに行こうとした人だ。わたしのことを忘れてしまっても、こういうところは変わらない。

『そ、そうだよね。僕が苦情を言ったところで話がこじれるだけだよね。ごめん。つい、カッとなっちゃって』

 恥じるように陸がテンションを落とす。

『ごめんね、そばにいられなくて』

 大丈夫です。条件反射のようにそう言いかけたのを、飲みこんだ。

「寂しいです」

 やっと伝えられた。

『深夜になっても良ければ帰ーー』

「い、いいです」

 慌てて断った。変なところで鈍いのも昔のままだ。

「無理しないでください。寂しいけど、良い論文が書けるように応援していますので」

 陸の邪魔になるくらいなら、別れた方がマシだ。

『ありがとう。頑張る』

 笑うような息遣いが聞こえた。

『会いたいけど、何か、電話もいいね』

 そうかな、と思った。わたしは会いたい。

「どれくらいかかりそうですか?」

 すんなり訊くことができた。

『うーん、そうだね、来週の土曜日には帰れるかな』

 今日は土曜日だ。一週間も会えないのはつらい。でも、いつ戻ってくるのか分からずに待つよりは、訊いて良かったと思った。

『帰ったら、これからのことを話そう』

 陸は優しい声でそう付け加えた。

「はい。待っています」

 心に明かりが灯ったように、じんわりと胸が熱くなった。陸との接し方に悩んでいたけど、何とかなる気がしてきた。

「あ、何か用事でしたか?」

 今頃尋ねたわたしに、

『ううん。声聞きたかっただけだから』

と返してきて、ますますわたしの心を甘くさせた。


 陸はそれから毎晩電話をくれた。

 帰ってくる日を心の中で指折り数えて待つわたしに、金曜日の晩、『明日帰るよ』と告げた。


 土曜日は朝早くに目が覚めた。

 陸がわたしよりも先に帰ってきた時のためにと、おにぎりを握って座卓の上に置いておいた。鍋には前の晩のうちに煮込んでおいたロールキャベツが入っている。

 部屋を隅から隅まで掃除しても、家を出るまで時間が余った。やっと陸に会えると思ったら、じっとしていられない気分だった。

 仕事中はなるべく陸のことを考えないように努力した。でも、お手洗いに行く度にスマホの通知を確認せずにはいられなかった。

 こんなにも何かを待ち遠しく思うのは、とても久しぶりのことだった。


 調剤の受付を閉めて雑務を片付けている時に、ポケットの中でメールの受信を知らせるバイブ音が鳴った。

 期待に胸を膨らませてメールを開いたわたしは、

『ごめん、帰れなくなった』

という一文を見て、思考を停止させた。

 杉浦さんから声をかけられるまで、わたしはぼんやりとスマホの画面を眺め続けていた。

 心配する杉浦さんを振り切るようにして職場を出ると、冷たい雨が降っていて、何だか胸騒ぎがした。


 部屋は朝出た時のままだった。

 念のために、クローゼットの奥の方に突っこんでいた鍵付きのレターケースを確認した。

 このケースは、陸がここで暮らすことになった時に慌てて買ったものだ。中に、陸との思い出の品々がしまってある。

 陸がケースを勝手に開けるとは考えにくかったけど、安っぽい造りだから簡単に鍵を壊せそうで、万が一中身を見られていたら、と不安になったのだ。

 でも、その形跡はなくて、ひとまず胸を撫でおろした。


 何もする気になれなくて床に座りこんだ。ケースの鍵を開けて、中からクリアファイルを三個取り出す。

 一個めのファイルには、付き合っている時にもらった陸からの手紙や、陸と一緒に行ったプラネタリウムのパンフレットや、由香里と彼女の兄も含む四人で撮ったプリクラが入っている。

 二個めのファイルには、絵が挟まっている。色のない世界にいたわたしのために陸が書いてくれた一匹の魚の絵だ。右下には『関口陸』とサインされている。

 この絵をもらった時、とてもワクワクしたのを覚えている。どんな色なのか知りたくて、色を取り戻すことを心から望んだ。

 紙いっぱいの大きさの魚に、たくさんの鱗が丁寧に描きこまれている。それぞれの鱗は複数の色で塗られていて、一つとして同じ色のものはない。上手な絵ではないけれど、一生懸命に描いてくれたことが伝わってきて、今でもわたしの心を震わせる。

 三個目のファイルには、陸と二人で写っている写真が数枚入っている。

 一番古い写真は、わたしたちが小学生の時のものだ。ユニフォーム姿の陸が、小学校の校庭でわたしの肩を組んでいる。陸もわたしも満面の笑みを浮かべている。

 この時のことは覚えていないけど、おそらくわたしは陸のサッカーの試合を見に行っていたのだろう。そこを由香里のお母さんか誰かが撮ってくれたのだろう。

 この頃のわたしたちの関係は、どちらかというと兄妹に近かった。わたしにとって陸は、憧れのお兄ちゃんだった。

 次に古い写真は、陸の家の前で撮ったものだ。陸は中学の制服を着ていて、ふてくされた顔をわたしの反対側に向けている。それでも、わたしとしっかり手を繋いでいる。

 この時のこともよく覚えていないけど、陸がこの顔をしているということは、陸のお父さんが撮ったのだろう。

 陸のお父さんはいつも忙しくしていて、たまにしか見かけなかった。でも、会うと気さくに声をかけてくれた。浅黒く日焼けしていて豪快な感じの、陸とは少し違うタイプの人だったけど、笑った時の目元の感じが陸とよく似ていて、わたしは陸のお父さんのことが好きだった。

 その次の写真は、桜の木の前で写っているものだ。

 陸はもう高校生になっていたと思う。花見に行こうと誘われて、わたしはかなり渋った覚えがある。陸と一緒にいるところを誰かに見られたくなかった。陸のことを好きな女の子たちから、変にやっかまれることがあったのだ。

 カメラを持った陸は、渋るわたしを半ば強引に連れ出して、バシャバシャと写真を撮った。そこを陸の男友達が偶然通りかかって、わたしとの仲をからかった。それなのに、陸は恥ずかしがるどころか、そのうちの一人にカメラを渡してわたしたちを撮らせた。これはその時の写真だ。

 だから、爽やかな笑顔の陸に対して、わたしは目を伏せていて、陸から少しでも離れようと身体を斜めにしている。

 今思えば、陸に対する恋心を自覚し始めたのは、この頃からだったように思う。

 最後の写真は、当時住んでいたおばあちゃんの家のリビングで撮ったものだ。

 陸は高校の制服姿で、胸に緑の養生テープを貼っている。テープにはマジックで『サチの保護者』と書いてある。

 おばあちゃんが腰を痛めて、わたしの中学の卒業式に行けないのを残念がっていたら、陸が、自分が代わりに式に出て写真を撮ってくると申し出たのだ。友達にからかわれるから嫌だと言ったわたしに、これならみんな納得するだろと、こんなテープを貼っているのだ。おかげでわたしは周りから随分白い目で見られた。

 陸と二人で写っている紙の写真はこれで全てだ。付き合っていた頃の写真がスマホに入っているけど、それも数枚かそこらだ。

 当時のわたしは、陸と一緒に写真に写るのがあまり好きではなかった。自分の地味さを突きつけられる気がして、写真をもらっても保存しなかった。後々それらが宝物になるとは、思いもしなかったのだ。


 しばらくぼんやりと眺めた後、三個のクリアファイルを鍵のかからない引き出しにしまった。

 これまで何千回、何万回見たか分からないこれらの思い出の品々を、わたしはどうしても捨てることができない。

 陸と一から始めようと考えながら、結局のところ覚悟ができていなかったのだ。それで、裏側の陸の出現に容易く心を掻き乱された。

 表側の陸はきっと、わたしがギクシャクしてしまっていたことを見抜いていただろう。記憶を失っている間に何があったのか、内心では知りたくてたまらないはずなのに、何も訊かないでくれた。彼の我慢の上に成り立っている今の状態を、続けて良いはずがない。

 陸と生きていくために、陸が帰ってきたら本当のことを打ち明けよう。

 そう、心に決めた。


『了解です。無理しないでくださいね』

 とりあえずそれだけ書いて陸に送った返信は、いつまで経っても既読にならなかった。

 忙しいだけだ。そう自分に言い聞かせるけど、時間が経つにつれて、嫌な予感が心を侵食していった。

 

 その予感は当たっていた。

 夜の九時過ぎに由香里から電話がかかってきて、陸に会ったと言ってきたのだ。

『もうホントにばったり。買い物から帰ってきたら向こうからリクくんが歩いてきてさあ。めちゃめちゃびっくりした!』

 興奮しているような声だった。

『立ち話もなんだったし、家すぐそこだったからさあ、とりあえずうちに連れてったの。そしたら母親もテンション上がっちゃって。立派になってー、ってもう涙ちょちょぎれ』

 由香里は実家に戻ってきているようだ。タイミングが悪い。

『こないだサッちゃんの住所を教えろって迫ってきた時のリクくんとは別人かってくらい感じ良くってさ。さすがお医者さんって思った』

 いつもの陸だったのだろう。別人に感じるのも無理はない。別人格だと見破られなくて良かった。

『でもリクくん、サッちゃんの話になると言葉濁しちゃってさ、照れてるのとも違うし、強いて言えばすっとぼけてるみたいな……。やっぱりリクくんとうまくいかなかったの?』

 やっぱり、わたしの話をしたのだ。

 ただ、陸は『サッちゃん』がわたしのことだとは分からなかったのではないか。そんな楽観的な考えを抱いた。

 でも、それは由香里の次の言葉で打ち砕かれる。

『あたし、ちょうど写真を発掘したところだったからさ、リクくんに突きつけてやったわけ。動かぬ証拠ってやつ?自分が昔どんだけラブラブっぷりを周りに見せつけてたのか、忘れてたみたいだから』

「写真?」

『ほら、リクくんがサッちゃんのほっぺにチューしてる写真。教室で撮ってあげたじゃん。リクくん、それ見たら黙っちゃってさ』

 陸は全てを知ってしまったのだと悟った。

 そんな写真を撮った記憶はないけど、そんなものがあるなら、陸が自分の異常を知るには十分だろう。

「よくそんな写真残ってたね」

 つい恨み言のようになった。

『それがさ、もう絶対忘れないよ』

 由香里は、写真を取ってあった理由を、求めてもいないのに説明し始めた。

『写真を現像してリクくんのところに持ってったの。サッちゃんには携帯で送ったけどさ、リクくんのアドレス知らなかったし、リクくんも照れたりするのかなって見てみたくってさ。そんでリクくんの教室まで出向いたわけ。三年生の教室に入るのなんて初めてだからさ、こっちはめちゃめちゃ緊張してるわけよ。それなのにリクくんったら、写真見るなり、俺はもうサチからもらったからこれはお前が持っててくれって突っ返してきて。俺たちの結婚式で出してくれよって、そう言うわけ。それで約束通りずっと持ってたのに、一言のお礼もないんだから』

「それは、ごめん」

 頭の中が真っ白になりながら、条件反射のように謝った。

『いや、サッちゃんが謝ることじゃないし、わたしも持ってんの忘れてたから別にいいんだけどさ。そう、だから絶対二人で幸せになるんだろうなって思ってたのに、何か、やっぱ十年もブランク空いちゃうと難しいもんなの?』

 無遠慮にそう訊いてくる。

 友達として純粋に心配してくれているのだと、頭では分かっていても、ズケズケ訊かれたくないと思ってしまった。

「りっくんって、何時くらいに帰った?」

 問いへの答えを適当にはぐらかして尋ねた。

『んー、会ったのが四時くらいで、五時くらいまでいたかな。リクくんが帰る時にちょうど雨が降ってきて、母親が傘を貸そうとしたんだけど、車だし後は帰るだけだから大丈夫だって断られて。何しにこっちまで来たんだろうねって母親と話してたんだけど。リクくんの病院って結構遠いよね』

 由香里はまだ話したそうだったけど、適当に話を切り上げて電話を切った。


 五時に由香里の家を後にして、六時過ぎにわたしにメールを送るまでの間、陸は何を考えただろう。

 ゾッとしたに違いない。自分の記憶が思った以上に欠落していることを知って。それだけでなくて、わたしに大きな嘘をつかれていたことを知って。こうなる前に、わたしが自分の口で打ち明けるべきだったのだ。

 陸は今、一人で苦しんでいるのかもしれない。そう思うと胸が苦しくなるけど、陸に拒絶されたらと思うと、電話をかける勇気が出ない。

『ごめん、帰れなくなった』

 陸はそう送ってきた。

 この『ごめん』という言葉はもしかして、帰れなくなったことに対してではなく、わたしのことを覚えていないことに対してだったのだろうか。

 そうであれば、気にしないでと伝えたい。わたしは思い出を捨てられないけど、今の陸と生きていきたいと思っていると伝えたい。

 けれど、その後に続く『帰れなくなった』という言葉に、身動きが取れなくなる。

 普通に考えれば、今日帰ることができなくなったという意味だろうけど、二度と帰るつもりがないという意味に思えてしまう。散々嘘を重ねてきたわたしのことを、もう信用できないと思っていても不思議ではない。

 陸に送ったメールに既読がつかないのが、陸からの拒絶を示しているように思えてならなかった。

 

 眠れないまま迎えた翌朝、電話がかかってきた。

 一瞬陸からかと思ったけど、知らない番号からだった。

『県立総合病院の曽根と申しますが、横峯幸さんのお電話でしょうか』

 電話に出ると、女の声が言った。

「はい、横峯です」

 そう返しながら、記憶を辿って、陸に会いに病院に行った時に案内してくれた看護師が『曽根』というネームプレートを付けていたことを思い出した。

『相馬先生のことなのですが』

 曽根さんはそう前置きをした。

『昨晩、倒れまして』

「えっ!」

 驚いて大きな声を出してしまった。

『ご安心ください。他の先生が診たところ、特に大きな異常はなく、風邪だろうとのことですので』

 それを聞いてひとまず安心した。

『横峯さんにお電話させていただいたのは、一度先生が意識を取り戻された時に、『サチを呼んでくれ』とおっしゃったようで。横峯さんのことではないかと、念のためにお電話を差し上げました』

「すぐ行きます」

 被せるようにそう告げた。

 サチ、と呼ぶのは、裏側の陸だ。

『そうですか。それでは着いたら受付でお名前をおっしゃってください。相馬先生のところにご案内いたしますので』

 曽根さんの言葉を最後まで聞くのももどかしくて、途中から身支度を始めていた。

 今から行っても彼に会える保証はない。いつもの陸である可能性が高い。わたしを見て、なぜ来たのかと思うだろう。拒絶されるかもしれない。

 それでも、万に一つでも裏側の陸に会える可能性があるのなら、行かない選択肢はなかった。


 病院の受付の前で待っていると、曽根さんがパタパタと走ってきた。

「すみません、お待たせいたしました」

 息を切らしている。

「わざわざすみません」

「いえいえ。どうぞ、こちらです」

 曽根さんは、来た方向を指し示して歩き出した。その後をついて歩く。

「あの、先日は失礼しました。そのまま帰ってしまって」

 診察代の支払いもせずに逃げ帰った非礼を詫びた。

「気にしないでください。詳しいことは存じませんが、相馬先生も、僕が悪いんだと言っていましたので」

「そうなんですか?」

 あの時、陸はまだわたしをただの患者だと思っていたはずだ。

「ええ。それで保険証も自分が届けに行くからと。そういうことをするのはあまり適切ではないので事務と揉めたようでしたが、本当に昔からのお知り合いだったんですね」

 話しながら、曽根さんは【関係者以外立入禁止】と書かれたドアの前でIDカードをかざした。ロックが解除されて、自動ドアが開く。

「横峯さんは、ヨーコ先生ともお知り合いですか?」

 ドアが閉まったことを見届けて、曽根さんがわたしに尋ねる。

「ヨーコ先生?」

 訊き返してから、電話の向こうで陸がヨーコと呼んでいたのを思い出した。

「ええ。ヨーコ先生、横峯さんの写真を持っていたので。高校生くらいの頃の。でも、間違いなく横峯さんでした」

「……わたしの写真を?」

 洋子という名前の同級生はいたけど、医者になったという話は聞いたことがない。

「ええ。先ほど、サチさんってこの子のこと?って写真を見せてきて」

 どういうことだろう。まったく心当たりがない。

「ヨーコ先生という方は、おいくつくらいなんですか?」

 もう少し情報がほしくて尋ねた。

「相馬先生と同じだと思います。二人は大学時代の同期なので」

 それで陸はヨーコと呼んでいるのか。

 写真の疑問が解消しないまま、嫉妬のような感情がざわざわと舞い上がって、胸の中に澱んでいった。


 エレベーターで五階まで上がって、廊下を少し進んだところで、曽根さんは立ち止まった。

「こちらです」

 わたしを振り向いて、一つのドアを示した。

 中から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。陸と女性のものだ。

「あ、ヨーコ先生が来てるのかな。横峯さんに会いたがっていたんです。相馬先生も元気になったみたいで良かった」

 曽根さんはスライドドアの取っ手を掴むと、躊躇なく引き開けた。

 病室の中では、ベッドの上で陸が半身を起こしていて、その側に白衣を着た女性がこちらに背を向けて座っていた。

「先生、横峯さん来ましたよ」

 彼女のよく通る声に、二人の視線がこちらに集まる。陸の目が驚きで見開かれて、笑顔が急速にしぼんでいく。ヨーコというらしい女性が立ち上がった。

「では、お帰りになる時、先ほどの番号にお電話くださいね」

 曽根さんはそう言うと、パタパタと廊下を駆けていった。


「こんにちは、サチさん」

 女性が、わたしの前までやってきて、にこやかに挨拶してきた。白衣の胸ポケットに、『ようこ』と手書きされた可愛らしい名札を付けている。

「こんにちは……」

 気後れしながら挨拶を返した。

 目鼻立ちのはっきりした、とても綺麗な人だった。

「やっと会えた」

 ピンク色の艶のある唇がそう呟いた。

 その言葉の真意を問おうか迷っていると、彼女は足元に置かれた紙袋を拾い上げた。左手薬指に指輪がないことを確認して、胸がギシッと音を立てる。陸と再会してから、わたしは彼のあんな笑い声を聞いたことがなかった。

「めっちゃいいカノジョだね。リクが倒れたって聞いて駆けつけてくれるなんてさ」

 陸の方を振り向いて茶化している。

 リク、という呼び方に、胸の中がまたざわざわした。

「何で……?」

 陸は、わたしたちを交互に見て、戸惑いの表情を浮かべている。

「リクがサチさんのこと呼べって言ったんだよ」

 女性がそう答えるのを聞いて、まずいと思った。このままでは陸の異常がバレてしまう。

「ごめんなさい、こんなところまで押しかけてしまって。全然、あの、帰りますので」

 ごまかすだけのつもりが、本気で帰りたくなっている気持ちに気づく。

「待って、サチさん」

「ステイ」

 ベッドを降りようとした陸に、女性が犬にするみたいに手の平を向けた。

「私、この子に用があるの。ちょっと借りるから」

 わたしの肩に手を置いて言う。

「はあ?ヨーコがサチさんに何の用だよ」

 陸の口ぶりに、二人の気の置けない関係性が表れている。

「ガールズトーク」

「意味分かんねーし。ちゃんと説明しろ」

「心配しなくても、すぐに返すし」

 そう言って、女性がドアをすらりと開く。

「おいーー」

 陸が立ち上がろうとしてふらついた。

「ほら、病人は安静にしてなさい」

「サチさん、そいつの言うこと聞かなくていいから」

「しつこい。いいからおとなしく寝てなさいよ」

 女性に命じられて、陸は困ったようにわたしを見てきた。

「少しだけ、話してきてもいいですか?」

 わたしもこの女性に訊きたいことがあった。

 なぜわたしの写真を持っているのか。そして、陸の異常に気づいているのかどうか。

 わたしの言葉に、陸は迷うようにしながらも小さく頷いた。

 病室を出ようとしたら、「サチさん」と陸に呼ばれた。

「ごめんね」

 振り向くと、途方に暮れたような顔をしていた。

 この優しい陸に、わたしは首を横に振ることしかできなかった。


「改めまして、田口陽子です。陽子って呼んで」

 自販機の前の小さなテーブルに向かい合って座って、女性はわたしに名刺を差し出して言った。

「小児科の医者をやってます。リクとは大学時代からの同期で」

 笑いかけてくる彼女に、どうしようもなく劣等感を抱いてしまう。綺麗で、医者になれるくらいだからきっと頭も良くて、社交的そうで。何もかもが負けているように思えてならない。

「横峯幸です。あの、薬剤師をしています」

「薬剤師さんなんだ。そんな硬くならなくていいよ」

 気遣われて、ますます負けた気持ちになる。

「私ね、ずっと前からサチさんのこと知ってるんだ」

 陽子と名乗った女性は、紙袋から冊子を数冊取り出して、わたしの前に置いた。

「これ、リクからずっと預かってた」

 促されるままにそのうちの一冊を開いて、衝撃を受けた。

「あ、引かないであげてね?」

 首を横に振る。引いたわけではなかった。

 それはアルバムだった。中学生の頃のわたしの写真が並んでいる。こんなものがあると思わなくて驚いたのだ。

「私も詳しい事情は知らないんだけどさ、家に置いてたら捨てられるかもしれないから預かっててくれって、リクに頼まれたの」

 陽子さんはそう説明した。

「それは、いつ頃のことですか?」

 他にも訊きたいことはあるけど、取り敢えずそう尋ねた。

「んー、大学入ってすぐだよ。五月とか六月頃かな。私とリクって学籍番号が近くてさ、割とすぐ仲良くなったんだよね。んでも、リクはもっと仲の良い男友達いたし、何で私なの?って聞いたの。そしたら、男に預けたらサチに変な気を起こすかもしれないだろって言うわけ。それで、はいはいって預かったんだけど」

「すみません」

 居たたまれなくて身をすくめた。

「そのアルバム、すごい執着を感じるよね。あ、ごめん、勝手に中見ちゃったけど。もっと古いのもあるよ。サチさんが小学生くらいのとか、あと卒業式のとかもあったし、イチャイチャしてる写真もね」

 恥ずかしすぎる。そんな写真をこんな綺麗な人に見られていたのが。

「それなのにさ、私に預けたっきり一度も、アルバムを見せてとか返してとか言ってこなかったの。不思議だったけど、全部頭の中に焼き付いてるとか言われたらウザいなって思って、そのままにしてた」

 陽子さんはアルバム冊子を、まるで壊れ物を扱うような手つきで紙袋の中に戻した。

「それで、三年生になった時かな、リクが一人暮らしを始めたからさ、それじゃあアルバム回収しなさいよって言ったら、ポカンとした顔して、何それ?って言うの。私、びっくりしすぎて何も言えなかった」

 この人も陸の異常を知っているのだ。

 わたしよりもずっと前から。

「リクは今も、サチさんのことを忘れたまま?」

 直球で尋ねられて、ためらいながら頷いた。

「そっか。本人に会っても思い出さないなんて重症だよね。昨日ひと通り検査して、脳もどっこも悪くなかったらしいから、精神的なものだと思うんだけど。それって自分の専門じゃんね」

 陽子さんは困ったように言って、腕組みをした。

「あの、このこと、他の人には……」

「言ってないし言わないよ。話したのサチさんが初めてだし」

 それを聞いてホッとした。

「こないださ、リクが電話でサチさんって呼んでるのが聞こえたんだよね。カノジョができたのは知ってたから、もしかしてって思ってた。よっぽどリクに、思い出したの?って訊こうかと思った。でも、言い出せなかった。何か、リクの幸せを壊しちゃいそうな気がして」

 陽子さんも、わたしと同じように陸を心配して悩んでいたのだ。

「だけど、サチさんは、このままでいいの?」

 わたしの気持ちを思いやるように尋ねてくる。

 この完璧な女性の前で、強がりたくなった。

「思い出してほしいですけど、相馬さんは相馬さんなので」

 本当は、自分にそう言い聞かせているだけだ。

「すごいね。私だったら思い出してよって詰め寄っちゃうな」

 本気で感心したように言われて、バツが悪くなる。

「これ、サチさんに返してもいいかな」

 アルバム冊子の入った紙袋を、わたしの方に差し出してきた。

「はい。ありがとうございます、ずっと持っていてくださって」

「何回も捨てようとしたよ」

 紙袋を受け取るために手を出しかけて、少し固まった。そんなわたしを見て、陽子さんはわずかに眉を下げた。

「ごめんね。私、リクに恋愛感情を抱いてた。だから、サチさんのことは嫌いだったの」

 何となくそんな気はしていたけど、はっきり言われると胸にずしりと来た。

「リクも残酷だよね。何も私に預けることないのに。こんなアルバム見せられたらさ、とても好きだなんて言えないし。サチさんの写真に向かってどれだけ悪態をついたか分かんないよ。リクにこんなに愛されてるサチさんのことが、羨ましくて仕方がなかった」

 気まずくて目を伏せた。

 陸の相手がこんな地味な女では、さぞかし腹が立ったことだろう。

「リクがサチさんのこと忘れてるって知って、正直チャンスかもって思った。でも、告白しようとする度に、写真でしか見たことないサチさんの顔がチラついてさ、こんなのフェアじゃないって思って言えなかった。まあ、好きだって伝えたところで何ともならなかっただろうけど」

 そんなことはないと思う。小さく首を横に振るわたしに、陽子さんは優しく笑いかけてきた。

「あいつさ、絶対どこかでサチさんのこと覚えてるよ。だって、大学入ってからこの歳まで誰とも付き合わなかったんだよ。リクのことを好きだっていう女の子は何人もいたのにさ。だからさ、気休めに聞こえるかもしれないけど、大丈夫だよ」

 その慰めの言葉を、わたしは素直に受け取ることができなかった。

「相馬さんが誰とも付き合わなかったのは、陽子さんのことが好きだからではないでしょうか」

 醜い嫉妬だと自覚しながら、口に出さずにはいられなかった。

「やだ、やめてよ」

 陽子さんは笑って手を振った。

「リクの私に対する態度見たでしょ?大学生の時からあんな感じなんだから。たぶん私のこと女とすら思ってないんじゃないかな。だいたい、サチさんのアルバムを預けてくる時点で脈ないし。とにかく、あいつが私のこと好きとかありえないから」

 手をぶんぶん振りながら強く否定してくる。それを見て、彼女は今でも陸を好きなのだろうと思った。

「あ、こんな時間」

 動揺を隠すように、陽子さんは首から提げた携帯の画面を表示させて呟いた。

「そろそろ戻らなきゃ」

 逃げるように立ち上がる。その慌てっぷりが可愛くて、また落ちこんだ。

「あの、これ本当にありがとうございました。わざわざ持って来てくださって」

 わたしも立ち上がって、改めてアルバムのお礼を告げた。

「ああ、それを渡したかったのもあるけど、サチさんに会ってみたかったんだよね。今となってはもう昔からの戦友みたいな気がしちゃって」

 こっちが一方的に知ってただけなんだけどね、と、落ち着きを取り戻したらしい陽子さんは、笑って付け足した。

「リクって、サチさんのこと思い出さなくても十分ベタ惚れだよね。たぶんこの一週間ろくに寝てないんじゃないかな」

「え?」

「早く論文仕上げて会いたかったんでしょ。倒れたのは、風邪というよりも過労だと思うけど」

 わたしが寂しいと言ったからだ。

「そんな顔しないの。私、サチさんのこと応援してるから」

 じゃあね、と手を挙げて、陽子さんは駆け去っていった。その後姿を見送りながら、いつまでも心が迷っていた。


 病室に戻ると、陸は眠っていた。

 先ほど陽子さんが座っていた椅子に腰かけて、その寝顔を眺めた。

 サチ。この唇がそう呼ぶのが好きだった。

 小さい頃、わたしは舌足らずで、サ行の発音が特に苦手だった。自分の名前を言う時にどうしてもシャチになってしまって、同じクラスの男の子にからかわれた。それでお母さんによく文句を言った。どうしてわたしにこんな名前を付けたのかと。

『サチが、絶対、絶対、幸せになりますようにーって、願いを込めて付けたのよ』

 お母さんは決まってそう言った。

 優しさしか存在しないような世界で。

『わたしは幸せじゃない』

 その世界の尊さをまだ知らないわたしだった。

『大丈夫よ』

 いつしか記憶は真っ白な部屋へと移って、泣きじゃくるわたしにお母さんが声をかけている。

『お母さんは、お空に行っても、サチがうんと幸せになれるように見守ってるからね』

 微笑みを浮かべて、わたしの涙を熱い手の平で拭った。

『それからね、サチに大事な人ができたら、サチがその人のこともうんと幸せにできるように』

 祈りを込めるように、わたしの両手を痛いくらいに握った。

 サチ。お母さんが死んだ後、わたしをそう呼んだのは陸だけだった。

 長い間悲しみにとらわれていたわたしは、陸のおかげでお母さんの言葉を思い出すことができた。

 陸はわたしよりもずっと背が高くて、陸を見上げると空が見えた。お母さんが見守ってくれているような気がして、陸の側で見上げる空が大好きになった。晴れ渡る空も、曇り空も、雨の降る空も、夕焼け空も、星が瞬く夜空も、全てが愛おしくなった。

 陸が初めてわたしを好きだと言ってくれた日、優しい雨を落とす晴空を見上げて、この手で陸のことをうんと幸せにすると誓った。

 それは、お母さんとの約束だった。


 不意に陸が小さく呻き声をあげた。

 苦しそうに眉をしかめている。汗をかいているのに気づいて、枕元に置いてあったタオルでそっと拭いていると、彼の目がうっすらと開いた。

「大丈夫ですか?」

 彼の首を拭きながら尋ねる。

「んん」

 唸ったとも返事をしたとも取れる声を出して、タオルを持つわたしの手に触れた。

「あ、すみません、余計なことして。起こしてしまいましたよね」

 手を引っこめようとしたら、強い力で掴まれた。

「キス、して」

 それがいつもの陸なのか、裏側の陸なのか、判別できないまま、覆いかぶさるように唇を重ねた。

 陸がわたしの顎を掴んでさらに引き寄せて、舌をねじこんでくる。

 その強引さに顔を離した。

「あの」

 りっくんと呼ぶにはまだ確証が足りなくて、彼の目を見つめた。

「こないだ、キス、途中だっただろ」

 陸はそう言って、力なく笑った。

「りっくん」

 その身体に抱きついた。

「もう会えないかと思った」

 この間、消えてしまうかもしれないと言っていたから。

「ああ。もう会えねーかもな」

「何でそんな意地悪言うの」

 身を離そうとしたわたしの背中に、陸が手を回してくる。

「意地悪で言ってんじゃねーよ」

 裏側の陸にしては、優しい声だった。

「すげー嫌な感じだ。頭ん中ぐちゃぐちゃで、気持ち悪い……」

 陸の手から力が抜けて、ベッドの上に落ちる。どうしたら良いか分からなくて、彼の頭を撫でた。

「あ、ねえ、陽子さんがアルバム返してくれたよ」

「アルバム……ああ」

「りっくん、よく写真撮ってくれたよね」

 紙袋から適当に冊子を取って、適当なページを開いて見せた。

 それは、わたしの中学の卒業式の時の写真だった。どこに行ったのかと思っていた。

「サチは、自分の写真を保管したりしそうになかったからな。俺が代わりに取っといてやったんだ」

 陸は親指でわたしの顔をなぞった。

 やっぱりこれらのアルバムは、わたしの保護者のつもりで作ってくれていたのだ。執着とかではなくて。

「だからって、陽子さんに預けることなかったのに」

 これのせいで陽子さんに変に気を遣わせてしまった。それが抑止力になっていたと考えると、複雑な気持ちだけど。

「家に置いてたら見ちまってつらかったんだろ。あいつはサチのこと諦めようとしてたからな」

 陸が他人事のように言う。

 陽子さんから聞いた話と違う。

「捨てられちゃうかもしれないから預けてたんじゃなかったの?」

「ああ。さすがにババアも物を捨てたりはしなかったよ。そんなのはただの口実だ」

「でも、だったらいつまでもヨーコさんに預かってもらうわけにはいかないじゃん。どうするつもりだったのかな」

 陸がさっきから他人事みたいに言うから、それに倣って主語を向こうの陸にした。

「それは」

 陸は、写真に触れていた手を力なく落とした。

「サチの結婚相手にやろうとしてた」

「結婚相手?」

 意味が分からなくて訊き返す。

「あいつはサチに手紙を書こうとしてた。自分のことは忘れて、他に良い奴を見つけろって」

 何それ。わたしがそう言い返すよりも早く。

「俺は、そんなの嫌だ」

 絞り出すような声で、陸は言った。

「絶対嫌だ。サチが他の奴と一緒になるなんて」

「りっくん、わたしはーー」

「でも、」

 わたしの言葉を遮って続けた。

「でも、一番嫌なのはあいつだ。俺が消えた後、サチがあいつと暮らすかと思うと反吐が出る。俺と同じ顔と声ってだけで」

 声に涙が混じって、陸は腕で顔を覆った。

「すげー嫌だった。サチがあいつと喋ってんの。サチのことを忘れた奴なのに」

「りっくん……」

「嫌だ。消えたくない。何で俺が消えなきゃいけねーんだよ」

「りっくん。大丈夫、りっくんは消えたりしないよ。だって、こうやって今、わたしと話してるでしょ」

 陸の頭を撫でて言い聞かせた。

 わたしがそう信じたいのだ。

「もう無理だ。分かるんだ。俺が俺じゃないみてーで、今にも意識が飛びそうになる。とにかくあいつは嫌だ。嫌なんだ」

 駄々っ子のように、嫌だを繰り返す陸に。

「分かった」

 はっきりと告げた。

「りっくんが嫌ならもう会わない。だから、安心して」

 宥めるために言ったわけではなくて、本心だった。

 表側の陸には陽子さんがいることを知った。

 わたしと過ごすよりも、陽子さんのような人と生きる方が、きっと彼にとっては幸せだ。わたしと過ごせば、思い出せない負い目を抱えさせてしまう。

「サチは?」

 陸は、腕を顔から外してわたしを見上げた。

 その目に涙が滲んでいる。

「サチはどうなる」

「え?」

 手首を掴まれる。その力が強くて、持っていたアルバム冊子が床に落ちた。

「俺のことをずっと待ってたんだろ。俺が消えたら、サチはどうなるんだ」

 それを聞いて、本当に消えてしまうのかもしれないと思った。この陸はいつも強引で、こんな風にわたしを気遣ったりしなかった。

「いいか、サチ」

 陸は力を振り絞るように枕から頭を浮かせた。真剣な目でわたしを見つめてくる。

「俺のことは忘れろ。あいつのことも忘れるんだ。他の奴を見つけて、幸せになれ」

 その口の端が歪んで、目尻から一筋の涙が伝い落ちた。

 わたしも泣きたかった。そんなことを言わないでほしいと陸に縋りつきたかった。陸を忘れることなんてできるはずがない。陸以外の他の誰かとなんて、幸せになれるわけがない。陸と一緒にいられないなら一生独りで過ごすし、そうしてくれと言われた方がよっぽどマシだった。

「分かった」

 それでも、消えてしまう陸を安心させるために。

「わたしは、大丈夫。りっくんがいなくても、大丈夫だから」

 わたしはうまく笑えているだろうか。十二年前、笑ってくれという陸の頼みに、最後まで応えることができなかった。

 陸が手を伸ばしてわたしの頬に触れる。笑顔が引きつっているのを自覚して、顔を隠すために唇を重ねた。

 陸は、少しの間わたしのキスを受け入れた後、そっと引き離して、今すぐ合鍵を回収するように言った。それで、陸の鞄から革のキーケースを取り出して鍵を外した。それと交換に、一応もらっていた陸の家の鍵を付けた。リングの固さに何度もはじき返されて、指を痛めた。

 何とか鍵を付け替えて顔を上げた時、陸はもう虚ろな表情になっていた。

 行かせたくなくて、彼の手を握りしめた。

「りっくん」

 わずかに陸の手が反応した。

「りっくん、ありがとう」

 どうしても行ってしまうのなら、最後にせめて感謝を。

「わたしね、ずっと幸せだったよ。りっくんと出逢えて良かった。いつも助けてくれてありがとう。目のこと気付いてくれてありがとう。たくさん写真撮ってくれてありがとう。好きって言ってくれてありがとう。守ってくれてありがとう。たくさん思い出をくれてありがとう。ちゃんと戻ってきてくれてありがとう。それだけで十分だよ。心配しないで。わたしはもう大丈夫。大丈夫だから……」

 涙で潰れて、それ以上は言葉にならなかった。

 陸は眠ってしまった。いつまでもこの手を握っていたかったけど、表側の陸がいつ起きるか分からない。彼と目を合わせたら、別れる決意が鈍ってしまうかもしれない。陸と再会してわたしは、自分の弱さを知った。


 陽子さんに返してもらった紙袋を手に、振り切るように病室を出て、曽根さんに電話した。

 彼女は病室の前に迎えに来ると、何かを察したようで、病院のエントランスまで無言で送ってくれた。

 別れ際に、陸のことをよろしくと陽子さんに伝えてほしいと頼んだら、柔らかく微笑んで頷いた。


 エントランスを抜けて見上げた空は、どんよりと曇っていて、そこにもうお母さんはいないようだった。

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