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きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
5/14

二人の陸

「いい天気だね」

 マスクをつけた陸が、空を見上げて言った。秋晴れの空が広がって、十一月の終わりにしては暖かい。

 陸にマスクをつけさせたのはわたしだ。わたしもつけている。医者が風邪を引いては困るから、という口実でマスクを手渡したら、陸は不思議そうにしながらも素直に従ってくれた。

 マスクをすることで、知り合いに気づかれるリスクが減ることを期待した。

 この辺りを歩いたら、知り合いにばったり会う可能性がある。陸が一人で歩くならまだしも、わたしと一緒では、かつてわたしたちが付き合っていた事実が露呈しないとも限らない。

 だから、ただでさえ背が高い陸が少しでも目立たないようにと、マスクをつけさせたのだ。

 

「サチさんが働いてる薬局はここから近いの?」

 駅に向かって歩きながら、陸が訊いてきた。

 わたしたちが昔住んでいた場所は、駅を越えて十分ほど歩いたところにある。

「ええ、まあ」

 濁した。どこの薬局で働いているかは知られたくない。

「サチさんが働いてるところ見てみたいな」

「絶対嫌です」

 あはは、と陸が笑う。

 笑い事ではない。陸に見に来られたりなんかしたら、恥ずかしくて仕事どころではなくなる。

「薬剤師さんって、本当に素晴らしい仕事だよね」

 真顔になって、しみじみと呟いている。

「大げさな」

「大げさじゃないよ。薬剤師さんがいるから、僕たちも安心して薬を処方することができるんだ。いつも感謝してる」

 そんな風に言われると、安易に薬剤師になることを選んだ自分が情けなくなる。

 わたしはただ、陸がどこで暮らしていても仕事を見つけられるようにと、薬剤師の資格を取ったのだ。薬の知識があれば少しは陸の役に立てるかもしれないという思惑もあった。

「お医者さんの方がよっぽど素晴らしい仕事じゃないですか」

 話をすり替えた。

「先生はどうしてお医者さんになろうと思ったんですか?」

 陸は、わたしの前で医者になると宣言した。夕暮れの中でわたしの目が色を取り戻したのを見て、苦しんでいる人を助ける仕事がしたいと言った。今の陸はそのことを覚えているのだろうか。

「仕事に優劣はないよ」

 陸はまずそう返してきた。

「苦しんでいる人を助ける仕事がしたいと思ったんだ。実際はうまくいかないことばかりだけどね」

 わたしの質問に対して、あの時と同じ言葉を口にした。

「何か、きっかけはあったんですか?」

 そう問わずにはいられなかった。陸の記憶の中に、わたしはおぼろげにでも存在しているのかどうか知りたくて。

「うん……」

 陸は曖昧な声を出した。

「情けないんだけど、よく覚えてないんだ。何かきっかけがあったはずなんだけど」

 訊かなければ良かった。

 陸の中に自分がいないことを、改めて突きつけられた気がして、胸が痛くなる。

「まあでも、こんな僕が少しでも苦しんでいる人の心を軽くすることができるのなら、ありがたいことだと思うよ」

 それを聞いて、今度は別の種類の痛みが訪れる。

「こんな僕が、なんて」

 自分を卑下しないでほしい。陸のことが好きでたまらないこの気持ちも、夢を叶えていることを信じて待ち続けたあの日々も、全部否定されたような気になるから。

 並んで歩く陸がわたしの方を見るのが分かった。

「時々、そうやって悲しそうな顔をするね」

 この人は、マスク越しでも目ざとくわたしの感情を読み取ってしまう。

「先生が、好きだから」

 わたしに許された唯一の真実を口にしたら、陸は少しの間、押し黙った。

「好きなら、」

 数歩歩いた後、迷いを含んだ声で陸は言った。

「いつまでも先生とは呼ばないだろうし、こんなに離れて歩かないと思うんだ」

 陸との間には、肩幅くらいの距離が空いている。

「わたしは……」

 りっくんと呼びたい。手を繋いで歩きたい。それができないから必死に抑えているのに。

「ごめん。問い詰めたいわけじゃないんだ」

 陸が立ち止まったから、わたしも少し先で足を止めて振り向いた。

「僕はただ、サチさんのことをもっと知りたくて。ごめんね。ゆっくり知っていけばいいって、頭では分かってるんだけど」

 まっすぐな目で見つめられて、慌てて顔を伏せた。陸への想いが溢れ出しそうになった。

 どうすれば、陸とずっと一緒にいられるだろう。

 陸と過ごした三週間、何度も何度も考えた。

 生理が来たことを隠していたわたしを、陸は許してくれるだろうか。

 隠していたのではなくて、不順で気づけなかったことにしようか。そうすれば騙していたことにならない。その上で、好きだから一緒にいてほしいと頼めば、陸のことを繋ぎとめることができるのではないか。

 そんなことを繰り返し考えていた。


 その時、頬に水滴が当たるのを感じた。陸も雨に気付いたように空を見上げた。

 それはまるで、奇跡のように思えた。


 陸がわたしに初めて好きだと言ってくれた日も、今みたいに晴れた空から雨が降っていた。

 きつねの嫁入りという言葉を、陸が教えてくれた。きつねのお母さんが娘の嫁入りを喜んでいるのかな。わたしが描いたそんな物語を、陸は受け入れてくれた。


 この場所からまた陸と始められる。そう思った。

 空の上でお母さんが応援してくれているのだと信じた。


「先生」

 覚悟を決めて呼びかけた。

 陸は心なしか青ざめているように見えた。

「ごめん、雨が降ってきたからどこかに入ろう」

「え、でも」

 すぐに止みそうな優しい天気雨だというのに。

「濡れたら風邪ひいちゃうし」

「あ、わたし、折り畳みの傘持ってます」

 陸と一緒に天気雨に降られていたくて食い下がったら、陸は苦しそうに顔を歪ませた。

「ごめん、嫌な思い出があって天気雨は苦手なんだ。本当にごめん」


 その悲鳴のような声を聞いた時、わたしの中の全ての音が止まった。

 悲しいも、苦しいも、つらいも、痛いも、何も感じなくなった。

 こうやって心は死んでしまうのだなと思った。


 陸を解放しよう。

 わたしには陸を幸せにできないことが、今、はっきりと分かった。

 わたしは、離れている間も陸に支えられていた。陸が戻ってくると信じることが心の支えだった。陸との思い出が宝物だった。

 でも、陸の中にわたしはいなかったのだ。それどころか、陸はわたしとの思い出を、忘れてしまいたい記憶として封印していたのだ。そうでなければ、わたしたちを結びつけた天気雨を嫌ったりするはずがない。


 勘違いしてはいけない。

 陸が今、わたしのことをもっと知りたいと言ってくれたのは、甘い言葉などではない。

 それは、責任をとるべき相手として。

 あるいは、医者として。わたしの感情を見抜くのは、わたしを治療するべき対象として観察していたからかもしれなかった。


「サチさん?」

 陸が顔を覗きこんでくる。彼と目が合った時、感覚を失った心に痛みが戻ってきた。

「ごめんなさい」

 声が掠れた。優しかったはずの雨が、冷たい雫になって頬を伝い落ちていく。

「わたしはずっと、先生に隠し事をしていました」

 陸のまっすぐな目が、痛くてたまらない。

「ここに、先生との命はありません。とっくに分かっていたのに、隠していました。こんなわたしと一緒にいたって、先生は……」

 手を掴まれて、思わずビクッとした。この陸がわたしに触れるのは初めてだった。

「サチさん、手が冷えてる。一回家に帰ろう」

 そう言って、わたしの手を引いて歩き出した。

 この手の温もりを、この歩幅を覚えている。好きでたまらなかった気持ちは、今も何も変わらない。

 まだ心が苦しくなれる。陸の大きな背中に向かって、離れたくない、離れたくないと、心が声を枯らして叫んでいる。


 部屋に戻って、陸はインスタントコーヒーを淹れてくれた。いつものように、座卓の角を挟んでわたしの斜め横に座る。

「マスク外す?」

 陸はすでに外している。首を横に振ると、「そっか」とだけ言って、無理に外させようとはしてこなかった。

 コーヒーをひと口飲んだ後、陸はゆっくりと口を開いた。

「僕、サチさんを傷つけてしまった?」

 また首を横に振る。

「僕が問い詰めたから?天気雨を苦手だと言ったから?」

 図星を指されて、さらに強く首を横に振った。

「ごめんね」

 謝られて泣きそうになった。

「先生が謝ることなんて何もないです。全部わたしが、わたしだけが悪いんです」

 首を振り続けるわたしの肩に、陸がそっと触れた。

「命がなかったことなら、そうじゃないかと思ってたよ。それなのにそのままにしていた。僕の方こそ申し訳ない。そんなに思い詰めさせていたのなら、もっと早く言えば良かった」

 陸の悔やむような告白に、少なからず驚いた。

 でも、すぐに納得した。わたしが妊娠していないと分かっていながら一緒にいてくれた理由は、一つしか考えられない。

「先生は、お医者さんとしてわたしの傍にいてくれていたんですね」

 由香里が何と言おうと、陸は優しい人だ。でも、そんな優しさなら要らなかった。

「わたしが苦しそうに見えて、助けてくれようとしていたんですね。わたし、そんな先生の優しさに付けこんでーー」

「そうじゃない」

 わたしの肩を掴む手に力を入れて、陸は遮るように否定した。

「そうじゃない。僕は……」

 途中で語気が弱くなる。わたしから手を離して、姿勢を正してひとつ息を吐いた。

「隠し事をしていたのは、僕の方です」

 丁寧語になったことに距離を感じて、それだけのことで胸が苦しくなる。

「僕が医者としてサチさんと接していたなんて、本気で思っているんですか?」

 頷くと、陸は肩を落として目を閉じた。

「好きです、サチさん。好きだから、一緒にいたんです」

 思いがけない言葉に、身体が硬直する。

 そんなはずがないと頭では疑いながら、心がもう信じたがっている。

「病院にいらした時から気になっていました。記憶のない間にあなたを襲ったのだとしても納得するくらい、僕はサチさんに惹かれました」

 正座した自分の膝に目を落としたまま、陸は続けた。

「僕はいろんなことから逃げてきた弱い人間です。肩のことを言われた時、変な話、そんな僕をサチさんが叱りに来てくれたような、そんな気がした。もう逃げないようにしようと思って、それで僕はサチさんに会いにここに来たんです」

 わたしに会いに来た時、陸は本当のことを教えてくれと土下座までした。あの時、わたしは真実を伝えるべきだったのだろうか。

 答えの出ない迷いの中に引きずりこまれかけて、目の前の陸の話に集中することにした。

「サチさんが、こんな僕を好きだと言ってくれて、お腹に子供がいるかもしれないと知って、ありきたりな表現をすれば運命だと思いました。それで僕はいきなり結婚しようと言った」

 顔を上げた陸と目が合った。

「一緒に過ごせば過ごすほど好きになりました。こういう仕事をしていると、患者さんからマイナスの感情が移って、気分が落ちこんでしまうことが多いのですが、サチさんといると癒されました。確かに、サチさんは時々何かに苦しんでいるように見えるから、心配で助けてあげたいと思うけど、それは医者だからではなくて、好きだからです」

 好きだと言うくせに、陸は苦しそうな顔をしている。

「好きになればなるほど、サチさんに本当のことを言い出せなくなりました。こんな自分は受け入れてもらえないと思ったから」

 彼はそこで大きく息を吐いた。わたしが先を促すような目をしていたのか、逃れるように目を伏せた。

「僕は、男性としてのものが機能しません」

 硬い声で、陸はそう打ち明けた。

「そのことを隠したくて、子供ができていなかったことに気づかないふりをしていました」

 でも、あの日はちゃんと……。

 そう思ったわたしの胸の内を読んだように、彼は続けて言った。

「心因性のものだと思います。あなたにそういうことをした時の僕は、いつもの僕ではなかった。それで機能したのでしょう」

 再びゆらりと顔を上げた陸の表情は、見たことがないくらい暗かった。

「サチさん、僕はこのことを隠したまま、あなたと結婚しようとしていたんです。僕の方がよっぽどタチが悪い。だからどうか、自分を責めないでください」

「何かあったのですか?」

 知りたい気持ちが先走って、思わず直球で尋ねてしまった。すぐに、気軽に訊いて良いことではないと思い直す。

「言いにくければ無理には……」

「汚い話ですよ」

 陸はためらうことなく話し始めた。

「僕の苗字はもともと、相馬ではなく関口でした。父が事業に失敗して僕の学費を出せなくなって、父の知り合いの家に養子に出されたのです。相馬さんは開業医で、跡取りを欲しがっていた」

 相槌代わりに小さく頷いた。下手にリアクションを取って、知っていたことをバレたくない。

 陸は不審に思う様子もなく続けた。

「相馬さんは僕に良くしてくれました。おかげで僕は医者になることができた。ただ、相馬さんの奥さんは……、当時もう五十を過ぎていたと思いますが、僕をその、気に入って」

 そこで言い淀むように少し言葉を詰まらせた後、覚悟を決めたように再び口を開いた。

「学費を出してもらえなくなったらと思うと、奥さんに触られるのを拒めませんでした。それどころか、気持ち悪くてたまらないのに、反応してしまって」

 膝の上で握りしめた拳が、小さく震えている。

「そんな自分のことも気持ち悪くて、終わった後は胃の中が空っぽになるまで吐きました。そういうことが数回あった後、僕のものは全く機能しなくなりました。それからずっと不能のままです」

 陸は窓の方に顔を向けた。

「天気雨が降っていたんです。初めてされた時、庭のデッキチェアで、何も考えないようにしようと思って空を見上げていたら、晴れた空から雨が降ってきた。終わった後も、僕の身体に生温かい雨が降り注いでいた。天気雨に降られると、その時のことを思い出してしまって」

 ドン引きしたでしょう。そう呟いてこちらに顔を戻した陸は、意外そうに目を丸くした。

「どうして泣くの?」

 わたしの方に伸ばしかけた手が、触れないまま握られて、彼の膝の上に着地する。

「ごめんなさい」

 嗚咽が漏れて、息が苦しくなる。

「思い出したくない話をさせてごめんなさい」

 悲しい。わたしたちの大切な思い出だった雨が、陸にとって苦しい思い出に変わってしまったことが。

「ごめんなさい」

 悔しい。陸がつらい時に、側にいられなかったことが。

「引かないの?」

 わたしの顔を覗きこむようにして、陸が尋ねてくる。

 首を横に振るわたしに、

「一生このままかもしれないよ?」

と、さらに確認してくる。

「あなたがいれば、わたしは」

 しゃくりあげながら、ようやく言った。

「相馬さんがいれば、他には何も要りません」


 こんな僕、と陸が言うのが嫌だった。

 陸が自信をなくしたのは、不能であることが原因なのかもしれなかった。それなら、わたしがもう陸を卑屈にさせない。そんなことで陸の価値は一ミリも減らないことを、一生かけて思い知らせてあげる。

 相馬陸という人間と、ここから始めよう。

 思い出を共有していなくても、この人のことがこんなにも愛おしいから。陸がわたしのことを思い出さなくても、ここから積み上げていけばいい。

 もしもいつか陸がわたしとの過去を知ったとしても、わたしが守ってあげる。もう二度と陸が一人で苦しんだりしないように。


 陸がわたしの方に手を伸ばしてきた。

 そっとわたしの髪を耳にかけて、マスクの紐を外した。ゆっくりとマスクが外されていく。

「本当に、僕でいいの?」

 丁寧語をやめた陸を、今まで以上に近くに感じる。

「相馬さんじゃなきゃ嫌です」

 涙が伝い落ちるわたしの頬を、陸の手の平が覆う。そこから熱が伝わって、やがて同じ温度になっていく。

「抱きしめてもいい?」

 頷くと、わたしの横に移動した陸が、座ったまま肩に手を回してきた。その抱きしめる強さに、懐かしさを覚えている。

 あの頃も、陸はわたしを遠慮がちに抱きしめたものだった。それが物足りなくて、もっと強くとねだるわたしに、これ以上はサチを壊しちゃいそうだよ、と困った顔をしていた。

 束の間浮かんだそんな追憶を振り払って、彼の背中に手をまわした。

 もう思い出は要らない。陸と一緒にいられれば、それで幸せ。わたしは十分幸せ。


 しばらくそのままでいたけど、鼻が出てきて、陸のシャツを汚さないように身を離した。

「その時の僕も、サチさんを抱きしめた?」

 わたしの腕に触れたまま、陸が問いかけてくる。

 どういう意味か分からなくて、目で訊き返したわたしに、

「僕が覚えていない時の僕も、サチさんを抱きしめた?」

と、陸は言葉を加えて繰り返した。

 頷くと、陸はうなだれた。彼のおでこが、わたしの肩に触れる。

「悔しいな。思い出せないのが」

 思い出さなくても大丈夫だと言いかけて、慌ててその言葉を飲みこんだ。思い出せなくて苦しんでいる人に言っていい言葉ではない。いくらわたしが自分自身にそう言い聞かせているのだとしても。

「その時と同じことをしたら、思い出しやすいはずなんだけど」

 探るように再び背中に手を回してくる。

 その時と同じことーー。

「抱きしめたのは、その……」

 こんなことを言ったら引かれるだろうか。

 言いかけてやめようとしたわたしを、陸が顔を上げて見てくる。

「その、ベッドの、中で……」

 顔が熱くなる。こんなの、そうして欲しいと言っているようなものだ。

 陸は、わたしの手を取って真剣な目をした。

「できないと思うけど、それでもいい?」

 頷いた。あんな痛いこと、もう二度としなくていい。

 ベッドの上に陸と並んで座る。

「わたしが噛んじゃったところ、見てもいいですか?」

 わたしの言葉に、陸はふわりと微笑んだ。

「見たい?大したことないけど」

 そう言って、カーディガンを脱いだ。中のシャツのボタンを途中まで外すと、肩をはだけさせて見せてくれた。

「ごめんなさい」

 ひと目見てすぐに謝った。生々しい歯形が赤黒く刻まれていて、とても痛々しい。

「サチさんが噛んでくれなかったら、僕はサチさんを見つけられなかったかもしれない」

 わたしの髪を撫でて、陸が呟く。

 それを聞いて、台風の日の陸の言葉を思い出した。

『俺に痕を残せ』

 あれは、再び会えるように目印を付けろという意味だったのだろうか。

 その傷痕に口を付けたら、陸がわずかに身を引いた。

「すみません、思わず」

 自分のしようとしたことに驚く。わたし、この傷を舐めようとしていた。

「いや、ちょっとくすぐったかっただけ。もっとして。ていうか、同じように噛んで」

「もう二度と噛みません。せっかく塞がってるのに」

 強く拒んだら、冗談だったのか笑われた。

 陸は残りのボタンを外してシャツを脱いだ。小麦色の肌が露わになる。

「わたしも、……脱ぎます」

 意を決してそう宣言して、セーターを脱いだ。長袖のインナーをめくりあげた時、陸が唾を飲みこむのが聞こえた。それでも、わたしが下着を外すのを黙って見ていた。

 わたしも上半身裸になると、正面から抱きしめられた。

「寒いでしょ」

 耳元で囁いて、ベッドの上に一緒に倒れた。わたしの身体がはみ出ないように、丁寧に布団をかけてくれる。

 陸の温もりに包まれて、夢みたいに心地よい。お互いの呼吸のリズムが揃っていく。このまま眠ったら幸せだなと思いながら、陸の胸の中で目を閉じた。


 まどろみかけた頃、陸の手が動き出すのを感じた。

 わたしの肩を抱いていた手が、ゆっくりと腰の方へ滑り下りていく。わたしを仰向けにすると、陸の体温が離れた。

 目を開けると、わたしの上に跨った陸が、自分のチノパンのベルトを外していた。窮屈だったのかと納得して再び目を閉じる。でも、今度はこちらのジーンズに手をかけてくるのを感じて、再び目を開いた。陸は下着まで脱いでしまっていて、わたしのジーンズを脱がそうとしていた。

「相馬さん?」

 彼らしくない強引さに戸惑って名前を呼んだら、陸はフッと息だけで笑った。

「随分と他人行儀な呼び方するんだな、サチ」

 そのギラギラとした目は、あの日と同じだった。

「何で……」

 それは、台風の日の陸だった。強引にわたしの中に押し入って、わたしが寝ている間に帰ってしまった陸だった。

「や、やめて」

「こんな状態でやめられるかよ」

 見てみろよ、と陸は自分のものを示した。

「嫌だ」

 必死に抵抗したけど、力ではとても敵わず、ジーンズをずり降ろされた。あっという間に足から下着を抜かれる。

 身体を隠す手を掴まれて、どうすることもできずに顔を背けた。

「何だよ、自分から脱いだんじゃねーか」

「だってそれはーー」

 わたしが反論するのも聞かず、陸はわたしの足を開いて覆い被さってきた。すぐに硬いものが触れて、あの時の痛みを思い出す。

「待って」

「待たねえ。どんだけ我慢したと思ってんだよ」

 入れるぞ、と言って、グッとねじこんでくる。

「いたっ。待って。我慢って何のこと?」

 陸の肩を全力で押し戻しながら尋ねる。

「高校生の時だよ。こっちの気も知らねーで抱きついてくるから」

「りっくん我慢なんか。ねえ、痛い」

「まだ痛いんだったら噛んでもいいぞ」

 生々しい傷痕の残る肩を向けられて、抵抗する気を失った。すごく痛いけど、この前のように何も考えられなくなるほどではない。

 早く終われと念じた。早く消えてしまえ、いつもの陸に戻れと。わたしを大事にしてくれる陸が好き。記憶がなくたって構わない。こんな強引な陸は、大嫌いだ。

 ひとしきり前後に動いた後、陸は小さく呻いて動きを止めた。荒い息をつきながら、わたしに体重をかけてくる。

「大丈夫?」

 心配になって声をかけた。身を浮かしてわたしを見た陸は、ギョッとした顔をした。

「そんなに痛かったか?」

 わたしの涙を指でゴシゴシ拭いて、硬さを失ったものをずるりと引き抜いた。

 腹が立った。やるだけやっておいて、今さら心配そうにしたって。

「何で出てきたの?」

「は?」

「早くいつもの相馬さんに戻ってよ」

 この陸は嫌いだ。大嫌いだ。

「せっかくうまくやってたのに、邪魔しないで。さっさとどっか行ってよ」

 陸が身を起こしたから、すぐに離れた。布団で身体を隠す。陸が頭を掻くのにも、過剰に身構えてしまう。

「ひどいこと言うんだな」

 その寂しそうな声に、感情の蓋が緩みそうになった。

「あんな奴が好きか?」

 いつもの陸のことを、この人はまるで別の人間であるかのように表現した。

「あいつは、サチのことを考えるのが耐えられなくなって、逃げたんだぞ」

「逃げた?」

 会話するまいと思うのに、思わず訊き返してしまった。

「ああ。考えるのから逃げて、サチのことを忘れた」

 こっちの陸はわたしのことを覚えているんだな。

 今頃になってそう思った。

「どうしてわたしのことを忘れたの?」

 陸を警戒して布団を握りしめていた手を、少し緩めて尋ねた。

「ババアに犯されて絶望したんだろ。こんな身体でサチに会うわけにはいかねーって」

「何それ」

 そんな理由で、わたしを忘れるほど思い詰めたのだろうか。

「サチが悪いんだぜ?」

 わたしの方に身を乗り出して、頬を掴んでくる。

「サチが抱かせてくれてたら、俺はあんなババアに反応することもなかったのに」

 そう言って、わたしにキスをした。

「あの頃も、わたしとこういうことしたかったの?」

 手を出してこなかったのは陸の方だ。

 あの頃の陸はハグもキスも短くて、わたしはいつも物足りなかった。ベタベタするのが嫌いなのかと思っていた。

「当たり前だろ。我慢しすぎて気が変になりそうだったよ。めちゃくちゃに抱きつぶしてやりたかった」

 陸は、ベッドの上であぐらをかいて、後ろに手をついた。

 ぶら下がっているものを見て、普段はそんな形なんだな、と変なことを考えてしまった。

「最後に会った時、サチを抱くつもりだったんだ。絶好のチャンスだったよな。誰もいなくてさ、おあつらえ向きにベッドも残っててよ」

 卒業式の後に陸がわたしを家に呼んだ時のことだ。わたしはそこで初めて、陸が養子に行くことや、しばらく会えなくなることを聞かされた。

「すれば良かったのに」

 あの時、わたしは陸に子供扱いされていると思って悲しかった。押し倒してくれていたら、いくらかマシだったのに。

「サチが泣いたからヒヨったんだ。意気地がなかったからな、あの頃の俺は」

 陸は、その時の自分のことは、『俺』と表現した。

「寒くないの?」

 布団をめくり上げて、陸のためにスペースを空けた。

「サチが追い出したんだぞ」

 そう言いながらモゾモゾと布団に入ってくる。その身体が冷たくて、温めるために背中に手を回した。


「どうしてそんな風に分かれちゃったの?」

 仰向けになった陸の上で、そう問いかけた。

「俺が二重人格になった理由か?」

 陸はそれをはっきりと言葉にした。

「正確には解離性同一性障害だな。笑えるよな、精神科の医者が」

 首を横に振る。笑えるはずがない。

「いつの間にかあいつに乗っ取られてたんだ。俺はずっと裏側にいた」

 陸の手がわたしの背中からお尻に移動する。

「裏側にいても、外で何が起きてるかは分かってたの?」

 そう尋ねたわたしのお尻を撫でてくる。恥ずかしいけど、嫌じゃない。それどころか、もっと触ってほしいと思ってしまう。

「ああ。意識はずっとあった。けど、何もできなかった。サチに会いに行きたくても指一本動かせなくて、気が狂いそうだった」

 それを聞いてじんわりと胸が熱くなった。

 会いたいと思っていたのは、わたしだけではなかったのだ。

「初めて表に出てこれたのは、ユカちゃんの家に行った時?」

 由香里からわたしの住所を聞き出したのは、こっちの陸だったのだろう。

「ああ。心因性の視覚障害を患っている子供が病院に来てな。サチも子供の頃しばらく色が視えてなかっただろ。それで、サチのことを思い出しそうになって、あいつは無意識に裏側に潜った。その時、俺は久しぶりにこの身体を支配していた」

 陸は、わたしの質問攻めにも、意外と素直に応じてくれた。

「そんで、サチが住んでた家に行った。そしたら違う人が住んでたから、サチが権田の妹と仲良かったのを思い出して、権田の家に行ったんだ」

 陸が由香里に辿り着いてくれて良かった。

「ごめんね。あの家でりっくんを待っていたかったんだけど、おばあちゃんが死んだ時に伯父さんが売っちゃったんだ」

 当時わたしは薬剤師になるための国家試験を間近に控えていた。伯父さんはわたしに試験勉強に専念するように言って、わたしの知らないところで家を売る手続きを進めていた。

「その日は、サチの住所を手に入れたところで時間切れだった。あの女、関係ねえことばかりベラベラ喋りやがって」

「そんな言い方。ユカちゃんのおかげで会えたんだから」

 軽くたしなめる。確かに想像はできるけど。

「それで、台風の日にまた出てこれたんだね。今みたいにちゃんと説明してくれたら良かったのに。何も言わずにいきなり帰っちゃうし、わたしのこと忘れてるし、すごい混乱したんだよ。わたしに引かれると思ったの?」

 いや、と陸は否定した。

「話すつもりだったんだけどな。ヤったら思った以上に疲れて、サチも寝ちまうし、そのまま俺も寝るのはまずいと思ってその日は帰ったんだ」

「しなきゃ良かったじゃん。中途半端に名刺だけ置いてって、最低だよ」

「しょうがねーだろ、我慢できなかったんだから。俺の肩にはサチが噛んだ痕があるし、名刺を残しときゃ十分だと思ったんだ。実際何とかなっただろ」

 何とかなったのかは甚だ疑問だけど、これ以上文句を言っても仕方がないと思ってやめておいた。

「ていうか、意識があったってことは、その後もずっと裏側で見てたの?わたしが嘘つくのも?」

 陸はフハッと吹き出した。

「何だよ、変な女が突然俺の肩を噛んだって。そうじゃなくてもサチの嘘はバレバレなんだからよ」

「最悪」

 恥ずかしすぎる。

「何でそんな嘘ついたんだよ」

 話し方が心なしかゆっくりになっている。

「だって、本当のこと言ったら、りっくんがお医者さんを続けられなくなっちゃうかもって思ったんだもん」

 顔を上げて陸を見ると、目を閉じていた。

「あいつは弱いから……確かに耐えらんねえかもしれねえな。……いや……そしたら簡単に俺と交代するようになったり……」

 言葉が途切れ途切れになっている。

「そしたらりっくんにいっぱい会えるようになる?わたし、ちゃんと本当のこと言った方がいい?治療を受けさせた方がいいの?調べても分かんなくて」

 今にも眠ってしまいそうな陸に、早口で問いかけた。

「どうかな……俺は消えるかも……ただでさえ、あいつは……サチといることで……安定してる……」

「じゃあ、わたしが離れたらいいの?そしたらりっくんは消えないで済む?」

「何だよ……」

 目をうっすらと開いて、陸が力なく笑った。

「どっか行けって……言ったくせに」

「そんなの嘘だよ。ねえ、りっくん。わたし、本当のこと言った方がいいの?」

 先ほどと同じ問いを繰り返した。

 陸はもう答えない。

「りっくん。お願い、寝ないで。もうちょっとここにいて。もっといろんな話しよう」

 懇願しても、陸の目は閉ざされて、半開きの口が少し動くだけだ。

 その唇にキスをした。口の中に舌を入れると、彼の舌がそっと撫でてきた。

 けれど、それっきり、陸は動かなくなった。


 途方もない寂しさが胸に押し寄せた。

 わたしが心置きなくわがままを言えるのは、この陸だけだと気付いた。優しくないけど、わたしのことを一番よく分かっていて、あの宝物のような思い出を共有している人。

 陸がわたしのことを忘れていてもここから積み上げていけば良いと、さっき自分に言い聞かせたばかりなのに、いともたやすく揺らいでしまう。

 この感情を知ってしまったら、もう戻れない。


 やがて陸が目を覚ました。ハッとしたように自分の身体を確認して、わたしの方を見た。

「ごめん、僕、また?」

 その瞳の向こうに、さっきの陸を探してしまう。

「大丈夫?僕、ひどいこと……」

 陸が身を起こそうとするのを、背中に手を回して引き止めた。

「大丈夫だから、もう少しだけ、このままで」

 その体温をいつまでも感じていたかった。裏側からこちらを見ているであろう陸のことも、まるごと抱きしめたかった。

 表側の陸は、黙ってそのままでいてくれた。

 

 いつの間にか眠っていたようだ。

 わたしが目を覚ました時、陸はもうベッドにいなかった。一瞬、またいなくなったかと思ってゾッとしたけど、少し目を上げたら座卓でパソコンに向かっている陸の横顔が見えた。

 昔のことを思い出した。図書館デートをしていた時のことだ。デートといっても、陸が受験勉強をする横で小説を読んだりするだけだったけど、わたしはその時間が大好きだった。

 あの時も、寝落ちしたわたしが目を覚ますと、陸はこうやって真剣に机に向かっていた。


「あ、起きた?」

 身を起こしたら、陸がこちらを向いた。すぐに「ごめん」と謝って顔を背ける。

 今さらわたしの裸を意識しているのらしい。裏側の陸は笑っているだろう。

「服、ここにあるから」

 わたしを見ないようにしながら、そばの座布団を示してきた。わたしの服を畳んで置いてくれている。

「ありがとうございます」

 服を着て、陸の斜め横に座った。

「あ、続けてください。画面は見ないので」

 パソコンを閉じようとしたのを制した。

「相馬さんがお仕事してる姿、見ていたいです」

「そんなの見てもつまんないでしょ」

 昔もこんな会話を何度も繰り広げた。その度に、陸は困ったように勉強の内容を教えてくれたものだった。二学年下のわたしにはさっぱり分からなかったけど、陸の声を聞いているだけで幸せだった。

「僕の患者さんに、お母さんを亡くして、目がよく見えなくなってしまった女の子がいてね」

 陸は何気ない口ぶりで話し始めた。

「目の構造的には問題がないから、心因的なものだろうということで僕のところに来た。心因性の視覚障害は、有効な治療法が確立されていなくて、カウンセリングによる対処がメインになる。その子はもう半年になるけど、なかなか良くならなくてね。大部分が一年以内に自然に治ると言われているとはいえ、半年は子供には長すぎる時間だ。今までやってきたこと以外に、何かできることはないかと思って、論文を読んでいたんだ」

 今していたことを説明してくれたのらしい。

 陸はパソコンを閉じて話を続けた。

「僕は母親を知らないから、母親を亡くすのがどれだけ悲しいことなのか分からない。こんな僕が担当医のままでいいのかとつくづく思うよ」

 陸のお母さんは、陸を産んですぐに亡くなったと、昔聞いたことがある。

「全部理解できなくてもいいんじゃないですか?」

 そう言ったら、陸はパソコンを片付ける手を止めてこちらを見た。

「ただ寄り添って、理解したい、何とかしてあげたいって思ってくれる人がいるだけで、救われることもあるから」

 少なくともわたしは救われた。陸がわたしを、色のない世界から救い出してくれた。

「ありがとう」

 陸はにっこりと笑った。

「サチさんを救ってくれた人がいたんだね」

 それは陸だ。そう言いたい気持ちを抑えた。裏側の陸に伝えたかった。どれだけわたしが感謝しているのかを。

「サチさん、お腹空いてない?」

 パソコンを鞄にしまった陸が、コーヒーを飲み干して訊いてきた。そこで初めて、自分が空腹なのに気付いた。

「あ、もうこんな時間なんですね」

 時計を見上げて驚く。もう十五時すぎだ。朝コーヒーを飲んでから何も口にしていない。

「何か食べに行こっか」

「はい。すみません、わたしが起きるの待っててくれてたんですか?」

「いや。よく寝てたから、僕が無理させちゃったんじゃないかなと思って」

 この陸は、裏側の陸のことを、『僕』と呼んだ。


「お父様とは、連絡を取られてるんですか?」

 自主的にマスクをした陸と歩きながら、さりげなさを装って尋ねた。ずっと訊きたくて訊けずにいた。さっき母親の話が出たから、不自然ではないはずだ。

「ううん。養子に出されてから一度も連絡とってないんだ。相馬さんとはたまにやり取りしているみたいだけど」

「あ、じゃあご健在なんですね」

 ひとまず安心した。

「お会いにならないんですか?」

 陸はお父さんのことが大好きだった。口や態度には絶対に出さなかったけど。

 そして、それは陸のお父さんの方もそうだった。

 二人は本当に似たもの親子だった。

「父は僕のことを認めてないから」

 陸は、感情の伴わない声で淡々と言った。

 どれだけ愛されていたのか、陸は分かっていないのだ。歯がゆい思いで、冷たい風が吹く道を、しばらく黙って歩いた。


 その晩もなかなか寝付けなかった。

 昼に寝すぎたのもあるけど、裏側の陸が消えてしまうかもしれないと思ったら、居てもたってもいられない気持ちだった。

 敷布団の方で陸が寝返りを打つ気配がして、彼もまた眠れていないことを知った。

 無理もない。また記憶が飛んでいて、知らない間にわたしと身体を重ねていたのだ。怖くてたまらないはずだ。

 それなのに、この人はまずわたしを気遣ってくれた。何があったのか問い詰めたりしなかった。

 表側の優しい陸が好きだ。大丈夫だよと言って抱きしめてあげたい。でも、裏側の陸の存在が、わたしをがんじがらめにする。

 眠ることができないまま、寒くて長い夜を過ごした。

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