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きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
4/14

「今日、本当は休みたかったんだって?」

 薬局の事務室で帰り支度をしていると、西田さんに声をかけられた。

 彼女は、同僚の薬剤師の中で一番歳が近いけど、すでに二児の母親だ。

「根岸さんが申し訳ながってたよ。横峯さんとシフト代わってくれないかって大野さんに頼みこまれたけど、どうしても都合がつかなくて断っちゃったって」

「あ、いえ、そんな、こっちこそ申し訳ないです。お騒がせして」

 恐縮した。当初は、今日陸のところに行くつもりだったのだ。

「横峯さん、カレシできたでしょ?」

 西田さんが唐突にそう訊いてきたから戸惑った。

「え、できてないですけど、どうしてですか?」

「えー、そうなの?だって、すごい綺麗になったよね」

「そんなことはないと思いますけど……」

 否定しながら、思い当たった。たるんだ身体を陸に見られたのが恥ずかしくて、このところ食事制限や筋トレをしていた。服装やメイクにも少し気合を入れていたかもしれない。

 陸と生きる未来を思い描いていた。

 その未来は、崩れ去ってしまった。そのことに絶望して、昨日は病院から帰ってきてから、しばらく起き上がれなかった。

 でも、陽が傾いて薄暗くなった部屋の中で、わたしは不意に思い出した。

 ここには陸との命が宿っているかもしれないーー。

 自分はもう独りではないのだ。そう信じると、前向きな気持ちになれた。陸と生きることは叶わなくても、陸を想いながら生きていけると思った。


 薬局を出て、少し離れたドラッグストアで妊娠検査薬を購入した。検査するにはまだ早すぎるけど、気がはやるのを抑えられなかった。

 スーパーで食材を買って帰途についた。強い眠気を感じながらアパートの階段を上がる。三階の廊下に出た時、人が立っているのが見えた。

 それは、スーツ姿の陸だった。

 台風の日のことを思い出してデジャブを覚える。陸は、わたしに気づいて小さく頭を下げたようだった。

「横峯さん」

 その呼び方で、彼が医者として訪ねてきたのだと察した。

「突然押しかけてすみません。昨日お越しいただいた県立総合病院の、相馬です」

 丁寧に名乗ってくる。やっぱりわたしを覚えていないようだ。

 それでも、陸にまた会えたことに喜びを感じている自分がいて、その気持ちを隠すために口角を意識して下げた。

「お電話したのですが、繋がらなくて……」

 陸は恐縮しているようだった。

「あ、すみません、携帯を家に置いて仕事に出てしまったので」

 寝不足が続いて、今朝は意識が朦朧としていた。

「診察代のことですよね。昨日は本当に申し訳ありませんでした。もう一度お伺いしなければと思っていたのですが」

 陸の訪問の目的に思い当たって、鞄から財布を取り出す。でも、陸はそれを否定した。

「診察代は結構です。保険証、お返ししますね」

 言いながら、肩に掛けたビジネスバッグの中をゴソゴソしている。

「わざわざそのために……?」

 怪訝に思った。百歩譲って事務の人が返しに来るのならまだ分かるけど、医者の陸が届けに来るのはおかしい。わたしのことを忘れているのなら、なおさら。

 陸は、少し言いよどむように喉仏を上下させた。

「どうしても、横峯さんにお尋ねしたいことがありまして」

 寒そうに背を丸めている。ずっとここで待っていたのだろうか。

「上がります?」

 口が勝手に動いた。

「これ冷蔵庫に入れなきゃいけないし、良かったら上がってください」

 手に提げた食材を言い訳にした。

 陸は、いえ、とか、でも、とか言って遠慮していたけど、わたしがドアを開けて促すと、

「では、すみません、お邪魔します」

と、頭を下げて従った。


 陸に座布団を勧めた。陸がいつ来ても良いようにと購入したものだ。

 コーヒーを淹れるためにお湯を沸かしながら、どう説明しようかと考えていた。

 陸が訊きたいのはおそらく、自分の肩の怪我のことだろう。冷静になって考えれば、陸の訪問の目的はそれ以外にない。自分の身に何が起きたのか知りたくて、藁にもすがる思いでここまで訪ねてきたのだろう。

 本当のことを伝えるわけにはいかないと思った。

 八年も一緒にいたわたしのことを、自分がすっかり忘れていると知れば、陸はきっとショックを受ける。記憶のない間にわたしとセックスをしたと知れば、きっと苦しませてしまう。

 陸の異常は気がかりだけど、今まで医者を続けてこれたのだ。わたしさえ黙っていれば、陸はこれまで通りの生活を送ることができるはずだ。そう思った。

 だから、肩の噛み跡について、陸が納得するような理由を、寝不足の頭をフル回転させて考え続けていた。


 コーヒーを淹れて持っていくと、正座した陸が恐縮したように頭を下げた。

 座卓の角を挟んで陸の斜め横に座る。

「家の中にまで押しかけて、本当に申し訳ありません」

 そう謝りながら、マグカップで手を温めている。そのマグカップも陸のために購入したものだ。

「かなり待たれましたか?」

 そう尋ねたら、陸は首を横に振った。

「勝手に待たせてもらっていたもので……。日を改めようかとも思ったのですが、保険証を早くお返しした方が良いかと」

 やっぱり背中が少し丸い。かつての陸はとても姿勢が良くて、それが好きだったのに。

「お気遣いいただいてすみません。それで、何かわたしにお訊きになりたいことがあるとか」

 本題を促した。

 陸はコーヒーをひと口飲んで、小さく息をついた。

「こんなことをお尋ねするのは、本当に恥ずかしいのですが……」

 膝の上に手を置いて、わたしの方に向き直った。

「横峯さんは、僕の肩の傷のことをご存じのようでした。恥ずかしい話、僕は身に覚えがなく、その、もし経緯をご存じでしたら、教えていただけないかと……」

 思った通りだ。

 知らない間に肩に噛み傷があって、どれだけ痛くて怖かっただろう。

「あれだけ衝撃的なことがあったら、記憶が飛ぶのも無理ないです」

 わたしは、先ほど考え出した作り話を始めた。

「すぐそこの道で、変な女の人が先生の肩にいきなり噛みついたんです」

 陸のことを先生と呼ぶ時、胸がぎゅっと苦しくなった。

「わたしはそこに偶然居合わせて、思わず悲鳴をあげたらその人は逃げていって。それで先生がわたしに、ありがとう助かったって言って名刺をくださったんです」

 名刺をくれたというのは強引すぎるだろうか。そう思わなくもなかったけど、信じてくれることをひたすら願った。

「その場はそれでお別れしたんですけど、後になって先生のことが心配になってきて。電話だけでは飽き足らずに病院まで押しかけてしまいました。先生が忘れていらっしゃるのなら、そっとしておけば良かったです」


 陸は黙って聞いていた。真剣な眼差しで見つめてくるから、目を逸らしたくなるのを堪えた。

 昔の陸もこんな目をして、わたしの嘘をすぐに見破った。でも、あの頃とは違う。大丈夫、信じてもらえたはずだ。

 陸は、マグカップを手に取って、少し考えこむように目を伏せた後、ゆっくりとコーヒーを啜った。

「あの時も、悲しそうな顔をされていましたね」

 マグカップを置いて、陸はポツリとそんなことを言った。

「病院に来られて、僕があなたのことを思い出せなかった時も、あなたはそんな風に悲しそうな顔をされた」

「そんなことはーー」

 否定しようとしたわたしに、陸は小さく首を横に振った。

「職業柄、そういった感情には敏感になりました。患者さんがつく嘘にも。相手が患者さんであればその嘘に乗るところですが、今は……」

 陸の方こそ、悲しそうな顔をしていた。

「怖くてたまらないんです。記憶の欠落をはっきりと自覚したのは二回目です。三ヶ月ほど前にも、来た覚えがないのに、友人の家の駐車場にいた」

 由香里にわたしの住所を訊いた時のことだろう。やっぱり、わたしのことを覚えている陸の方が異常なのだ。

「そして二週間前も、気づいたらこの近くの路肩に停まっていました。ずぶ濡れで、肩から血が出ていた。自分が遂にとんでもないことをしてしまったのではないかと、恐ろしくて」

 怯えたように肩をすくませる陸に、何かしてあげたいと思うけど、何もできない。下手に言葉をかけたら、ボロを出してしまいそうで。

「こんな状態で医者を続けていてはいけないと分かっていたのに、この三ヶ月間、僕は問題を先送りにしていました。患者さんには自分自身を受け入れろなどと偉そうなことを言っておいて、僕自身はずっと目を逸らしてきたんです。でも、さすがにもうーー」

「大丈夫です」

 陸の口から医者を辞めるという言葉を聞きたくなくて遮った。

「先生が怖がるようなことなんて、何もない。大丈夫です」

 医者でもない自分に判断できるわけがないのは分かっていた。でも、陸に夢を叶え続けてほしかった。これはわたしのエゴかもしれない。不意によぎったそんな考えを、頭の隅へと押しやった。

「教えてください」

 陸が、座布団から降りて床に手をついた。

「お願いします。何があったのか教えてください」

 そう言って、彼は床に頭を沈めた。

「そ、そんなこと」

 土下座をされるという人生で初めての事態に狼狽えた。

 陸を止めようと手を動かした時、そばに置いていたわたしのトートバッグが陸の方に倒れた。その拍子に、先ほどドラッグストアで買った検査薬が滑り出た。

 慌てて引っこめたけど、顔を上げた陸の表情で手遅れだったことを悟った。

「違う。違います」

 変に否定すれば、かえって真実を露呈することになると知りながら、首を横に振るのを止められなかった。

 陸はよろめきながら立ち上がって、わたしから逃げるように玄関の方に後ずさった。

「まさか僕は……、いや、でも、そんなはずは……」

 わたしも立ち上がると、彼はさらにじりじりと後退した。

「ぼ、僕は、あなたを……?」

 わたしが首を横に振り続けているのも目に入らないみたいに。

「僕に襲われたあなたが、抵抗して噛んだ……それなら、服が何ともなかったのにも納得がいく」

「ち、違う」

「本当のことを言ってください。僕を警察に突き出してくれたって構わないから」

「違う、本当に違うんです。わたし、襲われたりなんてしてない」

「だったら何で」

「わたしが、わたしが頼んだんです。したいって」

 行為自体を否定するのを諦めて、主体の否定に切り替えた。

「だったら、この肩は」

「わたしが噛みたくなったから噛んだんです」

「普通に噛んだだけでは、こうはならない」

「本気で抵抗したら噛むだけじゃ済まないです。もっと引っかき傷とか痣とかが残っていなきゃおかしい。それに、無理にされたんだったら先生を家に上げたりしません。そうでしょう?」

 陸は言葉を探すように目を泳がせた。

「わたしがしたいって言ってしたんだから、先生は何も気にすることないんです」

「そういうわけにはいかない」

「本当に大丈夫ですから」

 陸が何かを言いかけたのを遮って、言葉を続けた。

「ごめんなさい。電話したのも病院に行ったのも、先生を責めたりする気は全くなくて、思いっきり噛んじゃったから先生の肩が心配で。ただそれだけだったんです」

 深く頭を下げた。この嘘を陸が見抜かないように祈りながら。


 陸と一緒に生きていきたかった。今も、陸に縋り付いて、全てを話したくなる。でも、そこに陸の幸せがないのなら、何の意味もないのだ。

「その……」

 陸の声に、ゆっくりと顔を上げた。

「もし、その、子供ができていたら、どうされるおつもりですか?」

 わたしたちの間の五歩くらいの距離を縮めないまま、おずおずと尋ねてくる。

「産みます。でも、先生にご迷惑はおかけしません」

「横峯さん……」

 陸は何かを言いかけて、言わないまま目を伏せた。

「どうして僕のことをそんなに庇ってくださるんですか?」

「だって、悪いのはわたしですから。わたしが誘ったんです」

 陸を安心させるためなら、わたしは軽い女にも何にでもなろう。

「すみませんが僕に嘘は……。こんな僕のことなんか庇うことないのに」

 こんな僕のことなんかーー。陸の言葉に胸が痛くなった。昔の陸は自信に溢れていて、そんなことを言うような人ではなかった。それなのに、何が陸を変えてしまったのだろう。

 嘘を封じられて、陸を傷つけたくなくて、わたしに言えるたった一つのことは。

「好きだから」

 これだけは、嘘になりようがない。

 陸は、虚をつかれたように目を見開いた後で、腑に落ちたという顔をした。

「僕のことを昔からご存じでしたか?」

 いきなり核心をついてくるから、動揺して固まった。

「あ、いや、実は僕もこの辺りの出身でして、もしかしたらと思ったのですが」

 そういうことか、と思った。

 陸はよくモテた。陸のことを一方的に知っていて、一方的に好きな女の子がたくさんいた。わたしを、そういう女の子たちの中の一人だと思ったのらしかった。

 ここで頷いておけば、いろいろなことの辻褄が合うのかもしれない。そう思ったけど、どうしても頷くことができなかった。陸にとって自分がその他多数の女の子だったとは、嘘でも受け入れたくなかった。

「いえ。先生にお会いしたのは、あの台風の日が初めてです」

 意地を張ってついたわたしの嘘を、陸がどう解釈したかは分からない。彼は静かな声で、「そうですか」とだけ言った。

 そして、わたしの方に一歩近づいてきた。

「横峯さん」

 陸の改まった声に、「はい」と返事をする。

「もし、横峯さんさえ良ければ、」

 わずかな躊躇いの揺らぎの後で。

「僕と結婚してくれませんか」


 陸からのプロポーズを、何千回、何万回、夢に見たか分からない。それはもっと幸せでロマンチックなものであるはずだった。

 陸が責任を取ろうとしているだけなのは明白だった。そこに愛がないのは分かっていた。

「はい」

 それでも、拒めなかった。

 一緒にいたら、いつかわたしがボロを出して、陸が自分の異常に気づいてしまうかもしれない。そう思うのに、自分の欲望に負けてしまった。

「でも、まずは、結婚を前提に付き合いませんか?」

 わたしがそう提案したのは、ギリギリの自制心からだった。

 もしも子供ができていなかったら、その時は陸を解放してあげよう。そう心に決めた。それは、わたしにとってある種の賭けだった。

「ええ、もちろん横峯さんのタイミングで良いです。お互いをもっとよく知るべきでしょうし。もしも邪魔でなければ、僕をしばらくここに住まわせていただけませんか?」

 陸からの申し出に、何も考えずに飛びつきそうになった。

「わたしは構いませんけど、ここからだと通勤が大変ですよね。電車の接続がうまくいっても、病院まで片道三時間くらいかかるし……」

 一緒に住みたい気持ちと、無理させたくない気持ちとがぶつかって、葛藤しているわたしに、陸は微笑みかけてきた。

「車だと二時間くらいなので大丈夫ですよ」

 毎日往復四時間も運転するのは大変ではないか。そう思ったけど、流されたふりをして、わたしはそれ以上食い下がらなかった。

 

 陸は、三日後の火曜日の晩に来ると言って帰っていった。今度はちゃんと個人携帯の連絡先を教えてくれた。

 これで良かったのだろうか。一人になった部屋で、ぐるぐると迷い続けていた。

 わたしは陸に本当のことを隠し通せるだろうか。陸の罪悪感からの申し出を、固辞するべきだったのではないだろうか。これでは、陸の罪悪感を利用して縛りつけているのと変わらない。そうまでして陸と一緒にいて、わたしは幸せだろうか。陸を幸せにできるだろうか。陸のことを本当に想うなら、もう二度と会わない方が良いのではないかーー。そんなことを、ぐるぐると考えていた。

 しはらくしてわたしは考えるのをやめた。思考を放棄して、目先の利己的な幸せに身をゆだねることにした。


 子供が生まれれば、きっと何とかなる。そんな短絡的な結論をつけて、ふわふわと現実感を失った心地のままトイレに立ったわたしは、そこで夢が終わったことを知った。

 自分の幸せを優先した罰が当たったのだと思った。


***


「明後日のシフトを変わっていただくのって、難しいですよね……?」

 休憩中に杉浦さんにこっそり訊いてみた。

 前に、杉浦さんに頼まれて直前に代わってあげたことがあった。そこまで非常識な頼みではないはずだ。

 明後日は水曜日だ。陸は水曜日が固定休だと言っていたから、わたしも休みを取って陸と最後にデートをしたいと思った。

 お腹に子供がいないと分かった今、陸を縛りつける理由はなくなってしまった。明日の晩に来る陸に、別れを告げなければならない。明後日を逃せば、身勝手なわたしは別れを告げる決心が鈍ってしまいそうで、それでシフトを代わってもらえないかと杉浦さんに訊いてみたのだった。


「ごめんね、明後日は家にいなきゃなんないのよ」

 杉浦さんは申し訳なさそうに眉を下げた。

「リフォーム業者が下見に来るの。今住んでる家ね、もともと旦那の親の家だったからずっと遠慮してたんだけど、義母が亡くなって五年になるし、これから二十年、三十年暮らすって考えたら、やっぱりリフォームしておいた方が後々楽かなって。とりあえず一番不便なキッチンを何とかすることにしたのよ」

 訊いてもいないのに、明後日の予定を話してきた。

「そうだったんですね。キッチンは大事ですもんね」

 落胆を隠して相槌を打つ。

「そうなのよ。収納スペースが上の方にあるから、お鍋とか取り出すのが大変で。シフト変わってあげられなくてごめんね。根岸さんとか西田さんにも聞いてみた?」

 杉浦さんは今日来ている他の薬剤師の名前を出した。

「あ、いえ、大丈夫です。直前に無理を言ってすみませんでした。全然、気にしないでください」

 大きく手を振って、その場を離れた。


 胸がチクチクした。

 いつも旦那さんの愚痴を言っている杉浦さんも、なんだかんだ言って、二十年、三十年、あるいはそれ以上の年月を、旦那さんと過ごすつもりなのだ。そう思ったら、羨ましくてたまらなくなった。


「なんか、杉浦さんに水曜日変われないかって訊かれたんだけど」

 しばらくして根岸さんに話しかけられた。

「あ、すみません、気にしないでください」

「うん。直前に言われてもちょっと難しいよね」

 苦情じみた口調だった。杉浦さんにしつこく頼まれたのかもしれない。いきなり言うなよという呆れも透けて見えた。

「ですよね。すみません」

 謝りながら胸の中にわだかまりを感じた。

 そっちはわたしの知らないところで示し合わせて勤務シフトを調整しているくせに、と思った。直前に言われても難しいのは分かるけど、わたしに土曜日の勤務を押しつけているのだから、もう少し親身になってくれてもいいのに、とモヤモヤした。そもそも、わたしは根岸さんには直接頼んでいない。あんな言い方をされるいわれはないはずだ。

 こんな風にわだかまるくらいなら、陰で行われていることを知らないままでいたかった。みんなが親切にしてくれていたのは、単にわたしを都合よく使うためだったのかもしれない。そう疑い始めたら、もう今まで通りに彼女らと接せる自信がなくなった。


***


「おかえりなさい」

 陸を玄関で出迎えた。

「いつもより早かったですね」

「うん。信号が奇跡的に青ばかりだった。良い匂いしてるね。お腹すいたな」

「すぐにご飯にしますね」

「ありがとう」

 温めていたポトフをお皿に盛っていると、陸が隣に立って弁当箱を洗い始めた。

「わたしがやりますから、座っててください」

 毎日同じことを言っている。

「これくらいしないと申し訳ないよ。今日も大変美味しかったです」

「お粗末さまでした」

「生姜焼きがこんなに美味しいものだとは知らなかった」

「大げさですよ」


 陸と暮らし始めてから三週間近くが経った。いまだに別れを告げることができずに、陸との同棲生活をずるずると続けている。

 陸は、朝は六時すぎに家を出て、夜は九時半ごろ帰ってくる。週に一回は当直もこなす。昔から体力のある人だったけど、こんな生活を続けていたらいつか身体を壊すのではないかと心配になる。

 陸はまだわたしのお腹に子供がいると思っているはずだ。だから無理をして付き合ってくれているのだろう。そこに恋愛感情はない。その証拠に、陸はわたしに指一本触れてこない。

 一人だけの部屋で冷静になると、自分のしていることが虚しくてたまらなくなる。それでも、陸と一緒に晩ご飯を食べている今この瞬間には、この時間が永遠に続けばいいのにと願ってしまう。


「明日って空いてる?」

 ベッドのそばに自分用の布団を敷きながら陸が訊いてきた。

 明日は二人とも休みだ。わたしたちの休みが揃うのは明日が初めてで、どこかに出かけないかとずっと言いたかったけど、切り出せずにいた。疲れているだろう陸に無理させたくなかった。

 だから、陸から持ちかけられて、気持ちが浮き立った。

「はい。何も予定ないです」

 声に嬉しさが滲まないように気を遣った。

「そっか。じゃあ、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど」

 承諾して、詳細を尋ねるべきか迷っていると、陸はさっさと布団の中に入ってしまった。常夜灯を残して電気を消して、わたしもベッドに横になる。


「前にも言ったかな」

 敷布団の上で陸は話を続けた。

「僕もこの辺りで生まれ育ったんだ」

「ええ、そうおっしゃってましたね」

 努めて自然にそう返した。顔が見えないから、だいぶ気が楽だ。

「サチさんもこの辺りの育ち?」

「いえ、わたしは……」

 お母さんを亡くす前に住んでいた町の名前を咄嗟に口にした。本当のことを言って地元トークに発展したりしたら、ボロが出そうだ。

「そうなんだ。ここへはどうして?」

「母方の祖母がこの近くに住んでいたので、何かあった時のために。もう亡くなりましたが」

 事実の入り混じった嘘を繰り出した。

「おばあちゃん孝行だね。じゃあご実家は今もそちらに?」

「いえ、親も亡くしましたので、実家はありません」

「そっか」

 斜め下で陸が寝返りを打つ気配がした。

「サチさんは、一人で頑張ってきたんだね」

 その優しい声に、思わず泣きそうになった。

 陸が戻ってくると信じていたから頑張れたのだ。陸を失ったら、もう何を支えに生きていけばいいのか分からない。いつかこの時間に終わりが来るのが、怖くてたまらない。

「僕は、高校卒業までこの辺で過ごした。父が事業に失敗して、夜逃げ同然でここを離れたんだ」

 陸は身の上話を始めた。

「もう戻れないと思ったら、子供の頃のことを思い出すのがつらくてね。あまり考えないようにしていたら、いつの間にかよく思い出せなくなってしまった」

 必ずわたしのところに戻ってくると陸は言った。それなのに、どうしてもう戻れないと思ってしまったのだろう。

「潜在意識では忘れていないんだと思う。心の奥ではまだこの場所が恋しくて、それで無意識のうちに僕はまた戻ってきたのだろう」

 陸の声は、低く、小さくなっていく。わたしに、寝てもいいよと言うように。

「自分が何をそんなにも恋しく思っていて、何を忘れてしまったのかを、思い出すのが少し怖かった。でも、目を逸らしたままでいたら、いつまでたっても前に進めないから、子供の頃過ごした場所を歩いてみようと思う。サチさんが僕にその勇気をくれた」

 耳を澄まさないと聞き取れないくらいの小さな声になっている。

「だから、ごめんね、サチさんには退屈だと思うけど、明日はそれに付き合ってくれると嬉しい」

 ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど、の詳細を、陸はそう説明した。

 どう返したものかと考えあぐねているうちに、陸は「おやすみ」と呟いて、話を打ちきった。


 しばらく寝付けなかった。

 陸と別れるのが、陸のためだと思っていた。自分の異常に気づいて苦しむくらいなら、気づかない方が幸せだと思っていた。でも、本当にそれが陸にとって良いことなのか、分からなくなった。陸は、思い出して前に進みたがっている。

 それならわたしは、本当のことを打ち明けて、彼が思い出せるように手を尽くすべきなのだろうか。陸と別れなくて良いのだろうか。

 この思考回路が、妥当なものなのか、自分が陸と離れたくないがために都合よく生み出した口実に過ぎないのか、もはや判別できなかった。陸の幸せを願う気持ちと、陸と一緒にいたい願望とが複雑に絡みついて、天井の常夜灯を見つめたまま、いつまでも眠ることができなかった。

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