忘却
目を覚ました時、外は真っ暗になっていた。
窓ガラスがガタガタと音をたてている。頭を持ち上げて時計を見ると、十九時すぎだった。雨風がピークになると言われていた時間だ。そこまでぼんやりと考えて、ガバッと跳ね起きた。
「りっくん?」
ベッドの上にも、部屋のどこにも、陸はいない。
裸のままベッドから降りて、トイレや風呂場を覗いてみたけど、どこにも陸の姿はなくて、洗面所にびちょびちょの自分の服とバスタオルが落ちているだけだった。
夢だったのだろうか。
そう思って、自分の行動を思い返した。台風が近づくなか、ずぶ濡れになって帰ってきた。その時、部屋の前に陸が立っていた、ような気がする。もしかしてそれは夢で、実際は濡れた服を脱ぎ散らかして寝ただけだったのだろうか。
ゾッと鳥肌が立った。夢だとしたら重症だと思った。陸に会いたいあまり、夢と現実の区別も付かなくなったのかと。
でも。
トイレに入った時、引きつれるような鋭い痛みとともに、血の混じったものがどろりと出てきた。
それを見て、心底ホッとした。
夢じゃない。陸は確かに、ここにいた。
改めて陸のいた痕跡を探すと、座卓の上に一枚の名刺を見つけた。散らかりすぎていて気づけなかったのだ。
【医師 相馬 陸】
名刺は県立総合病院のもので、専門は、精神科・心療内科となっていた。
陸が医者になる夢を叶えていたことが嬉しかった。心を診る医者になったのが、いかにも陸らしいと思った。愛おしい気持ちでいっぱいになって、相馬という苗字ごと、陸の名刺を胸に抱きしめた。
他にも陸が何か残していっていないか探した。仕事先だけでなく、プライベートの連絡先も置いて行っていることを期待したのだ。
探しながら、いつしか部屋の掃除を始めていた。陸が次に来た時に恥ずかしくないように。
けれど、風の音が止んで、やがて空が白み始めても、期待したものを見つけることはできなかった。
それでもいい、と自分を納得させた。陸の居場所が分かっただけで十分だと。陸がメモも残さずに帰ってしまったのは、きっと訳があって急いでいたのだと。そう、例えば、急患があったのかもしれない。わたしがぐっすり眠っていたものだから、気を遣って起こさないでくれたのだ。きっとすぐに戻ってくるつもりなのだ。部屋の窓を磨きながら、繰り返しそう自分に言い聞かせていた。
窓の向こうで、ビルの隙間から朝日が登り始めていた。台風が過ぎ去って、晴れた一日が始まろうとしていた。
幸せな日々がやってくると、信じていた。
***
翌日は仕事が休みだったから、一日中部屋で待っていた。でも、夜になっても陸は戻ってこなかった。
わたしからの連絡を待っているのかもしれない。そう思わないでもなかったけど、勤務先の病院に連絡するのには勇気が必要で、やっと電話をかけたのは、一週間近く経った日の晩だった。それも、指を滑らせて間違えてかけてしまったに近かった。
『はい』
電話はツーコールで繋がった。病院名とともに名乗ったその声は、間違いなく陸のものだった。
一応、事前に大学病院のホームページを見て、今日の外来担当医のリストに陸の名前があることは調べていた。でも、診療時間が十七時半までとなっていて、すでに二十時違いから、もう帰ってしまったかもしれないと思っていた。だから、陸が電話に出て、心底ホッとした。
「サチです」
動悸が速くなっているのを気取られないように、努めて落ち着いた声を出した。
『サチさん?』
聞き返された。そんな反応は全く予想していなかったから、面食らった。
『サチさん、診察のご予約でしたか?』
陸が他人行儀にそう尋ねてくる。わたしのことをまるで、患者だと思っているかのように。
何が起きているのかさっぱり分からなかった。でも、それを究明したいという思いよりも、恐怖心が勝った。
「ごめんなさい、間違えました」
それだけ告げて、急いで電話を切った。
頭の中がひどく混乱していた。居ても立ってもいられない思いで、そのまま由香里の番号をタップした。
由香里は、わたしが小学三年生の時に転入してから高校までずっと一緒で、一番仲の良い友達だった。陸とも家族ぐるみの付き合いで、しょっちゅう陸と一緒に家に遊びにいった。由香里のお兄ちゃんが陸と同級生で、同じサッカークラブに所属していたのだ。
もちろん由香里はわたしが陸と付き合っていたことも知っていた。陸がいつまで経っても戻ってこないことを、一緒に心配してくれていた。今の思いを吐き出す相手は、由香里以外に考えられなかった。
由香里はすぐには電話に出なかった。
延々と鳴り続くコール音を聞きながら、ようやく由香里の毎日に思いを巡らせた。
独り身の自分には、赤ちゃんのいる生活がどんなものなのか想像がつかない。金曜日の二十時すぎという時間帯が、とても忙しいものなのか、それとも息抜きをしている頃なのか、見当もつかない。
夕食中である可能性に思い至って切ろうとした時、由香里が電話に出た。
「ごめんね、忙しかった?」
諦め悪くかけ続けてしまったことを申し訳なく思って謝る。
『ううん、今ちょうど旦那が娘をお風呂に入れに行ったとこ。こないだは出産祝いを送ってくれてありがとね。サッちゃんがくれたスタイとかタオル、すごい助かってる。バタバタしててお礼言うのめっちゃ遅くなってごめん。お返しも、必ずするから』
由香里はひと息でそう捲したてた。
子供の頃は比較的おとなしい子だったけど、大学生になった頃から由香里は変わった。彼女のお母さんもよく喋る明るい人だから、似てきたのかもしれない。
「全然、そんなの気にしないで。アイリちゃんは元気?」
由香里の娘の名前を出して尋ねた。
『うん、元気元気。でも保育園が決まるか不安でさー。無理だったら最悪母親を召喚しようかなって思ってるんだけど』
訊いた以上のことを返してくるのも、母親にそっくりだ。
「そうなんだ。仕事に復帰するつもりなんだね」
陸のことを切り出せないまま、相槌を打った。
『そりゃそうだよ。子供は可愛いけど、何ていうか、社会から断絶されてるみたいな気持ちになってさ、こんな毎日耐えらんないよ』
言うほど声から悲痛な響きは感じられない。
「そっか。でもユカちゃんの家って、おばちゃんが通うにはちょっと遠いよね」
『もちろん召喚する場合は住みこみだよ。うちの兄ちゃんさ、まだ実家で母親にご飯作ってもらってるわけ。三十過ぎてんのにありえなくない?いい加減自立するべきだし』
同意を求められたけど、それの何が問題なのか分からなくて適当に濁した。
由香里のお兄ちゃんは美容師だ。練習台になってくれと頼みこまれて、一度ヘアカットをしてもらったことがある。小さい頃から知っている人に髪を切られるのは何だか気恥ずかしかったけど、タダなのが申し訳ないくらい、いい感じにしてくれた。
「そういえば、こないだおばちゃんに会ったよ。薬局に来てて」
少し話を逸らしてみた。
『え?うちの母親、どっか悪いの?』
由香里が途端に声を曇らせる。
「や、違う違う。普通に買い物に来てて。うち、日用品も扱ってるからさ」
『何だ、びっくりした』
すぐに明るい声に戻って、由香里はわたしに話を変える隙を与えずに続けた。
『地元で働いてると知り合いによく会うだろうね。思わぬ秘密とか抱えちゃったり?それはちょっと楽しそう』
ゴシップ好きも母親の影響だろう。
「そんな、秘密抱えたりはないけど、そうだね、知ってる人が来ることはたまにあるよ。声かけるか迷ったりする」
『あー、それね。この人何て名前だったっけ、とかない?』
「ある。ついこないだもあって、今も思い出せてない。中学の時の国語の先生なんだけど、ユカちゃん分かる?」
あまり好きな先生ではなかったから別にいいのだけど、思い出せないと何となく気になる。
『え、小池ちゃんじゃなくて?』
「もう一人の方。女の先生で、ちょっと小柄な……」
『あーはいはい、えっと何だっけ。森崎ね』
「あっ、そうそう、森崎先生。ありがとう、すっきりした」
由香里がすんなり名前を出してきたから、自分の記憶力の衰えに落ちこむ。同じ歳なのに。
『森崎のことなんて久しぶりに思い出したわ。えこひいきするような奴が国語の教師やってんなよって思ってたな。イケメン好きだったよね、あいつ』
由香里が当時を回想するのを聞いて、陸も同じようなことを言っていたのを思い出した。
それは、とても懐かしい記憶だった。
『また名前が思い出せないことがあったらいつでも連絡してよ。電話ありがとう、久しぶりに話せて楽しかった。アイリのお風呂が終わったみたいだからそろそろ』
由香里は早口で話を締めにかかった。
「あ、あのさ」
これだけは伝えようと、慌てて口を挟む。
「ありがとね、りっくんにわたしの住所を伝えてくれて」
本当は話を聞いてほしかったけど、仕方ない。由香里も暇ではないのだ。
『ああ、ごめんね、勝手に。せめて事後報告でもって思ってたんだけど、バタバタしてたもんだから。会えた?』
心なしか興味なさそうだ。早く切りたいからかもしれない。
「うん、先週」
急いでいると思ったから短く答えたのに、
『え?先週?』
と、由香里はなぜか食いついてきた。
「うん、先週。おっきい台風が来たでしょ?あの日。仕事から帰ってきたら、りっくんがうちの前に立ってて」
『待って、その話詳しく聞きたい。一時間後くらいにまたかけ直してもいい?』
了承すると、由香里は慌ただしく電話を切った。
由香里が何に興味を持ったのか分からなくて、少し困惑した。
由香里は変わった。昔はもっと話を聞いてくれたのに、今日の由香里は特に、ひどく一方的だった。
もう子供の頃のように由香里と笑い合うことはないのかもしれない。別々の大学に入学した日から、わたしたちは違う道を歩きだして、由香里はわたしの知らない人と結婚して、子供を産んで、ますます遠くなった。これからもどんどん離れていく一方なのだろう。そう思ったら、途方もなく寂しい気持ちになった。
由香里は、予告通り二十一時すぎに電話をかけてきた。
『さっきは用件も聞かずに一方的に喋っちゃってごめんね』
と、由香里は開口一番謝ってきた。
ほんの少し寂しさが和らいだ気がした。
「ううん、特に用事があったわけじゃないの。ユカちゃんと話したくなって」
『そうなの?何かあった?何でも聞くよ。あたし、サッちゃんはもうとっくにリクくんと幸せにやってるもんだと思ってた。だって、あたしがリクくんにサッちゃんの住所教えたのって結構前だよ。ほら、出産祝い送ってくれたじゃん。あたし、その段ボールに貼ってある伝票見ながらサッちゃんの住所伝えたんだもん』
「え、そうなの?」
お祝いを贈ったのは七月の中旬だったから、三か月前くらい前のことだ。
さっき由香里が食いついたのは、陸がわたしのところにすぐに会いに行っていなかったことに驚いたからだったのだ。
『リクくん、いきなりうちの実家に来たらしくてさ』
少しトーンを落として、由香里は陸から連絡が来た時のことを話し始めた。
『平日だったから、家に兄ちゃんしかいなかったみたいで。母親がいたらもう質問攻めに遭って大変だっただろうね。リクくんのこと大好きだったから』
脱線したことを自覚したのか、『まあそれはいいけど』と話を戻した。
『それでね、あたしの連絡先を兄ちゃんから聞き出して、あたしに電話をかけてきたの。何かめちゃくちゃ急いでて、あたしがいろいろ訊こうとしたの全部スルーで、サチの住所を教えろってそれしか言わなくて。しょうがないから教えてあげたら、すぐ切れちゃって。電話番号とかは要らなかったのかなって不思議だったけど、もう、今すぐにでもサッちゃんのとこに行こうとしてるのかなって。そのくらいの勢いだったからさ』
由香里は一気にそこまで話して、やっと言葉を切った。
「何ですぐに会いに来なかったんだろう」
束の間生まれた空白に、そう呟いた。
忙しかったのだとしても、手紙くらいくれても良かったはずだ。
『まあでも、良かったじゃん。会えたんだったら』
由香里が、軽い調子で宥めてくる。
『リクくんのことずっと待ってたんでしょ。あ、それともサッちゃん、もしかして付き合ってる人いるとか?あたしと話したかったのって、それ?』
その勘違いを否定した。
「ううん、待ってたよ。りっくんに会えて嬉しかった」
『だったら良かったじゃん』
由香里はそう言ってくれたけど、やっぱり何となく興味がなさそうに聞こえる。
『リクくんって今何してんの?』
続けてそう尋ねてきた。
「お医者さんになったみたい」
『ふーん。医者の奥さんって大変そう。いつ結婚すんの?』
随分と気が早い。
「そんな話は全然。りっくん、すぐ帰っちゃったから」
『帰った?どういうこと?一回しか会ってないわけ?喧嘩でもした?』
また食いついてくる。
由香里に話そうか少し迷った。でも、誰かに聞いてほしいという気持ちが抑えられなかった。
「喧嘩はしてないんだけど、全然喋れなかったんだ」
そう前置きをして、台風の日のことを由香里に話した。
『何それ、信じらんない!』
電話の向こうで由香里は叫んだ。子供が起きそうになったのか、すぐに声のトーンを落とす。
『それってヤリ逃げじゃん。ずっと待ってたサッちゃんにそんなことするなんて、最低』
そこまで言われると、陸を庇いたくなった。
「急いでたのかも……。お医者さんって、急患とかあると飛んでいかなきゃいけなかったりするんじゃないかなって」
『それにしてもよ。あ、その名刺に病院の電話番号とか書いてあるんでしょ。電話したらいいじゃん』
話はそれからだ、と言わんばかりだ。
「あ、うん、さっき、ユカちゃんに電話する前にかけてみたんだ」
『そうなの?それで?リクくん出た?』
「出たけど、よく分からなくて。わたしの名前聞いても、初めて話すみたいな感じで、診察の予約かって訊かれて」
先ほどの陸のよそよそしい声を思い出して、また胸が痛くなる。
『はあ?何それ。しらばっくれたってこと?そうだ、あたしのケータイにリクくんの個人携帯の番号残ってるかも……あ、三ヶ月も前の通話履歴なんて残ってなかったわ。それにしてもリクくん最低だね』
由香里は本気で腹を立ててくれているようだ。
「わたしが、ヨくなかったのかも。初めてだったから……」
陸の肩を思いっきり噛んでしまった。あの傷は大丈夫だろうか。
『そんな問題じゃないでしょ。てか、初めてを奪ったんだったらなおさら、責任取れって話だし。病院に突撃してリクくんの社会的信用を剥奪してもいいレベル』
「そ、そんなことしたら駄目だよ。頑張ってお医者さんになったんだから」
由香里がそんなことをするとは思わなかったけど、少し心配になって釘を刺した。
『しないけどさ。てか、そんなことされてもまだ好きなんだね。そりゃそうだよね、ずっと待ってたんだもんね』
怒った声から同情するような声に変わっている。
「うん……。でも何か、りっくんじゃないみたいでちょっと怖かった、かも。りっくんってもっと優しい人だったのに、何かすごく、強引で……」
昔の陸は、わたしが嫌がることを絶対にしなかった。
『そうかな。あたしはチビの時から知ってるけど、リクくんって別に優しくはなかったよね』
由香里は、わたしの言葉をさらりと否定した。
わたしよりもずっと前から、由香里は陸のことを知っていた。わたしの知らない陸を知っているのかと思うと、胸に懐かしい痛みを感じた。
『まあでも、好きな子には優しかったのかもね』
続く由香里の言葉にさらに傷ついた。
昔はわたしのことを好きだったから優しくしてくれていたけど、今は興味がなくなったから優しくなくなった、ということなのだろうか。
『とにかく、一回会いに行きなよ。そんで、ちゃんと決着つけなよ。デキちゃったかも、とかハッタリかましちゃえばいいじゃん』
由香里は、落ちこむわたしの背中を押してくれた。
電話の向こうで赤ちゃんが泣き始めて、それをきっかけに通話を終わらせた。
由香里の言う通りだと思った。
陸ともう一度会って、ちゃんと話すべきだ。さっきはタイミングが悪かったのかもしれないし、そうじゃないにしても、彼の真意が分からないまま、ずるずると残りの人生を過ごすのは嫌だ。
それに、由香里に言われて初めて、陸が避妊をしなかったことに気付いた。前回の生理がいつだったか正確には思い出せないけど、もしかしたらできやすい時だったかもしれない。
もしも、ここに命が生まれているのならーー。
まるで静かな水面に波紋が広がるように、その可能性はわたしの心を動かした。
***
「横峯さん」
調剤業務を終えて事務室に戻ると、薬剤部長の大野さんに声をかけられた。
「ごめん。無理だった」
手を合わせて申し訳なさそうにしてくる。こちらの方が恐縮して頭を下げた。
毎月、月末の五営業日前に、翌月の勤務シフトが出される。今日は十一月分のシフトが決まる日だった。今朝、無理を承知で、来週の土曜日のシフトを外してもらえないかと大野さんに訊いてみたのだった。
シフトの希望を言ったのは初めてだった。
来週の土曜日は、もし休めたら陸に会いに行きたかった。陸が勤務する病院は、ここから電車を乗り継いで三時間以上かかる。確実にかつ自然に会うためには、患者として行くのが一番だと思った。それで病院のホームページで予約状況を見たところ、陸は人気らしくかなり埋まっていて、唯一空きがあったのが来週の土曜日の昼前だったのだ。
でも、シフトの希望を出す期限はとっくに過ぎているし、土曜日の勤務を避けたい人が多い中で、シフトを外してもらうのが難しいだろうことは分かっていた。
うちの薬局は週によってシフトが変動的なのだが、土曜日だけは、独身のわたしと子供がいない杉浦さんがほぼ固定で入っている。大野さんも入れて薬剤師が四人必要なので、もう一人割り振られるが、それが誰になるかは週によってバラバラだ。
だから、無理を承知で言ったのだけど、大野さんはわざわざ他の薬剤師に電話して掛けあってみてくれたのらしかった。
「本当に無理なのかしらね」
大野さんとのやり取りを聞いていた杉浦さんが、怒ったように言った。
「だいたい、おかしくない?来週の土曜日、他の人はみんなバツだったわけ?」
怒りの矛先が自分に向きそうだと思ったのか、大野さんは慌てたように何度も頷いた。
「そうなんだよ。みんなバツでね」
「でも、私と横峯さんと、もう一人は入るわけよね」
「ああ、来週は……西田さんかな」
「西田さんもバツだったらどうしてたのよ。そんなにバツだらけで、どうして毎週都合よく入れる人がいるわけ?」
「それは……」
大野さんが、顔に愛想笑いを貼り付けて困っている。
「あの、わたし、大丈夫ですので」
「私が大丈夫じゃない」
杉浦さんにピシャリと跳ね返された。怖い。
「何となく分かってたけど、こういうことでしょ?私と横峯さん以外の人たちは、前もって土曜日のシフトを示し合わせてる。違う?私と横峯さんは確定っていう前提で。だから毎回一人だけマルなんでしょ」
大野さんは困ったように額を掻いただけで、否定しなかった。
なるほど、と思った。土曜日の残り一枠についてそんなことが行われているとは知らなかった。
「やっぱりそうなのね。陰でそんなことして、私たちに失礼じゃない」
杉浦さんの声が甲高くなっている。
今日その一枠だった渡辺さんが、「お先に失礼します」と小さな声で挨拶して、身を丸めるように事務室を出ていった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「許してやってよ。みんな子供がまだ小さいからさ。ある程度の年齢になるまでは、休日はできるだけ家族で過ごしたいんでしょ」
「それは分かるわよ。私たちに隠れてやってるのが許せないって言ってるの」
杉浦さんの怒りが収まらない。
「まったく、気持ちよく仕事したいものだわ」
「わたしのせいで、すみません」
杉浦さんと大野さんに向けて謝った。こんなに大ごとになるとは思わなかった。
「横峯さんは何も悪くないわよ。横峯さんにだって平等に土曜日を休ませてあげるべきよ」
杉浦さんは、わたしのためにも怒ってくれていたのらしい。
「いつも気にかけてくださってありがとうございます。わたしは本当に大丈夫ですので。嫌な気持ちにさせてしまって申し訳ありませんでした」
感謝は本心だった。杉浦さんはいつもわたしに良くしてくれる。
「もう、嫌ね。何年も一緒に働いてるんだから、そんな他人行儀にしなくたっていいじゃない」
やっと杉浦さんが語気を緩めたから、胸を撫で下ろした。
視界の端で大野さんがため息をつくのが見えて、管理職は大変だなと思った。
***
来週の土曜日に押さえていた予約をキャンセルするために病院の予約ページを開いたら、その前日の金曜日の朝イチに空きが出ていた。慌てて予約を入れる。金曜日は休みだ。
わたしが予約を入れることで、本当に治療を必要としている患者さんの診察の機会を奪ってしまうかもしれない。そう思わなくもなかったけど、他の医者には空きがあるのを見て、罪悪感を濁した。
それにしても、こんなことなら大野さんに余計なことを言わなければ良かった。そのせいで空気を悪くしてしまった。それだけじゃなくて、知らなくていいことを知ってしまった。良い人たちだと思っていた同僚にハブられていたなんて、知りたくなかった。
パンドラの箱を開けてしまったみたいに、胸の中にモヤモヤしたものが広がっていた。
***
金曜日は、夜明け前に家を出て、ほぼ始発の電車で病院に向かった。
前の晩は眠れず、つらつらと由香里の言葉を思い返していた。彼女は陸のことを、優しくなかったと言った。
でも、由香里と話していて思い出したことがあった。陸が森崎先生のことを教師失格だと言った時のことだ。
確か、中学に上がって最初の夏休みだったと思う。森崎先生が国語の宿題に、ジャンル不問で原稿用紙十枚以上の作文を課した。当時小説を書くのにハマっていたわたしは、何十枚にもわたる長い物語を書いて提出した。どんなストーリーだったかも忘れてしまったけど、とても気合を入れて書いたのを覚えている。
しばらくして提出した作文が返ってきた時、最後のページに赤字で森崎先生からのコメントが書かれていた。
――ストーリーもしっかり練られていて、よく書けていました。ただ、最後のハッピーエンドがちょっと無理があったかな。
本当にその通りだったのだろう。おそらく自己満足にあふれた稚拙な出来だったのだろう。今にして思えば、森崎先生はよく最後まで読んでくれたものだ。
でも、当時のわたしはそのコメントにショックを受けた。わたしは主人公の女の子に自分を投影していた。幸せになりたかったのだ。
家までの帰り道、忘れよう、忘れようと思った。わたしが落ちこんでいたらおばあちゃんが心配する。だから、何もなかったことにしよう。そう自分に言い聞かせていた。
それなのに、家に近づくにつれてますます悲しくなってきて、家の前でとうとう涙がこぼれてしまった。
とても家の中に入れなくて、庭のツツジの木にたくさん付いた蝉の抜け殻を、意味もなく集めていた。
『何してるの?』
その時、陸が通りかかった。振り向いたわたしを見て、ギョッとした顔をした。陸の顔を見た途端に、堰を切ったように涙がとめどもなくあふれだした。
『とにかく、ここ暑いから中に入ろう』
陸がわたしの手を取って家を指差したから、抵抗した。持っていた蝉の抜け殻がパラパラと地面に落ちた。
『ダメ。おばあちゃんが心配する』
陸は、しゃがんで抜け殻を拾うと、わたしを見上げた。
『じゃあ、俺んち来る?』
そう訊かれて、涙を拭いて頷いた。陸の家には滅多に入れてもらえなかった。
斜め向かいの陸の家に上がって、お手伝いさんが出してくれたジュースを飲んでいるうちに、だいぶ気分が落ち着いた。
『それで、誰に泣かされた?』
陸に問いかけられて顔を上げたわたしは、テーブルの上に蝉の抜け殻が綺麗に並べられているのに気づいて、思わず吹き出した。
『何それ。気持ち悪い』
『なっ。ひでぇ。俺と蝉に謝れ。サチが集めてんのかと思ったから持ってきたんだぞ』
そんな軽口を叩きながら、抜け殻をティッシュで隠してくれた。
『で、何で泣いてたんだよ』
陸が同じ問いを繰り返した。
わたしが答えるまで訊き続けるだろうと思ったから、黙って森崎先生から返ってきた作文を差し出した。陸は、わたしが何かを言う前にそれを手に取った。
永遠にも感じるくらいの長い時間をかけて、彼はわたしの書いた物語を最後まで読んだ。
そして、わたしに国語の先生の名前を尋ねた。
『森崎先生だけど』
『そうか、森崎だな』
陸はそう確認するように言うと、勢いよく立ち上がった。と思ったら、再び椅子に腰を下ろした。
『森崎って誰?』
そのとぼけたような顔が滑稽で、笑ってしまった。
『何で笑うんだよ』
『だって、何で知らないの?りっくんも習ったことあるでしょ?』
『国語って小池だろ?森崎なんて知らねー……ああ、あいつか』
また立ち上がった。
『どこ行くの?』
『もちろん森崎を殴りに行くんだよ』
『殴るって、女の先生だよ』
『え?あの黒ぶち眼鏡のジジイじゃねーの?』
『違うよ。誰それ』
『女でも関係ねーよ。サチの書いたもんにケチつけやがって』
陸は原稿用紙をわたしに返してくれた。
『すげーな、頭ん中でこんな話作れて。尊敬する』
陸からまっすぐに褒められて、照れくさくなった。
『ハッピーエンドの何が悪いってんだ。こんなこと書くなんて教師失格だろ』
『もういいよ』
『何がいいもんか。サチを泣かせやがって。つーかハッピーエンドに決まってるだろ。サチにはもうハッピーなことしか起こんねーよ』
陸のその言葉で、わたしはもう十分幸せな気持ちになってしまった。嬉し涙が頬を伝って、勘違いした陸が拳を固めるのを止めるのに苦労した。
陸はいつもこんな感じだった。全力でわたしのことを守ろうとしてくれた。あの人の優しさが、わたし限定のものだったはずがないと思った。
一睡もできなかったにもかかわらず、電車の中でまんじりともせずに窓の外を眺めていた。目的地が近づくにつれて、遠くに海が見えてきた。
病院では、まず問診票に記入させられた。受診理由を書く欄があって、『最近眠れない』と書いた。嘘ではない。陸の再訪を期待して、このところ眠りが浅い。
緊張しながら待合室で待っていると、淡いピンク色のナース服を着た若い女性が、わたしの番号を呼んだ。胸のネームプレートに曽根と表記されている。立ち上がったわたしの肩にそっと触れて、「リラックスしてくださいね」と優しく微笑みかけてくれた。彼女の左手薬指に指輪がはまっていることに、ホッとしている自分がいる。
その看護師に案内されて診察室の前まで来た。入口に〈相馬陸〉と印字されたラベルが貼られていて、心臓が大きく跳ねた。
心の準備も間に合わないままに、スライドドアが大きく開けられる。
中の診察室は広くて明るかった。部屋の奥で、白衣を着て椅子に腰掛けている陸が、わたしに微笑みかけてきた。
「こんにちは。横峯幸さんですね」
そう確認するように言った。
わたしを見て、わたしの名前を呼んでいるのに、陸の顔からは何の感情も見えない。微笑んでいるのに、その表情はひどく冷たく感じられる。
「どうぞ、おかけください」
陸が、向かいの椅子に座るように促してくる。診察室の入り口で足をすくませていたわたしは、看護師に誘導されて、恐る恐る中に入った。
「横峯さん、初めましてですよね。相馬です」
目の前に座ったわたしに、陸は自己紹介をした。至近距離で見つめても、彼がしらばっくれているようには見えない。
「横峯さん、もしかしてこのあいだ、お電話くださいましたか?」
その訊き方もごく自然で、やっぱりどうしても陸が芝居をしているとは思えなかった。
「わたしのこと、覚えてないですか?」
意を決してそう尋ねた。
陸の顔に動揺が兆す。そして、記憶を辿るような影が差した。
「すみません、ええと……」
眉を下げて、ヒントを求めるようにこちらを見てくる。
その反応で確信した。本気でわたしのことを覚えていないのだと。何があったのか分からないけど、わたしのことをすっかり忘れてしまっているのだと。
このことを自覚したら陸は苦しむかもしれない。咄嗟にそう思った。自分自身が異常だと知ったら、医者を、とりわけ精神科の医者を、続けることができなくなるかもしれない。
それは嫌だった。陸は医者になるために自分の父親と縁を切って養子に出たのだ。医学部に入るために必死に勉強していたことを知っている。医学部に入った後も、きっと努力し続けたに違いなかった。そうやって陸が手に入れた人生を、壊したくなかった。
「先生に会われたことがあるんですね」
看護師がわたしの後ろで言った。
「どちらでお会いになられたんですか?」
わたしに向けてそう問いかけてくるのを、陸が左手を挙げて制した。その時、一瞬顔をしかめた気がした。
「大丈夫ですか、肩……」
思わずそう尋ねた。あれから二週間近く経つのに、わたしが噛んだところがまだ痛いのかと、心配になったのだ。
陸の目が驚愕に見開かれたのを見て、すぐに自分が失言をしたことに気づいた。わたしのことを忘れてしまっているのなら、あの日の行為についても覚えていないはずで、わたしが肩の怪我を知っていることは、陸にとって恐怖以外の何ものでもないだろう。
「すみません、あの、適当に言っただけです」
椅子から立ち上がって、謝った。
「変なこと言ってすみませんでした。失礼します」
押しつけるように頭を下げて、逃げるように診察室を後にした。
看護師に呼び止められたけど、構わずに走った。病院を出て、誰も追いかけてこないのに駅まで走って、ちょうど来た電車に息を切らして飛び乗った。家の近くまで戻ってきてから、保険証や診察代のことを思い出したけど、とても引き返す気にはなれなかった。
誰もいない部屋に帰り着いて、ベッドの上に倒れこんだ。いろんな感情が入り乱れる中で、悲しみが色濃く心を覆っている。
陸が生きているのかすら分からずに過ごした日々に比べれば、彼が医者になって元気に暮らしていることを知れただけでも良かった。そう、前向きに考えようとするけど、どうしても無理だった。
ずっと寂しかった。
大学卒業間際におばあちゃんが死んだ。父親はいないものと考えてきたから、わたしは天涯孤独になった。
陸がいつかわたしのもとに戻ってくる。そう信じることが、唯一の心の支えだった。独りぼっちのお正月もお盆も、陸のことを想って耐えてきた。陸もどこかでわたしのことを想ってくれていると信じていた。
でも、違った。陸はわたしを忘れていた。台風の日の陸は覚えていたけど、おそらくその日が特別だっただけで、普段は忘れて暮らしているのだろう。
その事実を知るくらいなら、何も知らずに待ち続けていたかった。
陸のことが心配でもあった。
記憶に何かしらの異常をきたしているのは明らかだった。
だけど、陸の生活を壊すのが怖くて、わたしにはどうすることもできない。十二年経った今でも、わたしは陸のために何もしてあげられない。
結局、森崎先生は正しかったのだなと思った。
こんな自分には、ハッピーエンドなど訪れないのだ。
きらきらと輝いていた陸との思い出が、急速に悲しい色を帯びて沈んでいく。それでも、思い出にしがみついたまま、もう浮かび上がれそうになかった。