表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
2/14

追憶

 小学三年生の夏の終わりに、お母さんが癌で死んだ。それでわたしは、母方のおばあちゃんの家に引き取られた。お父さんはお母さんを喪って心を病んでしまったのだと、おばあちゃんは言った。今どこで何をしているのか、生きているのかどうかすら知らない。

 おばあちゃんは優しかった。でも、わたしは心の真ん中にぽっかりと大きな穴が空いてしまったみたいに、寂しさから抜け出すことができずにいた。

 その寂しさに寄り添って、癒してくれたのが陸だった。


 彼との出会いはよく覚えていない。陸はおばあちゃんの家の斜め向かいに住んでいて、わたしよりも二学年上だったけど、いつも一緒にいてくれた。

 陸は、母親を亡くしたショックでわたしの目が色を認識できなくなったことに、唯一気付いてくれた。おばあちゃんを心配させたくなくて、誰にも言わないように頼んだら、その秘密を守ってくれた。色のない世界は、不便という以上に、心細かった。だから、陸がわたしの世界を知ってくれていることに、救われた。


 ある日、陸がわたしに一枚の絵をくれた。

 それは色鉛筆で描かれていて、わたしはそれがどんな色なのか知りたいと強く願った。そう思わせるのが狙いだったのだと後になって聞いた。陸はわたしのために、得意でもないのに絵を描いてくれたのだった。


 その後すぐ、わたしの目は色を取り戻した。

 近所の小高い丘の公園で、陸と夕日を眺めている時だった。空が真っ赤に燃えて、葉の落ちた木々のシルエットを、黒く浮かび上がらせていた。その夕焼けの色を今でも覚えている。それは、息をのむほど美しい光景だった。

 陸は、わたしのために泣いてくれた。夕焼けのチャイムが鳴って、日が暮れて、一番星が現れても、まだ泣いていた。

 そして陸はわたしに、医者になると宣言した。わたしのように苦しんでいる人を、救いたいと言った。

 陸のまっすぐな心に憧れた。彼はずっと、わたしの憧れだった。


 陸に対して抱く感情が、憧れから恋心へと変化したのは、いつからだったのだろう。

 陸を見ると苦しくなるようになった。

 陸はいつの時代も人気者で、女の子に囲まれているのをしょっちゅう見かけた。そんな陸を見ると、胸が締めつけられて、息もできないくらいだった。かといって、陸に話しかけられるのも苦痛だった。どんな顔をして、どんな声を出せば良いのか分からなくて、彼と話し終わった後は決まって落ちこんだ。


 陸に告白されたのは、高校に入って最初のテスト期間中だった。

 学校帰りの電車の中で、わたしは膝の上に生物の教科書を広げたまま眠ってしまった。

『サチ』

 名前を呼ばれて、目を覚ました。

『もうすぐ駅だよ』

 ハッと顔を上げると、わたしの目の前に陸が屈みこんできていた。

『明日、生物のテストなの?』

 陸はそう尋ねたと思うけど、思いがけず陸に遭遇したことや、だらしなく寝ているところを見られてしまったことに動揺して、わたしは勢いよく立ち上がった。膝の上の教科書や鞄が、音を立てて落ちた。

『大丈夫?』

 陸が教科書を拾い集めてくれたのを、礼も言わずに奪い取って、開いたドアを潜り抜けるようにして電車を降りた。一度も振り向けないままホームの階段を駆け降りて、改札を出た。

 心の中は自己嫌悪でいっぱいだった。

 今度こそ陸に嫌われたと思った。どうしてあんなに感じの悪い態度を取ってしまったのかと、自分を責め続けていた。


 家までの十分ほどの距離を、陸を後ろに感じながら歩くのはしんどいなと思いながら駅を出ると、晴れた空から小雨が降っていた。それでも、立ち止まるわけにはいかなくて、早足で歩き続けた。

 すると突然、黒っぽい何かがバサッと降ってきた。すでにいっぱいいっぱいだった私は、キャパオーバーを起こして立ちすくんだ。

『風邪ひくぞ』

 背後で、少しぶっきらぼうな陸の声がした。

 頭に被せられたのは彼のセーターだった。優しい石鹸の匂いがした。

『別に、寒くないし』

 彼の優しさを素直に受け取れずに、さらに自己嫌悪を募らせた。

『寒くなくても濡れるだろ』

『濡れるのくらい、どうってことない』

 意地を張りながらも、わたしはセーターを被ったままでいた。陸からの視線を遮るのに、都合がよかったのだ。

『濡れたら透けるだろ』

『りっくんだってそうじゃん』

『俺はいいんだよ』

 どうして陸は良くてわたしはダメなのか分からなくて、でも追及して面倒くさく思われるのも嫌で、わたしは押し黙った。


『きつねの嫁入りだな』

 束の間落ちた沈黙に、陸がそう呟いた。

『……きつねの嫁入り?』

 初めて聞く言葉をおうむ返しにすると、陸は、晴れた空から雨が降ることだと教えてくれた。

 その言葉の持つ不思議な響きに惹かれた。

『何できつねの嫁入りっていうの?』

 陸は物知りで、訊けば何でも教えてくれた。だから、わたしはいつものように何気なく尋ねた。当然のように何かしらの答えが返ってくるものだと思っていた。

 でも、陸は答えに詰まった。

『確かに、何でだろうな』

 そんな陸を見てみたくなって、わたしはセーターの隙間から彼のことを盗み見た。

 陸は空を見上げていた。それで、わたしも一緒になって空を見上げた。冷たい雨がぽつぽつと顔に当たるのが、心地よかった。


『空の上で、きつねが結婚式してるのかな』

 きつねの嫁入り、という言葉に、小さな物語を描いた。

『娘の晴れ姿が、嬉しい、嬉しいって、きつねのお母さんが泣いてる涙なのかな』

 そんなわたしの荒唐無稽な作り話を、陸は笑うことなく、そうかもな、と受け入れてくれた。

『サチもそういう、何ていうか、願望みたいなの、あるのか?』

 珍しく歯切れが悪い陸のことを見ていると、思いがけず真剣な眼差しにぶつかって、再びセーターで顔を隠した。

『そんなの被ったら暑いだろ』

 セーターを引っ張られて、抵抗した。

『被せたのそっちじゃん』

 陸はすぐに引っ張るのをやめて、そこで少し間が空いた。


『俺、サチのことが好きだ』

 俯いたままのわたしの耳に、そんな言葉が聞こえた。

『だから、嫌なんだ。サチが電車の中であんな風に無防備に寝てたり、雨に濡れて制服を透けさせてたりすんのは』

 顔を上げることができないまま、急に心臓がバクバクと早鐘を打って、顔が火を噴くように熱くなった。

『そんなサチを他の奴に見せたくない。サチは俺にとって、たった一人の、大事な女の子だから』

 それは、ずっと前から、わたしこそが言いたかった言葉だった。

 わたしの方が陸のことを好きだと思った。だから、口よ動け、口よ動け、と何度も念じた。


『……わ、わたしだって、嫌だ』

 やっとの思いで絞り出した声は、我ながら蚊の鳴くような声で、嫌だ、の部分だけが陸の耳に届いたみたいだった。

『そうだよな、嫌だよね、いきなりこんな』

 誤解だと言おうと思って顔を上げると、陸は見たこともないくらい傷ついた顔をしていた。

『ごめんね、勝手だよね、俺。サチが俺のこと鬱陶しがってんの、分かってんのに』

 陸はわたしと目を合わせないまま背中を向けて、勘違いしたまま遠ざかっていこうとした。

『ち、違う』

 緊張で硬直した足がもつれて、つんのめって、陸の背中に抱きつくみたいになった。

『わたしだって、ずっと嫌だった。りっくんが他の女の子と喋ってるのとか、りっくんの前だとうまく喋れなくなる自分とか。勝手なのは、わたしの方だよ』


 陸が何も言わないから不安になった。その背中から手を離すと、彼はゆらりと振り向いた。目が合いそうになって俯こうとしたら、頬を挟んで俯けなくされた。

 陸の顔を正面から直視するのは、久しぶりのことだった。

『それって……』

 陸の喉仏が一回上下して、彼は言葉を続けようとした。

 だけど、自分で言いたくて、わたしが先に言った。

『りっくんのことが、好き』

 一度言葉にしたら何度も言いたくなった。

『ずっと、ずっと、りっくんのことが好きだった。わたしの方が大好きだったの』

 言い終わらないうちに抱きしめられていた。

 頭に引っかかっていた陸のセーターが地面に落ちた。慌てて拾おうとしたけど、彼はわたしを強く抱きしめて、放してくれなかった。

『どうしよう。すげー嬉しい』

 息を多く含んだ声で陸は言った。

 わたしはその時まだ、嬉しいというよりも、夢みたいだと思っていた。


 陸は受験生だったから、二人でどこかに遊びにいったりはできなかった。でも、図書館で一緒に勉強したり、帰り道に星を眺めたりする時間が、奇跡のように幸せだった。


 上級生の女の子たちから陰口を叩かれることが増えたけど、気にならなかった。

 陸はとにかく生徒からも先生からも人気だった。整った顔立ちをしていて、運動神経が良くて、成績も良かった。すらりと背が高くて、いつでも陸は目立っていた。

 その陸に小さい頃からかわいがってもらっていたわたしは、やっかみの対象になりがちだった。地味でつまらないくせに、とよく言われた。それがつらくて陸と距離を置いていた時期もあったけど、陸と付き合い始めてからは、釣り合うように努力しようと思えた。


 わたしはずっと浮かれていたのだろう。陸が苦しんでいることに気付けなかった。

 今思えば、志望大学をはぐらかされた時に、少しはおかしいと疑うべきだったのだ。馬鹿なわたしは、言っても分からないから教えてくれないのだろうと思った。受験シーズンが近づいて、お祈りしたいから入試の日を教えてほしいと頼んでも、気持ちだけで十分だとごまかされた。その時ですら、わたしが祈らなくても余裕なのだろうと解釈した。二月になってから全く会えなくなったのも、忙しいんだなくらいに考えていた。


 卒業式の後、久しぶりに陸から連絡が来た。

 家に来るように言われて、初めて少し変だなと思った。陸は、わたしが暮らすおばあちゃんの家にはしょっちゅう上がりこんでいたくせに、自分の家にはわたしを呼びたがらなかった。


 陸の家の中はガラガラだった。段ボール箱が積み上げられていて、陸たちがどこかに引っ越すのは明白だった。

 陸の後ろを付いていきながら、別れを告げられるのではないかと思い至って、一気に心が冷えた。

『大学、決まったの?』

 沈黙が怖くてそう尋ねたら、陸は振り向いて、小さく頷いた。

『医学部?ここから遠いの?引っ越すの?』

 陸はそれには答えず、サチ、と呼んだ。

 わたしは、嫌々をするように首を横に振った。その先の言葉を恐れた。

『一人暮らしするの?おじさんと一緒に行くの?』

 泣きそうになっていた。陸に抱きしめられて、これが最後なのかなと思ったら、涙が出た。

『ごめんね、不安にさせて』

 サチにはずっと笑顔でいてほしかったんだ、と陸は言った。


 ガランとした陸の部屋で、空っぽの勉強机の椅子を勧められた。クッションも何もついていない木の椅子は、硬くて、冷たかった。

『親父の会社、経営が破綻してたんだ』

 陸は、マットレスだけになったベッドの上に座って、そう切り出した。

 陸のお父さんは実業家で、海産物の流通に関わる仕事をしていた。いつも忙しくしていて、たくさんお金を稼いでいる印象だった。

『親父は会社を畳むことにした。借金が相当あるらしくて、俺を大学に行かせることができなくなった』

 陸は淡々と話した。

 黙って聞こうという気持ちと、先を急かしたくなる気持ちとがぶつかって、わたしはたぶん複雑な表情をしていたのだろう。陸はわたしの顔を見て、優しく微笑んだ。

『大丈夫、大学は行くよ。だけど、親父とは親子の縁を切ることになった。俺は親父の知り合いの家に養子に入って面倒を見てもらう。そういうことになったみたいだ』

 軽い調子で、何てことないみたいに言ったけど、さすがのわたしにも、それが大変なことだと分かった。でも、何から訊いたらよいのか分からなかった。

『じゃあ、関口陸じゃなくなるの?』

 わたしが最初にした質問はそれだった。

『うん。サチを関口幸にしたかったけど』

 陸はそんなことを言った。

 わたしが浮かれてノートに関口幸と書いていたのがバレていたのだろうかと、動揺した。

『関口陸じゃない俺は嫌いになる?』

 そう訊かれて慌ててかぶりを振った。動揺している場合ではなかった。

『そんなわけない。どんなりっくんでも好きだよ』

 いつもは恥ずかしくてなかなか好きだと言えなかった。でも、今を逃してはいけないと直感的に分かっていた。

『ありがとう』

 陸は、こっちにおいでと言うように、手招きして膝を叩いた。確かに小さい頃は陸の膝に座ったこともあったけど、もう子供じゃないしと思って、彼の隣に腰を下ろした。


『俺もサチが好きだよ』

 そう耳元で囁いて、陸はわたしの肩を抱き寄せた。

『好きだし、すごく大事だ。大事だから、しばらく会えない』

 その脈絡が分からなくて、訳を尋ねた。

『親父、かなりあくどいことしてたから、いろんな人の恨みを買ってるらしくてね。変なところからの借金も膨らんでるし、倒産宣言したら何が起きるか分からないって言うんだ。それで、俺もしばらく身を隠すことにした。ほとぼりが冷めるまでサチに会わないし、連絡も取らないことにする。サチに迷惑かけたくないし、サチが俺のせいで危ない目に遭ったりなんかしたら俺、生きてられないから』

 その時やっと、陸が志望大学を教えてくれなかった理由が分かった。入試の日や合格発表の日を聞いてもはぐらかした理由が分かった。言っても仕方がないと思われていたわけではなくて、わたしを守るためだったのだ。


 別れを告げられるのよりも悲しいと思った。陸はいつもわたしのことを守ってくれたのに、わたしは陸に何もしてあげられないのだと思った。お父さんが大変なことになっていて、お父さんと縁を切って養子に行くなんて、きっと不安でいっぱいのはずなのに、わたしの前で平然としている陸に、涙が込みあげた。


『泣かないでよ、サッちゃん』

 わたしの涙に気付いた陸は、わたしをサッちゃんと呼んだ。子ども扱いする時、陸はわたしのことをそう呼んだ。それで、ますます悲しくなった。

『いつ行くの?』

 鼻声で尋ねたら、

『今夜』

と、陸は答えた。

『ごめんね、りっくん』

 陸に謝りながら、涙がぽろぽろとこぼれた。

『わたしが頼りないから、ずっと言えなかったんでしょ』

 手の平でわたしの涙を拭きながら、陸は困った顔をしていた。

『違うよ。俺が勝手だっただけだ。サチの悲しい顔を見たくなかったんだ』

 笑って見送ってほしい、と陸は言った。すぐにまた会えるから、と言った。

『絶対、ぜったい……』

 わたしが立てた震える小指を、陸が掴んだ。

『心配しなくても大丈夫だよ、サチ』

 わたしの頬に、彼の唇が軽く触れた。

『絶対にサチのところに戻ってくるから、待ってて』


 その日、わたしは最後まで、陸に笑顔を見せることができなかった。

 そして、陸の約束を胸に、わたしは十二年間、彼を待ち続けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ