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きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
10/14

真実

「横峯さん、これお願いできない?」

 西田さんが一枚の処方箋を差し出してきた。

 おそらく彼女が扱ったことのない薬が処方されていて、わたしに押し付けようと思ったのだろう。

 これまでのわたしだったら、経験が積めると思って喜んで受け取っていた。でも、今はもうそんな前向きな気持ちになれない。

「すみません、手が離せないので」

 思った以上に無愛想な声が出た。

「えー、つめたーい」

 西田さんは気まずそうに小さく言って、パタパタと事務室の方に駆けていった。大野さんの助けを借りるつもりだろう。

 最近、同僚とギクシャクすることが増えた。少し前までは、ここを恵まれた職場だと思っていた。でも、それはわたしが何も見えていなかったからだった。


 患者さんに服薬指導をしていると、グレーのジャンパーを着た長身の男が薬局に入ってきた。

 その男が一瞬、陸に見えた。ニット帽を目深に被って、眼鏡とマスクで顔がほとんど隠れているけど、背格好と雰囲気が陸に似ていた。

 でも、患者さんから目を逸らすわけにはいかなくて、努めて意識の外に押しやって服薬指導を続けた。患者さんに薬を渡した後、その男の姿を探したけど、もういなくなっていた。


 陸に似た背格好の人を見ると、つい目で追ってしまう。陸がここに現れるはずがないと分かっているのに、心が陸を待っている。

 陸に手紙を出して三週間が経った。わたしは未だに、捨てきれない期待を胸に郵便受けを開けて、落胆と自己嫌悪に陥る日々を過ごしている。

 

「娘にカレシができたみたいでさあ」

 薬局を閉めてレジ清算をしていると、調剤室で大野さんが杉浦さんと喋っているのが聞こえた。

 お金を数えるのに忙しいふりをして、話を振られないように願った。家族の話なんて、わたしには自慢話にしか思えない。

「パパとしたら、やっぱり嫌なもんなの?」

 杉浦さんが尋ねている。

「嫌だよ、そりゃあもちろん」

「どうする?娘さんがカレシを家に連れてきちゃったりしたら。お父さん、とか呼ばれちゃったりして」

「うわ、やめてよ。逃げるよ、俺。ああでも、下手な対応して娘に嫌われたくないしなあ。どうするのが正解なのか……あ、横峯さんはお父さんにカレシを紹介したことある?」

 忙しいアピールは通用せず、大野さんが振ってきた。

 笑って受け流せば良いのだと頭では分かっているのに、どうしても口の端を持ち上げることができない。

「わたしは……」

 親がいないので。そう言いかけた。場を気まずくさせるだけだと分かっていても。

「はい、アウトー。それ、セクハラだからね」

 杉浦さんが遮ってくれた。ホッとした。

「え、いや、そんなつもりじゃなかったんだけどな。ごめんね」

 大野さんはわたしに謝って、逃げるように調剤室を出ていった。

「ねえ、横峯さん」

 残った杉浦さんが、わたしの背中に触れた。

「何かあったのよね」

 優しい声で言って、わたしの顔を覗きこんでくる。

「いえ、何も」

 鬱陶しいと思った。

 心配しているふりをして、本当はゴシップネタが欲しいだけなのではないか。そんな風に疑ってしまう。もう誰のことも信じられないような気持だった。

「私ね、プライベートなことに踏みこむのも踏みこまれるのも大嫌いなの。だからずっと我慢してきたけど、もう限界よ。横峯さんのことが心配なの」

「いえ、ご心配をおかけしてすみませんが……」

「私、勝手に横峯さんの親代わりのつもりでいるのよ」

 え?と思って、杉浦さんの顔を見た。親がいないことを杉浦さんに話したことがあっただろうか。

「横峯さん、言ってたでしょう。ここで働き始めてすぐに一緒に食事に行った時よ。ご両親がいらっしゃらなくて、育ててくださったお婆さまも亡くなられて、でも温かい職場だから何とかやっていけそうですって」

 そういえば、杉浦さんにそんなことを言ったような気もする。働き始めた頃は、おばあちゃんを亡くしたばかりで、天涯孤独になったことが寂しくて仕方がなかったのだ。

「私はね、母とどうしてもうまくいかなくて、子供にも同じ思いをさせるのが嫌で、旦那には結局子供を諦めさせちゃった。でも、子供を持つことに憧れがなかったわけじゃないの。それで、横峯さんのその話を聞いた時、私が親代わりになれないかって……言ってておこがましいわね。でも、そう思ったの。横峯さんのことをずっと、娘みたいに思っていたのよ」

 杉浦さんがそんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。何年も前のわたしの話を心に留めていてくれたなんて、知らなかった。杉浦さんが優しくしてくれるのは、気持ちに余裕があるからだとばかり思っていた。

「だからお願い。私のためだと思って、少しは頼って。何か抱えているんだったら、話くらい聞くから」

 わたしはこれまで一体いくつの優しさを、見向きもせずに通り過ぎてきたのだろう。世界は冷たくて、見ない方が良いことばかりのように思えていた。

「ありがとうございます。でも、何でもないんです」

 杉浦さんの優しさと自分の情けなさに涙が出そうになりながら、頭を下げた。

「横峯さん。おごるから、一緒にごはんに行きましょう」

 杉浦さんは引き下がらなかった。

「でも、旦那さんが……」

「大丈夫よ。大人なんだから二、三日放っといたって死にやしないわ」

 遠慮するわたしの言葉に被せるように言った。

 迷いながら頷いたわたしに、杉浦さんは優しく微笑みかけてくれた。


 年末の近づく夜は冷えこんで、体の芯が温もりを求めて震える。自転車を押す杉浦さんと並んで、色とりどりのイルミネーションが点灯する道をゆっくりと歩いた。

 定食屋さんに入って、サバの煮つけを注文した。久しぶりに温かいものをお腹に入れた気がする。少し食べただけですぐに満腹になってしまって、「ちゃんと食べてなかったんでしょう」と杉浦さんに見抜かれた。

「好きな人がいたんです」

 独り言のように言ったら、杉浦さんは頷いた。

「わたしは彼に嘘をつきました。好きじゃないって。彼がいなくてもわたしは大丈夫だって。そう言った方が、彼が幸せになれると思ったから」

 淡々と打ち明けるつもりだったのに、涙がとめどもなくあふれて、杉浦さんに申し訳ないと思うのに、止められなかった。

「今でもその人のことが好きなのね」

 頷いた。何度も頷いた。

「でも……」

 杉浦さんが、嗚咽で喉が塞がったわたしの隣に来て、背中をさすってくれた。

「でも、わたしには彼のことを、幸せにできない」

 わたしは名前負けしている。お母さんはわたしに、大事な人を幸せにできるよう祈ってくれたのに。

「それはつらいわね」

 杉浦さんが、思いやるように囁いた。

「その人のことを忘れられるの?」

 首を横に振った。

「無理です。忘れろって言われたって、絶対に無理です」

 忘れろと陸に言われたのが、痛くて仕方がない。想い続けることすら許してもらえなかったのが、つらくて仕方がない。

「何か事情があるのだとは思うけど」

 杉浦さんがわたしに新しいお手拭きを差し出して言った。

「自分を傷つける嘘はついちゃいけないと思うのよ」

 お手拭きに顔を埋めながら、心の中を言い訳で埋め尽くした。だって陸がわたしのことを忘れてるから。だって陸には陽子さんがいるから。だって陸に忘れろって言われたから。だってわたしは地味でつまらない人間で、陸とは釣り合わないから。

「それにね、嘘をついたら単純なことまで複雑になっちゃうわよ」

 杉浦さんは続けてそう言った。

 その言葉は、言い訳で作った鎧の隙間をすり抜けて、消化できずに心の中にいつまでも残った。

 

 杉浦さんと別れた帰り道、複雑にならない方法があっただろうかと考えた。

 陸と再会するまでは単純だった。わたしは陸のことが好きで、待っていてほしいと言われたからずっと待っていた。そこに嘘は必要なかった。

 それが、陸と再会して、すっかり複雑になってしまった。どこで絡まってしまったのだろう。

 陸に忘れられていることを知った時、陸の医者としての生活を壊したくなくて、咄嗟に昔からの知り合いであることを隠した。あの時に、隠さずに話して、好きだから一緒に過ごしたいと素直に伝えるべきだったのだろうか。

 それとも、すっぱりと陸のことを諦めるべきだったのだろうか。ずるずると一緒に暮らしたりしたから、複雑になってしまったのだろうか。

 いずれにせよ、陸はすでに自らの記憶の欠落を知ってしまった。病院のベッドでわたしにごめんねと謝った彼は、途方に暮れたような顔をしていた。わたしは今や陸に罪悪感を抱かせる存在だ。

 消えてしまった人格は、わたしに陸を忘れて他の人と幸せになれと言った。わたしは彼に、大丈夫、と答えた。陸がいなくても大丈夫。陸に書いた手紙には、愛していなかったと書いた。陸の医者という肩書きに惹かれただけだと。


 そこまで考えて、気づいた。

 今のわたしの気持ちを一番複雑にさせているのは、その嘘だ。陸に忘れられたことでも、かつて付き合っていたことがバレたことでも、陽子さんの存在でもない。

 再会してから、陸にたくさん嘘をついた。でも、好きだという気持ちだけは偽らなかった。それなのに、最後の最後に、わたしは一番ついてはいけない嘘をついてしまった。

 

 裏側の陸についた嘘は、もう取り消すことができない。彼にはもう二度と会えない。約束を破ることを謝ることができない。

 でも、わたしは陸のことをどうしても忘れられない。わたしとの思い出をすべて失っていても、あの頃から確実に繋がっている陸を、やっぱり愛さずにはいられない。


 ならばわたしは、手紙に書いた嘘をすべて取り消そう。

 複雑にさせたことをクリアにして、陸にこの気持ちを伝えよう。悩ませてしまうだろうけど、受け入れてもらえないかもしれないけど、それでも、今のままではわたしは前に進めない。


 家に帰ったら、陸に手紙を書き直そう。

 前回のように書き殴るのではなくて、今度はちゃんと推敲して、偽りのない言葉を選ぼう。

 そして、陸からの返事を待つ日々を送ろう。待つことには慣れているのだから。


 自宅のアパートに着いて、郵便受けの中を覗いた。

 陸からの手紙が来ていないことを確認して、階段を上った。

 三階の廊下に出た時、グレーのジャンパーを着た男が、わたしの部屋の前に立っているのが見えた。

 三度目のデジャブに、その場に立ちすくむ。男がゆっくりとこちらに歩いてくるけれど、呼ぶべき名前さえ分からない。じりじりと後ずさるわたしの数歩手前で、彼は立ち止まった。

「サチ」

 陸は、わたしをそう呼んだ。

「遅くなってごめん。サチのところに戻ってきたよ」

 頭が全てを理解する前に、足が逃げていた。

「え、ちょ、サチ」

 陸が呼び止めるのも構わず、階段を駆け下りた。

「サチ、危ないって。分かった、追いかけないから、走るな」

 そう言いながら、追いかけてくる足音が聞こえる。陸も嘘つきだ。

 一階まで降りてアパートを飛び出したところで、腕を掴まれた。と思ったら、後ろから強い力で抱きすくめられた。

「離して」

 全力で抵抗しているのにビクともしない。

「もう良い人見つけた?」

 耳元で陸が囁いてくる。全然息が切れていなくてムカつく。

「馬鹿」

「くれた手紙は、本心?」

「馬鹿」

「俺のこと、嫌いになった?」

「大嫌い」

 陸が腕の力を抜いたから、不安になった。

「信じたの?」

 そう尋ねたら、フフッと笑われた。

「サチの嘘は分かりやすいからね」

「やっぱり嫌い」

 陸の腕から抜け出した。

「でも、あの手紙は凹んだよ」

 背後で陸が声を沈ませて言った。腹が立って振り向いた。

「だから、それは嘘だって、訂正の手紙を書こうと思いながら帰ってきたのに、いつもいつも間が悪いんだよ、馬鹿」

 わたしの罵倒に、陸は「そっか」と微笑んだ。

「じゃあ、今聞かせて。昔付き合ってたのは、『お互いの寂しさを埋めるおままごとのような付き合い』だった?」

 そらんじるように確認してくる。

 よく覚えていないけど、手紙にそんなことを書き殴ったかもしれない。

「『十年余りの年月を経て、私も相馬さんのことを忘れておりました』っていうのも嘘?」

 それも書いたような気がする。

「暗記してるの?気持ち悪い」

「『あわよくば玉の輿に乗れれば』なんて思ってたの?『肩書きに惹かれ』ーー」

「嘘だから。りっくんのお父さんの話以外は全部嘘。これで満足?」

 陸は、わたしに向けて腕を開いた。

「抱きしめてもいい?」

「もう抱きしめたじゃん。今さら何言ってんの」

「さっきのは逃げるから捕まえただけだよ。これから抱きしめるのは、ごめんなさいのハグ」

「ごめんなさいのハグってなんーー」

 言い終わる前に抱きしめられていた。

「まだ許可してない」

「ごめん」

「服冷たいし」

「ごめん」

「何でいっつも突然来るわけ?」

「ごめん」

「昔のこと思い出したの?消えちゃうんじゃなかったの?」

「ごめん」

「ごめんじゃなくて説明してよ」

「ごめん」

 ごめんしか言わない陸を引き剥がそうとしたら、彼は口を開いた。

「サチが帰った後、目を覚ましたら、何もかも思い出してた。ごめんね、あの時は混乱してて、サチのことを覚えている人格が消えちゃう気がしてたんだ。ちゃんと覚えてるよ。子供の頃のサチとの思い出も、サチのことを忘れて過ごしてことも、サチに乱暴したことも。ごめんね。ずっと一人にさせてごめん。痛い思いさせてごめん。怖かったよね。傷つけて、悲しい思いさせて、本当にごめん」

「それはいいけど」

「良くないよ。こんなハグひとつで許されることじゃないって分かってる。ちゃんと分かってるから」

 さっきわたしを捕まえたのとはうって変わって抱きしめる力が弱くて、簡単に抜け出せそうだ。

「そんなことより、三週間も何してたの?思い出したんだったら、すぐに連絡くれたら良かったのに」

 わたしがどんな思いで過ごしていたと思っているのだ。

「ごめん。サチに合わせる顔を用意するのに時間がかかって……」

 別に顔を合わせなくても、電話でもメールでも手紙でも良かったじゃないか。そう思ったけど、言っても始まらない。

「で、どんな顔持ってきたの?」

「ん?こんな顔」

 陸の腕の中で見上げると、普段の顔からは想像できない、見たことのない変顔をしていた。

「ふふっ、何それ」

 一度吹き出したら、硬直していたものがいっぺんに溶けていった。軽くなって初めて、自分がどれだけ余計なものを頑なに抱えこんでいたかを知った。

「ありがとう。その顔が見たかったんだ」

 陸の背中に手を回したら、深く抱きしめ返してくれた。

「わたし、りっくんに、会いたくて、会いたくて、たまらなかったの」

 これからは素直な言葉だけを口にしようと心に誓った。

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