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きつねの嫁入り  作者: みずたまりこ
1/14

再会

 年老いた男性が、縮こまりながら調剤薬局に入ってきた。持っている傘から大量の水が滴っている。自動ドアの向こうでは、激しい雨音とともに木々が暴風に身をしならせている。気象予報士によると、大型の台風は当初から描いていた予報円とほぼ同じ軌道でこちらに向かっているらしく、この一帯の雨風は十九時頃にピークになる見込みとのことだ。十五時現在、すでに外は薄暗くなっている。


 処方箋の処理がひと区切りついて事務室に向かうと、中から薬剤部長の大野さんの声が聞こえてきた。

「それじゃあ車で迎えに来てくれるんだ。良い旦那さんじゃないの」

「そんなんじゃないわよ」

 食い気味に答えているのは杉浦さんだ。彼女は旦那さんの悪口を言うのを日課にしている。

「台風来てるから車使わせてって言ったのよ。そしたら旦那が、俺が送り迎えしてやるよって。何なの、やるよって。恩着せがましいこと言って、どうせ自分が車使いたかっただけよ」

 杉浦さんが、いつもの調子で旦那さんをこき下ろす。

「まあまあ。土曜日だからね」

 大野さんが旦那さんのフォローにまわる。歳が近い二人はこんなやり取りばかりしている。


「ああ、横峯さん」

 事務室のドアを開けたら、大野さんがわたしに気付いた。

「横峯さんは歩きだよね」

 大野さんの横の小型テレビが、台風の様子を映している。荒れ狂う黒い海を背景に、雨合羽を着たキャスターが懸命にリポートをする、おなじみの光景だ。

「今日はもう上がってもらったらいいじゃない」

 わたしが答えるより先に杉浦さんが言った。

「この台風じゃ患者さんも来ないだろうし。あ、大野さん車でしょ?ご自慢のレクサスで家まで送ってあげたら」

 そう早口でそう捲したてる。

「ああ、そうだね」

 杉浦さんの言葉に、大野さんが頷いた。

「今日は早めに閉めようかと思っていたんだ。今日はもういいよ。家まで送っていこう」

 わたしに口を挟む隙を与えないまま、あれよあれよという間に話が進んでいく。

「ありがとうございます」

 早退については素直に従うことにした。独身のわたしを気遣ってくれているだけでなく、労災の観点での判断だろう。

「ですが、家まで歩いて十分もかからないので、自力で帰れます。お気遣いありがとうございます」

 送ってもらうのはさすがに遠慮すると、

「中年オヤジの車には乗りたくないって」

と、杉浦さんが返しに困る軽口を叩いて、ケラケラと笑った。


 外に出て傘を広げた途端、突風に強い力で引っ張られた。あっという間に全身がびしょ濡れになる。家までの数百メートルの距離が遥か遠くに感じられる。壊れそうになった傘を閉じながら、大野さんの言葉に甘えれば良かったと後悔しそうになったけど、覚悟を決めて大股で歩き出した。


 わたしは環境に恵まれたと思う。薬学部を出て、薬剤師として今の職場で働き始めてから、もうすぐ五年になる。私と同じように薬剤師になった大学時代の友人は、会えば職場の愚痴ばかりだ。

 調剤薬局で働く薬剤師は、薬局の構造上、狭い空間の中で働くことを余儀なくされる。そのため、人間関係がギスギスしていると、職場が地獄と化すのだという。実際わたしも、実習先の薬局がピリピリしていて、休憩中も気が抜けない経験をしたことがあるだけに、今の環境のありがたさを身に染みて感じている。


 もちろん全てが順風満帆なわけではない。処方した薬に関する説明が患者さんに正しく伝わっていなくてトラブルになりかけたり、処方箋に疑問を感じて医師に問い合わせたらそんなことでいちいち電話してくるなと怒鳴りつけられたり、いろいろと神経がすり減らされる場面はある。

 でも、そんなときはいつも誰かが助けてくれる。わたしが最年少だからというのもあるだろうけど、基本的にみんな優しいのだ。


 他人に優しくできる人間は、自分に余裕があるのだーーそんな穿った考えを持つようになったのは、いつからだろう。

 調剤部長の大野さんは、高校生と中学生の娘を持つ父親で、娘たちの話になるとあらゆる表情筋が緩んでしまう。上の子の志望校の学費が高額で払えるか心配だと話すのは、その子が優秀だという自慢も含まれているように思える。その大学は私立の名門だし、本当に家計が心配ならレクサスの車を買ったりはしないだろう。

 旦那さんの悪口ばかり言っている杉浦さんも、本当は夫婦仲が良好なのだろうと思う。悪口を装いつつも、よく聞くと惚気だったりする。

 要するに彼らは幸せなのだ。だから他人にも優しくなれる。


 かく言うわたしも、特に不自由していることはない。

 けれど時々、寂しさに思考の全てを絡みとられてしまうことがある。彼らが家族の話をするのを聞くのが、たまらなく苦痛に思えることがある。処方箋に記載された医師の名前を見ては落ちこむ日々に、絶望しそうになることがある。彼の夢をみた朝は、今も涙が止まらなくなる。

 独り雨に打たれて帰る今だって、胸が塞がって、ともすれば膝から崩れ落ちてしまいそうだ。


 大丈夫よ、サチ。

 そんな時は、今も鮮明に思い出せるお母さんの声を頭の中で再生して、心の平穏を保とうとする。そうやって自分を大丈夫漬けにする。まるで薬物中毒者のように。


 大丈夫だよ、サチ。

 その声はやがて彼の声になっていく。

 いけない。そう思っても、それを止めることはできない。この麻薬が後で自分をひどく苦しめることになると知りながら、束の間の癒しを求めて、幸せな記憶に浸る。


 絶対に戻ってくるから、待っててーー。


 彼は戻ってこない。

 そう諦めてしまえたら、どれだけ楽だろうと思う。彼がいなくなってから十年以上が経った。待っている間にわたしは歳を取った。二十代ももう終わる。

 彼はどこかで幸せに暮らしているのだと、自分に言い聞かせている。彼が幸せなら、二度と会えなくても構わない。そう、いつも言い聞かせている。


 せめて生きているかだけでも知りたい。

 抑えきれない心の声に、涙がこぼれた。

 彼はもうこの世にいないのかもしれない。

 そう考えると、心の奥が冷えて、目の前が真っ暗になる。

 

 雨が涙を隠すから、タガが外れてしまった。本格的に泣きそうになるのを、さすがに部屋まで我慢しろと押しとどめて、賃貸アパートの中に駆けこんだ。

 雨と涙でぼやける視界の中で、なんとか三階までたどり着くと、廊下に人が立っているのが見えた。

 お隣さんかもしれない。交流はないけど、泣いているのを見られたら恥ずかしい。そう思って、顔を伏せて足早に自分の部屋へ向かおうとした。


 ーーサチ?


 彼の声が聞こえた気がした。

 そんなわけがない。頭でそう否定しながらも、足が竦んだ。そんなわたしのもとに、足音が近づいてくる。黒っぽい靴が目に入った。


「サチだろ」


 今度ははっきりと聞こえた。

 恐る恐る顔を上げながら、心の中にいろんな種類の恐怖が沸き起こった。幻聴だったらどうしよう。今の自分を見て幻滅されたらどうしよう。今頃になって別れを告げに来たのだとしたらどうしよう。

 だけど、彼の顔を見たら、全てが吹き飛んだ。


「りっくん……」


 それは紛れもなく、陸だった。ずっと待ち焦がれた陸が、確かにわたしの前に立っていた。

 陸に聞きたいことがたくさんあった。陸に話したいことがたくさんあった。

 けれど、生きている陸を前にしたら、何ひとつ言葉にならず、わたしは彼の胸に飛びついた。


 陸は抱きしめ返してくれたけど、すぐにわたしの肩を掴んで引き離した。

「とりあえず部屋に上げろよ。サチもびちょびちょじゃねーか」

 見ると陸もずぶ濡れだった。長い間ここで待っていたのかもしれない。頭上に屋根があるとはいえ、この強風では雨が容赦なく降りこんでくる。

「えっと、タオル。タオル持ってくるね」

 鍵を取り出しながら言った。

 部屋に上げるのは何としても阻止したかった。あまりにも散らかっていて、見られたらきっと幻滅されてしまう。せっかく再会できたのに。

「何で。あ、俺のこと警戒してる?」

「そうじゃなくて、あの、すっごい散らかってるから……」

 ドアの鍵を開けようとした時、腕を取って強い力で振り向かされた。冷たい手で顎を掴まれたかと思ったら、いきなりキスをされた。勢いが強すぎて後頭部をドアにぶつける。突然のことに固まっていると、ガチャッと鍵の開く音がした。いつの間にか鍵を奪われていた。

「散らかってるのくらい、どうってことねーよ」

 口を離してそう言った陸は、一瞬知らない人に見えた。彼は、こんな強引なことをする人ではなかった。

「わたしの方がどうってことあるんだけど……」

 反論を試みるわたしの腰を抱き寄せて、陸はドアを引き開けた。


「本当に散らかってんな」

 玄関に乱雑に置かれた資源ごみの山を見て、陸が笑う。

「だから言ったじゃん」

 必要最低限の家事しかしなくなって久しい。自分のためだけに快適な空間を作り出すモチベーションが湧かない。接客業だから、清潔感を保つために埃や臭いには気を付けているけど、それ以外のことは放置だ。台所の調理台はペットボトルで埋め尽くされ、部屋の真ん中にある座卓には書類やら何やらがうず高く積み上げられている。


 呆れて家に上がるのをやめるかと思いきや、陸は靴を脱いでズカズカと中に入っていった。観念してその後を追って電気をつける。ワンルームの部屋がパッと明るくなって、惨状がさらに詳らかになる。

 陸は、部屋の中を見渡して、また声をあげて笑った。

「呆れたでしょ」

 室内に干してあったタオルを取って、陸に手渡す。

「いや。男の気配がなくて安心した」

「男なんて」

 いるわけないでしょ、と言いかけて口ごもった。陸をずっと待っていたのだと言うのは、重いと思われそうで怖かった。


「シャワー借りるぞ」

 そう言って陸が洗面所へ向かう。

「え、いや……」

 風呂場もあまり綺麗じゃないから見られたくない。そう思って引き留めようとした。

「一緒に浴びるか?」

 さらりと訊かれた。冗談なのか分からなくて返しに困る。

「これじゃ二人入るのはキツいか」

 陸が風呂場を覗きこんで呟いている。

 本気だったのかと戸惑いながらも、とりあえず彼が脱ぎ落としたジャケットを拾いあげた。水を吸ってずっしりと重い。干す場所を探していると、

「すぐ出るからサチも脱いどけよ」

と、洗面所の方から声をかけられた。見ると陸は服をすっかり脱いでしまっていて、裸を隠そうともしない。

 突然のことに硬直したわたしをよそに、陸はさっさと風呂場に入っていった。すぐにシャワーの音が聞こえてくる。

 陸が視界から消えたことで緊張の糸が緩んで、ベッドの上に座りこんだ。自分が濡れていることを思い出して、慌てて立ち上がる。


 陸はいったいどういうつもりなのだろう。

 十二年前、確かにわたしたちは付き合っていた。でも、お互いまだ高校生だったし、本当に健全な関係だった。キスをしたことすら数えるほどしかなくて、もちろん陸の裸を見たことなど一度もなかった。

 だけど、裸くらいで取り乱しているわたしの方がおかしいのかもしれない。もうお互いいい大人だ。わたしと離れている間、陸は女の人の家でシャワーを浴びたりしたことがあるのかもしれない。待ち続けていたのはわたしだけで、陸は他の誰かと恋愛したりしていたのかもしれない。

 それでもいい。

 洗面所に脱ぎ散らかされた陸の服を見て、そう思った。わたしが誰とも付き合わなかったのは、陸のせいではない。陸の他に好きになれる人がいなかったからだ。

 陸が生きていて、こうして会いにきてくれただけで十分だ。


 気を取り直して、彼のシャツとスラックスを拾い上げた。これもかなり濡れている。干しに行こうとしていると、ちょうど風呂場の戸が開いた。陸の裸を前に再び固まる。

「それ俺のか?そのままでいい」

 わたしの手から服を取り上げて、ポイっと床に放り捨てた。

「それよりサチも脱げって」

 着ているカーディガンに手をかけてくる。それだけのことで身体が跳ねる。

「だ、大丈夫、自分で着替える。りっくんは身体拭きなよ」

 陸の手から逃れようとしたら、腕を掴まれた。

「着替えるんじゃねーよ」

「わ、分かってる。シャワー浴びればいいんでしょ。着替え取りにいくから、ちょっと離して」

 みっともないくらい声が上ずっている。自分ばかり意識していて馬鹿みたいだと思うけど、どうしようもない。わたしには刺激が強すぎる。

「いいからじっとしてろ」

 シャツとキャミソールを一緒に脱がされた。

「ちょっと」

 何の躊躇いもなくパンツのボタンを外そうとしてくる陸の手を掴む。

「暴れんな。いつまでも濡れた服着てたら風邪ひくだろ」

 その言葉に、抵抗の手を緩めた。そういえば陸は過保護な人だった。

 前にもこんな風に、風邪をひくからと、強引にわたしの頭にセーターを被せてきたことがあった。これも陸にとっては同じことなのかもしれない。あの頃と変わらずにわたしを心配してくれているだけなのだとしたら、変に意識している方が恥ずかしい。

 

 自分で脱ぐと言ったら、陸はやっと手を離して自分の身体を拭き始めた。でも、洗面所から出ていってくれない。

「わたしがここに住んでるって、どうやって知ったの?」

 何かを話していないと気まずくて、パンツを脱ぎながら尋ねた。

 かつてわたしが住んでいた家は、おばあちゃんが亡くなった時に相続の関係で売られてしまった。それで、一キロほど離れたこの賃貸アパートに部屋を借りた。だから、陸が戻ってきた時にわたしを捜せるかが気がかりだった。

「あいつに聞いたんだよ。何つった、あの、権田の妹」

「ああ、ユカちゃん」

 納得した。子供の頃に陸と一緒によく遊びに行っていた由香里の実家は、今も変わらず同じ場所にあって、由香里とは今も連絡を取り合っている。

「ユカちゃん、この春女の子が生まれて。アイリちゃんっていうんだよね。出産祝い送ってから連絡とってないな。元気にしてた?」

 由香里と赤ちゃんに会いに行こうかと思ったけど、幸せいっぱいの友達に会うのに何となく気後れしてしまって、お祝いを送っただけになっていた。

「そういや電話の後ろでギャーギャー泣いてたな」

「泣いてたなって」

「そんなことよりあっち行こうぜ」

 ストッキングを脱いだわたしの腰に手をまわしてくる。

「でも、シャワー……」

「いいよ、俺が温めてやる」

 確かに陸の身体は温かいけど、そんな恥ずかしいことできない。

「変だよ、りっくん」

「何だよ。俺のこともう好きじゃなくなったか」

「そんなわけないじゃん」

「だったら変じゃないだろ」


 ベッドの前まで手を引かれて、二人で腰掛けた。

「あ、りっくんのとこ、さっき座っちゃったから濡れてる……」

 場所を代わろうと思って腰を浮かせたら、肩を掴んで押さえつけられた。

 そのまま、ベッドの上に押し倒された。

「……え?」

 経験がないとはいえ、陸が何をしようとしているのか分かった。いや、経験があればもっと早く気付けたのかもしれない。

「えじゃねーよ。何だと思ってたんだ」

「心配してくれてるんだと」

「それで素直に脱いでたのか」

 こくこくと頷くと、陸は少し口元を緩めた。でも、それは一瞬だけで、すぐにギラギラした目つきになった。

「愛してるよ、サチ。だからいいだろ」

 胸元に口づけを落としてくる。

「良くない」

 胸から陸の顔を引き剥がした。拒否されると思っていなかったのか、陸は意外そうな顔をした。

「何でダメなんだよ」

「もっと話したい」

「後でな」

「それに、お腹とか、たるんでるから恥ずかしい……」

 陸の身体は引き締まっているのに。

「何でだよ。綺麗だよ」

「わたしもう二十八だよ。もうすぐ三十だよ。おばさんだもん」

 フハッと陸が噴きだす。こっちは真剣なのに。

「じゃあ三十過ぎてる俺はジジイかよ」

「男と女じゃ、いい時が全然違うじゃん」

「くだらねーこと言ってんじゃねーよ。サチはサチだろ」

 下着を脱がされそうになって、必死に抵抗する。

「待って」

「まだ何かあんのか」

 陸が焦れているのが分かるけど、言わないわけにはいかない。

「わたし、その、したことなくて……」

 ドン引きされるかと思ったら、陸は口角を持ち上げた。

「俺のために取ってあったのか」

「ていうか、りっくん以外に好きになれる人、いなかったし……」

 惨めな気持ちになる。

 こんなの、二十代前半の子が言えば可愛いけど、三十近い女に言われたって、重たいだけだろう。

「何でそんな泣きそうな顔すんだよ」

「だって、引くでしょ。こんなの、面倒くさいでしょ」

 陸に会えたら無条件で幸せな気持ちになれると信じていた。こんなに苦しくなるなんて思っていなかった。

「馬鹿だな。嬉しいよ。優しくする。優しくするからさ」


 下着を抜き取られるのを、もう止められなかった。陸がこんなわたしを受け入れてくれるというのなら、抵抗する理由が見つからなかった。

 陸のものが押し当てられるのが分かった。多少の痛みは我慢するつもりだったけど。

「い、痛い、痛い、無理ーー」

 たまらず声をあげたら、陸は動きを止めた。

「痛いか」

 何度も頷く。やめてほしい。

「じゃあ、痛い分だけ俺の肩を噛んでいい。首は危ないから肩な」

 そう言って、左肩をわたしの口元に寄せてきた。

「そんなの、噛みちぎっちゃうかもしんないよ」

「いいよ。俺に痕をつけろ」

 陸に痛い思いをさせることには抵抗があったけど、彼に痕をつけるというのには魅力を感じた。痕をつけるのは、陸がわたしのものだと刻みつけることだ。陸ともう二度と離れたくない。

「分かった。じゃあ、噛む」

「ああ。遠慮なく噛め」

 陸は再び彼のものを押し入れ始めた。ゆっくりと、でも容赦のない力で。

 彼の肩に齧りつくと、うめき声とともに一瞬動きが止まった。でも、すぐにまたメリメリと押し進めてくる。口の中に血の味が広がるのが分かったけど、陸が動きを止めない限り、わたしも食いしばるのを止められなかった。


 そのまま、どのくらいの時間が経ったのか分からない。

「サチ」

 陸が不意にわたしの名前を呼んだ。

「全部入った」

 痛すぎて、何がどうなっているのかよく分からなかったけど、陸を受け入れることができたのは、嬉しいと思った。

「動くぞ」

 彼の肩に歯を食いこませたまま、小刻みに頷く。

 陸が前後に動きだした。まだすごく痛いけど、さっきまでよりは少しマシになった。

 陸の荒い息遣いが聞こえて、肩が大変なことになっているのではないかと心配になってきた頃、彼はひとつ大きく息をついて、動きを止めた。


 陸はしばらくの間、わたしに覆いかぶさったままでいた。

 やがて、のそりと腰を引いて、肩に食いこんでいるわたしの歯を引き剥がした。

「血が……」

 噛み痕からダラダラと血があふれ出している。

「いいからじっとしてろ。サチだって血が出てる」

 陸がティッシュを取ってわたしの血を拭いてくれる。引きつれるような鋭い痛みが走った。

「痛かったか」

「うん。でも、りっくんだって」

「こんなもん大したことねーよ」

 肩をティッシュで押さえながら、陸もわたしの横に寝そべる。

「身体冷やすなよ」

 わたしの上に布団をかけてくれた。

「りっくんが温かいから大丈夫」

 そう言ったら、布団の中でギュッと抱きしめてくれた。


 陸がわたしのもとに戻ってきたのだという実感が、ようやく身体じゅうに押し寄せた。

 口の中に残る陸の血の味を舌でなぞった。陸の息遣いが心地よかった。

 本当はもっといろんなことを訊きたかったけど、時間はいくらでもあると思った。今はただ、この心地よい空間に身を任せていたかった。

 やがてわたしは幸せな眠りに落ちていった。


 ーーずっと会いたかった。

 

 そんな囁きと、優しく髪を撫でてくれる手を感じながら。

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