魔女はいない
わたし、頭は良いのできちんとわかっています。これが自分の首を絞めるだけの無益な行動だということを。でも、それじゃあ、言っても無駄だからと、不満や不安を押し殺していれば良かったのでしょうか。それもやはり己を削っていくだけなのに?ねぇ、やっぱり世界って不条理ですね。よくよく知っています。
何かを呪いたくなった時ってある?わたしはあります。別に大した話じゃないんですよ?何か行動に移したわけではないもの。ただ、いなくなってほしいと願っただけ。あちらがいなくなるのでも、こちらがいなくなるのでも、どちらでもよかった。同じ場所にいたくなかった。それだけ。
何も起こりませんでしたよ、ええ。たまたま、タイミングがかちあっただけです。それで良かったんです。
わたし、何故だか頑是ない子供みたいに思われているようですね。子供の癇癪だって。違うんですよ?わたし、論理的に思考してこうしているんですから。べつに、寂しいとか、夜の闇が不安だとか、そういうのじゃないんです。だって…朝も夜もなく、隣の人が恐ろしい声で叫ぶんだもの。お願いします、お願いします、って。たまに変な臭いがしたりとかもして。それがわたし、とても、精神的にストレスで、参ってしまって。
あなたはあんな声で何度も叫ばれても恐ろしく思わないの?そう…。
わたし、子供じゃなくて猫なんです。だから、こわいものから隠れるし、狭いところで丸くなるの。あすこから出てきたのだって、あの人がどうとかじゃなくて、こわいものがいなくなったのがわかったからよ。こわいものがいなければ、隠れる必要はないでしょう。別にわたしだって、あすこの居心地が良くて好きというわけではないもの。あすこは、こわいものからわたしが見えなくなるから、それだけ。
人が飲まず食わずでいられるのは、大体三日くらいって聞いた気がするの。水だけだと一週間くらいだったかしら。お水は大事よ。人のからだの大部分は水でできているもの。わたしがものを食べないと困るのはわたしよ。だって死んじゃうもの。お水もそう。ちゃんと知ってるわ。ずっとものを食べないとどうなるか、水を飲まないとどうなるか。でも、それくらい恐ろしかったの、あれが。
おなかが空になって、ぐうぐう鳴っても、ちょっと気持ちわるくなっても、ずっとじっとしていれば大丈夫なの。ちょっと頭が動かなくなるけど。お水を飲まないと頭が痛くなってくるけど。じっとしていれば、耐えられるの。
あの人、大きな、怖い声、たとえ話だと思ったのかしら。わたし、そのまま感じたことを言っただけよ。おそろしい声だったの。眠っていても目が覚めてしまうくらいに。聞くたびに、からだが震えて、縮こまってしまうくらいに。
おそろしいものには気付かれたくないでしょう?だから隠れたの。それだけのことよ。
祈ったって、呪ったって、何にもなりはしないわ。神さまはこんなちっぽけなお願いなんて気が付きはしないもの。でも、そういうのって理屈じゃないでしょ?叶うから、叶ってほしいから祈るんじゃなくて、祈りたいから、祈るくらいしかできないから祈るの。祈っている、自分のため。それが悪いとは、わたしは思わないわ。建設的ではないけれど。
こわいものがいなくなっても、また別のこわいものが現れるの。わたし、とっても臆病なのかもね。でもそれって、理屈で決めることではないでしょう?こわいものはこわいわ。でも、わたし、こわいものに立ち向かえるような力はないの。だから余計にこわいのかも。
わたし、悪いことをしたのかしら?…ううん、わたしは何もしていないの。何もしなかった。全部偶然。だって本当に何もしていないもの。わたしは、こわいものから隠れて、こわいものがいなくなりますように、って祈った。それだけ。だってわたしは、自分が何もできないことを知っているもの。
私が本当に救われるのは、ここからいなくなった時だけ。でもわたしの意志でここからいなくなることはできない。だからわたしは何もできない。解決しない。わたしは、こわいものから隠れ続けるだけ。それで、死んでしまったとしても、困るのはわたし。わたしの自己責任。
べつに死にたいとは思っていません。おなかが空いているのも、良い気分ではないし、ここに籠っているのが快適というわけでもない。言ってみれば、優先順位の問題。それに耐えられるか、耐えられないか。それだけ。
おなかが空いているのは、そんなには苦痛じゃないわ。だって、わたし、食べても食べてもおなかが空くの。おなかいっぱいって、満足した気持ちになったことがないの。だから、食べても、食べなくても、おんなじ。ちゃんと食べたら死なない。ずっと食べないと死ぬ。それだけ。それだけよ。