191 最後の男3
男はタフであった。
柔らかなベッドを捨て、贅を尽くした食事にありつけなくても、愚痴ひとつこぼさなかった。
肌の色はくすみ、頬はこけても、瞳の炎だけは決して絶やさなかった。
なんとしても生き抜いてみせると、そう誓っていた。
しかし……妻は違った。
出産にとって大切な衛生面や栄養面が劣悪だったのだ。
そのうえ、ゆっくり身体を休めることもできない。
鎖で繋がれているせいで、食事の確保の時なども連れて行かなくてはならないし、追っ手に見つかっても、男がオトリになることもできないからだ。
身重の身体ほど、逃亡生活に適さないものもない。
それは想像以上のストレスとなって、妻にのしかかっていた。
美しい妻は、その面影は残っていなかった。
生け花のように飾られていた髪は枯れ果て、手ですくだけで大量に抜け落ちた。
地肌は浅黒く、ノミやシラミが張り付いている。
化粧乗りの良かった肌は、黒く汚れた爪で引っ掻いた跡で赤く腫れあがり、皮膚病で膿みはじめていた。
妻はやがて、男に泣きすがった。
「お願い、あなた……! もう、逃げるのはおわりにしましょう……! 私はもう、限界なの……! 生のお野菜を、土がついたまま丸かじりするのも……! こんな臭い牛舎のなかで、藁にまみれて眠るのも……! それどころか何日もシャワーを浴びていないの。もう、気が狂いそうなの……!」
「だめだ。もし捕まったら、今よりも何倍も辛い目に遭わされるんだぞ」
「でも、もう堪えられない……堪えられないの……! いつまで、いつまでこんな生活が続くの!?」
「もう少し、もう少しの辛抱だ。『落ち勇者狩り』が発令されているエヴァンタイユ諸国から脱出できれば、追っ手もいなくなる」
「……ウソ! エヴァンタイユ諸国から出たところで、きっとその先の国でも手配書が配られるに違いないわ! だって、相手は勇者様たちなんでしょう!?」
責めるように言われ、男は口をつぐんでしまった。
たしかに妻の言うとおりだったからだ。
男と妻のいるおおよその場所は、目撃証言をもとに、新聞によって連日報じられている。
そのため、現在地は勇者組織に筒抜けになっているのは間違いない。
新聞社は各国にしか存在していないので、国を変えれば安息が訪れることだろう。
しかし、勇者組織は世界規模……!
たとえ隣国に逃げ仰せたところで、そこに『落ち勇者狩り』が発令されれば……。
安息はほんの一時で、終わりを告げる……。
勇者組織に狙われている以上、男と妻が元の生活に戻れることは決してないのだ……!
男はもう、妻を抱きしめるしかやりようがなかった。
「大丈夫、大丈夫だ……! きっと、きっと助かる……! だからもう少し、もう少しだけの辛抱だ……!」
「ウソっ! 私たちは一生、こんなワイルドテイルみたいな生活を送らなくちゃいけないんだわ! もう……イヤぁ! 私がいったい何をしたっていうの!? 私はなんにもしていないのに、なんで、なんでなんでなんでっ、なんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
妻の怒りの矛先が、男に向けられるまで、それほど時間はかからなかった。
「これも元はといえば、あなたのせいじゃない! あなたが『ゴーコン』なんてやらなければ、こんな事にはならなかったのに……!」
「それだけじゃない! 野良犬マスクなんていうのにいいようにやられて! 野良犬一匹殺せないなんて! 俺は最強の男だって言ってたのは何だったの!?」
「ロータスルーツちゃんがおかしくなったのも、野良犬マスクのせいじゃない! ああっ、可哀想なロータスルーツちゃん……! こんな父親を持ってしまったせいで、人生をめちゃくちゃにされて……!」
「あんたなんてどうせ、その銃がなけりゃ……ううん、銃があったところで、あんたは何もできやしないのよ!」
……バシンッ!!
連日罵られ続け、男はとうとう妻をぶってしまった。
すると、妻はさめざめと泣き出した。
「お願い……! もう、あなたと一緒にいたくない……! あなたの顔を見ると、吐き気がするの……! あなたと一緒にいるくらいだったら、死んだほうがマシよっ! お願い……! 私を殺して……! その銃で、私を殺してぇぇぇぇぇぇぇぇっ……!!」
……ゴリッ……!!
男は自分のしたことが、にわかには信じられなかった。
最愛の妻の……我が命に変えても守り抜くと誓った存在の……。
頭に、銃口を押し当てているのを……!
男は眩暈をおぼえ、そのままへたりこんでしまった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それからも妻は、事あるごとに男に「殺してくれ」と泣きついた。
時には自殺を図ることもあったが、男は力ずくでそれを止めた。
すると、妻は食事をとることをやめた。
すでに栄養失調で歯が抜け、まともにものが食べられない状態。
男は野菜や果物をすり潰し、スープにして飲ませようとしたが、手を付けようとはしなかった。
日に日に痩せ細っていく妻。
顔は頭蓋骨のようになり、手や足は枝のように細く、まともに立って歩くこともできなくなってしまう。
落ち窪み、底光りする眼と……。
膨らんだ、お腹だけが残り……。
とうとう、餓鬼のような見目になってしまった。
男はもはや、極限状態にあった。
何としても守りたい存在が、自分を否定し、ゆるやかな死を選択している。
いままで幾多の命を、狭間の向こうに突き落としてきたというのに……。
たったひとつの命が、狭間の向こうに行くことを、止められないだなんて……!
ついに男は、涙を流す。
親友とも呼べる勇者仲間が死んでも、一滴も滲ませなかったそれを、溢れさせながら……。
妻にすがった。
「ううっ……! ぐううっ……! うぐぅぅぅっ! 頼むから、これを食べてくれぇぇぇぇ……! お願いだから生きてくれぇ! お願いだ! お願いだからぁぁぁ!」
妻は、暗闇が支配しはじめた納屋の中で……。
ドクロに埋まった眼光のような目で、男を見据えたまま、枯れ木の手でお腹を撫でさすり……。
独り言のように、こうつぶやいた。
「やっぱり……あの人にしておけばよかった……」
私は……間違ってしまった。
あの時、あの人を選んでいれば……。
こんなことには、ならなかったのに……。
あの人を選んでいれば……。
今頃はあの人と、ふたりの子供たちに囲まれて……。
誰よりも、幸せな家庭を築いていたはずなのに……。
それは、前からずっとずっと、思っていたこと……。
私はずっと、あの人だけを愛していた……。
……ううん、まだ遅くはない、まだ間に合うわ……。
だって、だって……。
いま私のお腹の子にいるのは、あの人の……!
……ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーンッ!!!!





