188 3人の男2
3人目の男は、路地裏を疾走していた。
いままで両手でも持ちきれず、ショッピングカートに入れてまで持ち運んでいた、盗んだ所持品はすでにない。
衣類だけは辛うじて身にまとっていたはずなのに、焼け出されたような焦げたチリチリパーマの全裸の若者たちに襲われ、
「俺たちは神尖組だ! その服をよこしやがれ!」
と寄ってたかって殴られ蹴られ、剥ぎ取られ、パンツに至るまですべて奪われてしまった。
もはや何よりも重要視していたアフロヘアもすでにない。
そんなすべてを曝け出した極限の無防備状態であるというのに、途中で気の触れたようなコックに襲われ、全身傷だらけ。
途中、何度も転んで、何度も勢いあまって壁に激突したせいで、顔は風船のように赤く膨らんでいた。
ぼってりと腫れた瞼で視界はほどんど塞がり、鼻はもうノシイカのように潰れ、歯は1本も残っていない。
身体じゅうがアザで紫色に変色し、肌はすりむけてボロボロになり、傷口から血がしたたる。
彼はそんな、満身創痍のうえに、生まれたままの姿で……。
いいや、新たに生まれた新生児だったとしても、まだ何かしら『持っている』だろう。
生きている喜びや、明日への生きる希望を……。
彼はそれすらも手放してしまったかのように、泣きながら走っていた。
これほどまでに『壊走』と呼べるものが……。
これほどまでに『死に体』と呼べるものが……。
果たして、この世にあっただろうか。
しかも最後の気力すらも奪い去るかのように、目に映るすべてが敵であるかのように、運命は彼にチョッカイをかける。
ゴミ溜めの上を飛び越えようとした時、踏み込んだ足でガラス片を踏んでしまい……。
……ドシャァァァァァァァァァァァーーーーーーーッ!!
この島の汚物がすべて集められたようなゴミの中を、ヘッドスライディング……!
しかも滑った先には汚水槽の樽があって、
……ドガッ、シャァァァァァァァァーーーーーーンッ!!
描写もしたくないような色の粘塊を、全身に浴びていた。
男はもう、その汚液を払うだけの気力も残っていない。
突っ伏したまま、泣きじゃくるばかり。
「うっ……! うっ……! うううっ……! どうして……どうして、こんなことに……なってしまったひゃん……!」
――俺はただ、笑顔でいたかっただけなのに……。
どんなに辛いことでも悲しいことでも、笑顔で乗り切ってきたのに……。
カラッポの、カラ元気でもいい……。
たとえ中身のない俺でも、外見さえ笑顔でいれば、みんなを元気にできるって……。
そう思って……無理にでも、笑ってきたのに……。
なぜ、なぜ……。
なぜ運命の女神様は、笑ってくれないじゃん!?
もうとっくの昔に、爆笑してなくちゃおかしい頃じゃん!?
彼の頭の中に、微笑む女神様の顔がよぎる。
しかしその顔が、ポンと煙に包まれると、世にも忌まわしい犬顔に変わり……。
……シーッシッシッシッシッシッシッシッシーーーーーッ!!
手で口を押えながら、ムカつく引き笑い……!
「うっ……うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?!?」
男は未消化のトウモロコシの粒にまみれながら、七転八倒する。
「野良犬っ! あの野良犬っ!! 俺の人生がおかしくなったのは、あの野良犬が出てきてからひゃんっ!! 失敗・失敗・失敗続き……! 少しうまくいって昇り調子になったと思ったら、また真っ逆さまに突き落とされるんひゃんっ!! あのクソ犬のせいで! あのクソ犬のせいでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーっ!!!!」
……ざっ。
ふと人の気配を感じ、男は飛び起きる。
四つ足のまま、猛然と吠えかかった。
「うううーーーーっ! ひゃんひゃんっ! ひゃんひゃーーーーんっ!! こうなったら俺も、野良犬になってやるひゃん!! さぁ、かかってくるひゃん! このヒャンヒャンハリハリ、殺せるもんなら殺してみろひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーんっ!!」
男の目は腫れ上がっていたせいで、ほとんど見えず、目の前にいるのが誰かはわからなったのだが……。
声から察するに、いかにも気弱そうな若い青年だった。
「あ、あの……。あなたが、あの噂の……『ヒャンヒャンハリハリ』さんですか……?」
『ヒャンヒャンハリハリ』というのは、『ジャンジャンバリバリ』が歯が抜けたせいでそんな発音になってしまっただけで、正しくはない。
目の前にいる若者は歯が抜けているわけではないので、『ジャンジャンバリバリ』と発音できるはずなのだが……。
それに気付く余裕は、男にはなかった。
「それがどうしたひゃんっ! ひゃんひゃんっ!! 俺は笑顔の使徒、ヒャンヒャンハリハリ……! もう決めたひゃんっ! 泣いたり怒ったりするのは、これで最後……! お前で最後にするひゃん! 俺は『笑い』以外のすべての感情を捨て去るひゃんっ!! 女神を爆笑させるその日まで……!! ひゃんひゃん、はりはりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
男の覚悟は本物であった。
一生分の涙を流すようにボタボタと頬を濡らし、一生分の怒りをここで使い切るかのように顔を歪め、腹の底から唸っている。
そして……運命の女神はついに、微笑んだのだ。
「ヒャンヒャンハリハリさん、僕はあなたの大ファンなんです! あなたがこの島で大変な目に遭ってるって聞いて、ずっと探していたんです。ああっ、ひどい格好になって……! さぁ、僕と一緒に来てください! 港に僕の船があります。そこには、お風呂も食料もあります! それにあなたが望むなら、この島から連れ出してあげられます!」
それは男にとっては、地獄に仏……。
天からもたらされたひとすじの糸であった。
男は老人にように若者に手を引かれ、港に向かった。
若者が所有しているという、大きなクルーザーに案内される。
そこで身体をキレイにして、手当をしてもらい、食事までごちそうになったのだが……。
張り詰めていた気持ちが緩んでしまったのか、男は食卓に突っ伏すようにして、眠ってしまった。
次に気がつくと、暗い船倉のなかで、檻のなかに閉じ込められていた。
若者の手当のおかげで、目の腫れはすっかり引いていた。
クリアな視界のなかで、男が目にしたのは……。
無数の檻に閉じ込められた、無数の動物たち……!
しかも不気味なことに、そのどれもが、笑っていたのだ……!
『笑い』感情がないとされる、犬や猫、キツネやタヌキ、鳥類から爬虫類まで、そこにいるすべてが……。
ニヤニヤと、笑っていたのだ……!
しかも、中には明らかに死んでいるものもいるというのに……。
死に顔は、ニヤニヤと……!
「ひっ……!? ひいいっ!?」
その不気味さのあまり、男はあとずさる。
すると、がさりと渇いたものに触れた。
それは、なんと……!
生きながらにして干からびてしまったような、人間のミイラ……!
しかも、鉄仮面のように貼り付いた、笑顔のままで……!
「ひっ……!?!? ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
カチャリと船倉の扉が開き、若者が入ってきた。
そして、さっそく漏らしはじめている男に向かって、こう言ったのだ。
……ああ、やっぱり……!
見れば見るほど、ジャンジャンバリバリ様にそっくりだ……!
ジャンジャンバリバリ様の偽物がグレイスカイ島に現れたと聞いて、ずっと捕獲のチャンスをうかがっていたんです。
え……?
俺は本物の、ヒャンヒャンハリハリ?
わかっていますよ、あなたはヒャンヒャンハリハリですよね?
それだけそっくりなら、ジャンジャンバリバリ様の名を騙りたくなった気持ちもわかりますよ。
僕はね、ジャンジャンバリバリ様を笑顔にするための薬を研究している者です。
まわりにいる動物たちや、そこで死んでいる人間たちは、ぜんぶその実験材料です。
いま開発している薬は、強烈な笑顔になるんですけど、すぐ死んじゃうんですよね。
でも、あなたはすぐには殺しません。
実験途中に死んでも、蘇生のタリスマンで何度でも生き返らせてあげます。
なんたって、あなたは最高の実験材料なのですから。
ジャンジャンバリバリ様にそっくりなあなたをモルモットにすれば、きっと最高の『笑顔薬』ができあがる……!
どんなときでもずっと笑顔でいたいとおっしゃっていた、ジャンジャンバリバリ様の願いを、僕が叶えてさしあげられる……!
ああ、待っていてください、ジャンジャンバリバリ様……!
今度は僕が、ご恩返しをする番……!
ジャンジャンバリバリ様を、笑顔にする番です……!
永遠に……!





