166 雌犬の過去2
「リンシラ、ですか……?」
「はい。ワイルドテイルという種族をご存じですか?」
「たしか……人とワンちゃんを足したような種族ですよね……?」
「私はこの訓練場に配属される前に、とある勇者様のパーティにいたんです。そのパーティで、とある島を探索したのですが、他のメンバーとはぐれてしまって……」
はぐれてしまったのではなく、置き去りにされていたのだが、それはまた別の話。
「ひとりになってしまった私は、その島にいた部族に捕まってしまい、しばらく奴隷として使われました。しかし彼らとも和解して、なんとか島から出られることになったのです」
オッサンはその時に、『テンタクルオアシス』の脱出法を知ったのだが、それもまた別の話。
「彼らの支援を受けて、島から出たのはいいのですが、途中で嵐にあってしまって、船が転覆してしまったんです。気付いた時には、別の島にいて……そこは、『グレイスカイ島』という、ワイルドテイルたちの島でした」
その時のことを思い出したオッサンは、思わず遠い目をしていた。
彼らはとてもやさしくてあたたかくて、異種族である私にも大変よくしてくれました。
その島から勇者様に連絡を取ったのですが、今度この島に『ゴージャスマート』を作るから、その下準備をせよと仰せつかりまして、しばらくその島に滞在したんです。
『ゴージャスマート』ができた時に、島を訪れた勇者様と入れ替わりに、私は大陸のほうに戻りました。
その間に、ワイルドテイルたちに受けた恩は、計り知れないほどです。
ワイルドテイルたちは今でこそ私たちと同じ言語を話していましたが、昔は独自の言語があったそうです。
そこから、『リンシラ』という名前を思いつきました
「『リンシラ』……! とても素敵な響きですね! どんな意味なのですか!?」
泣いたカラスがもうどこへやら、少女は目を輝かせて続きを促した。
「はい。『リン』というのはワイルドテイルたちの言葉で『女の子』。『シラ』というのは『犬』という意味です」
なんと、オッサン……!
これから栄転という少女に対して……!
『雌犬』などという名前を与える、迷采配っ……!!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
いつもは賑わっているビーチにも、今日は誰も居ない。
貸し切りのような砂浜に足跡を上書きしていたリンシラは、ふと、ローブのフードを外した。
ひときわ強い潮風に、美しい髪がなびく。
マリンブルーのキューティクルと、傾きかけた陽光のオレンジがまざりあって、ひと足早い夕暮れを迎えたような、幻想的な光を帯びた。
少女は、心のなかでひとりごちる。
――私を引き取った勇者は、下痢シェイクの山のような男、ブタフトッタ。
あの下痢糞野郎は、この私ですら言葉にするのもはばかるようなことを、私に繰り返した。
勇者に仕える聖女とは名ばかりの、便所のグローリーホールのように。
そして私が6歳になった時に、牛乳を拭いたあとの雑巾のように捨てられた。
それから私の身体を、多くの勇者が通り過ぎていった。
乱暴で回数だけが取り柄の粗チン野郎、クリムゾンティーガー。
モノはそこそこでも、チーターの早糞よりも早い、ダイヤモンドリッチネル。
5人がかりで私を弄んだチビども、ライクボーイズ……。
どいつもこいつも、腐りかけの踏み台みたいな粗大ゴミどもでした。
上に乗ることで、あと少しで高い所に手が届くという時になって……
グシャグシャに、崩れてしまう……!
どいつも、こいつも……!
私は、下流にいた。
ウンコが垂れ流しの中を泳いで、なんとか中流にまで這い上がった。
そういう意味では、あの下痢シェイクがいちばん役に立ったかもしれない。
しかしまだまだ、まわりはウンコだらけ。
上流にまでたどり着かなければ、綺麗な水にはありつけない。
上流には、ケツを出して今なお、ひり出しているヤツらがいる。
その中に加わって、下流のヤツらにクソを食わせる立場にならなければいけない。
いいや、上流にはアイツがいる。
もっと上、もっと上でなくては……!
噴き出す湧水で、ケツ穴を洗える立場にならなければ……!
アイツの口にクソを突っ込んで、窒息死させられないっ……!
そのためには、勇者が……!
腐った踏み台ではない、鋼鉄の脚立のような勇者がいなくては……!
その脚立の上にまたがって、太陽に手が届いた時こそ……!
私はきっと、忘れられる……!
呪いの人形のように、捨てたくても捨てられない、『雌犬』の名を……!
……ゴルドウルフ・スラムドッグを……!
リンシラは考えごとをしていたあまり、周囲に注意を払うことを忘れていた。
近づくまで、ヤシの木の後ろに佇んでいた人影に気付かなかった。
しかしふと視線を感じ、足を止める。
そしていつもの、よそいきの声に着替えた。
「……あら、アナタは……」
影は答えない。
「アナタも、この島にいらしてたんですね。そういえば、神尖組の入隊式典のときに、ビッグバン・ラヴのおふたりをお見かけいたしました。とても美しい方々で、私、見とれてしまいました」
影は、椅子に座っていた。
肘掛けに置いていた手を、その横にあった車輪にかける。
潮騒にまぎれるように静かに、前に進み出る。
夕暮れに照らされ浮かび上がったのは、アネモネの柄のブランケットと、ロングブーツ。
膝掛けとブーツの隙間から覗く、がらんどうのような、血の気のない膝小僧。
しかし顔だけはなおも、ヤシの木がつくりだす影に覆われている。
「足は、いまだに良くならないのですか? 私、義肢整備技師の資格を持っているのですが、腕のいい職人さんをご紹介いたしましょうか?」
影はうつむいていたようで、顔をあげると、イヤリングが光とともに揺れ踊る。
親指を立てた犬をかたどったデザインだった。
艶のあるリップの光沢が動く。
「……言い残したいことは、それだけ?」
息継ぎほどの間を置いて、爆炎が逆巻いた。
リンシラの名前の由来となる単語は、先に本編中に登場しています。
灰色の聖女がリンシラだと見抜いていた読者様がおられましたが、もしかしたら名前の由来のほうもピンと来ていた方がおられたかもしれませんね。
そしてリンシラの過去編はここで終わり、次回からは次のざまぁに入ります。
といってもリヴォルヴではなく、意外な人物…! ご期待ください!