165 雌犬の過去1
そこは、今にも崩れ落ちそうな、粗末なテント。
中には、粗大ゴミのような薬品棚やベッドが並ぶ。
灯りすらも与えられておらず、隙間からわずかに差し込む月明かりだけが、唯一の光源。
敗北がわかりきっている戦争の最前線、そこにある救護テントように……。
暗く、不吉な血がこびりついた、その場所……。
歴戦の兵士ですら逃げ出したくなるほどの、地獄との紙一重。
この世の最底辺といっていい、掃き溜めのような場所。
腐り落ちそうなベッドには、包帯にまみれたひとりのオッサン。
そのそばには、一輪の花のような幼ない少女が寄り添っていた。
彼女はずっと、オッサンの手を握りしめている。
こうやって朝まで付き添うのが、彼女の日課でもあった。
そして眠くなるまで、ふたりで他愛ない話を繰り返すのだが……。
今日にかぎっては、少女は心ここにあらずといった表情をしていた。
話の途中、オッサンはたまらず尋ねる。
「どうしたのですか? ずっと浮かない顔をしていて……なにかあったのですか?」
少女はこくり、と小さく喉をならすと、勇気を振り絞るようにして打ち明けた。
「あの、おじさま……私、勇者様にお目をかけていただいて、この訓練場を出ることになったんです」
「えっ!? 本当ですか!? それはよかったですね! いてててて……!」
「ああっ、起きてはいけません、傷口が開いてしまいます」
「す、すみません。でも、本当によかった。これで灰色の聖女から、本物の白き聖女になれるんですね」
「……はい」
「いやあ、おめでとうございます!」
オッサンは、我が娘の進学が決まったかのように喜んだ。
「どなたの勇者様に、召し抱えられることになったのですか? 神尖組の方ですよね?」
「いえ、神尖組の方ではありません。ブタフトッタ様で……」
「ええっ!? ゴッドスマイル様の側近ともいえる、あのお方に!? すごいじゃないですか!」
『灰色の聖女』というのは、みなし子の聖女のことである。
普通、聖女というのは、冒険者のヒエラルキーとして2番目に位置するのだが、彼女たちはそれよりもかなり下。
勇者 > 聖女 > 上級冒険者 > 下級冒険者 > 灰色の聖女
名前こそ『聖女』とされているが、誰からも敬意を払われることはない。
戦争となれば真っ先に最前線に送られ、兵士たちの治療と慰みモノを兼用させられる、捨て駒のような存在であった。
彼女たちは、『灰色の聖女』としての功績が認められれば、『本物の聖女』になれると信じている。
しかし、灰色から白色になれた者は、豚肉にならなかった養豚と同じくらいに存在しない。
ようは、みなし子たちを都合よく使い倒すために、彼女たちの憧れの存在である『聖女』という名を冠しただけのものだったのだ。
それでも何も知らない少女たちは、聖女になるのを夢見て、今日も勇者たちに都合よく『使われて』いる。
しかしオッサンを看病している少女は、『勇者に召し抱えられる』という奇跡を射止めたのだ。
勇者に見初められた場合、灰色だろうがなんだろうが問答無用でホワイトになれる、それがこの世界。
だからこそこの、神尖組の訓練場に詰めている灰色の聖女たちは、神尖組の訓練生たちのためであれば、どんなこともしていたのだ。
オッサンもてっきり、訓練生のひとりに『気に入られた』のだろうと思っていたのだが、違った。
なんと……!
彼女は勇者のナンバー2グループの調勇者、ブタフトッタに『気に入られた』のだ……!
我が娘が、難関の有名私立に合格したかのように、大喜びするオッサン。
しかし当人は、それほど嬉しそうでもなかった。
「……どうしたんですか? 灰色のローブではなく、白いローブを着るのが夢だと、ずっと言っていたではないですか」
「はい。それはそうなのですが……。心配ごとが、ひとつだけあるんです」
「心配事? それはなんですか?」
「それは……おじさまのことです」
「私? なぜ私のことなど心配するのですか?」
「おじさまは毎日のように、神尖組の方々の訓練に付き合わされて、瀕死でこのテントに運び込まれてきます。私はおじさまを看病して、こうしてふたりっきりでお話するのが、なによりも大好きでした。それができなくなってしまうのが、辛くて……」
少女の瞳が潤み始めていたので、オッサンはギョッとなる。
当時のオッサンは、女の涙に弱かった。
それこそ、吸血鬼が水を嫌がるほどに。
「そ、そんな! そんなことで、泣かないでください! いてててて……!」
「そんなことではありません! 私はこのテントでおじさまを待っているとき、ずっと胸が引き裂かれるような思いでした! おじさまがどうかご無事で戻られるように、ずっとルナリリス様にお祈りをしていたのです!」
「そ……そうだったのですか?」
「はいっ! 私が勇者様に召し抱えられるということは、それもできなくなります! 私はおじさまとこうすることも、できなくなってしまうんですっ……! ……ううっ……! うわぁぁぁぁぁぁ~~~んっ!!」
泣きじゃくる少女に、オッサンは犬のおまわりさんのようにオロオロするばかり。
抱きしめてやることも、気の利いた台詞をかけてやることもできずに、気まずい時間ばかりが過ぎていく。
結局、自力で泣き止んだ少女は、オッサンに向かってこう言った。
「……あの、おじさま……最後にひとつだけ、お願いがあるのです……」
「なんでしょう? 私にできることがあれば、なんなりと」
「私に、名前を授けてください……」
灰色の聖女はみなし子なので、名前を持っていない者も多い。
そういった者は、アダ名や番号で呼ばれる。
しかし聖女になるにあたって、名前を名乗ることができるようになるのだ。
「えっ……? 私が、名前を……!? ブタフトッタ様がお付けになるのではないのですか?」
「はい、本当はそうなのですが……。私にはすでに名前があるので、それを使いたいとお願いしたのです」
「えっ……えええーーーっ!? いてててて……!!」
少女はなんと、オッサンに名前を付けてもらいたくて、準神の勇者にウソをついていたのだ……!
もしそれがバレたら、召し抱え取り消しどころか、舌を引っこ抜かれても文句は言えない。
高位の勇者にウソをつくのは、エンマ大王にウソをつくのも同義なのである。
オッサンは困惑した。
なぜ、それほどまでの覚悟を持って、自分に名前を付けて欲しがるのかを。
そう……。
オッサンは、今も昔も鈍かったのだ……!
しかしながらその気持ちに応えるために、オッサンは思案する。
そして、ひとつの名前を言葉にのせて紡いだ。
「リンシラ……リンシラというのはどうですか?」
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そして今更ではありますが、過去に返信できなかった分に返信させていただきました。