104 希望の徒花2
野良犬マスクは、朝早くからシンイトムラウに現れた神尖組の第10番隊の者たちと、邂逅した。
いつもであるならば、すでに彼の住居となった頂上付近の洞窟で、どっしり構えているはずなのに……。
今回に限っては、山の裾野あたりで待ち構え、自ら撃って出たのだ。
しかも子連れ狼のように、チェスナを連れて……。
これは、今までの彼のやり方からは、考えられないことである。
考えられないことは、そこからさらに続く。
野良犬マスクは隊長のスキュラに挑んだものの、『拒絶の石』の前には全く歯が立たず、また『妖術剣』の前に、児戯のように翻弄され……。
敗走を、余儀なくされてしまった。
さらに信じられないことに、チェスナと二手に分かれて……!
しかしこの時すでに、山のそこかしこには『希望の徒花』が仕掛けられていた。
一斉に開花して花粉を撒き散らし、第10番隊の者たちを、欲望の渦に陥れていたのだ。
そこから先は、もはや説明の必要もないであろう。
二手に分かれた第10番隊の隊員たちは、自分にとって都合のよい夢に突き動かされ、夢遊病者のように山中をさまよい歩く。
野良犬マスクを追跡した01から25までの25名は、『副隊長になりたい』という夢を視て、ありもしない『特別任務』と『プレゼント』で殺し合いをはじめる。
といっても、あくまでそれぞれの夢の中だけの話なので、死者はひとりも出ていない。
それぞれの頭の中だけで、他の隊員たちの始末に成功していたのだ。
そしてチェスナを追跡した26から29は、チェスナの剥製をゲット。
こちらも、あくまでそれぞれの夢でしかないので、全員が剥製の入手に成功していた。
隊員たちが視た夢は、内容は物騒ではあるものの……。
自分は幸せになり、また現実には誰も傷付けていない。
いわば、『やさしい夢』……!
いわば、『やさしい世界』……!
ではここで、今まさにやさしさに包まれている、ひとりの隊員の様子を見てみよう。
彼はチェスナ追跡の任務を終え、野良犬の棲家であった洞窟から出ていた。
額に『27』の文字を朝日に輝かせながら崖上に立ち、目の前に広がる青空を仰ぐ。
眼下にはワイルドテイルたちの集落があり、その先には賑やかな街。
彼は満ち足りていた。
その腕には、氷像のように青白い肌の少女が抱かれている。
微動だにしないその、少女……。
いや、かつて少女であったそれは、羽根のように軽い。
またこの世のすべての苦痛を一度に受けたような、血も凍る表情を浮かべていた。
いったいどんな責苦を受けたら、そんな表情ができるのか、と思えるほどの。
その見事な出来映えに、彼は思う。
――コレを持って帰ったら、大喜びだろうなぁ。
父親としての株がまた上がるのは、間違いない……!
この崖の上からも、彼と彼の家族が住んでいるホテルが見えた。
お城のような建物の中では、かわいい子供が今か今かと待ちわびていることだろう。
――コレがあれば、アイツもご近所さんに自慢できるとか言ってたから……。
しばらくは午前様でも、機嫌を損ねることはないだろうなぁ。
次に彼の頭に思い浮かんだのは、妻ではない別の女性だった。
――ふふふ、実はソイツも実はこの島にいるんだよなぁ。
まぁ、30の嫁だから当たり前なんだが……。
家族サービスが終わったあとは、急な任務ができたとか言って、家族を先に帰らせて……。
ソイツと、しっぽりいくか……!
彼は、そういえば、とあることを思い出す。
リュックの中に、いつの間にか望遠鏡が入っていたのだ。
隊員の誰かが間違えて入れたのだろうと思っていたのだが、せっかく見晴らしのいい場所にいるので使ってみることにする。
背負っていたリュックからいそいそと伸縮式の望遠鏡を取り出すと、展開して覗き込んだ。
そして目に飛び込んできた光景に、思わず独り言を漏らしてしまう。
「おお! よく見えるなぁ! 街の建物の窓の中まで、丸見えじゃないか!」
――これは帰ったら、窓のカーテンを閉めるように、妻に注意しとかなくちゃな……。
などと思いながら、ホテルのほうにフォーカスを移すと、そこには……。
「あっ……!? ああああっ!? あああああーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
彼は、世界が崩れ去るほどの衝撃を受けてしまった……!
そこには、なんと……!
自分の妻が、ホテルの一室で、熱い抱擁をかわしている姿……!
しかして、そのお相手は……!?
まさかの、30っ……!?
……ぽろり……!
彼は思わず崖下に、双眼鏡を取り落としてしまうほどに茫然自失となる。
――あ……あの売女っ……!
それに、あの30っ……!
俺の知らないところで、あんな関係になってやがったのか……!
そうか……!
30はいつも、任務途中でスキュラ様を送る役目を仰せつかっていた……!
戻ってくるのにやけに時間がかかってるとは思っていたが……!
こういうわけだったのか……!
自分の浮気は棚に上げ、怒髪をメラメラと燃え上がらせている。
――チクショウ……!
人が汗水垂らして働いているときに……!
こうやって、頼まれたお土産もちゃんと持って帰ってやろうってのに……!
その間、お前はベッドの上でマンボを踊ってやがったんだな……!
この俺を、あざ笑いながら……!
許さん……! 許さんぞっ……!
「絶対に……絶対に許さんっ!! とぉーっ!!」
そして彼は怒りに身を任せるように、崖下に向かってダイブ……!
どこからともなく、「あああっ!?」と絶叫が聞こえたような気がした。
しかしさすがは『神の指』と呼ばれた手練れ。
崖はビルほどの高さがあったが、途中でクルクルと回転して、
……ズダァァァァァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ!!
華麗に三点着地を決めた。
そしてカッコよいポーズのまま一言、
「お前らのハラワタで、街じゅうに汚ぇ虹を描いてやる……!!」
嫉妬に狂う、ダークヒーロー誕生……!?
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この、平和そのものだったグレイスカイ島において……。
いや、ある人間たちにとっては天国で、ある人間たちにおいては地獄だったグレイスカイ島において……。
島の外海のように穏やかだったはずの、この有数のリゾート地において……。
前代未聞の痛ましい事件が、次々と起こっていた。
『野良犬マスク事件』『暴れ馬事件』『八十裂き事件』『犬神事件』。
わずか数週間のうちに起こったこれら4つの事件は、未解決のまま島を閉鎖にまで追い込んだ。
そして閉じ込められた人々に、『野良犬マスク』という殺人鬼の名を、嫌というほどに刻み込む。
しかし……その殺人鬼が実際に誰かを傷付けている姿を、見た者はいなかった。
その次に起こったのは、まだ記憶にも新しい、『セレブ狂乱事件』。
とあるカジノのインチキがバレ、一部の観光客たちが暴動を起こした。
罪なき人々は怖れた。
「これはきっと、野良犬マスクという殺人鬼の、殺人オーラにあてられたのだと……!」
そして……彼らはついに、知ることになる。
本当の殺人鬼の、正体を……!
それは、朝も早からやって来た……!
神々の住まう山から、悪魔の使いのように……!
「キャハハハハハハハハハ! いたっ! またいたぞっ! 野良犬マスクだっ!」
「ギヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ! あっちにも、こっちにもいるっ!」
「ヒャハハハハハハハハハ! ぜんぶ皆殺しにすれば、手柄は独り占めだぁ!」
街に繰り出した彼らは、道行く野良犬マスクを見つけると、蛮族のような雄叫びとともに斬りかかる。
「ゆ、勇者さまっ!? な、なにをっ!? ぎゃああっ!?」
……ズバアッ!
「勇者さまっ!? いったいどうされたんですかっ!? ぐわぁぁぁぁぁっ!?」
……シュバアッ!
「ああっ、勇者様っ!? 私はワイルドテイルなどという、穢らわしい存在ではありません! むしろワイルドテイル殲滅のために、ご寄付を……きゃああああああっ!?」
……グシャアアアアアアアッ!!
オープンテラスで遅めの朝食を楽しんでいた野良犬マスクたちの元に、勇者の群れが襲いかかる。
「この野良犬どもがっ! 生意気にメシなんて食ってんじゃねえよっ!」
……ガシャーンッ!!
「な、なにをするんですか、勇者様っ!? 私たちは野良犬などでは……! ぐはあっ!?」
「野良犬なら野良犬らしく、這いつくばって食えよっ! おらっ、床に落ちたのを、這いつくばって食えっ!」
「わ、わかりました! わかりました! 食べます、食べますから、子供には乱暴しないでくださいっ!」
「ギャハハハハハハハハ! いい格好だ! 野良犬は野良犬らしく、地べたに這いつくばったまま死ねっ!」
……ズバァァァァァァーーーーーーーーーッ!!
「ああっ!? パパッ!? ママァーーーッ!!」
「仔犬までいやがる! 見せしめに、ふん縛って木に吊してやらぁ!」
ビーチでだらしない身体をさらけ出し、パラソルの下で寝そべっていた野良犬マスクたちに、剣が突きたてられる。
「ヒャーーーッハッハッハッハッ! こりゃ、入れ食い状態だ!」
……ドスッ! ドスッ! ドスウッ!!
「ゆ、勇者様っ!? なにをするんですかっ!? 我々は、邪教徒ではありません!」
「刺すばっかりじゃ飽きてきたなぁ、おらっ、こっちに来いっ!」
「な、なにをっ!? がぼっ!? おっ、溺れるっ! ぐはあっ! ぐぼぼぼぼぼっ……!」
「どうだ、苦しいかっ!? そして思い知ったか、野良犬マスクよ! 今度はお前の水死体を、島じゅうに浮かべてやるよっ!」
「海に沈めるなんて、なんてことをっ! こ、このままでは、本当に死んでしまいますっ! お、許しを! 勇者様っ! この人は、野良犬マスクなんかじゃありません! 私の夫なんです! それに私どもは、勇者様に多額の寄付をして来ました! それなのにこの仕打ちは、あまりにも酷すぎます!」
「うるせえっ! このメス野良マスクがっ! テメーもなかよく沈みやがれっ!」
「ぎゃあっ!? お許しをっ! お許しをっ! げぼっ! げぼぼぼぼぼっ……!」
そう……!
殺人鬼に怯えるグレスカイ島を、今度は本当の殺人鬼が襲ったのだ……!