54 野良犬レディの反撃1
この島いちばんのカジノは、普段から多くの客がいるのだが、今シーズンは特に満員御礼が続いた。
出島が制限されているので、やることがないというのもあるのだが、いちばんの要因は話題性。
『笑う邪教徒』と呼ばれる、いかにも堅強そうなワイルドテイルが崩れゆくさまを……。
砂の城が波にさらわれるように、崩壊していくさまを……。
なんとしてもこの目で、見てやりたという気持ちがあった。
それは、恋愛にも似た感情。
しかし、彼女は高嶺の花。
なぜか、声すらも惜しんでいた彼女が、ついに……。
ついに、お声をお出しになられたのだ……!
「こ……この男……! シャンパンアケマクリは……! 野良犬マスクの一味だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
初めて耳にする、憧れの君の声。
それは春雪のように突然に。
それは春雷のように傲然に。
それは、告発のように……。
聞くものすべての耳朶を、張り飛ばした……!
その時、野良犬レディの記念すべき一声を聞き逃すまいと、観客席は静まりかえっていた。
まるで静かな湖畔の森の陰から、一石が投じられたかのように、
「えっ……!?」
とさざなみが立つ。
『野良犬マスク』といえば、もはやこの島では知らぬものはいない殺人鬼。
シンイトムラウに立てこもっており、夜な夜な抜け出しては罪なき者たちを手にかけ、生き血をすする。
この島にいる人間にとって、今やゴキブリ以上に忌避されている存在であった。
波は、ゆるやかにうねる。
「あ……あの、MCが……?」
「野良犬マスクの、一味……?」
「あのMCって、売りだし中のヤツだろ? 最近、ここらのカジノでよく見かけたような……」
「ああ、場末のカジノのMCだったのに、『笑う邪教徒』を捕まえてからは、このカジノに出入りするようになったらしい」
雨が降り始めた水面のように、ざわめく観客席。
シャンパンアケマクリはスタッフに取り押さえられたまま、命を絞り出すように叫んだ。
『ちっ、違うしゃん違うしゃん! この女が言っているのは、ただの口からでまかせしゃんっ! 邪教徒の言うことを信じたら、頭の中に悪魔が……!』
しかしその弁明は、海の神のような一喝によって遮られた。
「私は邪教徒などではないっ! まずはそれを証明してやるっ! おいっ、スタッフ! このカジノには『踏み絵』があるのだろう!? それをもて!」
野良犬レディは女王のように高圧的に、スタッフに向かって命じる。
スタッフはぎょっとなっていたが、「さっさとせんか!」と一喝され、家来のように右往左往して、『踏み絵』を用意した。
この『踏み絵』は、ワイルドテイルたちが信奉している『シラノシンイ』が描かれたもので、神尖組が捕らえたワイルドテイルを、異教徒かどうかを判断するためのもの。
グレイスカイ島の店であれば、どこでも備品として置いておかなくてはならない決まりがある。
その『踏み絵』を迫られたワイルドテイルは、ふたつの選択を迫られることとなる。
踏めば無罪放免、踏まなければ……ご存じのとおりである。
ワイルドテイルたちも一枚岩ではないので、なかにはシラノシンイを信奉していない者もいる。
その筆頭がストロングタニシであるが、彼はこの『踏み絵』を迫られたとき、その上でダンスを踊ったという。
野良犬レディは自分が邪教徒ではないことを示すために、この『踏み絵』を、いったいどうするつもりなのか……?
彼女は心の中で、『踏み絵』に向かって、
――すまぬ!
私が自由になったら、ご本尊に最高級のペットフードを供えてやるっ!
と、謝ってから、
……ベッ!!
と、唾を吐きかけたっ!
「……あっ!?」
と、呆気にとられる観客たち。
野良犬レディはことさらドヤ顔をつくって、さらに高らかに叫んだ。
「……どうだっ! これで私が邪教徒でないことが証明されただろう! ここにいる数多の観客たちが証人だっ! さぁ、さっさとこの拘束を解くのだ! それとも何か? このカジノは無辜の者を磔にするのか!? だとするならば、このカジノこそ邪教の巣窟! 神尖組にバレたら、営業停止どころではすまぬだろうなぁ!!」
彼女はまくしたてながら、舞台袖にいるオーナーを睨みつける。
するとオーナーは蛇ににらまれたカエルのようにすくみあがって、汗びっしょりになりなあら「外せ!」のサインをステージ上のスタッフに送った。
『そっ、そんなっ? そのワイルドテイルは邪教徒でない芝居をしてるだけしゃんっ! あとで高級ペットフードでも差し入れするつもりしゃんっ! 騙されてはダメしゃんっ! ダメしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーんっ!?』
シャンパンアケマクリはずっと叫んでいたのだが、彼の味方をしてくれる者はいない。
場の空気は、野良犬レディことクーララカの奇襲を受け、完全に敗走状態にあったからだ。
無理もない。
観客たちは、野良犬レディの声が聞きたいと欲した。
もしそこで、野良犬レディが彼らが期待するようなこと……。
たとえば命乞い、たとえば激怒による罵り、などをしていたら、ここまで一方的な空気にはならなかったかもしれない。
野良犬レディが発したのは、告発。
思いもよらぬ人物の、思いもよらぬ正体をバラしたのだ。
事件の犯人は、磔にされている彼女ではなく、付き添っていたMC……!?
それは例えるなら、『連続殺人事件の犯人は、○○』……!
もしくは『フィッシュ君の本体は、下の人間』……!
それらと比肩するほどの驚愕を、観客たちに与えていたのだ。
クーララカは、人間の理解の範疇を超える衝撃発言で、まずはその場にいる者たちの思考を手に入れた。
当然のように、真犯人に仕立て上げられた相手は反論してくるだろう。
しかしそれを見越し、カウンターパンチのように、さらなる衝撃をぶつける。
そう……!
『踏み絵』に唾を吐きかけるという、異教徒でなくてもやらない、大胆不敵な行為を……!
その周到に繰り出されたコンビネーションによって、場の熱気を冷気に変えた。
観客たちに邪教徒殲滅ではなく、邪教徒の手助けをしていたのだという罪悪感の種を、植え付けたのだ……!
しかしそれが発芽するためには、まだ肥料が足りない。
なぜならば現時点で証明されたのは、『クーララカが邪教徒ではない』という一点のみだからだ。
当然、シャンパンアケマクリもその点を突いてくる。
『ふ……踏み絵に唾を吐きかけたからって、何なのしゃんっ!? そんなのは俺が野良犬マスクの協力者であることの、何の証明にもなってないしゃんっ! このワイルドテイルは口からでまかせを言って、ビックリさせて言いくるめようとしているしゃんっ! こんな邪悪なワイルドテイルに騙されちゃダメしゃんっ!』
クーララカは水車から解放され、ようやくシャンパンアケマクリと同じステージに立っていた。
「まぁ、慌てるな! 貴様が野良犬マスクの協力者であることを証明する、動かぬ証拠があるのだ! それをこれから教えてやるっ!」
彼女は、ウォーミングアップが終わったかのように……。
笑みを浮かべ、コキコキと首を鳴らしていた。
その笑みは、不敵……!
口からでまかせであるとわかっていても、シャンパンアケマクリを不安にさせるほどの……。
不気味なまでの迫力と自信に、満ちていたのだ……!