43 クーララカの逃亡生活2
クーララカは、疲労と負傷で思うように動かない脚を引きずり、朦朧とする頭を壁にこすりつけるようにして走った。
のしかかる疲労はもはや限界を超えつつあった。
身体は悲鳴をあげるのを通り越し、泥沼にはまっているかのように重い。
しかし止まれば引きずり込まれる。
死という名の、水底に……!
周囲にはわぉんわぉんと警報のように鳴る、神尖組の怒声。
そして背後からは、
「どこいった!? コックェェェェェェェェェェェーーーーーーッ!? もう逃げても無駄だっ! コックックックッ……! コックェェェェェーーーックックックックックゥーーーーーーーーッ!!」
刑務所から抜け出したばかりのような、殺人鬼の雄叫び……!
その奇声に混じり、壁ひとつ隔てたほどの至近距離で打ち鳴らされる、肉切り包丁の音。
クーララカが辛うじて正気が保てていたのは、皮肉にも、その気も触れんばかりの奇想曲であった。
もはや、この裏路地は完全に包囲されている。
答え合わせをするように、迷路を塗りつぶしていくかのように、少しずつ逃げ場を断たれている。
そして最後のマークシートに、鉛筆が当てられるように……。
クーララカの眼前にあったのは、高い高い壁……。
袋小路であった……!
背後から迫る、怒号と奇声の嵐。
狂った笑い声にあわせて、曲がり角から影が近づいてくる。
この先が行き止まりであることを知っているかのように、時折立ち止まり、ケタケタと身体を震わせている。
恐怖のあまり全身の感覚がなくなり、雨に打たれたわけでもないのに身体が冷たくなっていく。
ここは南の島であるはずなのに、凍えるような寒さを感じ、歯がカタカタと鳴った。
しかしその音すらも消え去り、嵐の前のような豪雨の音だけが、ごうごうと頭の中に鳴り渡る。
いま自分は、どうしようもない絶望に支配されているのだと、他人事のように思った。
もう頭も、身体も、なにも動かない。
蛇に睨まれたカエルというのはこんな気持ちなのかと思う。
そしてとうとう、立っていることすらできなくなってしまった。
……ぐらり……!
と身体が揺らぐ。
飲み込まれていくように身体を預けた先は、粗末な木扉。
……ばたぁーーーーーーーーんっ!
とそれを蹴破るのと、倒れた身体が腐りかけた床板にめりこんだのは、ほぼ同時であった。
奥のほうから、椅子から転げ落ちるような音がする。
「……わあっ!? 何なのしゃん!? 何なのしゃあんっ!?」
どこかで聞いたような、しかしちょっと違うような男の声。
しかしクーララカは、もう考える余裕などない。
一縷の望みを託し、最後の力を振り絞って、手を伸ばす。
「た……頼む……! お、追われて……いるんだ……! た、助けて……くれっ……!」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
クーララカが飛び込んだのは、路地裏にある廃屋のような家。
その家にいた男は、隣の晩ごはんのように突撃してきた大女に腰を抜かしていた。
しかしクーララカが追われているとわかると、彼女を部屋へと引きずり込み、後から来た追っ手を誤魔化してくれた。
そして今、クーララカは粗末の木のテーブルに座り、数日ぶりの食事となるサンドイッチを頬張っている。
「た……助かった! 恩に着る! かくまってもらうどころか、傷の手当てに加えて、こうして食事まで……!」
「なあに、いいってことしゃん。どうやら見たところ、ホームレスじゃないようしゃん?」
「あ、ああ……! 実は仕事でこの島に来ていたのだが、ちょっとした事故にあって……!」
「いま、島に出回っている手配書の人相書きと、なんだかそっくりしゃん?」
その一言に、身を固くするクーララカ。
男は笑い飛ばした。
「イイしゃんイイしゃん! 神尖組に突き出したりはしないしゃん! 突き出すつもりだったら、わざわざかくまったりしないしゃん!」
「す……すまない。でも、どうして手配中の私を、かくまってくれたのだ? バレたら、あなたもただでは……」
「なぁに、俺も事故にあって、神尖組に酷い目にあわされたクチしゃん。この島にリゾートに来ていただけなのに、今ではこのザマしゃん」
男は、お手上げといった様子で両手を広げる。
スキンヘッドに褐色の肌、派手なシャツにショートパンツ。
身に付けている衣服はいかにも成金趣味といった感じだったが、しかし着の身着のままなのか、だいぶ汚れている。
まるでリゾート地で被災し、無一文となってしまった金持ちのような見目。
そしてクーララカにとっては初見の人物のはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がしてならななかった。
しかし決定的な何かが欠けているような感覚があって、どうしても思い出せない。
ならば深く考えてもしょうがないと、彼女は違和感を早々に切り捨てる。
「貴公も私と同じような境遇だったというわけか。……助けてくれて、本当に感謝する」
そう言って、クーララカは頭を下げた。
こんなに素直に頭を下げたのは、彼女にとっては久しぶりのこと。
それほどまでに追い詰められ、それどまでに救いになっていたのだ。
「なぁーに、困ったときはお互い様しゃん。だから気にするなしゃん。といっても俺も貧乏だから、たいしたもてなしはできないしゃん。でも、かくまってあげることくらいならできるしゃん。ここは安全だから、脚の怪我が治るまでいるといいしゃん」
親切が、じいんと身に染みたかのように身体を震わせ……。
クーララカは、言葉に感激を滲ませた。
「あ、ああ、すまない……! 本当に、なにからなにまで……!」
「疲れたんだったら、奥にソファがあるから、横になるといいしゃん」
「それでは、お言葉に甘えさせてもらおう。実をいうと、ここ数日まともに眠っていなかったのだ」
テーブルに手を付いて立ち上がったクーララカは、片足を引きずって部屋の奥へと向かう。
その途中で、ふと振り向いて、
「そういえば、名前をまだ伺っていなかったな。私はクーララカ、貴公は?」
「……『シャンパンアケマクリ』しゃん」
「そうか、とても景気の良さそうな名前だな。野良犬などとは大違いだ」
その軽口は、シャンパンアケマクリの額をピクリと震わせていたのだが、クーララカは気付くことはない。
そのまま奥のソファまで歩いていき、倒れ込むと同時に寝息をたてはじめる。
「思わぬカモネギが、転がり込んできたしゃぁぁぁんっ!? ツイてるしゃん! ツイてるしゃぁぁぁぁーーーーんっ!? シャンパン、アケマクリィーーーーーーッ!!」
そんな独特な歓声すらも、もはや届くことはなかった。