42 クーララカの逃亡生活1(ヘイト回)
路地裏には荒い吐息と足音が響いていた。
この島に来て、もうどれくらい経っただろうか、もうどれくらい走っただろうか、もうどれくらい高鳴りを感じただろうか。
しかし、振り返ることは許されない、足を止めることは許されない、安息を求めることは許されない。
獲物を追い詰めていく、狩人のような怒声に囲まれているからだ。
「もう逃げられんぞっ!」
「お前はもうすでに包囲されている!」
「あきらめて、投降しろっ!」
声量が、少しずつ間近になっているのを感じる。
彼らの言うとおり、包囲網は着実に狭まっているのだ。
焦りと疲労が募り、脚がもつれる。
まるで見えない手に足首を掴まれたかのようにバランスを崩し、
……ズダァンッ……!
と前のめりにゴミ溜めに突っ込んでしまった。
ちょうどその時、真上にある窓が開き、コックのような男が鼻歌交じりに顔を出す。
彼が手にしていたバケツをひっくり返すと、残飯がドサドサと降り注いできて、身体じゅうが鼻の曲がるような異臭に覆われる。
コックは眼下に倒れている何者かに気付き、溜息をついた。
「あーあ、ワイルドテイルがまたゴミあさりに来てやがるぜ。でももう虫の息みてぇだから、もうすぐ死んじまいそうだなぁ」
コックはいったん部屋の奥へと引っ込む。
再び窓際に戻ってきた彼が手にしていたのは、血のこびりついた火かき棒だった。
コックはわざと恐怖を煽るかのような、引きつり笑いをあげる。
「コックックック……! コイツで『最後の晩餐』を演出してやるのが、俺のささやかな楽しみのひとつなんだよなぁ。この前なんてワイルドテイルの親らしきヤツの頭をカチ割ってやったんだが、それでも残飯を離さなかったのがケッサクだったぜぇ。遠くで見てたガキどものほうが死にそうな顔してたのが、またサイコーでさぁ……! って、おい、聞いてんのかぁ!? それともビビっちまって、ひと足早く死んじまったかぁ?」
しかし生ゴミが生み出したモンスターのように、それは起き上がった。
「き……貴様ぁぁぁ……! 私はホームレスなどではないっ……! それどころか、ゴミをぶっかけるなど……!」
呼吸の乱れと怒気があわさり、すさまじい荒い息を放ちながら、腰に携えていた剣の柄をガッと掴む。
その剣の柄の先には、とぐろを巻いた蛇のような飾りがあるのだが、抜刀の際には動き出して持ち主の腕に巻き付く。
剣人一体となって、悪を斬るという剣なのだが……。
しかし蛇は飾り物のように、微動だにしない。
それでも不意に、腕にまとわりつくような感触を感じ、ハッと視線を落とす。
しかし腕に絡みついていたのは、長いリンゴの皮だった。
コックはホームレスが武装しているとは思わなかったのか、「コクェッ!?」と火かき棒を取り落としかける。
「こっ……コックェーーーッ!? だっ……誰かっ!? 誰かぁぁぁぁぁぁーーーっ!? 剣を持ったワイルドテイルがいるぞっ! 殺されるぅぅぅぅぅーーーーーーっ!?!?」
悲鳴を聞きつけ、路地の向こうから追っ手が現れる。
「いたぞっ! あそこだっ!」
「あっ、逃げたぞっ!」
「待つんだ! 野良犬マスクはすでに投降している! お前のことを洗いざらい、すべて白状したぞっ! お前も投降すれば、罪には問わない! だからもう、逃げるのはやめるんだっ!」
遠くから迫ってくる呼びかけには、正しいことなどひとつも含まれてはいない。
野良犬マスクはいまだシンイトムラウに立てこもっているし、逃げるのをやめたところで待っているのは激しい拷問。
ウソをついてまで投降を呼びかけるのは、衛兵などが逃亡者に対して行なう常套手段のひとつである。
しかしこの単純なる逃亡者には、てきめんに通用した。
「くそっ……! やはりあの時の野良犬マスクは、ゴルドウルフだったのか……! アイツめ、私を売るなどとは……!」
歯噛みをしながら身体に鞭打って、身体を翻す。
コックを尻目に走りだそうとしたが、今度はハッキリと見える、悪意に満ちた手で、
……ズダァンッ……!
と引きずり倒されてしまった……!
「ぐうっ!? うぐうぅぅぅっ!?」
焼けるような痛みに悶絶する。
太ももを、火かき棒の鉤爪が貫いていた。
「コックックック! ゴミにまみれてたから気付かなかったが、お前は手配書に描かれてたヤツだな!? こちとら未来の勇者サマよっ! ここで神尖組に恩を売っておけば、コックが勇者認定されたときに、一気に大出世が見込めるぜっ! コーックックックックッ……!」
いやらしく笑いながら、窓から乗り出してこようとするコック。
その両手には、大きな肉切り包丁が……!
「き……貴様ぁぁぁぁぁっ……!?」
死にかけのミミズのように身体を暴れさせ、なんとか立ち上がる。
刺さっていた火かき棒を抜こうとしたが、ズキリと走った痛みの向こうで、声がした。
『……今日は趣向を変えて、一風変わった曲剣について勉強しましょう。これはショーテルという、プジェトに伝わる剣です。「?」の文字のように、刀身が大きく湾曲しているのが特徴です。なぜこのような形をしているのか、わかりますか?』
『はい、はい、はーいっ! 盾を持っている相手をよけて攻撃するためでしょう!?』
『その通りです、シャルルンロットさん。それとこのショーテルには、他の用途もあるのです。ヒントとしては、この剣はプジェトでは衛兵が使う剣として一般的で……』
『逃げようとする者の脚を引っかけるために使うんだろう』
『正解です、クーララカさん。そしてここからが新しい知識となるのですが、脚を引っかける以外にも、太ももを刺すのにも使えるのです』
『なんだと? 太ももなんか刺して、なんの意味があるのだ?』
『太ももというのは外側を刺すと血が大量に出るので、戦意を喪失させられるんです。逆に内側はもっと酷くて、致命傷になります。そして剣の達人であっても、このことを知る人はほとんどいません。そもそもショーテル自体が一般的ではないうえに、そうやって使う人となると皆無なためですが……』
『だったらショーテルを使えば、今度の剣術大会でも連戦連勝じゃない!?』
『そうかもしれませんね。そしてここからは注意となるのですが、もしショーテルが……。いいえ、ショーテルでなくても、武器で太ももを刺された場合、何としても引き抜かせてはいけません。矢の場合などは、その場で抜いてはいけません。血が大量に噴き出すので、その後の戦闘も、そして逃走する際にも不利になります』
『パンくずを撒きながら逃げるようなもののん』
『アタシは何があっても絶対に逃げたりしないから、別にいーけどね』
『私は血が苦手で……自分の鼻血でも気絶しちゃうんですぅ~!』
……脳内で起こった子供たちの笑い声に、ハッと我に返る。
「くっ……!」
抜いては、いけない……!
何もかもをそのままにして、走り出す。
火かき棒の柄についた木が引きずられ、カラカラと音をたてた。