36 ゴルゴン2
訓練に参加している、仲間を……。
いや、捨て駒を始末するのは簡単だった。
なにせ、みな深手を負ったゴキブリに夢中。
なにせ、ゴキブリにトドメを刺すことができれば、神尖組の隊長に抜擢される。
普通は訓練場でどんなにいい成績をあげても、隊長候補への推薦まで。
しかしゴキブリを始末できれば、その時点で訓練所は卒業となり、一気に隊長になれる。
若きエリートを夢見る、捨て駒たちを焚きつけるのは簡単だった。
ゴキブリを追うヤツらの背後から射貫いてやれば、ヤツらはそれだけで仲間割れをはじめる。
あとは手紙で教わった『静』で隠れていればいい。
しばらく待てば同士討ちによって、ゴキブリを狙う捨て駒は大幅に減る。
ちなみにこの戦術も、手紙から教わったもの。
ゴブリンなどの低脳で下卑たモンスターの巣などに対して、ゴブリンたちが使っているような粗末な矢をこっそり撃ち込んでやれば、仲間にやられたと誤解して、勝手に同士討ちを始めるのだ。
そうやって、残った捨て駒……。
いや、浅ましいゴブリンたちを始末するのは、当時の俺にとってはたやすい事だった。
残るは、ゴキブリのみ。
模擬戦場の中を、模擬ではない死体が転がる中を、片腕だけで必死に這い逃げている。
俺はその時、ヤツの背後の物陰にいた。
もはや気付くこともないだろうと立ち上がり、最後の一矢をつがえる。
そして、俺は……。
狙撃手人生にって、最後の過ちを犯した……。
「フッ……死ね……!」
興奮を抑えきれず、つい顔の造作を崩してしまったんだ……。
それは口元を歪めただけだったが、俺にとっては哄笑ともいえるものであった。
当然のようにゴキブリは気づき、仰向けに転がって俺のほうを見た。
ヤツのその時の表情は、傑作だった。
恐怖に青ざめ、凍りつき……ゴキブリのくせに、涙まで浮かべて……。
しかしヤツはまだ、生きるのを諦めていないようだった。
俺に向かって手作りの弓矢を片手でつがえ、歯で弦を引き絞ったんだ。
その、地獄の底にいてもなお諦めず、蜘蛛の糸にすがるような無様な構え。
そして撃ち放たれた矢が、
……ビシュンッ!
と俺の肩ごしに過ぎていく時の、悲しい風切音を……。
俺は、一生忘れないだろう。
ヤツの最後の一矢は、何にも報いることはなかった。
しかし、
……バキィンッ……!
背後で、何かが弾けるような音がした。
振り返ると、まだ死んでなかったゴブリンが、俺を背後から射貫こうとしていた。
背後からの矢に、危うく射貫かれてしまうところだった。
だがなんと、ゴキブリが外した矢が……。
奇跡的な偶然で、それを打ち落としていたんだ……!
俺は笑いが止まらなかった。
「俺は、決して殺せない……死神の手にゆりかごを揺らされて育った、生まれついての『死神の子』だからだ……!」
腹をよじっているのも同義の声で、背後のゴブリンを始末したあと、改めてゴキブリに向き直る。
……そしたら、ヤツはなんて言ったと思う?
「私は……私は……! 仲間どうしで殺し合いをさせるために、あなたに弓術を教えたのではないのです……!」
……ゴォーーーーーーーーーンッ!! ゴォーーーーーーーーーンッ!! ゴォーーーーーーーーーンッ!!
訓練終了の鐘に邪魔されて、よく聞えなかった。
きっと、命乞いの台詞でも絞り出していたんだろう。
俺は、悔いた。
あと少し時間があれば、ゴキブリにトドメを刺せていたのに。
俺は最高のチャンスを、自分の手でフイにしてしまったんだ。
そしてそれは、俺にとって最大の悔恨となった。
あのとき笑わなければ、ゴキブリに気付かれることはなかった。
あのときゴキブリに気付かれなければ、ムダな時間を過ごすこともなかった。
あのときムダな時間を過ごさなければ、俺は神尖組の隊長になれていたのに……!
そして、俺は……。
狙撃手人生において、最後の決断をした。
訓練場にある武器庫のテント、その薬品棚から劇薬を探し、一気に飲み干したんだ。
喉を焼かれ、俺は声を失った。
同時に……残滓のような感情も。
俺は本当の『死神』になるために……。
殺しの機械になるために、人間らしさを構成するものを、すべて訓練場に置き去った。
訓練所を卒業した俺は、所長から授かった弓術の教えを活かし、神尖組で活躍……。
ついに第13番隊の隊長となった。
俺の部下となった隊員たち、その中でも優秀とされる第4班の者たちについては、忠誠の証として、俺があの時飲んだのと同じ劇薬を飲ませた。
同じように声と感情を捨てさせることで、最高の捨て駒に仕上げたんだ。
俺は、過去の記憶までもを、訓練場に置き去りにしたはずだった。
しかし今日、標的の構えを見たとたん……。
一気にあの頃のことが蘇ってきた。
しかし、あの矢は……。
あのときの、矢と違い……。
奇跡をもたらすことなどないだろう。
なぜならば、標的のいる山頂の岩場から、俺のいる狙撃場所まで、200メートルもの距離がある。
弓で標的を狙える限界の距離は、70メートルだ。
しかもそれができるのは、世界では片手の指で数えられるほどしかいない。
魔法練成がかかった最高級の弓矢を使ったとしても、100メートルが限界。
標的が構えている弓矢は、あのときの弓矢と同じ、粗末なものでしかない。
あれでは50メートルどころか、30メートル先の相手に当てるのも難しいだろう。
……だから。
だからこれは、何かの間違いだろう。
折れた木の枝が、偶然落ちてきたんだろう。
俺の手の甲に刺さっているのは、矢などではない。
矢であるはずがない。
長い夢を見ているだけだ。
それを証拠に、身体が動かない。
夢のなかではよくあることだ。
傷も、たいして深くはない。
矢を抜いて、傷口に緊急治療ポーションをかけておけば、大事に至ることはない。
いや、そもそも夢なのだから、治療の必要もない。
待っていれば、そのうち目覚める。
それがいくら長くかかったとしても、狙撃手としての『静』の教えを守ればいい。
あの教えがあるからこそ、いまの俺がいる。
傷口に、白い米粒のようなものが出てきた。
やがてそれは動き出して、傷口の上を這い回りはじめた。
羽虫が増えてきた。
払おうにも、身体が動かない。
しかしあの教えにもあった。
岩のように、雨に打たれても、虫が止まっても動かない。
自然とひとつになってこそ、本当の『静』が生まれるのだと。
矢の刺さった手の甲が、びっしりと白い米粒で埋め尽くされた。
指の骨が、剥き出しになっている。
闇とひとつになるために、俺は肌まで黒く染め上げた。
しかしまだ白い部分があったとは、盲点だった。
この任務が終わったら、黒くしよう。
俺は生まれた頃から、『プロ』であり続けた。
それはこれからも変わらない。
呼吸をするように、ただひたすらに死を運び続けた。
だからこそ『死神』と呼ばれるようになったのだから。
次回、グレイスカイ島が再びパニックに!