35 ゴルゴン1
俺は……。
生まれた頃から、『プロ』であり続けた……。
同じ産湯には二度浸からなかったし、ミルクは必ず乳母に毒味をさせた……。
そして立ち上がれるようになった頃には、玩具の弓矢を使って、使用人相手に『狩り』の練習を重ねた……。
それもすべて、殺しの中に、身を投じるため……。
一流の殺し屋が集う、『神尖組』に入るためだった……。
そこで俺は物心つく前から、弓術師としての訓練を、本格的に受けた……。
まわりには近い年頃の者たちが大勢いたが、ヤツらは決して仲間などではなかった……。
真の弓術師は孤独なものであると、自分に言い聞かせ……。
誰とも馴れ合うことなく、ひとりで生きてきた……。
そうしているうちに、俺に死神が寄り添った。
俺の放つ矢は、すべて標的に吸い込まれるように命中した。
手に手に近接武器を持ち、考えなく標的に突っ込んでいく無能な者たち。
彼らが標的に一撃を加える寸前、矢で標的の頭を射貫き……。
無能な者たちに徒労を感じさせることだけが、俺の唯一の楽しみだった……。
しかし……ゴキブリだけは……。
あのゴキブリだけは、違った……。
俺の矢から、ことごとく生き延びていたんだ……。
ヤツは、弓矢の射程になかなか入ろうとはしなかった。
訓練場の模擬戦場にある、狙撃用の櫓の周囲に、決して近寄ろうとはしなかったのだ。
弓術師たちが櫓を降り、ヤツを追いかけるようになると、今度は遮蔽物に隠れる。
極力身体を晒す面積と時間を最小限にとどめていた。
そして時にヤツは、戦場内にあるガラクタを使い、粗末な弓を作り上げていた。
外れ矢を拾い集め、訓練生たちに反撃することもあった。
しかしヤツは逃げる技能は一流でも、弓矢の腕前は素人同然。
一発も当たることはなかった。
しかしいずれにせよ、俺の矢が通用しない相手の出現に、俺は焦った。
思えば俺が取り乱したのは、後にも先にもこの時期だけだったかもしれない。
しかしある日、俺の寮の自室に、差出人不明の手紙が投げ込まれていた。
その手紙の存在は、以前から噂として知っていた。
訓練場の所長が、匿名で訓練生に当てているという手紙だ。
立場上、おおっぴらにアドバイスすることはできないので、見所のある者に匿名の手紙として送っているらしい。
現にこれを受け取り、書かれている内容に従った者は、めきめきと頭角を現していた。
今現在、神尖組で多大なる戦果を挙げている者は、みなこの手紙を受け取っている。
その手紙が、ついに俺にも来たのだ。
書かれていた内容は、弓術に関する事こまかな指南。
手紙は何回かに分けられて届き、届けられた手紙の内容が実践できたら、次のが届くという形になっていた。
どうやら俺の訓練の様子を、所長は毎日しっかり見てくれているらしい。
俺はやはり、『プロ』になるために生まれてきた人間なのだと実感できた。
手紙は必ず2枚の紙で構成されており、弓術における『正しき心』と『技術』についての内容であった。
前者のほうは説教臭い内容だったので、早々に読むのをやめた。
しかし技術指南のほうは、俺の弓術をさらにレベルアップさせるために大いに役立った。
弓術師は、静と動。
何者にも存在を悟られぬように、息を潜めて獲物を待つ、『静』。
馬に乗って森を駆け抜け、獲物を追い詰める、『動』。
このふたつを、狩る対象に合わせて使い分けることこそが弓術の極意だと知った。
『静』の場合は獲物との根比べ。どんなに相手が隠れていても、決して自分から動いてはならない。
そして自分の存在が悟られる要因となる一射は、絶対に外してはならない。
必ず一射で仕留めるために、周到に用意する。
木を切り倒すのに8時間を与えられたら、6時間を斧に研ぐのに費やすように。
シミュレーションを何度も重ね、一射の成功をイメージする。
そのイメージが完璧にできあがったら、実射において外すことは絶対になくなる。
『動』の場合は獲物との同調。獲物の呼吸や足運びと一体となり、逃げるであろう先を予測して、矢を放つ。
それに加えて仲間との連携。
相手が兵士の場合、頭部や胴体は防具で守られていることが多い。
そうなれば弓矢で致命傷を与えるのは難しい。
しかしそんな相手でも狙いやすく、また致命的なダメージを与えられる部位が、ひとつだけある。
それは、カカト。
脚というのは、人間が空を飛ぶのが不可能な以上、歩いていても走っていても、必ず片足だけは地面に接地しなくてはならない。
接地するということは、平面の座標はともかく、高さだけは必ず一定間隔で、決められた位置に来るということだ。
頭や胴体はしゃがんで高さを変えられるが、どれだけ姿勢を低くしようとも、カカトの高さだけは変えられない。
物陰に隠れていても、カカトはもっとも注意の及ばない部位のひとつでもある。
そして、何よりも……。
背面にあるカカトは、重装の兵士であっても、防具を疎かにしている場合が多い。
接近戦であってもほぼ狙われない部位なので、ふくらはぎより下は素通しの兵士もいるくらいだ。
その無防備に晒された部位は、第二の心臓ともいえる。
しかし矢で射貫かれたところで、即死には至らない。
しかし、しかし……。
移動力は、著しく奪われる。
そこで活きてくるのが、仲間との連携だ。
カカトを射貫いて動けなくさせられれば、あとは仲間が容易にトドメを刺せる。
……これらの教えは、俺の狙撃手人生にとっての天啓といってもよかった。
今までは矢がカスリもしなかったゴキブリに、ついに一矢報いることができたのだから。
しかしヤツは、しぶとかった。
カカトに矢を受けても、後続の仲間たちの攻撃を、転がって避けきり……。
ついには腕の力だけで這い逃げていったのだから。
そんな、あと少しという所まで追い詰めたのに、仲間のふがいなさで討ちもらす日々が続き……。
俺は、悟ったんだ。
仲間との連携なんて必要ない。
やはりトドメは、俺でなくてはならないと。
仲間は、俺の一射一殺の確率を極限まであげるための、捨て駒でしかないと……。
そして俺はある日、俺の狙撃手人生にとって、最大の転機を迎える。
その日は俺の一矢でゴキブリのカカトを射貫き、ヤツが這いつくばったところに偶然にも、仲間たちの一撃が腕にヒット。
ヤツは片腕をへし折られ、残った片腕ででしか這えなくなったんだ。
それはまさに、死にかけのゴキブリみたいだった。
ゴキブリ狩りをしていた訓練生たちは、熱狂に包まれた。
なにせ、いままでの訓練でさんざん逃げられてきたゴキブリが、今や歩いてでも追いつけるくらいに、弱っていたからだ。
だから……俺は……。
訪れた最大のチャンスを前に、最後の決断したんだ。
俺の矢の切っ先が、次に向けられたのは……ゴキブリの頭じゃない。
いまにもその頭をカチ割りそうに振りかざされる、剣や棍棒。
そう……。
俺はその訓練に参加していた仲間たちを、全員射殺したんだ……。