31 素人に迫る刃
シルエットでも身なりの悪さがわかる、獣のような青年が、真夜中のシンイトムラウの山道をひとり登っていた。
ボサボサの頭にまぎれた、欠けた犬耳がせわしなく動き、毛の逆立ったしっぽがせわしなく揺れる。
一寸先の闇に怯えているわけではなかった。
山道のほとんどは月明かりも差さない深い森であったが、彼にとっては真夜中にベッドから起きだしてトイレに向かうような、知りつくしたルートである。
躓いてたまにすっ転んでいるのは、興奮の証。
ストロングタニシは思わず叫び出したくなる気持ちを必死に抑えていた。
――す……すげえっ! すげえすげえすげえすげえ、すげぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーっ!!
この俺様が、神尖組の本隊……!
しかも第13番隊の、第4班……!
暗殺剣の猛者どもと一緒に、行動するだなんて……!
へっ……! へへぇぇぇぇぇぇーーーんっ!
どんなもんだっ! 俺様も出世したもんだぜっ!
といっても、周囲には彼以外の気配などない。
彼自身、信じられなかった。
――へ……へんっ! でも本当に、俺の後ろから付いてきてるのかよ……!?
足音どころか、ひとつの葉も揺れてねぇってのに……!
それどころか、気配すら感じさせねぇ……!
幽霊だってもうちょっと、いるカンジを出すってのによ……!
実は誰もいなくて、俺をかついでいるんじゃねぇのか!?
ストロングタニシは懐にしのばせたゴーグルに手をかけたが、取り出そうとした寸前でぐっとこらえた。
そのゴーグルを掛けて振り返れば、たちまち幽霊すら浮き彫りになるという。
第4班の者たちを案内するにあたって手渡された、班の仲間どうしを識別するマジック・アイテムである。
しかし使っていいのは緊急時だけで、不用意に使ったら首を飛ばす……と班長から恐ろしい念押しをされていた。
――へ……へんっ!
いくら脅されたところで、野良犬暗殺の瞬間だけはコイツをかけて、何としてもこの目で拝んでやる……!
だって、そんなチャンスは二度とねぇんだからな!
神尖組第13番隊、第4班の暗殺を見たものは、誰もいねぇ……!
なぜならば目撃者がいれば、無関係な女子供でも容赦なく殺すって話だ!
そんな外道どもの剣、この最強勇者を目指すストロングタニシ様の糧にならねぇわけがねぇ!
それにサイ・クロップスの野郎と渡り合った、野良犬野郎の実力も、これでハッキリする……!
へへんっ! 我ながら、美味しいポジションに着いたもんだぜ!
ちょこっと案内するだけで、神尖組の剣がいちばんいい席で拝めるんだからな!
野良犬が生き残ってくれりゃ、これからもいろんな剣豪と会えるんだが……。
でも神尖組の本隊、それも『死の第13番隊』が出張ったとあっちゃ、おしまいだろうな。
ストロングタニシは自然と、歩きながら歌を口ずさんだ。
班長からは「いつもこの山に来ているときと同じように、自然に振る舞え」と言われているので、咎められることもない。
夜がらす鳴いた、声なく鳴いた。
誰かが、死ぬってよぉ。
夜がらす飛んだ、音なく飛んだ。
ヤツらが、来るってよぉ。
戸締まりせんと、灯りを消せと。
それでもムダだ、それでもムダだ。
だってヤツらは、跫音も無いってよぉ。
壁をすり抜け、屋根から降るってよぉ。
死ぬしかないさ、死ぬしかないのさ。
ヤツらの跫音を聴いたヤツは、死ぬしかないってよぉ。
泣く子は死ぬ、鳴く犬も死ぬ。
だから見るな、触るな、関わるな。
地蔵は首なし、墓は苔むす。
布団をかぶり、息をひそめろ。
13番隊は、死神の使い……。
逃れられる者は、いないってよぉ……。
これは、13番隊に一夜にして城の者たちを皆殺しにされた、王室つきの吟遊詩人の歌である。
彼自身もこの詞を書き終えたペンを握りしめ、絶命していた。
本来であれば、『仕事』の痕跡を一切残さない13番隊であるが、この時は神尖組暗殺部隊の怖ろしさを世に知らしめるために、あえて詞を残したという。
そんな逸話を数多く残し、皆から怖れられる存在である第13番隊は、ストロングタニシの憧れのひとつでもあった。
――へんっ! ……怖れられりゃ、誰からもナメられることはねぇ……!
理不尽な暴力に悩まされることも、一方的に苦しめられることも……!
愛する者たちを殺されることだって、なくなるんだ……!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
同刻、山の頂上付近。
あぐらをかいて、熱せられた石板の前に鎮座するは、野良犬マスク。
光源はほんのわずか。
野良犬マスクの前方1メートル程度を、ほのかなオレンジで照らす、石板の下の炎のみ。
そこに浮かび上がっているのは、少女の幸せそうな寝顔。
「むにゃむにゃ……かみさま……もう……たべられないの、です……」
それ以外の周囲は、一度入ったら抜け出せぬ深淵のような闇。
草木も寝静まった空間にある、音といえば……。
焚き火のくゆりと、すやすやとした寝息。
野良犬マスクの眼前に広がっている光景は、すべてが深海のように安らかであった。
しかし彼の背後は、ブラックホールのような無間と無音。
そして闇の風穴から産まれ出でたような者たち。
野良犬マスクの表情はわからなかったが、座禅を組んでいるように動かない。
肩だけがゆっくりと上下しており、もう寝入っているのではないかと思えるほどに落ち着いている。
やがて野良犬マスクは静かに、石板の上に木へらをあてがうと、船をゆっくりと漕ぐように動かしはじめた。
……さり、さり、さり……。
焦げ付きが剥げ落ちる音が、薪の燃える音に混ざる。
表面を綺麗にしたあとは、竹筒に入った油を石板に垂らした。
へらで塗り伸ばすと、白い煙がふわっと立ちのぼる。
ひとりだけの客はすでに寝静まっているのに、鉄板の準備とは……。
新たな客が来ることを、見越してのことなのか……。
それとも……。
彼の夜食の、始まりなのか……。
いずれにせよ、オッサンは背後に立っている者たちに気付く様子がまるでない。
すでにオッサンのうなじには、産毛に触れるほどの至近距離で、死神の鎌のような短剣があるというのに。
神尖組13番隊、第4班が失敗する要因はもはや何もない。
野良犬はすでに、完全に詰んでいる状態。
野良犬は名だたる名将でも、四隣に聞えた剣豪でもない。
寝首を掻かれないだけの将星も、殺気を察する神気も持ち合わせていない。
どう見ても、ただのオッサン。
野良犬のマスクを被った、痛いオッサン。
ひいき目に見て、子供たちの人気を集めるために、野良犬のマスクを被って夜店の屋台に立つ、企業努力も涙ぐましいオッサン……!
彼がこんな時でも頑なに外さないそれが、中身ごと胴体と分れるのは、あとは時間の問題であった。