193 血肉
……ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ……。
部屋を支配するその音は、形容しがたいほど不快であった。
まともな人間であれば、怖気が止まらないほどの……。
無数の蠅が全身にたかり続けているような嫌悪感を、肌で感じる、その音……。
「……うっ」
ジェノサイドダディは深酒のあとの朝のような、重苦しい意識を取り戻す。
「う……う……ここ……は……?」
毒と、おかしな目覚めのせいか、視界が定まらない。
全身が強ばっていて動かず、あたりを見回すために首を向けるのもやっとであった。
平衡感覚も定かではなく、寝かされているのか、それとも立ったままなのか……。
室内は、燃え落ちる前の屋敷を彷彿とさせるような、彼好みの高級家具で彩られている。
ここは……地下の別室、非常用の寝室だろうと、オヤジは思った。
屋敷の地下室は金庫だけでなく、災害時に備えて一家4人が暮らせるだけの設備も整えてある。
目に映る風景から察するに、自分は立たされている状態なのだと気付いた。
寝かされているのであれば、天井がまず目に入るのだが、立っている状態と同じようなものが見渡せる。
しかし……身体は動かない。動かせないのだ。
まるで脳だけが目覚め、身体はまだ寝ているかのように……。
……ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ……。
なおもどこかで鳴っている、不快な音に顔をしかめながら、視線を巡らせていると……。
すぐ後ろに、人影が立っていることに気付いた。
「気がついたか、オヤジ」
その人物はそう言うと、オヤジの前に回り込んでくる。
自分がもうひとりいるような感覚……彼のふたり目の愛息であった。
「ううっ……どうやら俺は、眠っちまったようだな……。ファング、お前がここまで運んできてくれたのか」
「ああ」と自分そっくりの顔が頷く。
「どうやら、無理をし過ぎちまったみてぇだ……。なんだか、身体が言うことをきかねぇんだ……」
オヤジは自分の身体が動かないのは、無理を重ねすぎたせいだと思っていた。
……ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ……。
「ところで、この変な音はなんだ? うるせぇから止めろ。おちおち、寝てられやしねぇ……」
「それはできねぇな」と自分そっくりの顔が左右にふれる。
「なんでだよ……ゴルァァ……」
オヤジは力なく唸る。
彼の愛息は、オヤジのすぐ真横にある壁を示していた。
身体はなおも動かないので、首を捻ってその方向を見やると、そこには……。
大きな姿見があった。
大柄なジェノサイドナックルでも全身が映るような特注品で、木枠も贅を尽くしたプラチナメープルを使ってある。
王室にあってもおかしくない逸品であるが、作らせた工房には、傷があるとかなんとかクレームをつけ、タダで手に入れたもの。
おかげでその工房は潰れてしまい、営んでいた一家は心中してしまったそうだが、オヤジにとってはそれすらも武勇伝であった。
いや……そんな事は今はどうでもいい。
オヤジは鏡面に映っている己の姿に、目を剥いていた。
彼の身体は、こことは違う世界からやって来たようなデザインの……。
強いて似たものを挙げるとするならば、樽のようなものに……首だけ出して入っていたのだ。
……ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ……。
その地獄の拷問具のような見目の物体は、小刻みに震え、耳障りな音を絶えず放っている。
「な……なんだ、これはっ……ゴルァァ!?」
意識が朦朧として、得意の怒声も力ない。
耳にするものすべてが遠くにあるような感覚を、彼はまた味わっていた。
これはな、オヤジ……。
魔王信奉者が悪魔憑依者になるための、魔道装置なんだ。
魔王信奉者どもは聖女をさらってきて、この中に入れるそうだ。
この中に入られられた者は全身の血を抜かれて、ミイラみたいになっちまう……。
そして魔王信奉者どもは抜いた血を、今度は自分に輸血して……。
自分の中にある血を、まるごと入れ換えるそうだ。
抜いた自分の血は、悪魔に貢ぎ物として捧げ……。
そして聖女の穢れなき血となった身体で、悪魔信奉を続け、己の血を穢す……!
それを繰り返していくうちに、心まで悪魔に染まり……。
悪魔憑依者になれる、ってわけだ……!
どうだ……?
なかなか、狂ってるとは思わないか……!?
「じぇ……ジェノサイドファングっ!? お前がまさか、魔王信奉者だったなんて……!?」
慌てんなって、オヤジ。
俺は魔王信奉者じゃねぇよ。
そんなのになるくらいだったら、ビールを小便に変える魔法を勉強するほうが、よっぽど有意義だぜ。
まあ、魔王信奉者どもから、この魔導装置を買うために、フリくらいはしたけどな……。
「じゃ、じゃあ、なんのために……!?」
わかんねぇか……?
実は昔から思ってたんだが、オヤジって、かなりの間抜けだよな……。
脳と腸の中身が入れ替わってんじゃねぇのかと、時々思うことがあったぜ……。
よくそれで『伝説の販売員』になんて、なれたもんだな……。
でもまあ、俺がこう思うのも最後だから、教えてやるよ。
俺はいまは保釈中の身だが、憲兵局に起訴されてる。
って、その時の裁判にオヤジもいたから知ってるよな。
俺は知ってのとおり、クレーム騒動を起こした『ライオンマスク』だ。
もちろん俺自身は、認めるつもりはねぇが……憲兵局はマスクと現場に残った血痕と、俺の血液を照合したがっている。
……もう、わかったよな?
なに、まだわからねぇのか?
まったく……干からびた猫のフンみたいな脳みそだな。
この魔導装置を使って、俺の血液をオヤジのものと入れ換えたあと……。
血液検査を受けたら、どうなると思う……?
そう……!
マスクと現場に残った血とは、適合しなくなり……!
俺は身の潔白を、証明できるってわけだ……!
それで無罪を勝ちとれば、こっちのもんだ……!
俺は、憲兵局の誤捜査に苦しめられた、善良なる勇者となり……!
晴れて表舞台に戻れ、今度は憲兵局を攻撃できる……!
このスキャンダルを利用して、オヤジにかわって憲兵局大臣を失脚させられれば……!
ポップコーンチェイサーの野郎にも、取り入れる……!
オヤジが不在となった今……!
この俺が、この国のゴージャスマートの本部長に、なれるんだっ……ゴルァァァァァ!!
「そう、か……。そう、だったの、か……。俺は、本当に、なにもかも……失っちまう、のか……。ナックルにも、ロアーにも……地位も、名誉も、仕事も、住むところも、妻も、金も、全部奪われて……。残った命は……ファング、お前に……」
オヤジはこの魔道装置で血を抜かれ、もうすぐミイラになっちまうが……。
心配は、いらないぜ……。
この俺の中で、永遠に生き続けるんだからな……!
「ああ、いい……ぜ……。お前は、ボロボロになった俺を……。ほんのひと時だけ、救ってくれた……。『禁断の金』をロアーに奪われて……最後の希望を失っていた俺に……最後の安らぎを、くれたんだ……」
ああ、その話か。
まだ気付いていないだなんて、やっぱりオヤジは、本当の間抜けだな。
オヤジに比べたら、病気のロバですら賢く思えるぜ。
『禁断の金』を頂いたのは……俺だよ。
野良犬のクソ野郎に騙されちまったせいで、手元には1¥も残ってないけどな。
金庫の暗証番号は、なんでわかったのかって?
わかるさ、そのくらい。
オヤジが、俺たち兄弟の生年月日を、暗証番号にしてることくらい……。
わからないとでも、思っていたのか?
遺言の時にでも発表して、いかに俺たち兄弟を愛していたか、アピールするつもりだったんだろう?
あぁ、どうやら……。
俺はアンタから、人生最後の茶番まで、奪っちまったようだな。
さぁて……。
おしゃべりは、そろそろ終わりにしようか。
あとは、この魔道装置にあるレバーを倒せば、樽の中にギッシリ詰まったヒルが、オヤジの身体じゅうの血を、一斉に吸うだろう。
一刻も早く血が吸いたいヤツらが、全身を這い回っているのを……もう、肌で感じているだろう?
全身の血を吸われるのは、それはそれは、相当な苦痛らしいぜ……。
時間もかかるから、どんな気丈な聖女でも途中で耐えられなくなって、自分で舌を噛んで死んじまうそうだ。
その絶望や悲鳴も貢ぎ物になるらしいから、魔王信奉者どもは聖女の口に轡を噛ませて、自殺できないようにするらしい。
最後の最後まで苦しめ抜いて、狂い死にさせるってわけだな。
俺は血が貰えればいいから、途中で死んでもらってもかまわないが……。
魔導装置を買ったときに、サービスで轡も付けてもらったから、せっかくだからオヤジにも嵌めてやるよ。
大丈夫。この地下室なら、いくら叫んだって外には漏れない……。
だから好きなだけ泣いて、喚いてくれ……。
じゃあな、オヤジ……。
次は、俺の中で会おうぜ……。
「「……ガチャンッ!!」」