105 オッサンと海
『スラムドッグマート ハールバリー1号店』のスイングドアを、そばにいた老婆に開けさせたライドボーイ・ゼピュロス。
老婆はついてこようとしたので、チップがわりの投げキッスでノックダウンしてから入店。
そして、狐と化した。
「いらっしゃいませ、スラムドッグマートへようこ……キャッ!?」
出迎えてくれたプリムラの手首を掴むと、ずんずんと店の奥へと引っ張っていく。
まるでウサギの首根っこに食らいついたかのように、決して離さない。
「あ、あの、お客様っ!?」
「もう、耐えられないのさ」
「えっ?」
「その清音で、多くのメンズを虜にしているのが。脚を得た人魚よ、キミの探し求めている王子は、ここにいるのさ」
そのとき店内には、プリムラ以外の女性店員はいなかった。
いつもならマザーがいるはずなのだが、今日は聖務の都合で出勤が遅れている。
女性客はゼピュロスに気づくとハッと息を呑み、誰もがそのまま昇天するように崩れ落ちてしまう。
邪魔者を片付けたあとで、ゼピュロスはプリムラを壁に押しつけた。
そして両手を使った壁ドンで、逃げ場をなくす。
これぞ、ゼピュロスのスケコマシ奥義のひとつ……。
『永遠なる愛の檻~ゼピュロスゾーン~』……!
相手は死ぬ……!
ゼピュロスという名を、墓標に刻んでしまうほどに身を焦がされて……!
「ああ、やっと捕まえたのさ。キミのいないゼピュロスなど、鳥のいない空……」
「あの、困ります、お客様」
「そしてゼピュロスのいないキミは、魚のいない海……」
「あの、お客様?」
「だがキミが幸せでいるのなら、ゼピュロスは曇り空のままでいい。ずっとそう思っていた……しかし、もうお互い、自分を偽るのはやめにするのさ」
「えっ? 偽ってなどいません」
「こんな場末の冒険者の店で、自分自身を安売りし、傷つけている……。キミという名の海が、ほんとうはざわめているという何よりの証拠さ」
「そ、そんなことはありません!」
「欠けているものがあると、思っているのだろう?」
「そ、それは……!」
「あるんだね? その探し求めていたパズルのピースを、今ようやく見つけたという顔をしているのさ」
「は、はい……」
「言ってごらん? そのピースの名を……」
「は……はいっ! それは、ライドボーイ・ゼピュロス様……!」
「そうさ……! さあ、寄せては返してごらん。キミという名の海が求めている、魚に向かって……! このゼピュロスを、キミという名の愛のさざ波で、包み込むのさ……!」
「はいっ! ずっと、ずっとお慕い申し上げておりました……! なぜ、なぜすぐにお迎えに来てくださらなかったのですか!? ゼピュロス様がわたしの想いに気づいてくださると信じて、多くの勇者様からのお召し抱えを、すべて断っていたのに……!」
「好きな子には、意地悪をしたくなるものさ」
「そんな……! わたしはゼピュロス様に振り向いていただきたいあまり、ついにはこんな犬小屋のような場所に身をやつしてしまいました……!」
「このゼピュロスを許してほしいのさ、そのかわり勇者の名にかけて約束しよう。キミをゼピュロスのハーレムに加えることを」
「わ、わたしが、ゼピュロス様のハーレムに!? う、嬉しいっ! ゼピュロス様っ! もう、一生離れませんっ!」
「……あの、お客様、何をしているんですか?」
野暮ったいオッサン声に、ゼピュロスの妄想は中断される。
「あっ、おじさま!」
無人島に取り残されたかのように、ゾーンの中で青ざめていたプリムラ。
ゴルドウルフに気づくと、いつにない必死さでゼピュロスの腕をすり抜け、オッサンの背中にサッと隠れた。
ちなみにではあるが、ゾーンに入ってからの一部始終は、すべてゼピュロスの独演である。
何を言っても耳を貸さない謎の化粧男に、プリムラはすっかり戦慄していた。
狙った獲物を仕留められなかったのは、ゼピュロスにとって初めての事である。
しかし、ショックを受けた様子はない。
そしてプリムラの怯えた様子を見ても懲りることはない。
すべてを見通しているかのように、肩をすくめていた。
「わかっているよ。人気アイドルであるこのゼピュロスと、ひとつになることなど叶わぬ夢……。そう思っているのだろう? ふたりはひとつになることを許されない、まるで空と海のように……。そう思っているのだろう? だからこそ、懸命に気のないフリをしている……」
謎解きをする名探偵のように言いながら、回り込む色男。
間にいるオッサンは柱か何かだと思っているのか、まるで眼中にない。
「隠しても無駄なのさ。海が空の色を映しているように……いくら言葉では否定してみせても、心の中はゼピュロス色に染まっている……」
そして白手袋の指を、ピンと立てた。
「もう、いいのさ。その変な野良犬のエプロンも、気高い聖女のローブも、キミの心臓の高鳴りは、隠しきれていない……。あとは起爆スイッチを押すだけなのさ。それを今、このゼピュロスが……!」
シュバッ!
すばやく伸ばした指は、何のためらいもなくプリムラの胸へと向かう。
先端を狙ったそれは、
ガシイッ!
あとほんの数ミリといったところで、節くれ立った手に掴まれてしまった。
キッと顔をあげるゼピュロス。
このとき初めて、ゼピュロスはオッサンの目を見た。
……このふたりが出会ったのは、これが初めてではない。
しかしゼピュロスは、マオマオのことでオッサンが尋ねてきても……。
そのあとに、オッサンがライドボーイ一族の馬として派遣されてきても……。
決して、オッサンの目を見ることをしなかった。
まるで道端の野良犬に接するかのような態度を、ずっと貫いてきたのだ。
しかし邪魔されたとあっては、そうはいかない。
「メンズのヤキモチはお断りしているのさ。ゼピュロスが口にするのは、レディのヤキモチだけさ」
そう鼻で笑われても、オッサンは怒りも、媚びへつらいもしなかった。
「みだりに店員の身体に触れるのは、おやめください」
ただ店員を守るオーナーの立場として、それだけを述べる。
胸タッチなど経験のないプリムラは最初はポカンとしていたが、オッサンの言葉にハッとなって、また背中に隠れてしまった。
三者の間に、不穏な空気が流れかける。
しかし、
「あらあら、まあまあ!?」
嬉しい悲鳴が割り込んできて、場の空気は一変した。
「お店の外から見かけた時は、信じられなかったけど……やっぱりあなただったのね! ママ、ずっと会いたくてたまらなかったの! 嬉しすぎて、どうにかなっちゃいそう……! あぁん、もう我慢できない! ママ、ぎゅーってしちゃう!」
声の主は、すでに感極まった表情。
そして諸手をあげ、髪も、服の裾も、そしてなぜか襟元が乱れるのもかまわず走り出していた。
全身全霊をもって、出会いの喜びを表現していたのは……。
そう、狐のもうひとつのターゲットである、大聖女リインカーネーションであった……!
次回、大聖女vsゼピュロス…!?