57 ドッグ・チェイサー CASE1-2
水底から浮かび上がるように、意識が手元に戻ってくるのを感じる。
猟犬は混濁から這い出すように、呻きながら瞼を開けた。
「う……」
視界は格子状になっていて、歪んでいる。
強い酒を3杯も飲んだせい、そしておそらく3杯目に入れられていた薬のせいであろう。
そして顔が、焼けるように熱かった。
頭をブルッと振るって冷まそうとしたが、動かない。
しばらくしてようやく、自分の顔が金網にめり込んでいることに気づき、身体を起こした。
錆とも血痕ともつかない、どす赤く汚れた編目に指をかけ、つかまり立ちをする。
そこはさきほどのクラブとはうって変わって、暗く静かな空間だった。
……パチン!
と指の鳴る音がしたかと思うと、
……フワッ……!
夜の海に遊ぶ蛍、その只中にいるかのように、全方位から小さな明かりがともった。
目の前にも、天井にも、横にも……どこまでも続くそれは、蝋燭の炎。
傍らには、表情どころか年齢もわからないほどの、禍々しいメイクをした者たちがずらりと座っている。
「気がついたか」
金網ごしに、正面に座っていた男が言った。
声音からして、クラブでカード勝負をした葉巻男のようだ。
「まさか憲兵に、『招待』を出すヤツがいるとはなぁ……。しかも『対魔王信奉者課』きっての猟犬、ガンハウンドに……!」
ジョーカーをもてあそぶ葉巻男。
猟犬は「ばれたか」と、お手上げのポーズをとった。
「『招待』をよこしたヤツを締め上げたいんだったら、もう少し待つんだな、っと。明日くらいにゃ、コッチに戻ってくるだろうから。ゴブリンの赤ちゃんにでも生まれ変わってな、っと」
彼は、自分の素性がバレた理由を尋ねることはしなかった。
いつも抱いている恋人が、ドレスを残して懐から姿を消していたからだ。
「……やっぱりココは、ゴキブリの巣だった、っと。そしてやっぱりここが『ゴール』ってワケだ、っと」
「そうだ、ここがテメェの墓場だ。今までさんざん仲間をヤッてくれたイヌめ……その魂を捧げれば、きっと我らが主もお喜びになってくださるに違いない」
「魔王信奉者の儀式は、たとえ夜でも陽の光が一切入らないところでやらなきゃいけねぇ。ってことは、ここはクラブの地下ってワケだ。魔王信奉者にゃピッタリの場所だねぇ、っと。そしてあのウワサも、マジだったってワケだ、っと」
「ほほう、そこまで嗅ぎつけていたとはな……! その通りだ……! ここはかつて、『ゲット・セット・バット』なる下等な野盗どものアジトであった……!」
葉巻男……いや、魔王信奉者たちのリーダーは立ち上がる。
そして両手を広げ、深々と頭を下げた。
『我らが神は天上ではなく、地の底にいる』。
彼らはそう信じているので、地面に向かって偉大なる主を称えるのだ。
「悪魔王様は、野盗どもの汚れた悪をお赦しにはならなかった……! だからこそ、この地下闘技場に野盗ども集め、神罰を下されたのだ……! それはまさに、悪魔的偉業……! すべての野盗どもを、この席に座らせたまま、一時にして首を裏返しにしたのだ……! そんなことができるのは、悪魔王様以外には、おられるはずもない……!」
「ペンキに突っ込んじまったような顔してるヤツの言うことなんざ、信じられるかよ。そんなツラでワルどもの抗争を飾り立てたところで、マヌケなだけだぜ、っと。お前らゴキブリは、バナナで滑って頭を打って死んだヤツですら、悪魔の仕業だと騒ぎ立てるだろうが、っと」
「ふん……! 悪魔王様の存在を信じぬとは……! やはりイヌは、イヌでしかないか……! まあいい、地獄で真実を知るがいい、猟犬よ……!」
不意に、背後に気配を感じて振り返るガンハウンド。
金網に囲われた八角形リング。
その中央には、全身に『叫び』をまとうようなボディペインティングをした巨漢がいた。
石柱のように高く、堅牢な筋肉の塊……!
……グオンッ!
唸りをあげたパンチが、ガンハウンドの頬をまともに捉えた。
「ぐはあっ!?」
真横に吹っ飛び、いくつもの金網にぶつかってバウンドしたあと、地面に叩きつけられるガンハウンド。
しかしすぐに起き上がり、外れかかっていた帽子を直す。
彼の背後では、狂気に満ちた唸りがうねりとなっていた。
「さあっ! 儀式の始まりだ……! その皮を、肉を、骨を、血を……! 我らに捧げよ! さすればその後に相まみえる、悪魔王様に魂を献上できるのだ……!」
そして正面では、指の骨を鳴らす処刑人が見下ろしていた。
「軽くやっただけで、ピンボールの球みたいに弾みやがった。こりゃ指先だけで、八つ裂きにできそうだなぁ」
ガンハウンドは睨み上げたまま、口から垂れてきた血を袖で拭う。
「そうかい。そりゃいいね、っと。ちょうど長生きしたくないと思ってたところなんだ」
「やっと身の程がわかったか。銃のねぇ猟犬なんざ、ただのイヌだってことに」
「バァーカ。お前みたいな三下に、俺のカワイコちゃんは勿体ねぇんだよ……っとぉ!」
そして跳躍、顔面めがけてパンチを放つ。
「そんな枝みてぇな腕と、石ころみてぇな拳で、何しようってんだ」
確かに、彼の言うとおりだと思われた。
観衆の誰もが、蚊に刺されたほども感じていない、不動の弁慶のような処刑人を想像していた。
しかし、インパクトの瞬間、
……ジュバァァァァァァァァァッ!!
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁっ!?!?」
焼きゴテを押し当てられたような音と悲鳴が響き渡り、弁慶は床をのたうち回っていた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!? あぢい!? あぢいよぉぉぉぉぉぉーーーーーーーーーっ!?!?」
頬は焼けただれ、溶け……。
すでに頬骨まで、露出している……!
「……お前にゃ、コイツでじゅうぶんだ、っと」
そう吐き捨てたガンハウンドの拳には、鈍く光る連環が嵌まっていた。
それはただのメリケンサックではない。
銀製で、聖刻と呼ばれる退魔の印がほどこされたもの……。
憲兵にとっては警棒に相当する、猟犬専用の近接武器だったのだ……!
「ど、どこに、そんな武器を……!」
顔を抑えてワナワナと震える処刑人に向かって、ガンハウンドは言った。
「さぁね、っと。でも眠りこけた相手の武器を没収するんだったら、次からは靴底の中まで調べるこったな」
「ぐっ……! おおおっ! うおおおおーーーーーーーーーっ!!」
這いつくばったまま、カエルのように飛びかかってくる処刑人。
ガンハウンドは溶けてイボガエルのようになってしまった顔面に、容赦ないカウンターパンチをブチ込む。
そして左右のメリケンサックを、電極のようにこめかみに押し当てると、
「ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?!?」
処刑人の顔の穴という穴から火が噴き出し、皮膚は炭化した。
崩れ落ちた瞬間、ボロボロに崩れ去る。
「……さぁて、っと、次の相手はどいつかなっと。ああ……どうやら全部みたいね、っと」
猟犬は、針のむしろで包まれているような殺意を感じとったのか、矢印のような肩をやれやれと上下させていた。
銃を奪われ、囲まれてしまったガンハウンド…! 彼の運命やいかに!?