25 引っ越し騒動
『スラムドッグマート』で調勇者たちに対抗するとなると、どうしても『ゴージャスマート』と同じように世界展開をする必要がある。
ルタンベスタのように、すでに軌道に乗った地域であれば部下たちに任せておいてもよい。
だがトルクルムのように、今回初めて出店するような地域の場合、軌道に乗るまではゴルドウルフが陣頭指揮を取る必要がある。
それは付きっきりとなるので、住まいもルタンベスタからトルクルムに移したほうが何かと効率がいい。
となると……お世話になってきたホーリードール家の屋敷を出ていかなくてはならないのだ。
トルクルムは隣接の領地なので、愛馬である『錆びた風』に跨がれば毎日往復できる距離である。
しかし……それができるのも、同じ国にある領地だけだ。
野良犬の店はゆくゆくは隣国へも飛び出していくので、遅かれ早かれ別れはやってくる。
……ゴルドウルフは悩んだ。
みんなに話して、一時の別れを告げるかどうかを。
オッサンは煉獄において、正気を失うほどの恐怖と絶望を何度も味わい、幾度となく心を溶かされた。
それは元通りになることはなかったが、かわりに鋼鉄のような堅さと、竹のようなしなやかさを得て生まれ変わった。
そして一切の迷いを捨てたはずだった。
勇者たちを駆逐するための手段を即決し、ためらいもなく実行して即断する。
それらをこなしてきた彼であれば、何をためらうことがあろうか。
しかし……言い出せなかった。
「トルクルム領で暮らすことにしましたので、ここから出ていきます。長いあいだ、お世話になりました」
と聖女姉妹に向かって一礼すればいいだけのことが、どうしてもできなかったのだ。
ゴルドウルフは日々を送りながら考え続けた。
結論は出ているはずなのに、言い訳のような思慮を重ねていたのだ。
仕事中も上の空になることもしばしば。
しかし結論は出せずに1日が終わり、いつもの屋敷へと戻る……そんな毎日の繰り返しであった。
今日もホーリードール家の玄関扉をくぐった彼であったが、いつもとは違う様相が出迎えてくれる。
普段なら、パインパックを抱えたリインカーネーションが大広間の奥から走り寄ってきて、大物アーティスト来日さながらの熱狂的歓迎を受けるのだが……なぜか今日はなかった。
「あらあら、まぁまぁ~! 忙しい、忙しい! 忙しいでちゅね~!」
例の大聖女は嬉しい悲鳴のような声をあげながら、廊下をてんてこと舞っている。
ちなみに彼女はまっすぐ走れない。
カボチャのような巨大な胸に振り回されるせいで、千鳥足であるかのように蛇行してしまうのだ。
今も、いまにも転びそうにフラフラと……というか、しょっちゅう転んでいる。
その頻度は4歳児であるパインパックといい勝負なので、見ているほうもハラハラさせられる。
「……あら、まあっ!?」
言ったそばからすっ転ぶ。
足運びからつまずきを予見していたゴルドウルフは、風のように先回りして大聖女の御身を受け止めた。
転びかけた彼女を支えるのはもう慣れっこなので、胸には触らないように、肩だけを抱きとめる。
「大丈夫ですか、マザー」
「あらあら、まあまあ、ありがとうゴルちゃん! ママを助けてくれるなんて、いい子でちゅね~! ギュッてしてあげる!」
しかし結局、感謝の抱擁をかまされてしまうので、カボチャタッチを余儀なくされてしまうのだが。
しかもマザーはそれだけでは飽き足らないのか、風船割りゲームのように胸を押しつけながら、ぴょんぴょん小さく飛び跳ねはじめた。
「えいっえいっ。あんっ、届かない。今日は特別に、ほっぺにチュウしてあげようと思ったのに。だからゴルちゃん、もっとしゃがんで……ねっ?」
「その気持ちだけで結構ですよ。ところで忙しそうですが、何かあったんですか?」
「あぁん、ママがゴルちゃんのほっぺにチュウしたいの! それともママのチュウは嫌なの? そんなぁ……くすんくすん、ママ、泣いちゃう……」
オッサンの腕の中で、猫の目のようにコロコロと表情を変える爆乳少女。
幾多の修羅場を抜けてきたゴルドウルフは、交渉術にも長けているはずなのだが……このリインカーネーション相手にはどうにも分が悪かった。
大聖女がその唇を預けるのは、一生その身を捧げると誓った勇者にだけ……。
それがこの世界の常識なのだが、そんな世間一般のルールなど、このトンデモ聖女様には通用しない。
もちろん諭しても良かったのだが、こちらが真面目になればなるほど泥沼化していくのは明白。
ますます彼女のペースに嵌るだけだとオッサンは知っていたので、あくまで彼女と同じようにマイペースを貫いた。
「チュウはもっと大切な人のために取っておいてください。ところで忙しいのであれば、私も手伝いますよ。なにをすればいいですか?」
あっさりスルーされた大聖女は「ぷぅ」と頬を膨らませたが、すぐに気を取り直して、
「まあまあ、ありがとうゴルちゃん。でもお手伝いはいいわ。ゴルちゃんも自分の準備をして、ねっ?」
「自分の準備……? なんですか、それは?」
「ゴルちゃん最近、すぐにトルクルムのお店に行っちゃうでしょう? だからママ、さびしくって……。それでプリムラちゃんとパインちゃんとも相談して、みんなでトルクルムにお引越しすることにしたの。そうすれば、もっと長くゴルちゃんといられるでしょう?」
「えっ」
10シルバー弾を腹に受けた時などとは比較にならないほどの衝撃が、オッサンを襲う。
表情にこそ出さなかったが、泡を食うとはまさにこのことだった。
「ママのお友達にトルクルムの大聖女ちゃんがいるんだけど、その子に頼んでお屋敷をひとつ借りたの。家財道具は揃ってるらしいから、着るものだけ持っていけばいいわ」
……ゴルドウルフはすっかり失念していた。
この聖女一家は、淑やかに見えて異常な行動力があることを……!
思えばプリムラも、『おじさまにお店を続けてほしい』という一念から空き店舗を借りて、屋号どころかイメージキャラクターまで準備していた。
しかしまさか、『少しでも一緒にいたいから』という理由だけで、一家総出で引っ越しを決意するとは……!
オッサンにとって、この大聖女はいつも予想外……!
結局、ひとりだけで出ていくという騒ぎどころではなくなってしまった。
なにせこのハールバリー小国でも有数の聖女一家が、違う領地に引っ越すというのだ。
これは例えるならば、納税額ナンバーワンの金持ちが転居するようなもの。
いなくなる領地にとっては、大損害……!
受け入れる領地にとっては、大歓迎……!
噂をききつけた領主たちが即日、青い顔と赤い顔をして飛んできて、気まぐれ大聖女の足元にひれ伏した。
「マザー・リインカーネーション様っ! 我がルタンベスタ領で、なにかお気に召さないことなどありましたか!? すぐに是正させていただきますので、何卒、何卒、この地にお残りください……!」
「マザー・リインカーネーション様っ! 我がトルクルム領は最大級の歓迎をもって、あなたさまをお迎えさせていただきます! 転居のお手伝いはもちろん、屋敷の賃料もこちらで負担いたしますし、雇い人の給料も払わせていただきます!」
噂が噂を呼んで、新聞もこぞって書き立てた。
それを読んだ住民たちによる、引き止めの署名運動まで始まってしまう。
元はといえばオッサンの単身赴任だったはずが……領内全体を巻き込んだ大騒動へと発展してしまったのだ。
それらはオッサンが頭を抱えるにはじゅうぶんな要素であったが、落ちゲーのブロックのようにさらなる頭痛の種が降りかかる。
「ちょっとぉ! ゴルドウルフ! パートナーのアタシに断りもなく引っ越すなだなんて、絶対に許さないわよっ!? 決めた! アタシもトルクルムに引っ越す!」
「のんはこれから、トルクルムにアパートを探しにいくのん」
「あっ、それでしたら、おふたりともトルクルムのお屋敷に下宿されてはいかがでしょう? お姉ちゃんもきっと、いいって言ってくれると思います」
「あっ! それいい! グッドアイデアよ、プリムラ! ホーリードール家に住むなら、パパもきっと反対しないわ! むしろ大喜びしてくれるかも!」
「のんも納得のん」
「えええっ!? そんなぁ!? 私も、私も下宿させてくださぁい! あっ……お家賃はあんまり、払えませんけど……」
「グラスパリーン先生、お家賃は結構です。払ったとしても、お姉ちゃんはきっと受け取らないと思います。かわりに、一日じゅう抱きしめられちゃうかもしれませんが……」
「ひぃぇぇぇ……!?」
「それよりもグラスパリーン、アンタ学校はどうすんのよ。アタシやミッドナイトシュガーは転校すればいいだけだけど、教師のアンタはそうはいかないでしょ」
「ああっ!? そっ、そうでした……!」
「……しかしそれは、のんたちも同じのん。転校してしまっては、勝ち抜いた剣術大会の参加資格がなくなってしまうのん」
「あっ、そっかぁ……!」
『スラムドッグマート1号店』のなかで、輪になって悩む少女たち。
その姿を見たオッサンは、すっかり迷いが吹っ切れていた。
少女たちが今の生活を捨ててまで、自分についてきたいと言い出したのは驚いたが、その気持ちだけでじゅうぶんだったのだ。
あとは自分が、限界までその思いに応えるだけ……!
「みなさん、お騒がせしました。私は……もうしばらくの間、このルタンベスタで暮らしたいと思います」
オッサン、引っ越しの意思を……!
結婚式前夜のような土壇場で、ついに撤回……!
……この事件はオッサンが首謀したわけではないが、彼はしばらくの間、女性陣から責められることとなってしまった。
次回、トルクルムの狼、本格始動…!