13 夢の続き
鼻にツンとした痛みを覚え、プリムラは新婚旅行の妄想から引き戻された。
現実に戻っても、視界は夢の続きのように紗がかかり、ボンヤリとしている。
ハッと息を飲むと、肺が燻製になったような刺激に満たされ、たまらずむせてしまう。
「けほっ、けほっ、こほっ! け……煙!?」
事務所の中はすでに、蛇のように燻ゆる灰色の煙に満たされていた。
生ぬるく、そして淀み、濃霧のように深い……!
少女は立ち上がり、ぱたぱたと駆けて扉に向かう。
ノブに両手を添えて開け放つと、そこには……。
床や天井を我が物顔で這い回る、炎の大蛇たちが……!
……ゴオオッ!!
熱したオーブンを開けたときの数倍の熱量が、突風となってぶわりと少女の柔肌を焦がす……!
「きゃあっ!?」
牙を剥いて迫ってくる炎に驚いて、プリムラは悲鳴とともに扉を閉じてしまった。
しかしここで、彼女は重大な判断ミスを犯す。
廊下を挟んで目の前にあった非常口に飛び込んでいれば、助かっていたのに……!
そして思考の歯車はひとつ狂うと、人間はとんでもない行動に出る。
「た、大変っ……! まさか、お店が火事になるだなんて……! で、でも、慌ててはいけません! こんな時こそ、落ち着いて……!」
少女は自分に言い聞かせるように胸に手を当てる。
つい深呼吸をしてしまい、激しく咳き込んでしまった。
よろめきながらもテーブルに戻ると、彼女にとっては婚約指輪にも等しい、魔蝋印をローブのポケットに落とし込んだ。
剥き身のままポケットに突っ込めばいいものを、きちんと箱に入れて仕舞うあたりが、もどかしいまでの育ちの良さである。
さらに、火事からの逃走とは真逆の、少女の暴走は止まらない……!
なんと、事務所内にある書類を、重要なものから箱の中に詰めはじめたのだ……!
彼女はもちろん、店舗で定期的に開催される防災訓練を受けていた。
ゴルドウルフが教えていた災害対応の優先順位としては、第一にお客様、そして店員の身の安全である。
次に、自分がとても大切だと思うもの。
もし思い出の品などを持ち合わせていた場合、取りに行くのに危険がなく、そして逃げるのに邪魔にならない小物に限り、持ち出すことを許可していた。
店のお金や商品、そして書類などは優先順位としては最低。
「あなたが火事場泥棒でもなければ、むしろ捨て置いてください」とオッサンは指示していた。
しかし、しかしである……!
献身的な彼女は、自分の命をその勘定のなかに入れてはいなかった……!
今まさに炎が迫っているというのに、自らの命よりも店の紙切れたちを助けようとしていたのだ……!
書類を箱に詰め終えた少女は、部屋の壁の高い位置にある、開けっ放しの天窓めがけて箱を放りなげた。
どさり、店の外に落ちる音を聞いて、外にいる誰かが書類たちを逃してくれることを祈る。
少女にまとわりつく煙は、すでに灰色から黒へと変わっていた。
気づけばローブは煤まみれ。
息をするだけで喉がちぎれるほどに痛み、涙が止まらない。
「くふっ、けふっ! ど、どうしましょう……! ど、どなたか! どなたか、いませんかぁーっ!?」
そして今になっての、SOS……!
しかし返事をしてくれたのは、
……ゴオオオッ!!
すきま風のように入り込んでくる、炎のみ……!
事務所の床をオレンジの光がチロチロと舐め、溶かすように侵食してきている。
這い上がってくるような熱に、少女は今更ながらに死を意識した。
非常口の存在を思い出し、再び扉に駆け寄ろうとしたが、
……パリーンッ!!
扉にはめ込まれていたガラスが弾け、ドラゴンブレスのような炎が吹き込んでくる。
「きゃああーーーっ!?」
頬を舐められ、少女は生きた心地がしない。そのまましなだれ倒れてしまった。
「た、助けてください! いやっ、いやっ! いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーっ!!」
強くなっていく熱気を吹き飛ばすように叫んでも、鼓膜を焦がすような轟音にかき消されてしまう。
煙が目に染み、怖くてたまらず、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
美しいはずの聖女の涙も、煤けた頬で汚濁に変わる。
少女は自分の本分を思い出し、業火の中で跪いた。
そして身を縮こませ、敬虔で懸命なる祈りを捧げはじめる。
……どうか、どうか、お助けください……!
おじさま、おじさま……!
死を覚悟した彼女が真っ先にすがったのは、生まれてからずっと宿命のように信奉してきた女神ルナリリスではなかった。
そう、オッサン……!
幾度となく彼女のピンチを救い、いつしか心の支えとなり……!
ついには想いを寄せるようになった、あのオッサンだったのだ……!
もはや少女のなかでの救世主は、女神様などではなくなっていた……!
結婚も視野に入れた、あのオッサンだったのだ……!
しかし、無理もないことだろう……!
少女はかつて、ハルストイの街にある『ゲット・セット・バット』の支部で、暴行されそうになった。
『蟻塚』の最下層の『王の間』で磔にされ、不死者にさせられそうになった事もあった。
どちらも絶体絶命ともいえる窮地である。
しかしそのどちらも寸前で、華麗に助け出された。
それを成し遂げたのが、あのオッサンなのだから……!
ああっ、女神さまっ……!
などでは、断じてない……!
「ああっ、おじさまっ……!」
少女は全身全霊の祈りとともに、声を大にしていた。
目を閉じていても、焼死の恐怖は拭えない。
瞼の裏がチリチリと、涙の跡がヒリヒリと乾いていくのを感じる。
遠雷のように、ガラガラと崩壊の音が迫ってくる。
おそらく、出火元は店舗のほうなのだろう。
棚にかけてあるゴルドくんのカバーも、きっと今は燃えて、かわいそうなことに……。
そう心を痛めて、プリムラはハッとなった。
……そうでした……! あの布は……!
彼女がカッと目を見開くと、すでに部屋の壁は炎たちに舐め尽くされ、天井や床ををうねり、のたうちまわっていた。
しかし活路を見出した今、怯んでいる場合ではない。
ローブのフードをさらに深くかぶりなおし、袖で口を覆う。
立ち上がり、引火しないように裾をたくしあげる。
そして姿勢を低くしながら、勝手気ままに荒れ狂う、トカゲのような炎をかいくぐっていく。
目的のロッカーはすぐ近くだったが、目の前には巨大なサラマンダーが横たわっていて、遠回りをせざるをえなかった。
金属のロッカーはすでに、焼けた鉄のようになっていた。
焦るあまり素手で取っ手を掴んでしまい、軽い火傷を負ってしまったが、ローブの袖をミトンがわりにしてなんとか開ける。
そして中に、彼女自身がきちんと畳んで入れておいた『ゴルドくんカバー』を見出した。
それを素早く取り出すと、広げて頭から被る。
冬の夜の布団に潜り込むようにカバーにくるまり、全身を隙間なく覆う。
少女は、熱と焦げ臭さが和らいだ空間のなかで、オッサンの言葉を思い出していた。
『この布は耐火素材でできています。防煙マスクとしても使えますから、消火や避難誘導の時などに使ってください』
そう、そうなのだ……!
オッサンは昔、『ヤードホック最果て支店』を放火されたことがあった……!
その経験から、ジェノサイドダディと戦うにあたり、各店舗に対策を用意しておいたのだ……!
それこそが、この『ゴルドくんカバー』……!
あからさまな防火対策であれば、火を放つ前に除去されるかもしれないという可能性を考慮し、キャラクターグッズに偽装して……!
これを身にまとえば炎から逃れられるうえに、布はフィルターがわりになるのである程度の呼吸もできるようになる。
しかしこれまでに煙を吸いすぎたせいで、プリムラの身体は限界に来ていた。
「おじ……さ……ま……」
そのまま崩れ落ち、少女は新たな夢に誘われる。
白馬に乗ったオッサンが現れ、彼女をひらりと抱え上げる。
なぜかオッサンの背中には天使の翼が生えていて、うっとりする彼女とともに、空高く舞い上がる……そんな荒唐無稽な内容であった。
次回、あのオッサンのターン!