クエスチョンユー
「なんで?」は彼女の小さい頃からの口癖だった。
柊木 暦は僕が幼稚園の年少の頃、県外からこの町にやってきた。お隣の真新しい家にどんな子がやってくるのか、幼稚園生が一人歩きで行ける範囲内に友達の家が無かった僕は、隣に引っ越してくる家に同じ歳の子がいると聞いてその一家がやってくるのを楽しみにしていた。引っ越しの日まで毎日母さんに「おとなりさんはまだこっちにこないの?」と聞いては「はやくきてほしい!」と駄々をこねて母さんを苦笑させた。
そして土曜日にお隣さんはやってきた。朝から隣の家の前にはトラックが止まっていて、引っ越し業者の人がせっせと荷物を運び込んでいた。二階の窓からうずうずしながら隣の家を見ている僕を父さんは「お隣さんの引っ越しがひと段落したら、隣の子には会えると思うぞ」と笑って僕の頭を撫でた。
家のチャイムが鳴って母さんが「はぁーい」と返事をする。一目散に駆けた僕は母さんよりもずっと先に玄関に着いた。玄関の扉は少し重いから、いつもは母さんか父さんが扉を開けるんだけど、そんなことはお構いなしに僕はそのとき出せる精一杯の力を使って鍵を開けてドアを動かした。
小さな子どもが出てくるとは思っていなかったような大人たちの顔がまずはじめに目に入って、次にその大人たちの前に自分と同じくらいの女の子がいることに気付いた。
「あら、お隣さんの」
後ろから母さんの声が聞こえてきて、二階から階段を降りてくる父さんの足音が聞こえた。
「藤堂さん、ご無沙汰しています。朝から騒がしくてすみません。改めて挨拶しにきました。ほらアナタ、」
「つまらないものですけど、よかったらどうぞ。妻と子ども共々どうぞよろしくお願いします」
「あら、全然騒がしく無かったですよ。こちらこそよろしくお願いします」
頭の上で母さんが何かを貰って、いつの間にか降りてきていた父さんがお隣さんのお父さんと何かを話していた。
でもそんなことはどうでも良かった。じぃっと見てくる女の子を負けじとじぃっと見返す。
「おまえ、名前なんてゆうの」
「ひいらぎ こよみ。あなたは?」
「とうどう ひかる」
「ふーん。よろしくね」
何か珍しいものを観察するような眼差しが解けて、ほわっとした笑顔が向けられる。このときから僕と暦は友達になり、藤堂家と柊木家は家族ぐるみの交流を始めた。
暦は知りたがりだった。分からないことは何でも聞くから、藤堂のおばさんとおじさんは暦の質問攻めにいつも困るのだそうだ。家族ぐるみの付き合いだから、うちの母さんや父さんもたまにその被害にあう。もちろん、うちの母さんと父さんが被害にあうのだから、うちの両親より暦に近しい僕もその被害にあった。大人でも困るという暦の質問には僕も大いに困らされた。
お月様はなんで光るの?サナギはなんで動かないの?虹はなんで出来るの?
彼女の「なんで?」に僕は最初「そんなの、わかんない」と答えた。けれどその答えは彼女を納得させることは出来なくて、彼女は僕の「わかんない」に「なんで?」という疑問を僕にまた投げかけた。
「なんでわからないの?」
「わからないんだもん。わからないよ」
暦がしつこかったから、僕は少し腹立たしく思った。彼女はそんな僕に、ムッとしながら悲しそうな、そんな変な表情で「なんで」と言って最終的には泣き出してしまった。当時の僕は一度も女の子を泣かせたことが無かったから、かなり狼狽えた。
あんまりにも暦が泣き止まないから僕も泣きたくなって、僕たちは揃って大泣きした。僕らの泣き声に両家の両親はかなり驚いて僕と暦の両方から事情を聞いたけど、誰が悪いという話でも無かったからその日は仲直りをしないで家に帰った。
そして喧嘩をした日から次の日。暦はおばさんの背後からこちらを窺うように見ていて、僕に近付こうとしなかった。そんな暦にショックを受けた僕は少しだけ泣きそうになりながら昨日父さんに教えてもらったことを口にした。
「月がぴかぴか光るのは、たいようの光が当たってるからなんだって」
ぱちりと瞬きをして、暦はその猫みたいな目をまん丸にした。
「……ほんと?」
「うん。父さんにおしえてもらったんだ。こよみ、わかった?」
「……うん、なんでお月様がひかるのか、わかったよ。ひかるくん、昨日はごめんね」
「ぼくも、おこっちゃってごめんね」
「あのね、ひかるくんが私のなんで?に答えてくれて、うれしいよ」
ほわっと解けるような笑顔。僕はそれから彼女のなんで?に答えられるよう本をたくさん読んでもらうようになり、本が自分で読めるようになってからは本の虫みたいだと両親に笑われるほどになったのだ。
小学校の中学年まで、僕と暦は結構べったりしていたと思う。けれど小学校高学年になると何となくお互いに照れのようなものが出てきて、それまでよりはちょっぴり疎遠になった。家族ぐるみの交流は続いていたし、別に仲違いをしたわけでもなかったから別にそれでも良かった。暦は普通にうちに遊びにきてはいつものように色んな「なんで?」を僕にぶつけていたし僕は暦のなんで?に対して色々答えたりしていた。
中学生になってからは部活の関係もあって殊更疎遠になったけど、緩くて心地よい関係は続いていた。
これからもそんな関係が続いていくんだと思っていた。何故か、僕はそう思い込んでいた。
中学校の学校行事に合唱コンクールなるものがある。その年の合唱コンクールで一年のうちで学年最優秀賞を取ったのが僕のクラスだった。
優勝は大抵三年生が取るものだから、それは残念だったけど、今まで男女で仲違いをしながらも頑張ってやってきた自分のクラスが学年の最優秀賞を取ったのはかなり嬉しかった。声変わりの途中で喉が痛かったけど、頑張った甲斐があるってものだ。その合唱コンクールのあとの放課後に、僕はクラスの女子に呼び出された。
「クラスで喧嘩したとき、光君が男子と女子の仲介役になったでしょ。そのとき大人っぽくてかっこいいなって思ったの」
照れたようにそう言う女の子は、友達と話しているとよく可愛いと話題にあがる井上さんだ。
「かっこいいなんて、そんなことないよ」
「ううん、あんなの誰にでも出来ることじゃないもん」
「……そうかな?そう言われると照れるな」
「あのね、光君。わたし光君のことが」
そのタイミングで締め切っていた教室の扉が開いた。ビックリして開いた扉を見るとそこにはバツの悪そうな表情をした暦が立っていた。
「暦、何してんの」
「わすれもの、したから戻ってきたんだけど……」
「柊木さん、見ての通りわたしと光君は大事な話をしてるの。忘れ物はまた後で取りに来て」
心なしかムッとした井上さんが暦に尖った声で言う。暦は困ったような表情で井上さんを見たあと、チラリと僕の顔を見て「うん、わかったよ」と言って扉を閉めて教室から去った。
その後、僕は井上さんに告白をされた。断る理由もなかったから、僕はその日から井上さんと付き合うことになった。
彼女が出来てから、暦とあまり話さなくなった。家が隣同士だから部活の朝練が無い日は一緒に学校に行ったりしてたし、同じクラスだったからその関係でも割と話していたけど、あの日以来暦は必要最低限しか僕と話さなくなった。家には来ないし用事があって柊木家を訪ねても暦じゃなくておばさんとかおじさんが出るようになった。
クラスのみんなは僕達が幼馴染であることを知っている。だから当然クラスメイトの井上さんも僕達が幼馴染であることを知っていた。
井上さんから「光君はわたしの彼氏だからもうあんまり柊木さんと話さないでね」と言われたりもしたけど、それは彼女の杞憂に終わった。
だって僕が話したいと思っても暦が全然相手にしてくれなくなったんだから。
もうずっと僕は暦の「なんで?」を聞いていない。これからずっと聞けなくなるのかな、と思うと訳のわからないもやもやした気持ちで一杯になった。
合唱コンクールのあった秋から期末テストのある冬半ばに差しかかるころ、僕は放課後に井上さんと図書室で一緒に勉強をする約束をしていた。
「光君はテストが終わってからの土日は暇?」
「ごめん、部活が入ってる」
「……剣道部って忙しいもんね」
雑談をしながら図書室に入るとテスト目前だからか、結構な人数の生徒が机を使っていた。どこに座ろうか、と室内をぐるりと見回すとよく知っている人間を見つけてしまって僕の目はその人に釘付けになった。
貸出カウンターに男女が仲良く座っている。男子の方は多分隣のクラスのやつだ。そんな男子の隣で笑っているのは暦だった。
くすくす笑って小首を傾げている。図書室は私語厳禁だから少し距離のあるここからじゃ何を話しているのかは分からない。だけど、彼女が何を言っているのかは分かった。
だってそれをずっと聞いてきたのは僕だから。この学校の中じゃ一番、僕がその言葉を聞いている。
彼女は僕じゃない男子に「なんで?」と何かを聞いているらしかった。
「光君?」
「え、うん。なに?」
「あそこ、空いてるから座ろ?」
貸出カウンターから一番遠い隅の席を指差して井上さんは笑った。僕も笑おうとしたけど、どうしても笑えなかった。
テストが終わって間も無くしてから僕は井上さんにフラれた。理由はあんまり聞かされなかったけど、僕が部活で忙しかったのと、あとあんまり彼氏らしくなかったのがいけなかったんだと思う。
□
幼馴染と全く話さなくなって初めての長期休みに入った。いつもの長期休みだと柊木家との旅行の予定が入ったりするのだけれども、今年は両家の父親が忙しくて旅行とかの予定は立てられていないようだった。
部活があるから暇ってことはないけど、それでも何だか物足りなかった。その物足りなさを埋めるように僕は部活に打ち込んだ。自由参加の寒中水泳にも行った。寒中水泳なんかそうそう体験できるものじゃないから良い経験にはなったと思うけど、気合が足りなかったのか風邪を引いてしまった。
「あんたは普段本の虫なんだからあんまり無理しちゃダメよー」
「母さんうるさい、げほっ」
「ほら寝て!薬は台所にあるし鍋の中にはお粥もあるからね。他に欲しいものは何かあるの?」
「……机の上に置いてある小説の新刊」
「ゼリーとプリンと小説の新刊買ってくるから大人しくしてるのよ」
「子どもじゃないんだから大丈夫だよ」
生意気なことを言う僕に母さんは仕方なさそうに笑った。
□
懐かしい夢を見た。今はあんまり話さなくなった幼馴染の夢だ。ちょこちょこ僕の後ろを付いてくる暦は好奇心旺盛でいつも僕に「なんで?」と色んなことを聞いた。
なんで?の答えが分かるときはその場で暦の疑問に答えて、答えが分からないときは別の日に答えを持ち越して、父さんや母さんに聞いたり家に帰って調べたり図書館に通ったりもした。いつだかは忘れたけど、柊木のおばさんとおじさんが言っていた。
「暦ったら私達にはなんで?って聞かなくなったのよ」
「そうだなぁ。おじさんにしてみればちょっと寂しいけど、多分あの子は光君が一生懸命答えを探してくれるのが嬉しいんだろうな」
「これからも暦と仲良くしてやってね」
暦の「なんで?」に答えるのは僕の役目なのに。なんで僕は彼女と全く話していないんだろう。なんで暦は徹底的に僕を避けるんだろう。僕に彼女が出来たから?図書室で一緒に座ってた男子が好きだから?もしかして暦とあの男子は付き合ってるのか?
暦の「なんで?」が感染ったのかもしれない。
僕の「なんで?」には一体誰が答えてくれるんだろう。
答えを聞いたあと見せるあの解けたような笑みを初めて目にしたとき、彼女には僕が必要なのだと思った。けどそれはとんでもない勘違いだった。
彼女に僕が必要なのではない。
僕に彼女が必要なんだ。
□
しばらくの間寝ていたみたいだ。意識が深いところからゆっくりと浮上する。身体が汗をかいてベタついて気持ち悪い。口の中はカラカラでおでこに貼った冷却シートは僕の熱でかなり温くなっていた。
うっすらと目を開けると誰かの手が視界に入った。母さんかと思って見てみるとそこにはずっと僕を避けていた幼馴染がいた。学校が休みに入ってからずっと見ていなかった幼馴染は僕のベッドの真横、カーペットの上に座って箱から冷却シートを取り出しているところだった。
「こよみ」
声を掛けると幼馴染はビクッと肩を揺らして「えっ、うわ、びっくりした!いつ起きたの?」と心底驚いたように言った。
「いま起きた」
「そっか。あ、ほら動かないで。冷却シート変えるから」
「何で暦がいるの?」
「おばさんに頼まれた」
暦はぺりぺりと冷却シートを台紙から剥がして僕のおでこに貼ってあったシートを剥がす。
「今まで僕のこと避けてたろ」
暦の動きが一瞬不自然に止まった。彼女はむんと唇を尖らせて「彼女がいたらエンリョくらいするでしょ」と言う。そして彼女は僕の前髪をよけて、丁寧に冷却シートをおでこに貼り付けた。
「知ってたんだ」
「クラスの子なら大体知ってるよ」
「フラれたことも?」
「……フラれたんだ?」
奇妙な生き物を見るみたいな目で彼女は僕を見る。
「なんで?」
暦のその言葉に思わず口角が上がった。そんな僕を彼女は見ていない。彼女は洗面台から持ってきたであろう絞ったタオルを手にしていた。
「理由はあんまり教えてもらえなかったけど、多分彼氏らしくなかったからじゃない」
「ふーん」
「暦」
「なに?」
「暦は好きな人とかいないの?」
分かりやすく眉を顰めて彼女は僕にタオルを向ける。
「なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなく」
「ねえ、なんで?」
「その口癖、昔から変わんないね」
「光なんで笑ってるの?タオル要らないなら戻すけど」
屈んで僕にタオルを差し出していた彼女は手を引っ込めようとした。咄嗟に僕は彼女の腕を掴んで引く。何故そうしたのかは僕にも分からなかった。驚いたような彼女の視線が僕の視線と絡んで、あっけなくバランスを崩した彼女が僕の上に倒れた。
さっきより近くに彼女がいる。中学生になって僕よりもずっと先に第二次性徴期を迎えた彼女は、より女の子らしく可愛くなった。僕の手首よりずっと細い手首、柔らかそうな真っ直ぐな髪、ふわりと香る不思議な甘い香り。色々なところが変わったけど、それでも猫のような瞳だけは昔から変わっていない。
「暦は、図書委員だよね」
「え、うん」
「前に見たんだけど、一緒に当番してたのって隣のクラスのやつ?」
「当番……ああ、多田君?そうだよ」
同じクラスの彼女が僕の彼女の噂について知っていたということは僕も彼女に関する噂について知っているということだ。
「その多田ってやつ、暦が好きなんでしょ」
「な、」
「噂が好きなのって女子だけじゃないんだよね」
カァっと暦の顔が赤くなる。多分風邪で熱の出ている自分より顔が赤くなってる。
「あいつと付き合ってるの?」
「なんで光にそんなこと言わなきゃいけないの」
「ねぇ答えて」
逡巡したあと暦は蚊の鳴くような声で「付き合ってないよ」と答える。その答えに少しだけ胸がすく。けれどその気持ちはまたすぐに掻き乱されることになる。
「私は、好きな人がいるから断ったの」
熱がある癖に体温がかなり下がったような錯覚に陥った。楽しそうに小首を傾げて別の男に「なんで?」を言う彼女を想像して気持ち悪くなる。
「そろそろ離してよ」
「やだ」
「えー」
「暦、また僕を避けるの?」
ベッドの上、至近距離で見つめ合う。彼女の猫みたいな目の中には情けない顔の僕がいた。
「光、なんで泣きそうなの」
「暦のなんでって疑問に答えるのは、僕だけでいいでしょ。他のやつなんかに聞くなよ」
子どもじみた独占欲だって言うのは分かってる。実際子どもだし、仕方ないんだ。
「なんで僕が泣きそうなのか、教えてあげる。僕が好きなのは暦だ。だから暦に好きなやつがいるって聞いてまた離れていくかもしれないって思って、だから、」
落ち着いてきた彼女の頬の赤みがまた戻ってくる。はくはくと金魚が呼吸をするみたいに口を動かして僕の目をじぃっと見る。彼女は深呼吸をしたあと、僕の喉のあたり、喉仏をそっと触った。
「今更だけどさ。声、完全に変わったね」
「成長期だから」
「手も、なんかゴツくなったし背も高くなった」
「おかげで膝がすごく痛い」
僕のコメントに彼女は小さく笑って「光が知りたいこと、今度は私が教えてあげる。私は光から離れないよ」と囁いた。
「私が光から離れたのはさ、光に彼女が出来たからでもあるんだけど…実は他にも理由があって」
「何?」
「光が、その、男の子だなって思うとなんか恥ずかしくて」
「僕は昔から男だけど…」
「そういうアレじゃないの。妙に意識しちゃって恥ずかしいって意味」
恥ずかしそうに僕の手から逃れようとする彼女をがっちり捕まえながら言葉の意味を考える。それってまるで、
「暦が僕を好きみたいな言い回しだけど」
「…光は察しが悪いから井上さんにフラれたんじゃない?」
「暦は僕が好きなの?」
「なんで今更そんなこと聞くの。ていうかなんでそんなに楽しそうなの」
□
結局僕らは付き合うことになった。さしあたって井上さんには冷たい目で見られたりもしたけど、暦との付き合いは順調に進んだ。中学を卒業したあとは、暦と同じ近くの高校に進学した。高校生になっても僕達の付き合いは変わらず、彼女の口癖も変わらなかった。
暦を迎えに教室に行くと暦とその友達が話をしていた。その友達には見覚えがあって、興味をそそられた僕は彼女達の会話を少しだけ聞くことにした。
「暦はさぁ、まだ藤堂と付き合ってるの?」
「え、うん。なんで?まさか優ちゃん…光とヨリを戻したいって思って…!?なんで!?」
「そんなわけあるか!わたしと藤堂が付き合ってたのって、わたし達が中学生のころでしょ!」
「うん、懐かしいよね」
「あいつは暦しか好きにならないから無理って何度言ったら分かるの!こっちから願い下げ!」
ぷりぷり怒る彼女は一時期付き合っていた井上さんだった。彼女の言葉に「酷いなあ、井上さん」と声をあげ笑うと僕に気づいた井上さんは露骨に嫌そうな顔をして僕を見た。
「でたよ、暦の王子様」
「ねえ元彼氏に対する態度じゃなくない?井上さん完全に猫被らなくなったよね」
「藤堂に猫被っても意味ないでしょ」
言い争い、というか険悪な雰囲気があまり好きではない暦は「今カノと元カノの修羅場!って感じの構図だね」と言って場を和ませようとしたけどそんな努力も虚しく井上さんは口を尖らせながら席を立った。
「修羅場は修羅場でもわたしのヘイトは藤堂光に向かってるけどね。眼中にもない相手の告白を普通に受けるってどういう神経?」
「ごめんね、当時はそういうのが分からなくて」
「……藤堂はムカつくけど暦は好きだから暦泣かせたらぶん殴る。愛想尽かされないよう頑張ってね藤堂君。じゃあ暦、また明日」
ひらひらと井上さんに手を振る暦はのほほんと「今日は制服デートなんだって」と言って椅子から立ち上がり、笑った。そして机の横にかかった鞄を取りつつ、少し考えるように視線を空中でさ迷わせ「愛想尽かされるのは私だと思うんだけどなー」と呟いた。
教室を出て、これから部活に向かう生徒や帰宅部の生徒に混じって二人で廊下を歩く。
「私さ」
「うん?」
「なんで?って聞くのやめようかなって思うんだよね」
「……なんで?」
「えっ何近っ、近づく必要ある?」
「そんなことはどうでもいいよ。何?なんでそんなこと言うの」
「いや、昔から光に頼ってるから悪いかなって思って。ほら私たちももう高校生だし?愛想尽かされても困る」
さっきの話を思い出しているのか、暦は難しい数学の問題を目の前にしたときのような顔をしていた。僕はそんな彼女に笑顔を見せる。
「そんなの気にしなくていいよ」
「でもこのままだと私、光から離れられなくなりそうだし」
「何か問題あるの?ないよね」
「近いし耳元で喋るのやめてくれない」
「やだ」
「光?なんで笑ってるの?」
「んー、内緒」
君が僕から離れられなくなるならそれは好都合だ。僕は離さないし離れないし逃さないつもりでいるのだから。君のクエスチョンに答えるのは僕で良い。