傍観
注意事項として
この小説には、一部宗教的な描写が含まれています。
場合によっては閲覧をお控え頂くようお願い申し上げます。
なお、いずれの宗教に対しても冒涜、及び否定しているわけではございません。信仰は自由です。また理解も必要です。
私の国は、一般に法治国家と言われている。
しかし法治国家とは、何を差し、何を意味するのだろうか。
単純に辞書を引けば国民の意志によって制定された法律に基いて国政が行われる国と出てくる。
では、国民の意志とは何か?
この世に全く同じ価値観を持つものなど決して存在はしない。せいぜい近しい者はいたとして、だが正反対の意見だって同時に存在し得るはずだ。故に、この場に於ける国民の意志とは、必ずしも全ての人間の意見が反映されているわけではないと論ぜられるだろう。
よって、法治国家を基盤とする国家とはつまり、裏の顔として多数決が軸となっていることが読み取れる。
多数決という言葉には一見、別段畏怖を覚えさせられるような印象はない。それは私が小さい頃から、否、私が生まれるよりもずっと前から、様々な場面で多数決という採択手段が用いられ、様々な決定を下してきた。そういった意味では慣れ親しみのある方法であるとも言えるかもしれない。
だが、私は今にしてようやく一つの疑問を持ち始めた。
多数決とは、何の根拠を持って物事を是とするのだろうか。
仮に、その大多数の意見が誤ちであったら?
仮に、大多数が己が利を優先する為に多数決という権力を振りかざしているだけだったら?
多数決は多数決、それが国民の総意であるならば受理して当然などと思考する前に結論付ける者はもはや論外だ。
何が誤ちであるかなど、所詮一個人の身勝手な価値観の基準でしか無いという者には、そもそも何故法という物があるのかを問いたい。法の下に、私達の自由や安全が保証される為ではないのか?
ならば何故、私達は不条理を押し付けられなければならないの?
何故、保証されているはずの自由安全が失われたの?
何故、私の家族は殺されなければならなかったの?
多数決によって定められた法律が今私にこの不条理を与えたということは、皆が私にこの状況を望んだということだろう。
法は、私の家族を守らなかった。
法が守るのは、私の家族以外の人。
法が守るのは、多数側の人。
***
何時の時代に、誰もが笑う事のできる世界があっただろうか。
そういえば、今世界中多様な文化が繁栄している中、嘗てそこには独自の政治体制が展開されていたか。今現在その形として残っているのが宗教であろう。人々の多くは、神を法とし安泰を求め生活を営んできた。
では、宗教戦争とは何だ?
まだまだ情報伝達技術が未熟だった時代、民衆を統治する手段として、人間の心理階層奥深くまで潜り込んでくる宗教とは非常に都合の良い存在であっただろう。反乱分子があれば、破門という恐怖を与え黙らせる事だって可能だった。
だが時にはその概念が人を狂わせた。
人々がただ平和に暮らしを送るだけではつまらなかったのだろう。神は悪戯に人々を争わせた。争わせたのは敵の信仰する神だ。我々が信仰する神は、常に静謐を望んでいる。真の敵は、他宗教の神だ。人を狂わせる信仰対象など、もはや神ではない。我々の信ずるものだけが神だ。
愚かなる人間が、そうやって責任転嫁の果てにまた他の宗派を滅しようと悪循環を繰り返す。
私は思う。
人間が不完全であるから、誰もが笑う事のできる世界など存在しないのだ。
人間が不完全であるから、完璧な世界とやらが存在しないのだ。
いや、それさえも他責的な思考かもしれない。人間が、未だに完全になれないのだ。もはや、完全になろうとその考え自体が傲慢か? ならば、それこそ私は問いたい。神は、私達にどうしろと仰せられるのか。
神は答えない。神はただ見守るばかり。神は傍観するだけである。決して沈黙を破らない。
不条理を受け入れざるを得なかった私の家族に、人々は無意味な言葉を投げかけた。私にはお悔やみなどと、気休めにもならぬ言葉をかけた。所詮は他人事。彼らは私に、目を合わせようとはしない。死後硬直をとうに遂げ、冷たくなった瞼をキッチリと閉じた、肉親の遺体にさえも。只々、その濁りきった瞳を俯きがちに、ギョロギョロと遊ばせるだけである。
私は悔みの言葉を受ける度、一人々々に小さく、しかしはっきりと呟きかけた。
心のそこからそう悔やむのならば、家族の代わりに貴方が死んでくださいませんか?
遺族である私に、とうとうそれ以上の言葉を紡ぐ者はいなかった。そこにあるのは一種の情けか、それ以下の劣情か。贖罪意識など毛程も存在しない。毛一本も、贖罪に捧げようともしないだろう。別に私は構わない。彼らの贖罪意識など、あったところで肉親の死に変わりはない。
私を含め、この場に居る者、居ない者、今の法治国家を築き上げた多数側、少数側、全ての人間が、家族を殺害した殺人鬼と同罪だ。
守ってくれるはずの法は、肉親を守ってはくれなかった。犯罪者に罰が下されるように、役割を果たさなかった法に、役割を果たさぬ法を築いた者に、粛清を下すのはもはや当然のことだろう。
だがそれでも、社会からしてみれば私達の家族など所詮一一家でしか無い。その死は何に反映されることもなく、それでも下卑果てた法治国家は変わらずに回り続ける。表面上では一端に人々を悪戯に拘束する癖、己を犯す者には以降何の強制力ももたらさない。そうして、理不尽に積み上がる犠牲を無慈悲に看取るのだ。そうしたらまた、それまでと何の変わりなく、同じように社会を不完全なままに蹂躙し続ける。犠牲は、使い捨ての駒にさえ成り得ない。
今を生きる人間の多くは、幾度もの人類間大戦を超え、世の中が成長したと思い上がっている。
だが、それは表面上の話でしか無い。科学力が無駄に進歩するも、人類がその時代性に見合った性に微塵も追いつく事ができていない。でなければ、私の家族は今頃死んでいる筈がない(思考の途中、つまり人類の真の進歩の先に人間の感情とは無いのではと思うようになった。だが犯罪が無いということは欲がないということだ。それはもはや生物ではない。生き残ることへの欲を失った最たる感情欠落者の行動が自殺であり、それでは人間社会は簡単に滅ぶことになる。ではこれが真の進歩でなく、しかし今の世界でも無いというのならば、果たして人類の進むべき道は何処にあるのだろうか? 法も、神も、この私の問いに答えることはない)。そんな社会が、宗教によるある種の独裁国家であった時代から果たして成長したと言えるであろうか。虎は虎のまま、ただ牙の鋭さが増しただけに過ぎない。
結論として、それらは、どれだけ人類が(大した程の物でもない)知恵とやらを偉そうに結集し鼓舞した倫理であろうとも、結局その本質は所詮弱肉強食でしか無いという事だった。
***
弱者が喰い潰され、強者が最後まで生き残る。
単純明快な、この世の摂理だ。
人類は法の下の平等を唱え、この絶対的法則から抗おうとした。人種は違えど、同じ種族間での殺し合いを繰り返してきた人類に笑わせられるが、しかしその果報としては確かに科学力の進歩が認められた。
だが、所詮はたかが人類の知力による悪足掻きに過ぎなかった。科学力の進歩は、立場の逆転はあれど、弱者と強者の差をより明瞭に隔てるばかりである。
復讐、と表現してしまえばあまりに安っぽい。
ただ、私は動機を知りたかった。
その大した科学力を用い、非力な私でも用意に例の殺人鬼を縛り上げることは出来た。
どんな手段でも厭わずに、彼の口から目的を聞き出そうとした。
だが想像を違え、彼はあまりに脆弱で、殺人鬼であるよりも、なんとも弱卒な人間であった。
しかしその事以上に、私は混乱せざるを得なかった。
彼もまた、私と同じように、いまの法治国家に対し疑問を抱いていたのだ。
そして彼が彼の意見を世に訴えるために、自らが殺人罪に身を貶め世間の好奇の目を集めようとしたのだと。
加害と被害、全く逆の立場でありながら、私と共通する疑問を抱いていた。家族を殺されたことで始めた抱いた私とのタイミングは違えど、私の思考は甚だ錯綜した。
この男の行動はまるで奇怪だった。そんな疑問を、今の世に妥協し疑問にさえ一度も思ったことのない人間が、そんなたかが一人のちっぽけな殺人鬼の声を耳にしたところで心揺さぶられることなどまるで無いだろう。
仮に居たとして、この男はどうするつもりだったのか。いくら同調を得ようとも、今更世の仕組みが変わるわけではない。変わっても、また進歩とはとても言えぬような変化でしか人類如きでは成り得ない。疑問で得るべきは賛同ではなく答えへと少しでも近づくことの出来る判断材料だ。
だが、その判断材料は誰が有しているのだろうか?
私は、男と同じ罪を背負った。
あまりに、男はあっさりと死んだ。
私の問いに、法と同時、男は答えられなかった。
またも、人によって築かれた法は、民を理不尽から守ろうとはしなかった。
人の信仰を受けそこにあるだけの神と、何事にも強制力を発揮できず、物事に対し一定に定められた制裁と言う名の事後処理を下すだけの法。
彼らは、私の問いに何一つ答えようとはしない。
ただ彼らは、私達をどこからか傍観するだけである。傍観するだけで、何も言わず何もしない。
ふと、私を包む闇の中に、多数側の人間が入り込んでくる。
神も、法も、少数側も、私の問いに答えることはなかった。
では、残る最後の一つ。
無力たる法を守る事を職とするその者に、私は問いを投げかけてみるとしよう。
傍観者を守る彼らが、彼ら自身が傍観者であることはきっと無いだろう。
(注)
「私」は、かと言って少数側の人間であるわけでもなかった。今ある社会に対し、自分の意見も持たずただ反論ばかりを述べるだけのある種理想主義者であったのだ。誰かしらに非はあれど、それが命運と考えられぬ弱い人間であればあるほどに誰かに、必要以上に責任を求めたがる。否、求めているのではない。誰かに押し付け責めることで、自分の傷口を舐めようとしているだけであろう。そうして逃避行の果てに「私」のような人間は、安直で、愚かしい末路に魅入られるのだ。
もしかしたら、最後の「私」は問いを投げかけたわけでさえもないかもしれない。
それらが、最果ての逃避行に適当な理由付けを行っただけであったとしたら?
「私」は最後の最後まで、自分こそが振り回されていたことに気付くことができなかった。
傍観者は気まぐれに弄び、気まぐれに答えていた。その事だけは、問わずとも明白であろう?
何も答えぬはずの傍観者を理由に、「私」は望みを果たしたのだから。
この作品に出てくる登場人物は、当然の事ながら人格を含め全て作り物です(笑)
執筆した私自身、かといってこのような極端な思想等をを抱いている訳ではないのであしからず。
別の作品等でお会いする日があれば、また。