同じ道、ちがう空。
たしかにあの日、たしかに僕は死んだ。二十階建ての建物から、飛び降りて死んだ。だけど僕は、こうしてここにいる。成仏できずに。
今まで何もかもが上手くいっているように感じていた。学校、勉強、友達、好きな人、家族……。
学校では人気者じゃなかったけれど、それでも充実していたし、僕はあの状況に満足していた。勉強も上位には入れないけど人並み以上にはできたし、仲の良い友達だってたくさんいた。好きな人とも最近仲が良いように思えていたし、家族とも前喧嘩したけど仲直りして、うまくいっていた。中学二年生の中では、なかなかに幸せな日々を過ごせていた。
……けれど。
ある日、女子たちの僕の陰口を聞いた。たまたま通りかかった玄関前で、女子たちは僕のことをいろいろ、口汚く罵って笑い合っている。女子なんて、僕に限らず、少しでも目立つことをした人をすぐに悪く言うやつらだ。始めの内はそんな風に思えた。けど、しばらくたつと、なぜかクラス全員の、僕に対する視線、態度が明らかにおかしくなっていた。みんな、冷たいのだ。親友のやつに聞いても、「ん……いや、別に」それしか答えない。
かなり不安になった。僕は何かしたのだろうか? みんなに迷惑になることを?
また、たまたま通りかかった女子たちの陰口を聞いてしまい、耳を疑った。
「あいつさー、なんか、あんたのこと『マジでキモい』とか言ってたらしいよー」
「えー、ほんとー? ショックだな。最近、仲良くしてくれてると思ったら」
「あんた、遊ばれてるんだよ」
「そうよー、もうあんなやつとは関わらない方がいいよ」
「うん、あんな最低なやつ、関わるわけないじゃん」
キャッキャッと笑いながらどこかへ行ってしまう。
「あいつ」が僕で、「あんた」が僕の好きなあの子。それは確信していた。
僕は一度も、あの子のことを悪く言った覚えがない。むしろ僕は、いつもいつも彼女のことを良く言っていた。否定的に言ったとしても、「お前の彼女、ほんとはあいつなんだろ?」とか冷やかされたとき、「そんなわけないじゃないか! あんな子が僕の彼女なんて、信じらんないよ」……。そうか、「あんな子」って言ったのを、勘違いされたのか。言葉は伝えられていくにつれて、変化していく。でも、そうだとしても、なんで僕だけ?
放課後、あの子にきっちり話そうと、話しかけた。しかし……。
「ちょっと、関わんないでくれる? 最低男。近寄んないでよ、穢れるじゃない」
かわいいあの子の口からぽんぽんと吐き出される、汚い言葉。僕はショックで、ぼーっとひたすらそこに立ち尽くしていた。さらに親友が、僕の後ろを通り過ぎながら、「ドンマイ最低野郎」と言いながら通り過ぎていく。
こんなふうにして、一週間が終わった。
極力笑顔で過ごすようにしたし、「やめろよー」とかも、始めのうちは言えた。けれど、さすがに疲れた。
たぶん、こんな世の中じゃ僕より苦労して辛い人なんて、たくさんいるんだろうな。けれど構わない。僕はもう、この世に必要ない。必要ないのなら、今が消えるチャンスだ。僕はそういう運命。親が悲しむ、だって? そんなもの、死んだら何もかもなくなるから、僕には関係ないさ。
そう思いながら、気付けば僕は、階段を上って、ある二十階建ての建物の屋上に来ていた。
飛び降り自殺は、十階以上なければ、確実に死ぬことのできる可能性は、低くなるらしい。しかも、落下している最中に意識を失うので、痛みは全く伴わない。ほぼ、即死。一番楽な死に方じゃないか?
屋上のフェンスをよじ登り、いつ落ちてもいいように備えた。思い残すことなんて、何もないさ。僕が好きだった子だって、最後の最後に嫌なやつだったって、わかったし、僕の親友も本当の友達じゃなかった。僕より辛い思いをしながら生きているやつらがいる、なんて聞いたって、知らない。僕は僕。僕は僕なりに対策をするだけなんだ。そう、死んだらきっと、何もなくなるからいいんだ。
ふと、下の方に目をやった。下は、特に何もないコンクリートで、あるとしたら、健気に葉を伸ばして生きている、名前も知らない草花たちだけだ。
……もしも?
もしも僕が、このまま生きてがんばれば、状況がよくなるんじゃないか? 離していた片方の手を、再びフェンスにつけ、しっかりとフェンスを掴んだ。
と――、強い風が吹き、僕のポケットに入っていた黒いハンカチを飛ばした。
いや、そんな都合の良いこと、あるわけない。状況がよくなるだって? そんな甘えたこと、世の中で通用するわけがない。
決心して、今度は片方の手だけでなく、両手をフェンスから離した。
下の方からびゅんびゅん身体に吹き付ける風が、冷たくて心地良い。これで僕は、楽になれるんだ。そう思うと、なんだか心が軽くなるようだった。しかし、途中で気を失った。気を失う直前、僕は短い今までの思い出を見た。まるで時間が戻ったように、映像がゆっくりと、流れる。不思議と、落ちるスピードもゆっくりと感じられた。そして、自分でも無意識のうちに、心の中で誰かに謝っていた。ひたすら謝っていた。泣きながら、「ごめんなさい!」と。
その後は、どうなったかわからなかった。ただ、ドスッという鈍い音を立てて、僕は固く冷たいコンクリートに叩きつけられ、一人その場に倒れていた。
気付けば、救急隊の人たちが担架にぐったりとして動かない、血まみれの”僕”を乗せて、どこかへ運んで行った。僕はそれを、見ていた。横になったままの状態で、僕は”僕”が運ばれていくのを見た。
慌てて飛び起きた。なぜだ? どうなっている? なぜ僕は、生きてるんだ?
僕が横になっていたところには、乾燥してドス黒く変色した血液が、広がっていた。少し近づいて見ると、さっき風に飛ばされた黒いハンカチが、近くに落ちている。手を伸ばし、ハンカチを掴もうとした。よくいうように、透けたのではなく、ハンカチに触れようとすると、見えない壁があるように、近づけないようになった。わかりやすくいえば、磁石の同じ極同士をくっつけようとしたような感じだ。
次の瞬間、僕は思わず吐きそうになった。とにかく体の中にあるものを全部、吐き出してしまいたい。吐こうと思って、もう幽霊なのだから、気にする必要ない、と、その場で吐こうとしたが、吐けない。
なぜ? どうして僕はここにいる?
同じ質問を、頭の中で繰り返した。手が自分の服に触れ、ベトッとした不快な感触を感じた。それを見ると、まだ服についている、血だった。
そうか、僕は死んだんだ。死んだけど、死んだけれども……。
思い出した。小学生の高学年に上がって、僕はたまたま偶然、ある動画を見た。自殺についての動画だ。そこでは、「自殺したら、本来生きるはずだった年齢まで、そのままいなければならない」と言っていた。
そうか……。
一人で頷き、僕はもう一度建物の屋上へ来た。
もう一度、もう一度すればきっと……。
またフェンスを越え、飛び降りた。――ドスッという鈍い音。痛みは感じない。しかし、目は開いた。よし、もう一度……。――鈍い音、目は開く。
何度も何度も繰り返した。そんなことしても意味はない。それはわかっていても、次こそ、次こそ死ねるんじゃないか、と思いながら、何度も何度も飛び降りる。
繰り返しながら、なんがか頬が冷たくなるのを感じ、頬に手をやった。涙だ。なぜ僕は泣いているんだろう? 泣く必要なんて、ないじゃないか? もう、辛い世の中からは逃れられたんだから……。
夕日が眩しかった。とてもよく晴れていた。
みんな、僕が死んでも悲しまない。いつものように夕ご飯を食べて、いつものように笑って、寝て、明日僕のことを聞いても、それほど重くは受け取らない。でも、僕の家族は?
目の前に自分の家族の様子が現れた。ひたすら嘆き悲しみ、ティッシュを何枚も何枚も使うお母さん、目が虚ろで、精気が全くないお父さんの顔……。生まれてはじめて、罪悪感が自分の胸をかきむしった。あの時僕は、よくも「関係ない」なんて思えたな、と自分をけなした。逃げることしか考えられなかった弱い自分を呪った。
自分で死ぬなんて、とんでもなかった……。今度は、心の中ではなく、口に出して、「ごめんなさい」と言っていた。
日がだんだん沈んで行くにつれて、家族の映像も消えていく。明るい月が出て、夜が来たようだ。
僕はまた、屋上へ上がった。今度は、フェンスをよじ登ったりせずに、フェンスに手を掛けながら、明るい三日月を眺めた。
たしかにあの日、僕は死んだ。二十階建ての建物から、飛び降りて死んだ。だけど僕は、こうしてここにいる。自分の犯した過ちを、ゆっくりと償いながら。