さてと本題に入るか
トータスは、今日も元気に淋洸堰の深みを泳いでいる。水中の視界は、あまり良くないが、下水の敷設が進んでいる今では汚染によるものではない。水と言う生き物は、常に動きを欲するものだ。動きとは川なら、流れであったり、滝であったり、合流による渦であったり、瀬にブチ当たった事で生まれた飛沫や泡沫であったりするわけだ。海では波であったり、潮の満ち干きであったり、潮の流れであったり、渦潮であったりする。水が動く事で、酸素や有機物質を取り込んで水は浄化される。だから常時水が流れ込み、すぐに流れ出す湖は綺麗だが、溜める事を主目的にしている溜め池などの水は、澱んで透明度も低い。だから一時的に水流を遮断された淋洸堰の水も、汚染されていないのにも関わらず、水が澱んで見えるのだ。
一方特殊能力を備えた水生動物は違う。きっと我々人間の目が見た秋の朝景色みたいに澄み切って見える事だろう…と思う。
やがてトータスの目の前に、図体ばかりでかくて全く銭にならない真鯉のニシキが悠々と泳いで来た。さすが自慢党大統領とだけあって、威厳がある…銭にならないくせに。
「おぅーいニシキィー、久しぶりだね元気かい」と、さらに銭にならないトータスは、目を仕切りにパチクリさせながら言った。
「おぅートータスか、元気か」とニシキは、別に大物でもないくせして、カッコだけ王者の風格で言った。
「ニシキ、その口はどうしたんだよ、いやに荒れているじゃないか」とトータスは、ニシキの干切れかかって、一部が水の中でヒラヒラ泳いでいる唇の端を見ながら言った。
「あぁ、この前、川底に美味そうなイモが沢山落ちてて、早速ひろって口の中に入れたんだが針が付いてた。もう少しで人間に釣り上げられるところだった」ガハハハーッとニシキは、別に偉くない小物のくせして、高笑いとバカ笑いの独り多重奏で去って行った。
やがて、洗濯機をネグラにしているナマズチュ―ドの呆けたような顔が見えて来た。大きな口をさらに大きく開けて、大あくびをしながら洗濯機の中から出て来るナマズチュ―ド。
「おぅーい、ナマズチュード、いつも眠そうにしているね」
「おぅ、トータスか、相変わらずブ恰好じゃのう」と当たらない事で、有名な地震予報士のナマズチュードは言った。
「ブ恰好は余計だよ。それより、地震予報はないの」絶妙のスリムボディ・八頭身のトータスが言った。
「ないのう。去年東北で起きた大震災は、ピッタリ言い当てたんじゃがのう」…ウソつけ。お前が東日本大震災の事を言い出したのは、震災が起きて一週間もしてからじゃないか。そういうのは地震予報じゃなくって、地震情報って言うんだよ…バカ。ナマズチュードは、再び大あくびをしながら洗濯機の中に入って行った。
鮎のシオヤとハヤのスピードが、典雅優美に泳いで来た。
「おぅーい、シオヤとスピード、今日も気持ち良さそうに泳いでいるね」トータスが、ビューティフルダブルスを見て言った。
「ホホホ決まってんじゃん。あたしさぁ、今年も『ミス椹野川』大会に出んだよね、去年は惜しくも準ミスじゃったけんね、今年こそはって思うちょるんよ。それでさぁ、今ジョギングのダイエット中なんよ。それとスイカパウダーのお化粧品も付けて頑張っちょるんよ」と絶世美を誇るシオヤは言った。なお生きているアユは、本当にスイカの匂いがするのである。
「スピードも、相変わらず速く泳ぐね」
「ケケケ当たりき、しゃりき、金の成る木じゃん。うちは、今度開かれる『椹野川スプリント2012選手権』に出よう想うちょるんよ。じゃけんねぇ、こうやって毎日シオヤと走っちょるんよ」と、おてんばさんDQNのスピードは言い、二人の美魔女は悠然と泳いで行った。
さらにトータスは泳いだ泳いだ泳いだ、そして潜った潜った潜った。亀と言う生き物は、恐ろしいほどの心肺能力を持っている。長時間水中に潜っていられるほどの潜行能力を有し、また体の機能を著しく低下させて、水中で長時間眠る事だって出来るのだ。
川底ではホウセンボウのロケットと、ゴリのクチダケ、それに手長エビのピラフが小さな丸石でサッカーをしていた。大きな頭でヘッディングをするクチダケ、スレンダーな体型と瞬発力を生かして軽妙なドリブルをするロケット、サッと後ろに身を引く素早さでディフェンスをするピラフ。
「おぅーい、クチダケとロケットとピラフ―、いつも楽しそうに遊んでるじゃないか」トータスは言った。
「うんにゃ、遊んじょるんじゃねえ、今度『椹野川サッカーワールドカップ』があるけん、練習しちょるんじゃ。今年こそは優勝するけんのう」とクチダケは言った。
「おぅ、トータスか。おめえは鈍足じゃけぇ、縁のねぇ事じゃがのう、ケケケ―」と毒舌家のピラフは言った。
「カッカッ、然り然り」ロケットも笑った。
「鈍足は余計だよ。でも当日は、応援に行くから頑張ってよ」と半パな鈍足じゃないトータスは言った。
やがて砂の中から、首を潜水艦の潜望鏡のようにオッ立てた物体に出くわした。同族の…と言っても石亀とスッポンの違いはあるが、アジムが何かをうかがっているようだった。ちなみに古来から日本に生息する亀は、石亀と、草亀と、スッポンの三種だけである。でも最近では、『赤ミミ亀』を実によく目にする。体型や色が、石亀や草亀と見た目に非常によく似ているので、日本古来種と思っている人が多いが、ペットショップや縁日で売られている小さな『ミドリ亀』が大きくなって野生化したもので、間違いなく外来種だ。また石亀や草亀は、人間に咬みつく事は絶対にないが、野生化した赤ミミ亀は人に咬みつく事もあるので注意が必要だろう。亀が、爬虫類である事を知らない人が居るのには少し驚く。爬虫類には他に蛇、トカゲ、ワニなどが居るが、彼らには皆それぞれ長い体型と、全身を固い表皮かウロコで覆われていると言う大きな共通点がある。亀の場合には丸っこい体型と、甲羅があるので爬虫類に見えないのかも知れないが、正真正銘の爬虫類である。
亀の甲羅は、貝の殻と違って体の一部分であり、ウロコが進化した物とされている。だから亀の甲羅には、いくら固くても立派な神経があり、傷付けたりすると可哀そうだ。海には青ウミガメや赤ウミガメ、それにタイマイやオサガメなどの海亀が居るが、彼らは何千キロと移動するので日本古来とか、純和風とか言えないだろう。
著者が小さい頃に、淋洸堰や猿宮川で出会った石亀君や草亀君は純種だったように思われるが、聞くところによると最近は、どうも合いの子が多いらしい。人間でも、石亀と草亀の見分けがつかないように、亀同士でもつかないのかも知れない。石亀の甲羅は、草亀の甲羅に比べて滑らかで丸っこく、赤ミミ亀の甲羅と非常によく似ている。草亀の甲羅は、紋様が大変はっきりして少しゴツゴツしたイメージがある。 草亀の大きな特長は、側頭部にある黄緑色の筋だろう。この筋が、何となく草に似ていて草亀と呼ばれる由縁だろうが、これを人によっては『クソ亀』と言う人もいる。クソ亀だなんて、何だかウンコみたいで亀にとって随分失礼な話だが、タネを明かせば水から揚げた時に非常に匂うからだ。独特の匂いがするのだが、長く家で飼っていると、大変不思議な事に匂いは全くしなくなる。何故だかよく分からないが、おそらくスカンクのガス攻撃と同じような物だろう。つまり外敵を見ると、体中の神経が一挙に緊張し、ガスを放出するのかも知れない。だから草亀君も、人間に長く飼われていると、その必要もなくなるのではなかろうか。石亀の頭部には、筋もなければ匂いもしない、したがって見分けはわりと簡単に付くと言うわけだ。亀には瞼があり、しきりに瞬きをする。目が円くて本当に愛くるしく、常にペット人気ランキング上位を占めるのも当然だろう。
実際に著者が飼っていたトータス君(昭和四〇年くらい)は、本当によく瞬きをしていた。ちなみに得意技は、寝転がった状態で首を使って素早く起き上がったり、床の上でドタドタと歩き回ったり、人間なんかちっとも恐れておらず、非常に愉快な奴だった。川で生息する国内種は、外来種にやられ放題だが、石亀や草亀に天敵はいない。同じ爬虫類の蛇だってトカゲだって天敵は沢山いる。例を挙げると、キツネやタヌキなどの中型哺乳類、イタチやテンなどの小型哺乳類、それにハヤブサやミサゴなどの猛禽類などがこれに当たり、上から下からと日々を大変苛酷な環境の中で生きているのだ。石亀や草亀に天敵が居ない理由は、固い鉄甲に守られているのと、主な生息域が陸より、さらに天敵の少ない水中である事からだろう。あえて亀の天敵を挙げるとするならば、やはり自動車だろう。亀は、よく陸に揚がり道路を渡る。持ち前の鈍足に加え、車が通ると道路の真ん中であるのにも関わらず、サッと首、両手両足、尻尾を引っ込めて、まんじりとも動かなくなる。それで轢き殺される可能性が高いのだろうが、本当に憐れで可哀そうで堪らない。
何やらきな臭いな
化け物が現れた
「おぅ―いアジムー、そんなに長く首を伸ばして何をやってるの」短首、短足、胴長のトータスは聞いた。
「うん、実はニシキ大統領の命令で、八方原橋の上流に偵察に行って来いと言われたんじゃ」アジムは、首をろくろ首のように長く伸ばして言った。
「偵察に…何の偵察なの」
「うん、何でもとんでもない奴が居るらしい。八方原橋自慢党の我々の仲間たちが、みんな食われちょるらしい」
「えっ、みんな…やはり、政権与党・民酒党員のブラックバスやブルーギルを中心にした外来同盟なの」
「うんにゃ、そんなもんじゃねぇ。噂では、真鯉のキングが、一刀両断に食いちぎられたらしい…しかも一瞬にじゃ」
「えっ…あ、あのキングまでやられたの」
「今までに、俺達が出食わした事がないような恐ろしくて凶暴な奴らじゃ。人間も手を焼いちょるらしく、実際に警察や消防が来て捕獲に挑んだらしいが、とても手に負えんから自衛隊の出動要請を無田総理大臣に頼んだんじゃが、さすがの自衛隊も戦車十輛で馳せ参じたまでは良かったんじゃが、『こんな恐ろしい敵は見た事がない。これは、環境省の仕事で、防衛省の仕事じゃない』と帰ってしもうたそうじゃ」アジムは首をすくめた。
「えっ、人間が…」
「その正体を確かめるために、ニシキ大統領の命令を受けて偵察に行くんじゃ」アジムは、自慢の首筋をピンと伸ばして言った。
「アジムは、僕と違って泳ぐのも走るのも速いし、砂にも潜れるし、咬みつき攻撃もあるので安心してるけど、気を付けなよ」
「うん分かった。トータスは、今から何をするんけぇ」アジムが、天然ラッパ口を、さらに尖らせて聞いた。
「僕は、また旅だよ。今回は四十八瀬川を上ってみようと思ってるんだ」
四十八瀬川は、淋洸堰より約二百メートルくらい上った左側面に支流として注ぎ込んでいる川で、今回アジムが偵察に行く八方原橋は、この川の合流点から約三百メートルくらい上った所に架かる橋である。この橋を超えると、川は大きく右に蛇行して川幅も広く、葦の生い茂った河川敷もあるので、野生動物や水生動物たちの暮らしやすいベストホームになっている。トータスと、アジムは途中まで一緒に行く事にした。可動堰の側には、魚が遡上するためのプール式魚道(堰では、川に激しい段差が出来るために、回遊魚や遡上魚達のスムーズな活動を妨げる。これらの活動を助けるために、低流速のプールを水路の中に、段差がある多数の隔壁として設けた物)が設置されてある。
これを利用してトータスとアジムは上って行ったが、アジムの俊敏な動きに鈍重トータスは全く付いて行けなかった。スッポンは、甲羅を含めた体全体が非常に柔らかく、甲羅まで食用にされており、古来から肉食の習慣がなかった日本人には、大変に滋養のある食品としてありがたがられて来た。よってスッポンは、我が日本民族に命まで提供してくれる英雄なのだ。実際に『スッポンに咬まれると、雷が鳴るまで離さない』と言われるほど精が強いそうだが、そこまで聞くと実験の一つもしてみたくもなる。でも危険なので、やっぱやめておく事にする、バハハ。実のところを言うと、スッポンの『ろくろ首』のようにビョーンと伸びる首は大変な脅威だ。石亀や草亀を持つ時には、背中の甲羅を持つが、スッポンだと、こんな所を持てばいきなりパックリやられてしまう。およそ体のどの部分を持っても、カミツキ攻撃は免れられないほど首は長く伸びるのだ。
ここで一発、天才の読者諸氏に伝授しておきたい我が秘伝を申し聞かせようではないか。実を言うとスッポン君には、たった一か所だけ持ってもいい部分があるのだ。それは頭部を前にして、後ろ側の尻尾部に当たる甲羅を手で挟むようにして持つのだ。これなら、絶対に届かないから咬まれる事はない、でも万が一届いたって著者は知らないのである、カッカッカッ。
まもなくトータスは、置き去りにされてアジムはとっとと先に行ってしまった。特に、こういう段違いの魚道は、亀には大変に不得手な鬼門なのである。フーフー言って上っていると、後ろから国民栄誉賞ウナギのカバヤが、見事に体をくねらせながらスルスルと魚道を上って、トータスに追いついた。
「トータス、何やっとんじゃ、キィッキィッ」とカバヤは、ネチッとした油みたいな視線を潤ませながら笑った。
「ああカバヤ、今から四十八瀬川に上るんだけど、僕は滝登りが得意じゃないんだ。カバヤみたいに上手く登れないんだよ」
「ガハハー、滝登りで、オラに勝てるモンはおらんわい」また脂まじりの嘲笑をするカバヤだった。
『鯉の滝登り』と言う諺があるが、鯉は滝など登りはしない。ただ水流に逆らって跳ね上がった姿が、滝を登っているように見えたのだろう。魚が滝を登れる条件として挙げられるのが、絶対的に水の抵抗を回避できる流線形の体か、小型の体か、あるいはしなやかさ、それに滝にへばりつけるような体のヌメリだの、特殊技能を備えた胸鰭や腹鰭を持っている者でなければ、垂直に切り立つ滝を登るなどのような忍者能力は発揮できないのだ。これらの特殊スキルを持ち合せた者が鮎とウナギである。鮎は本当に上手く滝を登る。細くて、しなやかな体をヒュルヒュルくねらせて、アッと言う間に登ってしまう。著者も何度か鮎の滝登りを見た事があるが、水流をかき分け、水流を隆起させるようにして泳ぐ様は非常に痛快でもあり、新鮮な驚きでもあった。以前にウナギを釣り上げて、深めのバケツに入れていたところ、少し目を離した隙に、難なくバケツの壁をよじ登って、スルリと逃げ出すのには驚いた。見るとウナギは、胸鰭などを壁面にピッタリ張り付け、体のぬめりを最大限に活用し、しかも身を左右によじらせるようにして登るのであった…ウナギ恐るべし、さすが何千キロも泳いで来日しただけの事はあるほどのヒマ魚である。
こんな芸当が、ドン亀のトータスなんかに出来るわけない。固い鉄甲も、さすがにこんな時には邪魔になるだけである。余談だが、以前テレビでサケが滝を上っている所を見た事があるが、あの巨体であんな芸当が出来るとは、もしかしてサケはウナギ以上にヒマ魚なのかも知れない。カバヤと別れ、トータスは支流の四十八瀬川を上って行った。瀬が四十八か所もあるだなんて、何とも詩的情感の溢れた名前ではないか…と言うより、四十八か所も瀬を数えるなど何てヒマな。やはり人間はアホである。
「トータス、少し寒うぅなったのう」と背中のコケシが言った。
「うん、やはり四十八瀬川は、短くて山の源流に近いから水が冷たいんだろうね」と俊足のトータスは言った。
やがて、目前に赤い鉄橋が見えて来た。トータスは、時々水面から首をニュッと伸ばして、辺りを窺がっては用心深く鉄橋を潜った。その時、頭上から『ゴォー』と物凄い地響き音が聞こえて来た。
「すわや」と、トータスは、この時ばかりは素早く手足や首をサッと引っ込める…亀は、この動作だけは早いのだ。
「コ、コケシ何だよ今のは、空襲かい」
「うむ、よう聞いた。今のが、あの有名なSLじゃわ」コケシが、膨らんだ鼻をひくひく鳴らせながら言った。
「SL…山口線の機関車…」トータスは、水面から鼻や目を少しだけ出して、シュポシュポと白い蒸気を上から下から吐き出しながら、猛然と走り去る黒い鉄の塊を見た。
「人間って、恐ろしい物を造るんだねぇ。まだ他にあんなのがあるのかねぇ」不安げな様子のトータス。
「うむ、よう聞いた。あんな物は、ほんの序の口の、おちょぼ口じゃ。今は『シンカンセン』なる、時速三百キロの高速で走る鉄の塊があるらしいそうじゃわ」自慢げにコケシが言った。
さらにトータスは、元気に川を上って行った。国道九号線の『柳井田橋』下の水流が緩やかになっている所では、沢山のナマズの赤ちゃん達が母さんナマズに唄を習っていた。大きな口を開けて、愉快に笑うナマズの親子。橋を抜けると、河原に沢山の葦が繁茂していた。時々早瀬になったり、深みが出来てたりして変化に富み、また陸上では道路や家が沢山あって、何となく愉しかった。やがて河川は、左に大きく蛇行し『泉福寺橋』を潜ると、小さな井出に出た。それをフーフー言って越えると、淋洸堰ほど大きくはないが、やや小ぶりな深みに出た。
「ふぅー、少し疲れたなぁ、コケシ少し休んでもいいかい」トータスは、渕の岸辺にある大きな岩を見て言った。だがコケシは何も言わない、おそらく水から上がるので機嫌が悪いのだろう。岩の上は山の陰に隠れて陽当たりは良くないが、山肌を伝わって静かに流れて来る暖気と、せせらぎが運んで来る冷気が、ほどよく混じり合って気持ちが良かった。トータスは岩の上に上がり、首や手足、それに尻尾を甲羅の中に引っ込めて目をつぶった。亀は大変な長生きだが、秘訣はよく眠る事からだ、長寿社会の先駆者なのである。
しばし夢うつつの中、けたたましい声で目を覚ました。
「やばい―っ、トータス逃げろー。人間じゃ、人間の襲来じゃー」
トータスは、ハッとして慌てて逃げようとしたが、やはり亀だ、遅い実に遅い。きっと近くに住む悪ガキだろう、小学校高学年の男の子達二人が、トータスを掴み上げた。
「ケヘヘおいサブ、ドン亀を掴まえたぞ」
「こんな所で堂々と寝てやがるとは、ふてぇドン亀だな。おい二郎、こいつを家に連れて帰って、しっかり苛めてやろうぜ」
「うわぁーぼ僕はドン亀じゃないよ、石亀だよ石亀トータスだよ」トータスは、手足をバタつかせてもがいた。悪ガキらは、ハッとして体が急速冷凍のように固まり、唾を飛ばしまくって慌てた。きっと亀が喋るとは思わなかったのだろう…フリーズの転変だった。
「何だこのドン亀、生意気に人間語なんか喋りやがって。おいサブ、このドン亀をサーカスにでも売りに行こうぜ、きっと千円くらいにはなるかも知れないぜ」悪ガキらは、ギャーハハハーと喊声を上げながらバタバタもがくトータスを連れて行った。だが…
その時、青春の調べに乗せられて、爽やかな春のシュトルムと共に訪れ、心地よいほど豊かなギター音が流れて来た。
「ピキピン、ピキピン、ピキピンピキピンピキピン」道の上を見上げると、何と世にも凛々しい美少年が自転車に乗ってギターを弾いているではないか。サングラスにリーゼント、黒い皮ジャンを着て首にタオルをかけた世にも眩い美少年が、ギター片手に唄を歌っているではないか。しかも、その口元には、僅かな微笑まで湛えているではないか。なな何と美しい…
「ピキピン、ピキピン、罪なぁ奴さぁオーオーパシフィ…」あぁ、まさしくカリスマ矢沢栄吉を彷彿とさせるものではないか。カ、カッコイイ、この世にこんな美少年が居てもいいものだろうか。これは、この世の出来事なのか。真昼に見る幽玄茫漠たる白昼夢か。なな何と美しい…うう美し過ぎる…
「お、お前は、カリスマ永ちゃん…な何てカッコイイ」悪ガキらは、あまりの恐れ多さに、声を震わせて言った。
「さよう、私は永ちゃん。人はみな私の事を小郡の矢沢タケシと呼ぶ」や、やはり、う美し過ぎる…
「や矢沢タケシィーーッ」
「フフフ小さな生き物を苛める愚かしき人間どもよ、天に成り代わり我が天誅を受けよ。我れ神に成り代わり、うぬら外道どもに我が正義の鉄拳制裁を喰らわせんや、いざっ」とタケシは、サッとサングラスを外してヒラリとカッコ良く自転車から飛び降りた…あぁ、あぁ何てカッコいい。このカッコ良さ、この凛々しさ、この顔の良さ…さすが小郡一の美男子、いや山口県一のもてガイ、いやいや日本一のイケメンと言われるほどの事はあるではないか。長身で脚長スタイル、さすが小郡のキムタク、山口のディカプリオと言われるほど顔は超々ハンサム、およそ人類にこのような美しい顔立をした超々美々少年が居てもいいものだろうか。この稀に見る美貌は、この世の出来事か。頭脳明晰で成績優秀、IQ(知能指数)五千と脅威の頭脳を誇り、小郡のアインシュタインと陰で噂されるほどの天才美少年。おまけに行き交う女性を、必ず振り向かせざるには得られないほどの絶対的存在感を見せている。
しかし、このカッコ良さと言ったらどうか、永ちゃんのトレードマークとも言えるタオルを自己のエンブレムのように堂々と見せつけ、曲調もなだらかなギター音と共に現れるとは…ククク何てカッコいい。タケシ少年、実に恐るべし。だが…
自転車から飛び下りる際、サドルに足を引っかけてコケ、しかもリーゼントのカツラが外れ、しかも傍に落ちている石で顔を打ち、しかもズボンの裾がハンドルに引っかかってズボンが脱げてパンツ一丁になってしまい、しかもしかも最悪な事にタケシパンツのチンポ部分にはウンコが付いているではないか。つまりクソぼけタケシは、パンツを後ろ前を逆に、しかもしかも裏返しに履いているのだ。しかもしかもしかもチンポがこまかった…最悪。何てカッコ悪い、こんなクソぼけは、とっとと死んでしまえ、その方がよほど日本のためになる。やがて石で、顔を打ったタケシがムクムクと顔を上げて悪ガキどもらを見たが、やはり顔が悪かった。
「お、お前は、な何て顔が悪い…」悪ガキらは、まるでこの世の物とは思えないようなタケシの顔とか、恰好の悪さに思わずプッと吹き出した。背は低くて、どこからどこまでが胴体なのか、足なのかも分からないほどの短足。しかもIQ五千だなんて、このクソぼけ、どうも白血球値と知能指数を間違えているらしいほど頭脳最悪、成績ド最悪、運動能力ドド最悪、顔ドドド最々悪々。小郡一のガン、いや山口一の鼻タレ鼻クソ、いやいや日本一のウンコ垂れウンコ饅頭、いやいやいや世界史上、例を見ないほどのクソアホ類人猿と言われるほどの事はあるではないか。さすが小郡のキモタク、さすが山口のバカプリオとだけ言われるほどの事はあるではないか。おまけに行き交う女性に必ず振り向かれ、笑われてキモがられ、小郡のオジンクサインと言われるだけの事はあるではないか。なな何とキモイ…ウウ、ウンコ過ぎる…
「おいクソガキ、おめえ低学年のくせしやがって、上級生の俺達に命令しようと言うんか」悪ガキらは自分もガキのくせして、クソガキのクソぼけタケシに猛然と襲いかかって来た。だが、その時…
四人の猫集団が現れ、悪ガキらの行く手を阻んだ。タケシの家で飼っているブチ猫の『ペー』と、三毛猫の『ミケ』と、茶猫の『タロウ』と、黒猫の『クー』だった。
「フガァーッ」「フゥーッ」「グガァ―ッ」「シャーッ」四人は悪ガキらの頭に乗るわ、足をひっかくわ、ケツに咬ぶりつくわの、正攻法も会社更生法も何のその、勝てば官軍負けても再攻撃と結構毛だらけ猫灰だらけ、ケッコウ日光コケコッコ―とやり放題の大問題で、堪らなくなった悪ガキらは、トータスを持ったままズーズー言いながら走って逃げて行った。だが、その時…
天空から『ゴォーッ』と、まるでジェット機が枕元で飛んでいるような大爆音が轟いて来たではないか。ガキらはハッとして立ち止り、目の前でブンブン飛んでいる大きな昆虫を見た。タケシの家で飼っている大魔王カブト虫の『アレク』だった。
「イーヒヒヒィーッ、おいクソガキ、お前ら、その亀を置いて行かんか」一喝する大魔王アレク様。
「な何だ、このくそカナブンが」
その時、アレクの顔色はサッと変わった。
「バ、バカもーんっ、わしはカナブンではなーい、超カブト虫の大魔王アレク様じゃ、控えおろーーっ」アレク様は、悪ガキらにションベンひっかけて彼方へ飛んで行き、ガキらはトータスを置いて泣きながら退散、家に帰って行った。
そんな一連の闘いの圧倒的勝利が、まるで自分だけの手柄でもあったかのように、大きな顔をしてクソぼけタケシはトータスを優しく自転車のカゴの中に入れてやった。
「こんにちはトータス」とタケシは言った。
「えっ、タケシは僕の名前を知っているの」と、トータスは、丸っこい目をさらに丸く大きく開け放ち、驚愕して言った。
「知っているよ、君も僕の名前を知っているようにね」
「…そ、そうだね、そうなんだね。僕たち本当の友達になれそうだね」トータスには、タケシの心底から動物達を可愛がっている事が、空気振動のようにジンジン伝わっていた。
「いや、はらからだ」タケシは、さらりと言った。な、何てカッコいい。そ、それに顔が良すぎる。
「はらからか…はらからか、はらからか、いい言葉だね」トータスは、動物の命も人間と同様な重さで考えている聖人タケシの偉大性と、高徳律義な人間性に触れて、思わず涙し、またこの少年となら一生を共に歩んで行けると思った…顔は悪いのだが。




