あとがき
クソぼけタケシと、当ナレーションを務めた『著者』は、僕であり、自分の少年時代を少なからず反映させたものです。石亀トータスは、僕が小学校低学年時に猿宮川で出会った中型の石亀です。友人らと、猿宮川を遡上するようにして遊んでいた時に竹藪の中に寝そべっていた呑気な石亀を発見、これがトータスでした。すぐに家に連れて帰り、名前もトータスと付けました。人間など、全く恐れない元気で愉快な亀でした。座敷の上を歩かせると、ドタバタと元気よく歩いていましたし、本当によく瞬きもしていました。それに人間を見ても、別段に怖れているような様子もなく、首や手足を甲羅の中に引っ込める事はほとんどありませんでした。亀の散歩だなんて変な話しですが、釣糸の太い物を甲羅の頂部に巻き付けて、よく大川(淋光堰)を泳がせていました。トータスは実によく泳ぎましたし、それを見るのが楽しくて楽しくて…ある日の事でした、いつものようにトータスを放流させた後、糸を手繰り寄せてみると本人不在のワッカだけが僕の手元に残りました。これが実質的に、トータスとの永遠のお別れになってしまいました。たった一か月の短い付き合いでしたけど、亀の長寿を考えますと、今でもトータスは椹野川のどこかで元気で居てくれていると信じています。
アレクは、僕が小学校六年生(だったと思う)の夏休みに、本文通り僕の部屋の網戸に激突して来た大きなカブト虫です。自身でも、あれほどの大きなカブト虫に遭遇したのは初めてでした。蜜をやったり、噴霧器で水を掛けてやったりして、一生懸命に可愛がっていました。布団の上で遊ばせたり、朝早く起きてアレクの小角に糸を括って空を飛ばしたりもしていました。でも夏も終わる頃になると、ケースの中で固くなっていました。僕は、飼っていた動物や虫が死ぬと、必ず土中に葬ってやっていましたが、あまりにもアレクが立派な体格ゆえに、暫くは箱の中に入れて押し入れの中で保存していました。それから十数年も経ったでしょうか、押し入れの中を整理していたら、虫に食われて体がバラバラになったアレクの入った箱が出て来ました。僕は、十年以上もアレクの存在を忘れていたのです。自分の薄情さに悔恨しながら、土中に戻してやりました。
小学五年生までは、猿宮川や大川が主戦場だったのですが、川魚やカニ、エビ達が全て友人だっただなんて嘘です。勿論、人間はスズメバチとも共生は出来ません。魚釣りやエビを獲るのが大好きで、一度頂いたお命なら必ず持って帰って食べて上げなければいけません。三時のおやつは、自分の持ち帰った川魚を母が煮てくれていました。ただ最初から食べる気のない魚は必ず川に還していましたし、無駄に生き物の命を取った事は一回もありません。
猫のペーとミケとタロウは、本文中にあるように親子孫三代で飼っていた猫です。年代としては、僕が二十三歳くらいから四十三歳くらいの期間だったと思います。ペーは、鉄工所の下請けのペンキ屋さんから貰ったブチ猫で、とても不器量な猫でした。やがてペーが、ミケを産みましたが、とても毛並みが良くって美しい猫でした。そのミケが、タロウを産んだんですが、これでもオス猫かと見紛うほど優しくって人懐っこい猫でした。親子孫三代で、家の周りをのし歩く姿は勇壮この上ないものでしたが、若いタロウが一番先に交通事故で死んでしまいました。オス猫は、メス猫に較べて大変に行動範囲が広くて奔放です、これがアダになりました。ペーは、浴室で死にました。冬季には、ミケと抱き合って温かい浴槽蓋の上で寝ていましたが、ある朝に血を吐いて死んでいました。とても痩身でしたので、ガンだったのかも知れません。ミケは最長寿で、おそらく二十年近くは生きたんじゃないかと思います。珍しく天寿を全うした猫だと思いますが、老衰で死ぬ前にも一本もない歯を駆使して、歯ぐきの力だけでキャットフードを元気よく食べる生命力は、驚嘆あまりあるものでした。
さてクーですが、本文による所では一番幼いように画かれていますが、実際にはペーよりも早く産まれ、早く死んでいます。僕は、今まで三十匹近くの猫を飼いましたが、そのほとんどは身寄りのない可哀そうな捨て猫です。クーも、その内の一匹でした。捨て猫の面倒を見る…これほど不条理な事はありません。クーは本文中にあるように、とても特徴的な猫でした。人懐こさも最高、可愛さも最高でしたが、ある日に家に帰って来なくなりました。アルフを連れて山の中に捜索に行ったんですが、残念な事に首輪が木の枝に巻き付いて絶命していました。最近の猫用首輪は、パッチン方式になっていますので、このような事故は起こらないと思いますが、当時としてはそんな物はなく(あったかも知れませんが、あくまでも不勉強なものでして…)とにかく可哀そうでなりません。クーが死んで、もう三十年以上になりますが、今だにその顔、その愛くるしい目、その人ズレした馴れ馴れしさは、瞼の裏に焼き付いて離れません。
鳩は、僕が小学六年生の時に、一回だけ、それも一羽だけ飼いました。泉福寺住宅内を通って下校している時に、見知らぬおじさんがくれたものです。父に無理言って、すぐに鳩小屋を造って貰いました。鳩に名前はありませんでしたが、真ん丸な目や、ユニークな鳴き声に小さな驚きを覚え、トウモロコシの混ざった餌を買いに、よく町内の鳥獣店に行っていました。ですが、よほど鳥小屋の造り方が悪かったとみえ、イタチの侵入を許してしまい、朝には首だけ持って行かれていました。これも、子供の頃に体験した、悲惨で忘れられない光景です。
アルフは、僕が二十一歳から二十八歳までの約七年間飼っていました。今でも手元に1枚だけ写真が残ってます。僕は随分若くて、アルフも目を閉じて可愛くなく、何だか詐欺みたいな写真ですが、これしかありませんし、この一枚は僕がとても大切にしていた物です。これを見ていると、今だにアルフが傍に居てくれているような気がしてなりません。本当に愉快で、ひょうきんで、勇敢で頭のいい犬だったと思います。散歩時に突然、体の向きを変えて咬みついて来たり、ウソ寝なども実話中の実話です。他にも、離れていたドーベルマンに向かって行ったり、クーの遺体を山中で探し当ててくれたり、またアルフを連れて桂が谷の奥深い山中に入って、すっかり迷って出られなくなった時も、アルフの先導で難なく脱出する事に成功しました。僕は、この時に山の真の恐ろしさと、動物の持つ優れた本能を初めて知る事になりました。犬には…特に飼い犬には、本能的に山を出る、下りる、離れようとする習性が備わっているのです。そんなアルフが、ある朝に小屋の傍で冷たくなっていました。七歳ですから寿命でもない、吐血などの病気を疑わせる痕跡も何ひとつとてありませんでした。今も、我が心の中に残る最大のミステリーの内の一つです。
ミキオこと幹生君は、近所に住む幼なじみです。見上げるほど背が高く、小中学校時には勉強も放っぽり出して遊び回ったものです。また、高校入試直前に二人で夜を遊び歩いたり、三十代の時に二人でヨーロッパを旅したのも、麗しき良き想い出です。ツカサこと司君は、本当に目がクリクリしていて、カワイイ顔の少年でした。夏休みには、ほとんど二人だけで遊んでいたような気がするほど仲良しでした。テツオこと哲夫君も、トコトン掘りで何度か遊んだ記憶があります。ジェームズディーンの大ファンで、野球少年で…ですが大変残念な事に、クモ膜下出血で若くして急逝されました。後世の話しになりますが、我が地区の子供会が、夏休みのソフトボール大会に出た時の事です。うちの長男と次男も出場しましたが、予想通りケチョンケチョンにやられてしまいました。これは、よその地域のように、熱くなって指導の出来る大人が不在だったからに他なりません。もしテツオのように、野球をよく知り、熱き情熱家が居てくれたならなと、何度思った事でしょう。
さて天才クソぼけタケシの自分ですが、四十八歳の時にクリプトコッカス髄膜炎により、全盲になりました。長いステロイド治療のおかげで、免疫をすっかり失くしていた自分の体は、僅かなウイルスの攻撃にも耐えられなかったのです。難聴、味覚嗅覚の完全喪失、触覚の低下など、人間の持つべき五感のほとんどを失いました。僕が被曝二世だからなのか、その再復的検証は、話しがややこしくなりますので、ここでは割愛させて頂きます。
ですが何はともあれ、会話能力、相も変わらない減らず口、貪欲なまでの食欲だけは健在であります。しかも、どうせクソぼけには、何もする事がないのでありましてからに、一年じゅう駄小説を書いております次第であります。
終わり




