第四話:営業再開
>>新太郎
駐車場へ降りてガレージの前に立つ。
昨日と同じ様に認証すると操作パネルに車のリストが表示される。さて、今日はどの車に乗ろうか……。そう思いながらリストに目を通すと、たまたま目に付いたというだけの理由で、俺はスーパーチャージャーを装着したV63.5LエンジンのGRS200系クラウン・アスリートの後期型を選択した。
そして昨日と同じ様にガタゴトと大きな音を立てながらガレージはシルバーメタリックの200クラウンを吐き出した。
俺は左手首に着いている機械を操作してインデックスを呼び出すと、アイテム一覧から、青い字で『個人』と書かれた黄色い提灯型のタクシー行灯と、ICリーダーが付いているLED電光掲示式の実空車表示機と連動したタクシーメーターを選択すると、俺は車の取り付け枠にドラッグして取り付けた。その瞬間、ガチャンッという音と共に、何もなかた筈の空間からまるで魔法のように、車の屋根の上に提灯と電源ケーブルが、助手席前のダッシュボードの上にスーパーサインが忽然と現れた。もう慣れて然るべき事象なのだろうが、いきなり出てくるので、やっぱり俺は吃驚してしまった。
クラウンに乗り込んでキーを電源プラグに挿し込み、エンジンスターターボタンを押してドライビングポジション、ハンドルやミラーの位置を調節し、シートベルトを締めてブレーキを踏みつつギアをPからDへ変速し、サイドブレーキを解除して左ウインカーを焚き、ヘッドライトとフォグランプを点灯してからステアリングを左へ切って俺は車を発進させた。
駐車場のスロープを登り切ってロービームだけを切り、地上に出て裏門まで車を回し、左ウインカーを点けて路肩に寄せると、俺はハザードを点滅させて車を止めた。
さて、どちらに向かおうか。左折して坂を上がればやや寂れた第二商店街や運転試験場が、右折して下っていけば海沿いの住宅地や山向こうの賑やかな中心街の方へ行く事が出来る。
やはり、人が多く賑やかで、いざとなれば初奈島中央駅の正面口のロータリーで客待ちをする事が出来る中心街の方へ車を回した方が客を拾う事が出来る確率が高いだろう。俺は右折して坂道を下る事に決めた。
ハザードを切って右ウインカーを点滅させ、メーターを作動させてスーパーサインを『空車』表示にし、発車措置をしてステアリングを右に切ると俺はアクセルを踏み込み、後輪をスライドさせながら勢い良く車を発進させた。
坂道を下りて最初に差し掛かる緩やかな左カーブを走行中、頭に黄色い提灯を乗せた白いY33シーマのタクシーが向こうから対向してくるのが見えた。
運転手は誰か判らないが、同じ連合に所属している車である事は間違いない。俺は、
「よっ!」
と、軽く挨拶をするような感じでシーマに向かって右の掌を上げて合図を送った。すると相手の運転手も白手袋をした右の掌をこちらに向けてきた。
同じ組織や提携企業同士の車が出会った時によく見られる、ある種形骸化した運送交通業界特有の習慣で、ただ互いに掌を上げて挨拶を交わすというだけの珍しくも何とも無い日常的な光景だが、どういう訳か知らないけれども、これをやると何となく、如何にも仕事しているような、妙な実感が湧いてきて気分が良いので、俺はこの仕草をするのが好きだったりする。
さて、昨日通った時と同じ様に峠越えをして中央バイパスまで出て来ると俺は左折をし、自動車専用道へ入らずにバイパスの側道を70km/h位でゆっくりと走り出した。3km程走った所にある、初奈島中央駅のバスターミナルの出入口と、タクシープールと地下駐車場の出口を兼ねた交差点を通過し、その100m先にあるバイパスを跨いで一般車線から反対側の一般車線へ方向転回する為の自動車専用の陸橋を右折し、それを跨いで反対車線へUターンした。そして先程通過した交差点の手前側に設けられているタクシー・一般車両用の入り口に入る為に、俺は左ウインカーを点滅しながら車を路肩にしっかり寄せて減速すると、駅のロータリーに沿う感じで駅前の方へ逸れて行った歩道の代わりに設けられた2本の左折専用通行帯の内、左側の一般車駐車場・タクシープール用のレーンに進入、信号で交通整理を受けたので停止線の内側で停車した。
そして信号が青に変わると、ステアリングをグルグルと大きく左へ切っていき、植木が植えられた分離帯で仕切られた、手前側に大きくUの字を描くようにせり曲がった通路に入っていった。車の向きが正反対になる位まで旋回すると、今度は地下の駐車場へ真っ直ぐ下がっていくスロープと、タクシー乗り場に向かう為に右側に新しく出来た通行帯との分岐点があったので、俺は当然のように右ウインカーを点けて右側へ車線変更してタクシープールへ入って行った。
タクシー乗り場のタクシー車両の待機場では、既に多くのタクシー車両が駐車場に整然と並んで客待ちの順番を待っていた。
俺はその中の一角に他の車と同じ様に頭から駐車スペースに車を入れると、前の車が動いて順番が回ってくるまで暫く掛かりそうだったので、スーパーサインを『回送』に切り替えると、ハザードを焚いて停車措置をし、シートベルトを外して車の外に出た。
背伸びをして周りを見渡してみる。殆どがそれぞれのギルドカラーに染められた単色を基調とした個人タクシーばかりだが、中には東京無線とそっくりの深緑色の車体に黄色い斜めの帯状のラインが入り、東京スカイツリーを模した行灯を頭に載っけた『帝都無線』の車両や、車体の運転席と助手席の扉に大きく三つ葉のマークが入った『八栄グループ』の車両等、各民間企業共同体に所属している法人業者のタクシーもチラホラと見受けられた。
しかし、驚くべきはその車両の車種の偏り具合である。八栄グループの車にこそコンフォートが多く見られたが、殆どの法人タクシーの車両がNHW20プリウスの後期型である事が信じられなかった。だって法人タクシーといえば、昭和の残り香を今なおプンプンと匂わせているY31セドリック・セダンや、クラウン・セダン、コンフォートやクルーなど、フェンダーミラーを装着した渋いセダンだろ。常識的に考えて!エコだか何だか知らないが、猫も杓子もプリウスを無条件で支持している昨今の世相を見るにつけて、車好きとしては複雑な気分に囚われた。
法人タクシーとは一転して、やはり個人タクシーには多種多様な車種が使われているようである。古いも新しいも関係なく4ドアセダンが主流のようで殆どはそういう車だが、少なくとも特定のモデルだけで固まっているというような異常な光景になっていない分、俺は少しホッとした。ただ、色やグレードこそ違うとはいえ、今自分が乗車している車と同じ200クラウンが10台以上も停車しているのを視認した時には、被ってしまっている事に内心頗るがっかりとしたが……。まあ、個人タクシーの定番車種である以上、被るのも致し方ない事だろう。
そんな事を考えながら、休憩がてら周りに停まっている車を見回していると、
「高津さん……ですよね?」
と、後ろから急に声を掛けられたので、俺は驚いて声がした方へ振り向いた。
するとそこには、俺の車の右隣に停車している神々しいい位純白に輝くボディーを持つ連合所属と思しきF50シーマの後期型の運転席側のAピラー付近の屋根の上に左肘を載せて頬杖を突き、限りなく白に近いグレーをした変な色のスーツを着て同じ色の中折れ帽子を被り、白いワイシャツに緋色のネクタイを締め、更にはツンと尖った顎に態とらしく無精髭を生やしている縦長の二等辺三角形を逆さにしたような感じの顔をした長身の胡散臭い男が俺に向かって高く上げた右手を振っていた。
無論知らない男だが、俺の名前を知っている事と、あまりにもそれらしくない格好だが連合所属のタクシーの運転手らしいという事から考えると、一応『お仲間』ではあるみたいだ。しかし、何処の誰だかがどうしても思い出せない。こんな目立つ格好をした奴と擦れ違ったら間違いなく記憶に留めて置ける自信は十分過ぎる位ある。だが判らない。
俺は、何処の誰なのかを思い出せずにいる事を相手に悟られないよう、時間稼ぎをする為にそっと俯いた。
すると、そこへ丁度良いタイミングで、奴のシーマの助手席側のドアにキラキラと輝く金字で書かれた『個人・加山タクシー』という文言が目に飛び込んで来た。加山タクシー……加山…加山……。あっ、そうだ!思い出した。前に俺がこのゲームに頻繁に出入していた頃、タクシーの仕事を休憩している時等に一緒にチャットで喋っていた仲間の1人であった『Polnareff(♂)』だ。確かその当時彼が乗っていた白いJCG10型ブレビスの前扉にも今の物と同じ文言が書かれていたと記憶している。
ただ、あの時は全員がそれぞれの車の中にいて、相手の車の外観は判るが中にどういう奴が乗っているのかは判別出来ない状態でチャットをしていたから、正確に言うと俺はポルナレフと知り合いであるが、一度も奴の生身の姿を拝んだ事も声を聞いた事も無かった。だから、たとえ今更ながら目の前に立っている飄々とした感じの優男がポルナレフであると見当付けたとしても、あまりにも俺が抱いていた奴のイメージとはかけ離れていた為に、俺は奴だと断言できる自信が持てなかった。
「ポ……いや、加山さん?」
と、俺は半ば当てずっぽうで目の前の男に問いかけた。するとやはり正解だったのか、男は益々にこやかな笑顔になり、俺に向かって車越しに捲し立てた。
「やっぱり、高津さんだったんだ!お久しぶりです!」
「こちらこそ、久しぶりです。」
「こっちには何時来られたんです?」
「先週の木曜日だから……、4日前ですかね……。」
「そうなんだ!いやあ、嬉しいな。また高津さんと一緒に仕事が出来るだなんて……。」
「そうですね……。」
こうやって文字に起こしてみれば取り留めのない普通の会話のように思えなくもない。しかし如何せん、はっきり言ってこの時の奴のテンションの高さは尋常ではなかった。お陰様でただ会話をしているだけで、俺はまだ仕事を始めたばかりなのにも関わらずどっと疲れたような感じがした。
尤も当然ながら、同じタクシーの運転手同士、最近の客入りの様子や他の仲間の安否等の有益な情報も彼から得る事が出来た。当たり前といえばそうなのかもしれないが、定期的に来るものの本数が少ない上に料金が割高な列車や、全く宛にならないバスなんかよりも、数が多くてその辺で気軽に停められて行きたい場所に自由に乗り付けるタクシーの需要がこの世界の住人の間ではかなり高いらしく、努力と機会があればかなりの額を荒稼ぎ出来るらしい。ただし、相手は今までのNPと違って生身の人間であるので、無銭乗車や悪質なクレーマーやタクシー強盗に遭うリスクも背負い込んだ上での話らしいが……。少なくとも現実世界と違ってタクシー運転手の収入の展望が明るい傾向にあると判明した事は、俺にとっては嬉しい情報だった。
そんな風に10分弱程世間話をしていると、突然後ろに停まっていた連盟所属らしい100系クレスタの後期型から、数回のパッシングと共に長いクラクションを鳴らされた。
不快に思って思わず後ろの車の運転手の方を睨みつけると、運転手の方も俺の方を睨み返し、しかも
『さっさと前に出ろ!』
とでも言うかの樣に口を激しく動かしながら右手を払うようなジェスチャーをした。
呆気に取られつつ反対側、つまり車の前方へ目を向けると、なんと俺と加山の車の前に2台ずつ止まっていたタクシーが既に発進してしまい、俺達の車の前だけ2台分ものスペースが丸々開けられていた。もうすぐしたら俺達の所にも客が回されてくる。これは怒られても仕方がない。俺だって後ろの車と同じ状況に遭遇したら全く同じ事をやってしまうだろう。
「おっと、いけない。次、順番だ。それじゃ、俺はここで。また会いましょう。」
「了解。それじゃあ、また。」
そう言って、慌てて車に乗り込んで客が待っているタクシー乗り場の方へ発車していく加山を見送ると、俺も自分のクラウンに乗り込んでシートベルトを締め、ハザードを消してスーパーサインを『空車』にし、シフトをPレンジからDレンジに入れてサイドブレーキを解除し、車をゆっくりと前進させて駐車スペースから外に出て、右にステアリングを切りながらロータリーのタクシー乗り場へ車を横付けると、停車措置をして運転席とドアの間に付いている操作ノブを上へ引き、後席左にある自動ドアを開放し、停車措置をしながら客が乗り込むのをじっと待った。
客はすぐに現れた。俺が今停まっているタクシー乗り場から前方へ十数m程離れた所に見える初奈島中央駅の正面東口(タクシー乗り場方面出口)から出て此方に向かって真っ直ぐ向かってくるのは、口論をするように顔を強ばらせて互いの顔を見つめながら、肩をいきり立たせて激しく口を動かす一組の男女だった。
一瞬、よくある痴話喧嘩の風景かとも思ったが、どうもおかしい。向かって右側を歩く颯爽とした二枚目な男は、アルマーニだろうか、仕立ての良さそうな黒い高級スーツを着こなしている。恐らくあの雰囲気はビジネスマンだろうか?その割には手ぶらというのが引っかかった。
男の右隣を寄り添うように歩いている、肩までの黒いロングヘアーで大きな胸がよく目立つ女は紺色のスカートのスーツを身に付けている。右肩にハンドバッグを下げているが、何故か左手にも男用のジュラルミン製のアタッシェケースを提げている。銀色に輝く鞄は、どうやら彼女の物ではなく男の持ち物のようだ。
どうやら女は男の秘書だったようである。俺の車に乗り込む時に、先に車の方に到達しておきながら男の方を先に入れて奥の後席右側に腰掛けさせ、自分は後から乗り込んで左側に座るという女の所作でそれを窺い知る事が出来た。
「伊織町の2番地、勇栄ビルまでお願いします。」
女に開口一番、怒鳴りつけるように行き先を告げられて出鼻を挫けられたような感覚になりつつも、
「畏まりました。扉を閉めますからお手元にご注意下さい。」
と言って、俺は自動ドアのレバーを押し下げてドアを閉め、料金メーターを作動させてスーパーサインを『賃走』にした。
右ウインカーを点滅させながらシフトレバーをDレンジに入れてサイドブレーキを解除し、ステアリングを右に切って車を発進させる。
駅前の交差点へ行く途中、バスの停留所が並んだスペースと交差する部分を突っ切るので、左や斜め右の方から出入りするバスに注意しながら俺は駅前の交差点へ出て、駅の西南の方にある伊織町へ向かう為、左ウインカーを出しつつ左折レーンに入って既に前に停車していた青色の古い日野・ブルーリボンのノンステップ仕様車の後ろに停車し、ギアをNレンジに入れてサイドブレーキを掛けた。すると、車内に静かに響くアイドリング音とウインカーのチカチカ音に混じって後ろに座る男女の会話が聞こえてきた。
「間に合うでしょうか?」
「大丈夫なんじゃない?」
「絶対無理ですよう……。どうしましょう……。」
「まあ、何とかなるって。」
女の方は随分焦燥感に駆られたような声だったが、対照的に男の方は呑気にも程があるように感じた。実際、ルームミラーで覗き見ると、股を大きく広げて鷹揚と寛いでいる男のスーツの袖を掴みながら泣きそうになっている女の姿が鏡面に映し出されていた。
「何とかなる!っじゃ無いですよ、社長……。折角初奈島に我が社が進出出来るチャンスなんですよ!無理を言ってアポを取った以上、遅刻だなんて許されませんよう……。」
「仕方ないでしょう。電車が遅れちゃったんだから。だから単線の列車って嫌なんだよ。それに間に合わないって言ったって、後10分強はあるだろう?……運転手さん!」
突然男の方に呼びかけられて、驚きのあまり少し取り乱しながら俺は男の方へ振り向いた。
「はい、何でしょうか?」
「伊織町の勇栄ビルまで5分で行ける?」
「さあ……。勇栄ビルって、たしか桜街道沿いにある大きな10階立ての菫色のビルですよね?道路状況にもよりますが、上手く飛ばせればギリギリで行けるかも……しれませんね?」
「じゃ、なるべく急いでくれ。」
「か……畏まりました。」
男の思いの外力強い声に若干圧倒されつつ、文字通り畏まりながらも発車措置をして、走りだしたバスに続いて初奈島中央街道へ左折し、バスを追い越しながらバイパスへ入る。幸い時間帯と島のどん詰まりまで行く下り方向の所為か道路が物凄く空いていたので、150km/h近いスピードで俺は車を疾走させ、桜小路の手前にある1つ先の出入り口でバイパスを下りると、丁度いいタイミングで青信号になったのでそのまま左折し、片道2車線の桜街道を南下して伊織町にある勇栄ビルという名前の大きなオフィスビルの前に車を停止させた。ジャスト5分だった。
メーターの料金を見ながら呟くように、
「お客さん、着きましたよ。126G戴きます。」
と、二人に向かって声を掛けた。いつ事故を起こしたとしてもおかしくなかったし、本当に運が良かった。いくら俺が危険運転の常習者だからといえど、あんな運転を強要されるのは二度と御免だ。
一方、お客の方はただ一向感嘆している様だった。
「凄い……。本当に5分で着きやがった……。」
「運転手さん、有難うございます!お陰で助かりました。」
と、男は呆然とし、女の方は感激のあまりなのか涙まで流しながら100Gもチップとして上乗せして払ってくれた。
俺が自動ドアを開けて女に袖を引っ張られて引き摺り降ろされて行く男を見送る間際、男が俺に向かって話し掛けてきた。
「運転手君、君は何処の誰なのか教えてくれないか?」
「個人タクシー連合所属の高津です。」
「連合の高津?そうか、覚えておこう。ありがとう。」
そう言いながら男は秘書らしい女と共にビルの中へ走り去って行った。俺の復帰初のお仕事、一先ず無事に終了である。
いい機会だから、ここで一つウチの料金体系について簡単に説明しておこう。基本、初乗り運賃50Gに2km毎に12Gが付加される。
有料道路を走ればその区間だけ1km毎に10Gが加算され、深夜料金は3割増、50kmを超える長距離料金になると半額になる遠距離割引が適用される。
さらにこれに信号待ち等の待ち時間料金が0.5分毎に4G、ハイヤーとして呼び出しを受ければ配車料金として別途100Gを頂戴する事になる。
ちなみに、深夜料金の適用時間帯は22時半から翌5時半まで、遠距離割引は一般道のみで途中の高速道路分には適用されないので注意が必要だ。
これはウチのギルドで決められている中型車の料金の規定だが、何処のギルドでも遠距離割引の割引率や深夜料金の割増率の些細な違いを除けば、個人タクシー協同協会が定めた同じ料金体系を遵守している。ついでに言えば、法人タクシーも同じ様な料金体系で動いているらしい。現実世界と違ってこの世界には自由化による生存競争という潰し合いが存在しないのだ。
考えて見れば、タクシー乗務員総合労働組合に加入している既存のタクシー事業者による大きなカルテルとも言える代物だから、新規に参入したいと思う人からみたら、彼らの進出を阻む鬱陶しい悪しき習慣に思えるのかもしれない。客から見ても、もっと安く出来る筈なのに協定を結んで暴利を貪っている様にしか見えないだろう。
だが、俺達タクシー事業者にとってみれば、この料金体系は生活費を確保する命綱とも言っても過言じゃない代物である。この料金体系だからこそ、たとえ一日一件短距離の客を乗せる事しか出来なかったとしても、最低限の収入は確保出来る。
実際、勇栄ビルの前で客を下ろした後、あの辺り半径3km位を流し運行していたが、一人も客を拾えぬまま昼を迎えてしまった。
今日は客の入りが芳しくないな。そう思いながら俺は車のスーパーサインを『回送』に変えると、少し早いかなと思いつつも昼食を摂る為に、一昨日車で巡回している時に目を付けた、第一商店街の外れにある十数台の屋外駐車場を設けたラーメン屋へ車を走らせた。
まだ11時代と早い時間帯だったからだろう。よくある一軒家のラーメン屋の建物に隣接したアスファルト舗装の駐車場には1台も車が停まっていなかったので、俺は道路から歩道を跨いで駐車場の中に入ると、両側に等しく並んだ縦列駐車スペースの内、向かって右側のど真ん中の所にステアリングを右に切りながらバックで駐車し、停車措置をしてエンジンと灯火類を切ると、車を施錠して店の方へ向かった。
薄暗いがテレビの音だけはよく響いている店の中に足を踏み入れると、恐らく時間的に客は来ないと踏んでいたのだろうか、厨房の端で素早く新聞を畳み込んで慌てて立ち上がった店主の男と目が合った。
「い……いらっしゃいませ!さ…どうぞ、こちらへ。」
と、店主に言われるがまま、10席程あるカウンターの真ん中辺りにある席に俺は通された。
ふとカウンターの上の方を見ると、鶯色の壁紙の上から『一松ラーメン75G』『醤油ラーメン80G』等とメニューが書かれた白い紙が彼方此方にやや乱雑に画鋲で貼り付けられている事に気が付いた。
さて、何を食べようか……、とも思ったが時間が時間だけに特に腹が減ってはいない。出来れば軽く済ましたいが、目の前のカウンターの奥に広がる厨房にあるステンレス製の馬鹿でかいシンクの中に大量に重ねられて仕舞われた丼の大きさから鑑みるに、どれも少食気味な俺には少々量が多過ぎるような予感がするものばかりだと思われたので、どれを頼もうか、と俺はメニューの上に視線を走らせつつ逡巡した。
そして、店の名前を冠した看板メニューであるという『一松ラーメン』を店主に勧められるままに注文した。
注文を取ってラーメンを作る為に店主が此方に背を向けてから暫く経った頃、歩道を跨いで駐車場に車が入庫するような音が外から微かに聞こえてきたかと思ったら、ガラガラガラと店の出入口の引き戸が開いて誰かが店の中に入って来た。
「いらっしゃいませー。」
客に背を向けているとはいえ、よく通る店主の声が聞こえているのかいないのか、その客は下を向いて俯いたまま俺の右隣の席に座り込み、
「醤油1つ。」
と、かなり投げやりな感じで注文すると、
「はぁ……。」
と、此れ見よがしに態とらしく大きな溜息を吐いた。
何だ?こいつ、と些か不愉快に思いながらも、一体どんな奴だろうと少しだけ興味を持った俺はその客の方へチラリと視線を向けた。それは俺より少し年下のように思える、縦に細かい藍色のスリッドが入ったワイシャツに紺色のスラックスを穿き、ラメが微かに入った緑青色のネクタイをぎこちなく締めた、如何にも法人タクシーの新人運転手といった風貌のあまり精気を感じない男だった。
こう云うのも何だが、なんか一緒に座っているとこっちまでツキが落ちそうだなあ、と失礼極まりない事を考えていると、いきなりそいつが俺に向かって話し掛けてきた。
「ねえ、表のクラウン、あんたの車?」
その質問があまりにも唐突過ぎたから少しだけ面食らったものの、
「ああ、そうだけれど?」
と、俺はなるべく平静を装いつつ答えた。
「随分手を加えているんだね?」
「かなり趣味も入っているからね。」
「全部で幾ら位掛かったの?」
「車両本体と改造費込みで?……そうだなあ、全部で大体30万G位かなあ。」
「30万か……。儲かっているんだな……。」
そう呟くと男が黙り込んだので、注文したラーメンを店主が差し出すまで俺達は沈黙を守ったまま座り込んでいたが、羨望と嫉妬と陰湿な感情がありありと込められた男の声を耳にした途端、秘匿していた後ろめたい物を暴かれた時に感じるような、平常心を掻き乱された不快感がして俺は隣にいる男に猛烈な嫌悪感を抱いた。
もし俺が気性の荒い破落戸だったとしたら、怒り心頭に発するに任せて立ち上がり、喧嘩腰になって相手の胸倉を掴んで表に引き摺り出す位の事はやったかもしれないが、俺自身は一応常に紳士的である様に努めている性分だし、第一イメージが大きく作用する客相手の商売をしている身なので、イライラとしながらも喉元にまで出掛かった文句を押し殺した。
こんな嫌な奴とはものの数瞬であったにしても同じ空気、同じ時間を共有したくはない。
出来るだけ素早く流し込むようにラーメンを食べ終わると、
「勘定!」
と店主に声を掛け、手首の機械を通して入口付近にあるレジスターで会計を済ませると、俺は店の外に出て駐車場で待っている自分の車の元へ向かった。
駐車場へ回りこんだ時、がら空きなのにも関わらず、態々俺のクラウンが駐車しているスペースの左隣に停められた帝都無線の20プリウスの後期型のタクシーが見えた。恐らく十中八九先程の男が運転していた車だろう。
自分は会社から宛てがわれた安物の営業車、対する此方は自家用車でもある高級車。きっと彼の目には、自分達個人タクシーが花形のように思えて無意識の内に僻みが表に出てきてしまったのだろうか。実情はそれ程きらびやかな物では全然ないのだけれどなあ……。そう思って苦笑しながら俺は自分の車に乗り込んだ。