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第二十八話:近所のこととか……

>>新太郎

元はゲームだバーチャルだといえども、これが現実として受け入れなければならない覚悟を決めればなんとでもなる。それでもって、さらに4年5年と年月が経とうものなら慣れも相まって、安定や安寧とは縁の薄い自営業でもある種のリズムが生まれるというものである。

 そんな家庭生活を惰性や倦怠という退屈な物として捉えるか、はたまた平穏や息災という有り難い物として考えるか、それは各人に委ねられよう。


 我が家の左隣りの住人が引っ越して行ったらしい。

 らしい、と言うのは事が既に済んだと思われる時に玉緒から食卓の上の何気ない世間話として聞かされたからである。現実世界から飛ばされて早5年。当初は20代の初めの方だった我々夫婦も仲良く三十路を見据えた現在までずっと、この豪華なのかそうでもないのか図りかねる公営団地に住んでいるが、両隣や上下で接する家の住民が何者なのか俺はよく知らない。

 いや、さすがに家の出入りでのタイミングや理事会の活動等で顔を会わせるから名前と顔は把握しているが、何せ基本外で仕事をしているのでなんとなく他の近隣住民との関係が薄いのである。

 だから、団地妻のネットワークに組み込まれて何かと密な関わりの多かった分心おけない友人を失って残念がる家内と対照に、俺は胡座をかいて新聞を読みつつ、フッと湧いた小さな非日常に甘味とも酸味ともつかぬなんともつかぬ心地の良さが襲うのを感じた。


 まあ、例の隣人の退去の理由が割りと治安の良さと教育環境の良さで定評のある土地に一戸建てを新築したからである事を聞かされ、

「坪40で2階建ての白い綺麗なお家なんですって、羨ましいわ……。」

と細やかな圧力を妻から掛けられて、そんなもん簡単に吹っ飛んだが………。


 元々ゲームのサービス開始時代からの利用者のSNS内のマイルームとして充てがわれ、例の事件によって他の世界とともに具現化したこの公営集合住宅は、実は人気が高い。特に自ら現実を捨て流れてきた新住人にとって、大半はモブキャラやCPが人格を得た土着民が暮らしていて供給の少ない分譲住宅や、足元を見て吹っ掛ける大家ばかりの賃貸物件しかなく青息吐息にならざる得ない自分たちと違い、そこそこ安値の家賃で比較的広い部屋に安住できる旧住民向けの団地は羨望の的なのだそうだ。


 だから、何かしらの事情の退去によって物件に空きが出て抽選会が開催されよう物なら、たった1つの当たりクジに何千もの応募が殺到するのが茶飯事らしい。そんな例に違わず、空室になって半月も経たぬ内に、左隣にまた新しい住人が入居したようだった。

 ようだった、と言うと何処からともなくお前の隣人なのにらしいもへったくれもなかろうと突っ込まれそうである。しかし当の俺達からすれば、そんな風に表現するより他はない。たまたま勤務調整で仕事を休んでいた週末の昼下がり、玉緒とテレビを視ながら昼食を取っていると、廊下を大勢が何か重い荷物を運ぶような声や足音が共用廊下の方からドカドカと聞こえてきた。と思いきや、久しく静かだった隣室の玄関ドアが開くような音ともにワイワイガヤガヤと何か指示を出す男の声や応える男女の声、暫くすると子供の高い嬌声まで響いてきて夕方までドタバタされた。どこかの一家が引っ越してきたらしいと初めてその時知った。


 後は、旦那と女房と数人の子供で構成されているらしい家族がそのまま住み着いたという事が察せられるだけだある。何故なら真夜中でも壁の向こうから子供のはしゃぐ声と割と若そうに思える女の怒鳴り声か金切り声とも取れる不愉快な悲鳴がこちらへ響いている割には、もう半年は経つのに不思議なことに引っ越しの挨拶には来ないし、2ヶ月毎に一度とはいえ、理事会でそれらしき人を見たこともない。夜中の2時に子供の泣き声と大人の男女の混ざった怒号と何かがわからぬが断続的に響く激しい衝撃音が聞こえるのもしょっちゅうということもあって、ひょっとしたら隣人は幽霊じゃないかと疑うこともある。


 そういう冗談は置いといても、少なくとも今までのところ俺は新しい隣人に良い印象は持ててはいない。理由の一つは前述の明らかに生活音の範疇を大きく逸脱する非常識な騒音。もう一つは、お淑やかを絵に描いたようなお人好しである玉緒が、例の隣家の妻と子供の事を無礼な人達と断じていたからである。決定打は、偶に近所を流す時に利用してくれる同じ棟の住人達から聞いた噂話である。


 玉緒からは、隣の女房はいつも挨拶を返さないどころか、こちらを敵視しているのか不自然に睨みつけてそそくさと逃げるように去って行くので、その度に嫌な思いをすると聞いた。さらに、洗濯物を干したり取り込んだりする時、ふとベランダの下を見ると、団地内の建物に挟まれた小さな公園で隣の旦那が就学前の女の子とよちよち歩きの男の幼児と3人で猫の額程もない公園の端の緑地帯を草刈りする姿を度々目にする事があるという。あの人は仕事をしている人なのだろうか?というのが愚妻の談である。

 そういう疑問を持つのも致し方なかろう。何せ一応公共で管理される建物である。敷地内の公園の掃除や手入れは役所の清掃課や委託された業者によって定期的に行われている。


 時々団地と最寄りの駅や商業施設へ行き来する時に使ってくれる自治会長の小島さんの奥さんは、34番棟もとより初奈島市営第一地区団地全体でも随一の声量の大きいスピーカーである。五月蝿いところもあるが決して悪い人ではなく常識人であり、ご贔屓してくれるお客様である。そんな話好きな彼女のことなので、たった5分程の道中でもそれなりに地域の情報が入ってくる。

 そんなある時、たまたま210クラウン・アスリートで仕事を始めようと、地下駐車上からスロープを登って敷地内の地上通路へ出たところで小島夫妻と出会し、そのまま手を上げて呼び止められたので初奈島中央駅まで乗せる事になった。

 賃走に変え走り出し、団地内に点在する車輪が四隅についた大きな収集箱が幾つか正面の開いた真四角な建屋の中に並ぶゴミ集積場の一つの傍を通り掛かった時、

「そういえば、最近ゴミを決められた通りに出さない人が居て困っているのよねえ……。」

と、唐突に奥さんが溜息混じりに口を開いた。

「そうなんですか?」

丁度敷地外から面する道路を右折するために一時停止したので、自ずと俺も応じルームミラー越しに後ろを窺った。すると、

「ああ、あの人ね……。」

と、奥さんの左側で見るからにうんざりそうに旦那さんも相槌を打っている。これは少し面白い。

「あの人というと?」

「ほうら、あれだよ。数カ月前に越してきた……ほら。」

「山田さん!高津さん家のお隣に引っ越してきた!」

「あ、ああ……。」

その時、初めて隣の一家の苗字を知った。山田って言うのかと心の中で反芻しつつ車を発進させるも、小島夫妻との会話は進行していく。

「収集場所にも各棟の掲示板にも役所から送られる冊子にだってきちんとゴミの分別の内訳がわかりやすく書いてあるのに、あそこの奥さんったら平気で燃えるゴミの中に瓶が入っているし、プラゴミの日に燃えるゴミを出すし……。」

「まあ、市によって分別も違うから最初は戸惑うのも無理ないとも思うんだけどね。さすがに3ヶ月も経てばもう慣れてって感じだしね。僕も理事会で会長引き受けちゃった立場上、清掃業者からクレームもあったようで住管の担当者からも苦言を呈されてね。僕に言われても困るよって感じでね。」

「…………。」

本当に辟易しているようで苦い顔をするご主人の表情を見ると、俺の方もなんと声をかければ良いか判らない塩梅の微妙に息苦しい空気が車内を覆う。

「本当にね。平日の昼間から外を掃除する甲斐性があるなら、もっとゴミ出しのルールを守る方に注力して貰いたいもんだわ!」

と、奥様は最後まで憤慨し、ご自慢のレーダーで察知した山田家の断片的な内情を聞いても居ないのに話してくれた。はっきり言って碌でもない情報ばかりだったので、ますます関わりあいになりたくないと思った。競争率の激高な抽選会の割には、夫婦揃ってギャンブル狂と浪費家で多額の横領とヤクザからの借金で這々の体で現実世界から夜逃げしてきた一家が当選できるなんて案外ザルだなとも。二人世帯用に間取りを広くとっている造りだから住めないこともないとはいえ、4人家族は弾こうよ。1DKなんだから。

 ギャンブル狂の奥さんはパチンコに興じつつパチンコ屋でパートをしているそうだが、浪費家で横領がバレて懲戒免職されて起訴されて現実世界から逃避してきた旦那の方は未だに定職に就く気配がなく、家に閉じこもるか例の無駄な掃除をするかに終始しているそうだ。


「高津さん。あなた、ご商売柄車を何台も乗り回しているでしょう。あそこの奥さん、お宅を妬むだか僻むだかしているみたいよ。」

「同じように幼児がいるから遊び相手として招き入れたら、家の中の金品を取られかけたって相談もあったから、君のところも十分気をつけて。」

 会計を終えた際にそんな忠告を受けたものの、ロータリーから駅舎へ向かう2人の背中を苦笑いで見送るしかできなかった。実際、極力関わらない以外どうしろと言うのだろうか?


 そんな風に若干気張っていた警戒心も薄れかけていたある晩。帝都で夜半まで客を乗り降りさせつつ流した後、夜も3時近くに俺は団地の地下駐車場へゆっくりとF30型BMW・3シリーズを滑りこませた。

 キュッキュとコーナーでステアリングを切る度に静寂を裂くように響くスキール音を聞きつつ自分の契約している駐車スペースに向かったところ、蛍光灯が微かに反射するよう滑らかに加工された灰色のコンクリートの床面と鉄製のシャッターがずっと続いていた前照灯の光の輪の中に、突然黒っぽい大きな塊がぬっと現れた。驚いて思わず急停止した後、改めて目の前で自車のライトと天井で冷たく輝く蛍光灯に照らされたそれを見る。見かけたこともないヴェルファイアだった。ただし、この前現実世界で販売されて此方でも販売する業者が現れたという最新型ではなく、悪趣味な濃いヴァイオレットメタリックが毒々しい今や型落ちの先代のマイチェン前のモデルである。市外ナンバーであるところを見ると、どこかの住人の知り合い身内が泊に来たのか?


 いや、それでも謎技術大容量のこのガレージを契約している住人なら車をそこへ入れるよう頼むだろうし、そうでないなら違反だとしても敷地内の邪魔にならなそうな場所へ置くよう言うだろう。なんで選りに選って俺の所の駐車場の前に止めて下さっているんだ?喧嘩売ってんのか?


これが、昼間かせめて夕方ならクラクションを鳴らすか市の住宅管理課に相談してレッカー車を呼んで無理矢理どかせることもできようが、生憎時間が時間である。


 俺は夜が明け持ち主が現れるまでの数時間、エンジンを切った車に籠城することにした。


 プルルル……プルルル……。

「…………はい、高津でございます……。」

 少し長い呼び出し音が途切れた後聞こえてきた玉緒の声は、とても眠そうでかつ不満を隠す気もなく突然睡眠を邪魔された事を受話器にぶつけているような、そんな風だった。

「ああ、すまない。僕だ。」

「あら、あなた。どうしたのこんな時間に?」

彼女の声に突如驚きと不安が交じる。

「うん、今駐車場まで帰って来たんだけどさ、帰れなくなったわ。」

「…………。」

「…………。」

「…………はい?」

 はいの『い』の部分に特に力を入れているところで、一気に怒り一色に振り切れているのを感じた。

「ああ……なんだ。家のガレージの前に路駐している馬鹿がいてさ。車を入れられないんだわ。だから、朝になってどかすまで車の中で待っとこうと思ってさ。」

 よくよく考えると、我ながらかなりアホな事をやらかそうとしているのではなかろうか……。そんな思いにふと駆られてなんとなく玉緒の気持ちを察してしまった所為か否か、どことなくしどろもどろになる。電話の向こうからは一切の物音も伝わって来ないが、憤りだけはひしひしと伝わる。

「何を言っているんですか。仕方ないならそこへ置かせて貰って、上がって来ればいいじゃないですか。そんなずっと車の中で待ち構えているなんて……。近所の目もあるしやめてください。」

 アホな旦那にイライラし同時に呆れてもいる。そんなさっさと帰れと発破をかける玉緒と、この時間でも住人の出入りがないとも限らんしその辺に車を置いたら邪魔になるだろと主張する俺の間で議論は並行した後、結局一旦駐車場の出入口から車を出し、幅員6m弱の車道通路でアパートメントの裏口に程近い場所に車を寄せて停車し、件の車がどいてくれるまでの間だけ申し訳ないが置かせて貰おうということで決着した。

 運転席側のルームランプを点けて手元を白く明るい光で照らす。ダッシュボードのメーターフードの向こうから立てかけた黒いクリップファイルを引き出すと、留められた勤務経路記録書の束の中からまだ何も記載されてない更の物を1枚外し、

『345号室の高津ですが、我が家の駐車スペースの前に不当に停車する車がいるため一時的に此処へ置かせて戴いております。ご迷惑をお掛けします。』

と連絡先とともに裏にボールペンで走り書く。そして、外からメッセージ俺はフロントガラスに押し付けた。


翌朝、10時過ぎ。

 さすがに移動するか帰るかして居なくなっただろうと思いつつ、エレベーターから地下駐車場の暗がりの中へ進み、ガレージまで出てみると、まるで人を嘲笑うかのようにまだ鎮座していた。

 手帳にナンバーと車種を記録し、昼過ぎまでこの辺りを流した後にまだ図々しく居座っていたら管理課と警察に連絡したる!と憤慨しつつ地上へ出て建物の裏手に回りこむと、俺のBMWに鮮やかなフルカラーの方を向けて裏の白い広告のような物を運転席の座席に貼り付けようとする中背デブの壮年の男と、そいつの両の足元にそれぞれ寄り添う、4から5歳程の女児と2歳程度の男児の姿が目に入った。

「ちょっと待て。お前、ひとの車に何してるんや!?」

思わず声を荒げると、寸でのところで手を止めた男と、可愛さの欠片も感じない醜い変顔をする餓鬼2人がこちらを振り向いた。恐らく仕草と雰囲気を見るに親子らしい。揃って半袖のTシャツと体操服のジャージのような紺系のハーフパンツ、黒赤青の色違いのクロックスは兎も角、派手な明るい緑地に黄色や赤で小汚い英単語やエレキギターが印刷された揃いのシャツは何だか一様に薄汚れていて袖や裾が伸びてビロンビロンに成り果てていたり、短パンには毛玉が湧いて放置されていたり、小汚いところまで一緒というのはかなり閉口する。加えて男の方は伸びきった黒い無精髭が顎や鼻先から頬まで覆い、縮れたロン毛に凝り固まった油脂と頭垢や垢に塗れた顔や猫背気味に立っているという仙人のような風貌も相まって、傍らにいる子供の年齢の割にはずっと年老いているような印象を持った。


「これ…………、おたくの……タクシー……?」

どこか緊張している感じでぎこちないものの、思った以上に男の声は若かった。恐らく自分とそんなに変わらないと思われる30過ぎだろうか。やや高い割には何か確信めいた物が見え隠れする張りのある口調である。

 何だ?こいつ……。と一瞬狼狽えもしそうになった俺の疑問に答えてくれたのは、彼の足元で馬鹿にしたようなニタニタ顔で気持ち悪く笑う子どもたちだった。

「こんなとこに車停めちゃいけないんだー!」

「悪い人!悪い人!」

「やったね!とーちゃん!」

 子供に煽られた所為か、急に向かい合う男が強気になったように感じた。好機を捕らえて物凄く喜んでいる、そんな小物臭いオーラが彼の背中から湧き上がっているのがピッタリ当てはまるような格好をしていた。そんな粋がって気合を入れるレスラーのように肩を気張るポーズをしても正直滑稽だという以外の感想がない。

「ここは車を止めて良い場所じゃないですよ。」

そんな得意げに胸を張る男に切れそうになりつつ、

「わかってますよ。」

と、俺は努めて冷静を装った。

「駐車場に入れられればいいんですが、生憎塞いでいる車が居ましたから。申し訳ありません、迷惑をお掛けします。すぐに車を移動させますので……。」

「いやいや、そういう問題じゃないでしょ。謝りましょうよ。そもそも駐車場だってここの住人以外は利用できないんですから。」

 何をそんなに息巻いているのかわからんが、兎にも角にもと言わんばかりにフンガーっと鼻息を荒くする男にやや呆気に取られた。

「いや……だから謝ってるでしょ?申し訳ないって、だいたい私は『此処の』住人ですよ!」

と左手側にある34号棟の建物を指さすと、俺は背広の懐から黒い牛革の名刺入れを出し、自分の名刺を1枚男に差し出す。

「挨拶が遅くなりましたが、はじめまして。私、345号室に居住する高津と申します。」


 何気のない遣り取りを交わす筈だった。別にこういう商売でなくとも社会に出てれば名刺を貰ったり交換したりといった機会はいくらでもあるだろう。あくまで単なる自己紹介と縁故作りの儀式に過ぎない。少なくとも俺にとっては目的以外大した意味もない所作の一つに過ぎない。

 ところがどっこい。向かい合うヒッピーの方を見やると、先程の勢いはどこへやら尋常でなく狼狽している。思わず、

「どうかしましたか?」

と声を掛けてしまった。そして、やけに静かになったなと下を見るとさっきまで調子よく野次っていた子供2人、あれっという顔で不安そうに父親の顔を仰ぎ見ている。

「あ……あ……、ああ……。」

声が掠れている。おーい、大丈夫か?

「あの……、お……私、名刺持ってないんですが……。」

男は、泣きそうな顔で絞り出すように情けない声を出した。

 うん、なんとなくだけど予想はできていた。名刺を持ち歩かない奴が居ても不思議とは思わないし、寧ろこんな薄汚くだらしない男が名刺入れと名刺を出してきたらそっちの方が吃驚する。それも子どもと一緒に後ろの足元にそれなりに膨らんだ青いビニールのゴミ袋を置いているなんてきたら……。ん?ゴミ袋?


 さっきまで男の気迫と子供に気を取られて気が付かなかったが、男の後ろの地面には子供に挟まれるように、昔はよく見かけた如何にもな感じの、有機物のくせして無機質な輝きを放つ濃い水色のような青いビニール製のポリ袋が何かを半分くらい詰められた状態で自立していた。

 今日はゴミ出しの日ではない。仮にそうだとしても、既にゴミ収集車はこの辺りの仕事を終えて収集処理施設へ向かってしまった時間帯である。何しているのだろう?この男は。

「まあ、別に構いませんよ。私もこれから仕事へまた出るので持っている、というだけですし……。あくまで軽いご挨拶ということで……。」

「は、はあ……。そ、そうですか。すみません……。俺、山田と言います……。」


 お前が山田かっ!思わず叫びそうになるのを必死で抑える。なに、苗字が同じだからって隣人とは限るまい。もしかしたら耶麻田さんとか矢万田さんとか、いるかどうか知らんがそういう漢字だけ違う人かもしれない。

 山田は俺の名刺を見ると、一瞬はっとした顔になった。

「あ、お隣さんなんすね。」

 やっぱりお前が隣の山田か――――っ!ということは、そこに居る餓鬼共はいつも夜中まで奇声をあげている糞ガキかっ!

 待てよ。となると先程から無性に気になるゴミ袋の事情もわかる気がする。どうやら公園の清掃に絶望した彼は、自治会の清掃活動や理事会で議題に上る大規模小規模改修の時しか整備されない、建物の足元に巣食う雑草や溜まったゴミを片付けて綺麗にする事に、安住の先を見つけたようだった。要するに正義感や因縁つけではなく、1階住民の庭先と道路を仕切る垣根ギリギリまで寄せた俺の車が単に掃除の邪魔、ということらしい。


 酷く脱力してから、彼らとどんな遣り取りをしたかよく覚えていない。というより、何か話す間もなく1台の車が我々の傍に来て、彼らを連れて行ってしまったからである。市外ナンバーで紫色のヴェルファイアだった。派手な虎柄の琥珀模様のアルマイトのフレームの濃い茶色のレンズのサングラスに、これまたド派手な金髪の盛り髪という水商売のような顔をしながら細身の色落ちしたデニムの七分のストレッチパンツに白い短袖のシャツという不思議な格好をしたぶっきらぼうな口調の女が運転席から降りてきた。

「ほら、行くよ。さっさと乗れ!」

という彼女の態度と、かあちゃん等と呼ぶ子供の反応を見るに、これが山田家のギャンブル嫁で、これが山田家の愛車らしい。山田家の奥方は俺を一瞥することもせず家族3人をミニバンに押し込むと、苛立ちを隠さないように思い切り、しかし酷くぎこちなく色んな場所に突っ込みそうになりながら発車した。


 ふらふらふわふわと蛇行するミニバンが角を曲がって消えるまで見送り、自分も車に乗ろうとすると、

「大丈夫?」

といきなり声を掛けられた。ビクッとしつつ振り返ると、自治会長夫妻が仲良くこちらに向かって来たところだった。

「ええ、特になんとも。お騒がせしたようで。」

「いいのよ、なんか下を見たら例の山田さんと高津さんが揉めているようで……。心配で来ただけだから。」


 なんか下を見たらたまたま目撃したとか、あっちも凄いがこっちはこっちでアンテナの感度が凄すぎる。たじろいだが、同時に収穫もあった。

 今朝方の邪魔バン。やはりさっきのヴェルファイアと同じ物だったらしい。昨日パチンカス妻が何処からか貰ってきて、事もあろうに家のガレージの前に放置していたそうだ。車をたくさん持っている金持ちな癖にみみっちくワンルームに暮らしている嫌味な奴にはこれくらいの嫌がらせをしてもいいのだとかなんだとか。別に金持ちな訳でもなく税金対策と趣味も兼ねて経費で落としているだけなのだが……。そういう弁明もする気が起きないくらい、何だか頭が痛くなってきた。


 自治会長からの密告もとい善良な市民の訴えから駐車場の使用許可章もないのに駐車場に駐めて違法に占拠したことを住管の担当者に相当絞られ、退去警告も辞さないと脅された事が効いたのか、件のヴェルファイアはその後堂々と我がもの顔で駐車場に居座ることは無くなった。しかし、その内全く姿を見せなくなった。

 小島夫人の情報網によると、単にパチンコ屋の社長からの借り物だったらしい。成る程、後日だがあれとそっくりでナンバーも似ているような車を山田家妻のパート先も従えている暴力団の組長の家へ指名されて迎えに行った時敷地内に見た気がする。得意先の内の一つなので何度かお迎えやお送りに上がっているのに今までついぞ見かけた事ないし、ドイツ車好きなので組ではなく自宅には日本車など置かない主義の人なので、どうしたのかと聞いたら、闇金の借金踏み倒して飛ぼうとし下手打ったバカ男の持ち物だった、とここだけの話ということでそっと教えてくれた。売ることも壊すこともできず、組長が保管しているそうで、敢えて怪しまれないようにこの前までは頼まれれば部下に貸したりもしていたのだとか。


 売りに出せないし廃車にできない事情が何なのか……。はたまたどうして急に身内にも貸せなくなって組長直々に隠しているのか。訊く気にはどうしてもなれなかった。


 そう言えば最近隣家が嫌に大人しくなったのも、きっと気のせいだよな。

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