第二十七話:お故郷言葉を聞けば
『海老屋SA』
そんな表示と共に、フワフワとした湯気を数筋立てる大きな白いコーヒーカップが図案化された緑色の標識が掲げられた分岐が道の左側に見えてきた。
6車線ある道路の一番左側の車線までルームミラーとドアミラー、そして度々左後へ振り返って目視しながらレーンを1つ跨いで移動する。そしてジワッとブレーキを踏み込むとかなり幅の広い1車線の分離路の方に俺は車を寄せて、サービスエリアの中へ入って行った。
大きなSAとしては割りと一般的な形、入り口と出口のある本線側と対面するように広大な駐車場の反対側に歩道や2階建てで三角屋根の赤い大きな建物が整備され、その入り口の上、2階の窓の一部の下に『海老屋』とサービスエリアの名前が緑色の丸っぽいフォントな文字で大きく掲示されている。駐車場は入り口のある方を手前、出口の方を奥とすれば、手前側から順番に普通車・二輪車、大型車、ガソリンスタンドと高速路線バスのバス停がある、建屋側を上辺そして本線側を下底とする、概ね角のない台形のような形をし、本線入り口から建物出口側へ向かうように斜め進入式の横列駐車のスペースが、2列横隊体制(大型車は普通車2台分なので1列だけ)で2編成が構成されている。なんだかんだと計100台位は停められそうなスペースが確保されているようだった。
分離路はSAの空間まで続くと、そのまま本線と平行に台形の下底に沿って出口の合流路に続く物、斜辺と上辺にある歩道に沿ってガソリンスタンドやバスストップの方に行く小道にも接続する通路、そして2編成整備された駐車場の中を仕切るように真ん中を通過する物の3本に分かれている。俺は最初の分岐で歩道のある方へ一度ハンドルを左に切ると、すぐに真ん中の通路の方へ入る為に右へ切り返した。
都心から出てすぐのサービスエリアなのにも関わらず、時間的に夕餉時が迫っている所為か、早めの夕飯を摂るのか結構な数の車で既に駐車場のかなりの部分が埋められ、左右どちらにも車が並んでいる。
何台位通り過ぎただろう。ふと見ると上手い具合に縦2台分が開いていて向こう側の通路に出られる駐車スペースを左側に見つけたので、俺はそこに車を入れ、奥側、隣のスペースに出る直前の駐車枠の中に駐車し、停車措置と燈火類を全て消灯した。そしてシートベルトを外し、運転席のリクライニングを限界まで倒して横になる。
「ふわぁ……。」
もう寝ても大丈夫。だからついつい気が緩んだのだろう。思わず出た欠伸が誘引したのか、俺はまた強烈な眠気に襲われ、そのまま引きこまれていった。
横Gで振れる乗員の体を支える為のシートの出っ張りに肩を、ヘッドレストに頭をモゾモゾスリスリと擦り付ける。そうやって押し付けていると、凝っている関節がグギュッ、グギュッと不安な音を立てて軋むにつれて、心なしか疲労が和らぐような気がした。嗚呼、いいわ。これ……。
10分、いや5分でいい。一眠りしてすっきりしたら、ついでに夕飯を食べてしまおう。
……………………。
………………。
…………。
……と思って目を覚まし、計器盤のスピードメーターの左側に取り付けられているアナログ時計を覗き込むと、11時を大分過ぎてしまっていた。SAに着いたのが7時前だったから、明らかに寝過ぎ、と言えばそうなるだろうか……。日中も普通に流した後の夜間移動だから、自分の想像以上に体を酷使させていたらしい。
どの道、この先適当に仮眠を取りながら行く心算だったから、時間的な縛りは問題ない。明日の8時までに依頼人の家へ着けばいいのである。
さあ、かなり遅いが軽く夕飯を摂っていく事にしましょうか……。俺はリクライニングを適当な位置まで戻すと、ドアを開錠して開け車外へ滑り出た。
さすが都心の幹線路線のサービスエリア。もう深夜に差し掛かっているというのに、ひっきりなしに車が走る本線から絶えず出入りがある。そして、あちこちにエンジンもライトも消した人気のない車、エンジンは掛けずスモールだけを灯した仮眠中や客待ち中のトラックとか深夜便のバスが止まっている。
車を施錠し、キーを背広の左ポケットに突っ込むと、左から本線に出る為に移動してきた白いT210カルディナをやり過ごし、車道を渡って歩道の縁石の上にひょいと飛び乗る。そして、何はともあれ先に済ませておこう、と建物のメインの入口の右隣に男・障害者・女と2つの入り口の間に押しボタン式のアルミ製のスライドドアタイプの自動扉がある極普通のトイレの方へ足を向けた。
トイレの中には、間口の所にも、凄く短い廊下と洗面所も含めたトイレの中の壁の彼方此方にも、交通安全と正しい高速道路の利用を喚起するポスターがペタペタと貼られている。サービスエリアにおける駐車の仕方のような利用者を馬鹿にしているのかと思うものから、路肩に緊急停車を余儀なくされた時の対処法や交通規制時の交通整理の手旗信号の正しい意味など少し勉強になるものまで面白い。時たま、工事の予定などが掲示されていたりもするので、目を通しておいて損はない。
利用者も多く大きな建物のトイレだけあって、個室を並べて二つに折り曲げた空間の、此方から見て向かって右側の白い壁一面に、コの字を描くように少し白色が赤茶けて霞んだ便器が数十個も行儀よく並んでいる。時間が時間だからか、人気のない便所の灰褐色のタイル張りの床を白熱球形のLED照明の無機質で真っ白な光が寒々しい程素っ気なく照らしている。不気味といえば不気味だ。
適当な便器の一つを陣取り、手早く用を済ます。ズボンのファスナーを上げ、洗面台で軽く手を洗う。トイレから出ると、トイレから漏れた白い明かりがただっ広い駐車場に立ち込める闇をを四角い入り口の形に切り抜くように照らしていた。
さて、どうしようか……。取り敢えず当初の予定通りに夕食だけを済ますとしよう。
建物の中に入ると、夜半になっても蒸し蒸ししている外と違ってヒンヤリと乾いた居心地のいい空気で屋内が満たされている。
真ん中に机と向かって奥と左側の方にキッチンを並べた、如何にもSAらしいカフェテリアスペースが正面にある。さらに右の方に目を遣ると土産屋など他の娯楽施設が店を構えているのが見え、食堂の空間との境目のスペースに小じんまりと何台かの飲食物の自販機が整列していた。
自販機のスペースに行き、その内の1台にあった飲料メーカーのそれの前に立つ。そして左手首の機械を、普通なら料金の投入口に当たる部分にあるディスプレイ右下の、丁度人の腰の高さにある大きな正方形型の黒いセンサーに押し付け、冷たい方の缶コーヒーの1つに狙いを定めて購入ボタンを俺はグイと押した。ピロピロリンとちんけな電子音と共に差し引きだされた金額が『12』Gとセンサー左側の赤いLEDのデジタル計器に表示され、同時にゴトンッと自販機の足元が震える。
俺は屈みこんでお目当ての缶コーヒーをやたら狭くて暗くて判り難い商品取り出し口から引っこ抜くと、軽い溜息の後に力を込めてタブを抜く。缶にポッカリと開いた穴に口を付けると、変に甘味がついた苦いブラックコーヒーが喉の方へ流入する。これで少しは頭もはっきりするだろう。
フードスペースに戻り、入り口の所に2台並ぶ白くて背高な食券機の内右側の方に立つ。手首の機械を読み取り部に押し付け、醤油ラーメンのボタンを押す。まるで列車の切符のように取り出し口からヒュッと飛び落ちた薄っすらとベージュに霞んだ食券という名の紙片が、鏡のように光を反射させるステンレス材の上にまるで暗い湖に浮かぶ一艘の小舟のように両端を少し丸めたその身を置いている。俺は無造作に食券の取り出し口に右手の指を入れるとそれをそっと摘み上げた。
醤油の筈なのに豚骨並みに背脂が浮きまくって丼いっぱいに厚い油膜を張り、その所為で熱気が篭るのか熱湯のように煮えたぎったそんなに美味くないラーメンを、猫舌故にフーフーと息を吹きかけて冷ましつつ食べる。まだ夏本番には先がある立夏な時分とはいえ熱帯夜と言っても差し支えない気候に既になっているのに、どうして俺はこんなラーメンを頼んでしまったのだろうか……。そんな事を考えながらも無心に箸を動かした。
食事を終えてサービスエリアの建物から駐車場へ戻ると、俺の車の左側の駐車スペースに停まっている車が入れ替わっているのに気が付いた。さっきは営業車然した黒いゴムバンパーカバーの白いY12型ADバンだったのが、少し不良っぽい感じの黒いソリオに変わって居る。
面白い事にこのソリオ、普通とは反対向きに停車している。右斜め進入な横列駐車場のSAの構造からして絶対建物側に頭を向けた方が出入りし易い筈なのに、何をトチ狂ったのか此方側にお尻を向けて駐車している。自車の前と左右に車が停まっている状況で後退しながら、右へハンドルを切って大して広くない場所で270度を超える転回をするなんて、やってやれなくもないけれどもそんな面倒臭い事など俺なら御免被る。周囲を見渡せばどう止めれば一番良いのかは幼児でも理解できるだろうに、このソリオの運転手は何を思ってこんな所業をする事に至ったのか、少し気になった。
キーのボタンを押して解錠し、右隣の濃紫の20系ヴェルファイアにぶつけないように少しだけドアを開けて俺は運転席の中へ滑り込んだ。
ドアを閉めてシートベルトを締めるとキーをイグニッション部へ差し込み、少し間を置いてから勢い良く回す。ダイヤル状のライトスイッチをロービームまで回した後少しだけ手間へ引き上げる。同時にヘッドライトとフォグランプが白く淡黄色くグラデーションを滲ませながら目の前を照らしだした。
さて、行くか。ブレーキを踏んでギアをDに入れる。右ウインカーを焚いてサイドブレーキを解除すると、俺はブレーキペダルからそっと足を外してステアリングを右へ切り始めた。
一応中央高速も制限速度を設定していない高速自動車道だが、何せ大型トラックやバス、その他自動車がひっきりなしに走っている道路だから、年がら年中渋滞している。それに深夜だから昼間と違って視界も限られるし、街灯の全く無い区間も多い。頻繁に仮眠休憩も要所要所でとったから、京神地方に入る頃には空が紅いグラデーションを醸しながら真っ白に輝いていた。
大陸の南端まで届くため北東から南西まで地域を突っ切る中央高速に纏わり付くように、多くの自動車道や都市高速が合流し、一般国道が並走する。そしておまけのように大きな高層ビル群がそこだけを占拠するかのように道路沿いに仲良くみっしりと並んでいる。まるで道路を走るドライバーに再開発で荒れた肌色のただっ広い更地を晒すまいとするかの如く……。京神地方の諸都市は、どこも概ねそんな町ばかりである。一つ一つは元プレーヤーだけでも最低数百人でモブやPPC等も含めた総人口は50万から百万人規模の市が堺阪市と京津市、神姫市を中心に大都市圏を形成しているので、この世界での一般的には帝都の他で準じる事が出来る好敵手とされているが、俺にはどうもそうは思えない。そんな寂莫とした雰囲気に街全体が包まれている。
京津から神姫方面へ抜ける道を、途中のICで降りて寄り添うように並走する側道のR101に乗り換える。国道の方も高速道路と同じ片道3車線で整備されているが、やはり狭く感じる。尤も1レーンの幅員の差50cm以上に、高速道路を走る感覚でささくれの目立つ粗い路面を飛ばしがちに走行している事が、余計にそんな風に感じさせているのかもしれない。
適当な交差点から側道から分離帯のない片道2車線の幹線道路へ右折し、北へ進路を取る。高層ビルが林立するオフィス街がみるみる内にその背を縮めていき、2から5階建ての商店や雑居ビルが雑然と犇めく、その辺の田舎の地方都市でも見られるような混み混みした風景に様変わりしていく。20分も走ってない、しかも滞りがちな粘っこい車の流れにそれを助長するように立ちはだかる赤信号の群れを越えて、である。なんとまあ、まるで住人の気質のように落ち着きのない街並みだろう。
郊外の住宅地へ向かう、と言えば聞こえはいい。が、寂れた人気のない方へ流されていると表現した方が正しい気がする。何処ぞの紳士服の専門店とか、大手スーパーの経営するショッピングモールだとか、ボーリングをその中核とする某アミューズメント施設がランドマークとして顔を利かせる、そんな田舎の住宅地をいつの間にか走り抜けていた。
一応道はまだ片道2車線あるが、最初の方のメトロポリスめいた面影は完全に失われている。
ナビの指示に従い、適当な交差点を片道1車線の手狭な道路へ左折し、そこからさらに民家が並ぶ込み入った裏路地へと通って行く。そして出発からおよそ半日、約束の朝の8時の少し前に俺は一軒の家の前で車を停止させた。
敷地面積はおよそ40坪程度だろうか。大きくもなく小さくもない普通の庭付き2階建ての一軒家。まだ建てて間もないのか、庭は雑草も茂らず綺麗に芝や柴が整えられ、家全体から新鮮な香りが立ち篭めている。もし戸建を購入するとしたら、理想的な感じの寄棟でだ。
しかし、車のエンジンを切って降り立ち、改めてその家をまじまじと眺めて俺は思わずあんぐりと口を開けてしまった。何と言えば良いのか……。凄く茶色いのだ。
土台のコンクリートこそ普通の灰褐色そうだが、その上の壁材はホワイトっぽいミルクチョコレートのような薄い茶色に塗られ、窓硝子のサッシや金属製の雨戸も真鍮に薄く黒を塗布したような鈍い輝きを放ち、ご親切に屋根瓦まで焦げ茶色のセラミックタイルが敷かれている。南方に設置してあるソーラーパネルっぽい物も茶色だったらと思うと、誠に惜しい物件である。
何だろう、一つ一つの部分の色は極普通にありふれている物なのに、一色に偏り過ぎて凄い違和感がある。そして1階部分をなるべく隠そうとするかのように立つ塀の垣の上に立つ防音壁のような金属板や玄関のドアと門扉も、サッシや雨戸と同色に塗装されている。俺は無性に異常な不安を覚えつつ、これまた濃く茶色いインターフォンのスイッチを押した。
ピンポ――ン……。
『はい?』
茶色っぽい色の為に新機の癖に幾分か古めかしく見えるインターフォンのスピーカーから女性の声が聞こえてきた。恐らくも何も家人であろう。
「お早う御座います。谷様ですね?私、本日ご予約を賜りました高津タクシーの高津と申しますが……。」
『あ、はいはい!あ……ッ!あっ!少し待っていて下さいね……。あなた!急いで……。』
スピーカーからもバタバタゴタゴタと東奔西走する騒がしい音が大きく聞こえてくる。バサッと新聞を畳むらしき音やコップらしき食器を机か何かに叩きつけるように乱暴にガチャンと置く音がする時点で、どのような状況かありありと想像できる。
別に客商売だから待てと言われれば何時までも待つが、タクシーが迎えに来る事が事前に解っているんだから早めに用意しておいてくれよ、といつも思う。幾らセダンでも路地の幅の半分以上を占めて止まっていれば迷惑きまわりない障害物だし、散々待機させられた挙句、予定に遅れそうだから急いでくれと理不尽な要求を突き付けられると、お前の自業自得だろうが!と許されるならそう切れたくなる。結局そのつけを被るのは、原因をつくった客ではなく運転者である俺だからだ。
あんまりなセンスの家に住んでいるから、厄介な……失敬、かなり風変わりなお客かと勝手な先入観を持っていたが、杞憂だったらしい。5分も経ったか否かの内に、ガチャリと鉄製の重たい玄関ドアが開き、赤茶っぽいグレーのスーツの上とそれより少し濃い色のチノパン姿の男が出てきた。髪に白い色が微かに混じり、蟀谷辺りに皺が目立つところを見るに初老といったところか。金縁の眼鏡に金色のロレックス型の派手な機械を手首につけている。さらにこれから出勤するのだろう、後ろから追い掛けて家から出てきた癖毛が強い肩下までの黒いロングで青い部屋着姿の、恐らく先程インターフォン越しに対応したのだろう同年輩の女性から黒っぽい茶のビジネス用の手提げ型の革鞄を受け取ると、彼は真っ直ぐ俺の車の所へ近づいて来た。
男が後1mという所まで接近した時、俺は連合から支給されているギルド章の付いた制帽を頭から取ると、背筋を伸ばした後丁寧に一礼する。
「谷様で御座いますね?本日は個人タクシー連合高津タクシーをご利用頂きありがとうございます。……お荷物は如何致しましょう?」
トランクを開ける為に車の後ろへ回ってキーをリッドの鍵穴に挿そうとした途端、俺の方を向いて谷という客は首を横に振った。
「いや、ええで結構。一緒に持ち込ませて貰うわ。」
「左様でございますか。」
俺は右手を引っ込め、掌中の鍵を上着のポケットに潜り込ませると左側の後部ドアの傍に立ち、それを開けた。
「どうぞ。」
「おおきにな!」
「扉を閉めます。お手元にご注意下さい。」
「どうもご丁寧に。大丈夫やて。うん。」
バタン!と軽くしかししっかりとドアを閉めた後、俺は溜息を吐いた。此方のサービスで言っている常套句に丁寧に気さくな返事を頂けるのは有難いと言ったらそうだが、如何せん明朗過ぎるというか声が大きい所為か、なんとなくやり難い。自分も関西人で普段は方言を使っている口だから関西弁での遣り取りは苦にならないけれども、どうもこの客場合はズケズケと入ってくる無遠慮な感じが言葉や口調の節々からありありと感じる気がして、何とも居心地が悪い。
まあ、だからといって嫌な顔は絶対にしない。どんな客だろうと目的地へ快適に運ぶ。それが俺の商売だからだ。
運転席に乗り込み、シートベルトを着用してキーをスロットに挿し、回す。
「それでは、よろしくお願いします!」
そして、俺は車を発進させた。
「いやあ、でもほんま帝都の方から態々こんな所まで来てくれるなんてな!」
「いえいえ、これが仕事ですし。お気にせずに。」
本当は手前の初奈島からだが、この際どうでもいい。それよりも出発早々、相手がコテコテの関西弁だからか、普段仕事ではなるべく方言を遣わないようにしている自分も、節々にお国の京言葉が出ている。
「いやはや、ほんまやて。こっちの我儘で来て貰た事には変わらんしな。何せこのへんにはベンツはんなんか使うとるのおらんしなあ。」
「まあ、そうですねえ……。この辺は私ら連合より同盟はんの方が強いお土地柄ですし……。」
「その辺の事情は知らんけど、何処も彼処も猫も杓子も似たようなちっこいトヨタばかりやろ。おもろないんや。どうせ乗るんやったら変わったのに乗りたいやろ?な?」
「まあ、そうですねえ。私も好きな車に乗りたいさかい、個人しとるってところもありますし。」
「そうやろう?せやのにこっちは中型車ばかり乗りおって……。なんか勿体のうてなあ……。」
「せやけど仕方ないと思いまっせ。なんやかんやと車が高くなれば維持費が掛かりますさかい。それにタクシー向けに作られた車は部品がどれも共通しとるし、燃料も安いレギュラーかLNGで安く上がりますし。」
「LM……?」
「LNG!天然ガスの事ですわ。」
「ほ――……。天然ガス。そない安いんか?」
「リッター辺りの走行距離はガソリンの半分強ですけど、値段が10分の1程度ですしね。コスパは良いとちゃいますかね。私は使うた事ないんでよお知りませんけどね。」
「そうか……、そうなんかあ……。ウチの車もその天然ガスに変えるかねえ。」
「止した方が良いと思いますえ。LNGを入れられるスタンドってえらく限られとりますしねえ。」
「……。」
「京神地方全体だけでも50も無いんちゃいます?余程大きな基地店でもない限り扱うてへんと思いますよ。」
「そうかあ……。」
「だから私は面倒臭いんで、ハイオク車ですけどね。」
「けど、ハイオクなら油代が馬鹿にならんのやないんかい?」
「まあ、そうですけれど……。稼げば相殺されますしね。」
「へえ!そんな儲かるもんなの?昨今は厳しいような事聞くけど。」
「ウチは幸いお得意はんとか遠くへ指名されるお客さんが仰山、はいかずもそこそこおられますし……。まあ、お陰様で何とかしのいでおりますね。」
「そやけれど、こない高い車を維持するのは、骨が折れるん違うか?」
「そうですねえ……。楽やおまへんね。そやけど好きな車を好きなように乗り回せますさかい。まあこんな生活でもええかなあ、って考えてますわ。」
「そういうもんかねえ。あっ!次右に曲ごうたらギューンと行ってどんつきの角曲がって!」
「はい、畏まりました。」
俺は左に出てからずっと道なりで走っていた大通りを、信号の色を再確認してから男が指示した通りに横断歩道を跨ぎ、鬱蒼と茂る両側の街路樹の青々と茂る葉によって暗がりを閉じ込めた狭い路地へと右折した。
右側に大きな基礎石の上にがっしりと立てられた青い屋根瓦付きの小さな城壁のような薄黄土色の塀とそこから顔を覗かせる視界いっぱいに覆う照葉樹林の木立、メタセコイアの街路樹も立つ狭い歩道を望む。対照的に左側は普通の様々な外壁が断続的に続き、白い実線の路側帯さえない。そんな道路を走り始めると、程なく50mも経たない内に道が直角に左へ逸れる。そして道なりに進むとすぐ、右側と正面に伸びる丁字路が車の前に現れた。
「その交差点越えた所で降ろしてくれや。」
成る程、丁字路の向こう側の角に、何処かの会社の事務所のような看板を掲げた3階建ての建屋がある。
「こちらですね。」
「そう。その前で止めてくれんか?」
俺はメーターを止めてハザードを出して減速し、右側を確認するとそのまま交差路の見える方へ車を寄せ、舗装された玄関前のちょっと広めにおよそ半々で向かい合う5台収容の野外駐車場のような場所に乗り上げるとその建物の前で停車した。
「おおきに、お疲れさまでした。242Gになります。」
「じゃ、これで頼むな。」
そう言って客が差し出してきた左腕に、車のダッシュボードからネットワークに繋がっている右の掌中の黒い読み取り端末を翳すと、俺は自動ドアを開く操作をした。
「ほなおおきに!なかなか良かったわ!また頼むわな。」
「こちらこそご乗車ありがとうございました。またの利用をお待ちしています。」
降り際に振り向いた客に会釈で業務文句を唱え、その背中が会社らしき傍らの建物の玄関の奥へ無事に消えていったのを確認すると、俺は自動ドアを閉めてギアをリバースに入れた。そしてブレーキを強く踏み込んだまま、
「ハァ――――――……。」
と胸中に渦巻くモヤモヤしたものを追い立てるように深く溜息を吐いた。遠隔地から呼び出しておきながら10km程度走ってハイサヨナラはないだろう、常識的に考えて。240Gちょっとなんて片道の高速の代金にもならないぞ。とんだ大赤字だ。
まずいな……。このままではのこのこと帰還は出来んぞ。高速道路を走れば通行料が掛かるし、下道を走れば時間が掛かる。尤も初奈島まで引き返す分の燃料費だけで既に損害の大分食っている。
単に金額だけで比較するなら高速代およそ1600G+ハイオク代1000G弱、それとハイオク代2万弱で下道を走った方がずっと安い。ただし今すぐ出発したとして、高速を使えばどんなに遅くなったとしても日が沈むまでには帰宅できるが、使わなければ下手しないでも何処かで車中泊せざるを得なくなる。……とは言いつつも、ここで一般道縛りで行くルートを選ばなければ、玉緒にまたガミガミと文句を言われ続けそうな気がする。仕方がない。高速に乗らずに行きましょうか。
俺は後ろを振り返ると、徐々にブレーキを緩めていく。それに呼応するようにガクガクと振動を立てながらジワジワと車は抜き足差し足するように後退を始めた。
細道から大きな道へ出て、さらに数キロ抜けてR170へ右折する。R170をひたすら走れば、一部区間が中央高速の側道として機能しているR171を右方向へ進んで京津方向へ抜け、R171終点とR1の三叉路へと向かう。後はR1を一路東へ向かって突き進む。
基本はこの経路を取り、俺はお客を拾って運びつつ帝都の方へ車を進める事にした。スーパーサインを『支払い』から『空車』へと変更する。
さあ、賭博の始まりだ。取り敢えずさっき客を下ろした地点から転回せずに道路上に車が出た時点でDレンジに変え、細道を走り抜けて適当な交差点で左折する。そして路地へ右折する前、客に右折するよう指示された交差点から西におよそ500m先に行った地点に到達した。この十字路を右折してさらに大通りを西進すれば、R170に到達する。
右折を終えてR170との交差点までは約2km弱。この2分そこらの内にお客に引き留められるか否かで今後の予定が確変する。もしも要求された目的地がR170を南進して堺阪市の南方に位置する泉内市方向なら、大変な寄り道を余儀なくされてしまう。
まあ、その時はドライブでもする心算でゆっくりと帰ればいいさ。急がば回れという言葉もある。どの道行き当たりばったりで寄り道を余儀なくされる覚悟はとうに決めている。
さあ、行くか。曲がった次の信号が青に変わり、前に車などが居ないのを確かめると、俺はアクセルを踏み込む右足にグッと力を掛けた。