第二十五話:ローレルの表紙入り
雨がしとしとと降っている。
どうやら今年は梅雨入りが早く来たらしい。目の前で忙しそうに2本の腕を稼働させて窓を叩く水滴を拭う黒いワイパーと、その向こうのいつもより曇ってモヤモヤした車窓の景色を見つめながら、俺はそんな感慨を心の中で漏らした。
7月まで連休が来ない事を知って嘆いた5月の中旬。どんよりと厚い雲が空を覆いつくし、小雨から徐々に雨脚が強くなる昼日中の島内の繁華街を、愛車のC35ローレルの後期型メダリストで駆け回る。雨の所為で敬遠しているのか、普段は人で溢れた路上も、今は人もまばらである。だからだろうか、今日は凄く客の入りが悪い。
まあ、儲かる日もあればこういう日だってあるさ。それがタクシー稼業と言うものだ。
とは言うものの、此方も女房と2人分の生活が掛かっているので、これから実入りの優れない日が何日も続くのかと思うと、まるで今の空の色と同じ様に、心の中が灰色な色で満たされるような気がして俺は少し憂鬱になった。
無駄に走り回ってガソリンを浪費するのが癪だったのも勿論あるが、時間的にそろそろそこはかとなく空腹を感じたので、俺はたまに使う例の、第一商店街のラーメン屋に向かって車を走らせた。
向かって右側、一番奥の空車の軽自動車専用とは別に、その1つ手前に1台だけ空いていた横列スペースへ、左隣に止まる同業者の白いC30セルシオや背面のブロック塀と接触しないように気を付けて、ハンドルを思い切り右に切りながらバックで車を入れる。そうしてギアをPレンジに入れ、エンジンを切ってシートベルトのバックルの橙色のボタンに手を掛けた時、ふと気が付いた。
傘が無い……。
自宅のあるアパートの駐車場は地下の立体。天候問わずずっと車の中にいる仕事なので思い至らなかったが、折り畳み式のそれさえも俺は持っていなかった。
しかも、法人タクシーではないから透明な安物の傘を常備している訳ではない。傘を貸し出しても、法人のように同属の別の車に返却して貰うなんて芸当は無理である。
尤も、少し高めの黒い紳士傘を持ち込む場合もあるが、事前に予約を得たハイヤー乗務の時位だ。何せ、セダンは汎用性の高い便利な乗り物だが、長尺の紳士傘の置き場所には難儀するからである。アクセルやブレーキ等の誤作動の原因になる可能性があるから運転下に置く事は出来ないし、お客様が乗車する可能性がある助手席や後部座席に無造作に放置する訳にもいかない。
さあ、如何なものか……。詰まるところ、車から降りてダッシュで店まで駆け込めば済む話な気もする。だが、たとえ10m程の移動であっても土砂降りのようにザーザーと降るこの雨天の下を通ってずぶ濡れになるのは、ちょっとでなく嫌だ。
ちょっと思案してみたが、やはり億劫に思えてならないので、近場のコンビニまでこのまま車で向かって、傘だけ買ってまた戻って来よう。何、ほんの5分も掛からない用事だ。時間が時間だからってすぐに駐車場が埋まってしまう、と云う事はたぶん無いさ。
よし!
俺はエンジンを再始動させるとウインカーレバーを上げ、発車措置をしてアクセルを緩く踏みつつステアリングを左へ切った。
そして、また左ウインカーを点滅させて歩道の手前で一時停止すると、左方向から目の前の片道1車線道路を、左ウインカーを焚いて路肩に寄せながら減速する連盟カラーの30プリウスがやって来て、まるで俺が出庫するのを待つように舵輪を左へ向けた状態で目の前で停止した。
おい、早速取られたぞ……。
100m程走り、途中にある信号機のある交差点を越えてラーメン屋から2ブロックちょっと離れた、道路に面して左斜め進入の、駐車場と見えなくもないスペースを自動ドアの入口左側の雑誌コーナーのある大きなウインドウの前に備えたコンビニの前に着くと、俺はブレーキを踏みながらハンドルを切って歩道を跨ぎ、ローレルをその掠れた淡いオレンジ色の正方形の石のタイル貼りのそこへどかっと停めた。
エンジンを切り、車も施錠すると、俺は小走りで店の中へ駆け込んだ。正味2分もない間かも知れないが、その僅かな隙を車上荒らしや自動車泥棒は狙って来るのである。エンジン掛けっ放しで放置するなんて事、俺には出来ない。
入り口のすぐ脇で売られている50Gの透明なビニール傘を引っ掴むと、レジの列に並ぶ。そうして会計を無事に済ませると俺は車に戻り、左後ろを振り返りつつバックで車を出す。それから限界まで右に舵を取り、車道を跨いで反対車線へ出ると、一度切り返してから俺は元きた道を引き返した。
右折でラーメン屋の駐車場に入ると、一番手前側の右側の横列駐車の場所が空いていた。運がいい。勿論、俺はそこへバックで車を入れた。
車を施錠すると、傘を差して気持ち小走りでラーメン屋の中へと駆け込む。
「いらっしゃい!」
そんな威勢の良い声に迎えられつつ、ガラガラと大きな音を立てる建付けの悪い入り口の硝子障子を引いた瞬間、眼鏡が真っ白に曇って俺は刹那だけ五里霧中な境地を味わった。
店の中はやはり混んでいるが、勘定台のすぐ近く、一番手前のカウンター席が空いていたので、俺はそこに腰を掛けた。
ただでさえもカウンター席と後ろの壁の間隔が広くはないのに、始終人が後ろを通るので鬱陶しい事この上ないが、番台の傍の雑誌ラックに右手をちょっと横へ差し出せば簡単にその上に無造作に置かれた雑誌や新聞に手が届くから、中々便利である。
「お客さん、注文何になさいます?」
「豚骨!あと餃子を1人前。」
「はいよっ!」
注文を取る店主の掛け声に適当に答えながら、俺はマガジンラックに手を伸ばし、今日の分の『日刊交通新報』を取り上げた。
待っている間の時間潰しにと、僅か20ページの薄い新聞をパラパラと捲っていると、ふとある記事の見出しに目が留まった。
『USAニューヨーク市がイエローキャブにNV200を正式導入の報を受け、今年度中にYCAでもバネットへの入れ替えを検討か?』
『反対勢力は多数。実現は困難必至の見通し……。』
現実世界でニューヨーク市が市内を走るタクシー、所謂元祖のイエローキャブを順次NV200バネットに全て入れ替える事を正式に決定した事に便乗して、此方でもYCAが所属する全ての運転手の営業車を同型のバネットに変えようと画策しているとかいないとかを無駄に詳細に伝える記事である。
バネットは、一時期マツダ・ボンコからのOEM供給もあった、サニー・バンと同トラック系由来のキャブオーバータイプの商用ライトバン、トラックの事であり、NV200はその名を受け継いだ現行の貨物乗用兼用のミニバン型ライトバンである。
何処の誰が押しているのかは知らないが、コンフォートやクルーのように、福祉整備車の格安タクシー車両の定番素材として急に流布し、多くの法人や事業者で最近採用例が増えている。かつて後部のラゲッジスペースから車椅子を収納可能なスロープを用いて収容出来る小型の福祉車両と云えば、ファンカーゴやキューブ等様々な車種が跋扈していたものだが、最近は法人でも個人でもNV200かカングー2が主流である。と言うよりこれらしか見掛けなくなった。
しかも福祉車両だけではない。普通のタクシーでもNV200は流しで走っていたりする。そりゃあ車格がでかくて背高のっぽの分広くて値段の割には居心地も良いんだろうが、やっぱりタクシーはセダンという固定観念に囚われている身としては、何だかなあと感じてしまう。特にクラウンヴィックやカプリスといったフルサイズセダンのイエローキャブに惚れてYCAに加入している多くのドライバーに取ってみれば、NV200への鞍替えの強制なんて、地獄以外何物でもないだろう。彼等の愛車への拘りは俺も舌を巻くレベルだからなあ……。
「NV200はないよなあ……。」
と俺は思わず彼等に同情してしまった。
すると、それに答えるかのように、
「本当に、そうですよ。」
と、左耳に男の声が入ってきた。驚いて振り向くと、少し身体を右の方へ傾けて、俺が読んでいる記事を横から盗み見ている男が居る。
「冗談じゃない!」
総憤慨する男の口ぶりから察して恐らくそうだろうと予想していたが、自分はYCAに所属しているドライバーだ、と彼は俺に打ち明けた。
彼の話によると、今やYCAはリアル世界のニューヨークに倣おうとするギルドの上層部と、そうはさせんと応戦する末端のドライバーの労働組織との間で、事実上真っ二つに割れてしまっているのだという。
お陰で仕事もままならない、と行きずりで居合わせた他人に赤裸々に愚痴る辺り、本当に大変な事にはなっているのだろう。だが、俺達連合には少なくとも縁の薄い話の所為か、
「大変ですね。」
と、軽薄な同情の言葉しか俺は彼へ寄せる事が出来なかった。
「へい!お待ちどう!」
と、大将からラーメンの入った丼と餃子の載った平皿を渡され、新聞を畳んで元の場所に戻した事によって唐突に会話を終わらせてしまった後も、割り箸を割りつつ俺は考えた。もし、俺も似たような目に遭ったとしたら、どうするだろう……?
仮にだ。万に一つもないと思うが、もしも連合の車両規定が、ある1台の車種、例えばプリウスとか、に統一されたとしたら、その時俺はどういう行動を取るのだろう?
しかし、そうなってもYCAの連中のように徹底抗戦な姿勢は取らないような気が凄くする。十中八九、仕事は仕事と割り切って大人しく従う方向へ己のベクトルを向けるだろう。黄色い車と違って、銀色に塗色されている車は普段使いの私用車と使っても別に違和感はないし。第一、この仕事は半分趣味みたいなものなので、寧ろ俺の場合プライベートで使うべき車をオフィシャルな現場にもそのまま持ち込んでいると言った方が正しい。それが駄目だと通達されれば、元々の使い方に戻してやるまでだ。
何だ。何の問題もないな……。そう思った途端、ますますYCAの連中の騒動に現実感を失い、俺はぼんやりと遙か彼方にある対岸の火事を望むが如く心境に至っていた。所詮、他人事である。
「大将、御勘定!」
「はいよ――!ちょっとお待ちを!……152G頂きます!」
「じゃ、これで……。」
俺は店主へ向けてスッと左手首を突き出した。
「じゃ、ご馳走様。」
「毎度、またのお越しを!」
相変わらず威勢の良い大将の張りのある大声に見送られるように引き戸を開けて外に出る。雨は降っていなかった。あるのはアスファルトの窪みに溜まった幾つかの暗い水溜まりと……。仰ぎ見ると嫌でも目に入る灰色の雲の切れ目から差し込む幾筋かの白い光の帯だけである。
傘、いらなかったな……。左手に握りしめたビニール傘の、如何にもプラスチックの安っぽい白い手元を見下ろして、損したなと少し苦々しく思いながら俺は自分のC35の元へ向かって歩き出した。
ドアを閉めてシートベルトをし、背広のポケットに入れていたキーをスロットに差し込む。さあ、行こうか。
晴れた事だし、街中に出掛ける人も増えるだろう。そんな取らぬ狸の皮算用をしつつ、俺は手際よく発車措置をして車を発進させた。
さて、今日は待ちに待った木曜日。午前中は雨の中観光や行楽に訪れる人は少ないだろうと踏んでいかなかったが、止んだ今ならぼちぼち初奈島中央駅へ人が流入し始めているかもしれぬ。そういう訳で、俺は車を駅へ向けて走らせた。
予想的中!とまでは言わぬまでも、少しずつ入庫する車の数が増えてきたロータリーや構内に、そぞろと歩き行き交う人の姿が次第に目立つようになった。
カープールから出て波止場に停留する船のようにタクシー乗り場の車列に並んで歩道に車を横付けた俺は、早く順番が回らないかと退屈を持て余しながら客待ちをしていた。尤も、人通りが増えただけでタクシーを使うのは殆ど皆無なのか、先程からずっと前の車が動き出す気配が無いのだが……。
あまりにも手持ちぶたさなので、俺はオーディオを操作しラジオをAMからFMの音楽番組へと切り替えた。途端に、今までローカルニュースを読むアナウンサーの低い声を漫然と流していたスピーカー達からアップテンポの軽快なポップスが賑やかに鳴り響く。自ずと合わせてハミングし、身体を揺らしてリズムをとると俺はボリュームの摘みを時計回りに少しだけ回した。
相変わらず1mmも進めない中、暫くそうしてノリに乗っていると、突然ドンッと助手席の窓硝子を叩く音が聞こえた。
もう一度同じ、さっきより強くなった気がするノックの音が続けざまにした瞬間、顔をそちら側へ向けると、ベージュのチノパンに黒い英文字がプリントされた白地の7分袖のTシャツ、黒い前開きのベストという如何にも休日用のカジュアルな服装といった出で立ちの青年が、俺の車の中を笑顔でじっと覗きこんでいるのとばったり目があった。
首から黒っぽい色の紐で吊った黒色のデジタル?の一眼レフカメラを下げていたので観光客だろうが、視線が交わった刹那は、たとえ一瞬とはいえ俺はゾクッと背筋に寒いものが駆け抜けるような間隔に襲われた。が、何故俺の車なのだろう、という疑念が頭の中で噴出した途端に現実へ引き戻されるを得なくなってしまった。
タクシー乗り場からタクシーに乗る時は、客待ちしている車列の先頭の車から順番に乗って行くのが普通、常識、いや大方のルールだ。で、今俺の前には5台程先着して待機している。このカメラ男は明らかにそれを破ろうとしていた!だから俺はそれを注意する為、助手席のパワーウインドウのボタンへと指を載せた。
ウィ――――――ン……。少し耳障りな飛蚊のような音を立てて助手席の窓ガラスがドアの中へと潜り込んで行く。
「あの、すみません。」
「すみません、お客さん。申し訳ありませんが、タクシー乗り場でのタクシーの御乗車は、先頭に停まっている車から順にお願い致します。」
男の一声にユニゾンで被せるように、俺は彼の言葉を遮った。
「御期待に添えず、御面倒をお掛けするかもしれませんが、そういう規則ですので……。どうか前の方へお移り下さい。」
「いえ、そうでなくて!」
窓を閉めようとパワーウインドウのスイッチに右の人差し指を掛けようとした途端、男が両手でせり上がる窓ガラスを押し留めるが如くガシッと助手席ドアの上縁を掴んだので、俺は諦めてスイッチから手を離した。
「お忙しくなければ、ちょっとお時間を頂いても宜しいですか?」
「……………?」
手振り身振りで車内に入ってもいいかと意思を示した男の言葉に不思議に思いつつ俺が頷くと、彼は助手席のドアに右手を掛け、そのまま車の中に乗り込んできた。
「あ、わたしこういう者です。」
助手席に座るなりベストの左のポケットの中を探って茶色い本革の名刺入れを取り出した男が平身低頭に差し出した、何の変哲もなさそうな白い名刺には、
『株式会社談講出版・ベストタクシー編集部 牧瀬 憲広』
と印刷されていた。
「ああ、ベストタクシーの……!」
俺は思わず感嘆した。
「ええ、そうです……が、ご存知なのですか?」
「え、ええ……。」
知っているも何もベストタクシーと言えば、タクシーの運転手が屯する所なら日刊交通新報と並んで常備されている事も多い、タクシーに特化した週刊の一般向け自動車雑誌である。俺も見掛けたならだが、読んでいる情報誌だ。
「で、そのベストタクシーの記者さんがどのような御用件で……?」
「ええ。実はウチの雑誌の表紙を飾ってくれるような個人タクシーさんを探していまして……。」
「…………。」
「丁度、この車が目に入ったものですから……。」
助手席の縁のリクライニングノブの辺りを右掌の指先で軽く叩くと、牧瀬はこう続けた。
「どうでしょう?宜しければお車と運転手さんの写真、撮らせて頂けないでしょうか?」
「いいですとも!」
反射、とかそういう次元ではない程俊敏に俺は即答していた。願ったり叶ったりなんてものじゃない。全国の同業者が愛読しているようなその筋の有名誌の表紙に、手塩を込めた愛車が堂々と掲載されるなんてオーナーにとってはこれ以上にもない栄誉であり、自慢である。無碍に断るなんて選択肢が存在する筈がなかった。
でも、1つだけ気になる事がある。
「ですが、何でまた私の車を?」
「だってこれ。C35のメダリスト後期でしょう?珍しいし、車自体もスポーツ性重視の良い車だから、華があって映えるんですよ。ノーマルの雰囲気を生かしつつ良い感じにシンプルに纏め上げているのも良いですしね。それに……。」
「…………。」
「よく見たら、あの伝説の『高津タクシー』でしたし。これは是非、交渉しなければならないな、と。」
「はあ……。」
何を持ってそう言われたのかは定かではないが、伝説のなんて接頭語を付けられて、俺はどういう反応を取ればいいのか少々困窮してしまった。
なるべく景観の良い所で撮影をしたいから何時々々桜公園の不枯桜のロータリーの所へ来て欲しい、とトントン拍子に話が進み牧瀬は車から降りて何処かへ去って行った。
「あなた。今日は何かいい事でも有りましたの?」
仕事を早めに切り上げて家で夕食を摂っていると、玉緒が唐突に訊ねてきた。
「ん?別にないけど……。」
と答えはしたが、やはり顔に出てしまっているのだろうか……?
何せマニアックなカー雑誌とはいえ全国紙の表紙を俺の車が飾るのである。しかもベストタクシーの表紙やギャラリー等の誌面に取り上げられると、車の他にオーナーとのツーショット写真と共に事業所の連絡先までも一緒に記載される。つまり本来此方が広告費を払う所を、向こうから載せさせて欲しいと頼み込んだ上にギャラまで頂戴出来るのだ。そら表情筋の1つや2つは緩むというものである。
「やっぱり何かあったのでしょう?」
「…………。」
「…………?」
「……。まあな……。」
「あら、やっぱり!それで、どんな事がありましたの?」
そこで初めて俺は、自分のローレルがカー雑誌の編集にスカウトされ、表紙写真として掲載される事になった顛末を嫁に、特に脚色もしないよう努めて伝えた。淡々と意識して無関心を装っている事はバレバレだったのか、玉緒はニコニコと黙って聞いている。何となしに、今更ながら出来た女房だよな、と俺はしみじみ感心した。
「へ――……。これが?」
「ああ。」
たまたま捨てずに取られていた先々号のベストタクシーの表紙と、表紙車の紹介ページを玉緒に見せると、彼女は簡単して顔を上げ、俺に視線を向けた。
「知りませんでしたわ。こんな雑誌があったなんて。」
「隠れて読んでいたからな。それに所詮業界誌だし。」
「隠れてって……。別にそんな事なさらなくても……。」
「……………。」
此方の想像に反して図らずも興味を抱いたのか、玉緒は床の上に広げた雑誌を彼女の手元へ引き寄せ、再び誌面へ視線を落とした。
「あなた、これ……。」
「……ん?」
「皆さん、何か御家族も一緒に写真に収まりになっているようですけれど……。」
成る程、確かに躊躇いがちに玉緒が指摘した通り、表紙写真の紹介欄だけでなく、イベントとか特集ページに掲載されている、車と一緒に写るオーナーの傍には、彼女なり妻なり親しい男友達なりペットの犬や猫なり、差異はあれどそういう人等が一緒にポーズをとっている。しかもかなり気合が入っているとはっきり判る雰囲気で、だ。
「別に必ずしも出なければいけない訳ではないと思うぞ。別にそんな事……。」
「明日か明後日にも美容院を予約しておいた方がいいでしょうか……。」
「…………?」
一瞬、会話が噛み合ってない事に違和感を抱きかけた。が、玉緒が出る気満々である事に気付いてずっこけそうになったのと同時に、普段から絵に描いたようにしとやかで大人しい家内にもこういうはっちゃけた一面があったのか、と俺は内心度肝を抜いた。
「お洋服、本当にこれで良かったかしら……。」
「いや、いいと思うぞ……。」
「……。あなたこそ、そのスーツでよろしかったの?」
「俺はこれで良いんだよ。仕事着だもの……。」
日曜日、約束の日。市街地へ向かう車中、俺と玉緒は運転席と助手席に並んで雑談をしていた。俺は普段着ている灰色のスーツ、だが玉緒の方は、いつもと同じようなストレートのロングヘアーにしか見えないが本人曰くヘアスタイルもしっかりと決め、化粧も以下略、ただ服装に関しては普段着に薄桃色のエプロンという簡素な主婦姿ではなく、ブランド物の白いノースリーブの薄手のワンピースに浅葱色の生地の透けた麻のガーディガンという少々華奢な出で立ちをしている。そう言えば妻が御粧しをしている姿を見るのは凄く久しぶりかもしれない。そんな事を考えた途端、何故か今年はまだ一度も彼女と何処かへ出掛けた覚えがない事に、はたと俺は思い当たった。
勿論行き先は桜公園、車は先日と同じ日産C35ローレル・メダリストの後期型である。撮影の為に、昨日はいつもの洗車機での雑な洗車ではなく念入りに手洗いしている気の入れようである。久しぶりの、それも今年初めての夫婦揃っての外出が、こんな近場での車の撮影会というのも、ある意味おかしい。
中央分離帯のない、キャッツアイが並んだ橙色のセンターラインが引いてあるだけの片道2車線の道路の直進用の右車線から、桜小路とのT字路を敢えて右折する形で対向車線と歩道を越え、ゲートを潜って桜公園の園内へとは入る。
公園の中央部、花が枯れない桜の所のロータリーへ進入する公園内の道路の交差点手前付近には、ハイエースやアルファード等、何か大きな機材を載せていたと思われる雰囲気のバンが何台か路肩に停車していた。そしてその周りには、何やら大掛かりに撮影機材を用意しているスタッフが忙しそうに立ち回っているのが見て取れる。
パンッ!
そう、軽く1発クラクションを鳴らすと、俺はハザードを焚いてローレルをハイエースの10m程前の路肩に寄せて停止させた。
「お早うございます。お待たせしましたか?」
「あ、お早うございます。大丈夫ですよ。我々も今しがた到着したばかりですから……。」
そうだろう。まだ約束の時間までは5分程ある。あくまで社会人としての礼儀と云うものだ。
「……それでは高津さん。本日はよろしくお願い致します。」
「此方こそよろしくお願いします。」
挨拶もそこそこにローレルを先方が指定した場所へと移動させ、撮影が粛々と開始された。
「いやあ、高津さん。見ましたよ。」
桜の大木を背にした銀色のC35ローレルが表紙の雑誌を片手に、そんな風に出会う人から挨拶される事が増えた。当初は謙遜しつつも内心得意気になっていたものだが、ここ最近は天狗の鼻を見事に折られた所為で、
「どうも……。」
と、傍から見ると味気ない返事を空虚に返すばかりとなっている。
何故なら、そう言った後に必ずこう続けられるのである。
「しかし、奥さん美人ですね。」
雑誌の目次のすぐ前に設けられた毎号の表紙を飾った車とオーナーを紹介する特設ページ。そこに掲載された写真の1枚に写った、ローレルの傍らに立つ俺に寄り添うように立つ家内の事を皆褒めるのだ。そら、自分の女房の容姿を良い風に言われるのは素直に嬉しい。しかし本来持ち上げられるべきは、この場合愚妻ではなくマイカーであるべきだろう。そう考えると、何だかなあ、と俺はやや鬱屈気味になってしまうのである。
そんでもって、
「それに比べてウチのカミさんは……。」
と相手の家庭の愚痴を聞いたと思ったら……。
「そう言えばYCA、バネットに全部鞍替えるの、結局断念したようですね……。」
「そうですね……。まあ、仕方ないでしょう。私も知り合いから耳にしただけですけれど、現場の方は物凄く反発しているそうでしたから……。」
その雑誌のスクープ記事の意見交換へと話の流れは終始する。
結局、話題が我がローレルに及ぶ事は殆ど無い。もうどうにでもなれ!