第十九話:オートライトと露天風呂
>>新太郎
通された部屋は、四端を壁と襖とドアと引き戸で仕切られた玄関がわりの1.5畳程の広さの小間と、8畳間の座敷と押入れ、そして小間の、外に繋がる引き戸から見て左側にあるドアを開けた所にあるトイレからなる、旅館らしいといえば旅館らしい、典型的な客室に通された。座敷の真ん中に鎮座する茶色い杉材の四角い卓袱台の真ん中には、お約束のように小さな包装紙に包まれた温泉饅頭が2つ、漆器の菓子皿に入れられて置かれている。
荷物を部屋の中に入れ、2個の湯呑み茶碗にそれぞれ暖かい番茶を注ぎ、
「それでは、ごゆっくりお寛ぎ下さい。」
との言葉を残して廊下へと出て行く中居を見送ると、俺と玉緒はほぼ同時に畳の上に仰向けで大の字になった。
「ああ――――っ!疲れた――――!」
「お疲れ様でした。」
右腕を肘の所で折り曲げ、目を覆うように顔に重ねる。折角来たから温泉にも入りたいが、如何せん眠い。まずは一眠りしよう。
しかしどういう事だろう。眠いのに中々寝付けられない。理由は皆目判らないが、モヤモヤとして落ち着かない。
本当に何だろう。何か大事な事をうっかり忘れて、とんでもないへまを為出かしてしまったような気がする。
不意に、さっき車のエンジンを切って降りる時、ライトをちゃんと消したっけな?という思考が閃光の如く俺の脳裏に突如湧き上がった。そう言えばウインカーのレバーの前照灯のスイッチを弄った記憶が無いぞ!やばい、ライトを消し忘れた。
バッテリーが上がる!?ハッと目を見開き、仕掛け人形が飛び上がるように慌てて起き上がった俺は、
「どうしたの?あなた、何処へ行くの?!」
と目を丸くして叫ぶ玉緒の声に見送られつつ、そのまま部屋の出入り口へ向かって駈け出した。
旅館のカウンターを通り過ぎ、玄関口で靴箱から出した靴を履くために上がり框に腰を下ろすと、背中越しに番頭に声を掛けられた。
「お客様、どうされました?」
「いや、ちょっとね。」
そう口を濁して俺は立ち上がる。
「いってらっしゃいませ。」
後ろから番頭の声が追い掛けて来たような気がした。
道路に出てすぐに左に回ってガレージの一角に停めた自分の車へ向った。が……。
「あれ、ライトが消えている?」
そう、お尻をこちらに向けて停止している自動車の赤い尾灯のレンズは暗く、内側に薄っすらとした闇が立ち込めていた。前照灯の方も同様。奥の土壁や棚が白い光で照らされている訳でも車幅灯がぼんやりとした光りを放っている訳でもない。
「あれ、おかしいな?う~む……。」
と、俺は独り言を呟きつつ頭を捻った。自分でも気付かない内に消灯していたのか?
何気なく、キーに付いている開錠施錠用のボタンをポチッと押してみる。ハザードランプの橙色の火が2度明滅し、ガチャンッという音と共に内鍵が跳ね上がる。
ドアを開け、屈んで上半身を運転席へ潜り込ませると、俺はキーをスロットへ突っ込み、『START』まで一気に回した。
ブ――ン……パスッパスッ……キュルルルルルルルル……ブスッブッブオオオオオオオオオオオオオン……ボッボッボッボッボッ…………。
燃料ポンプが動き、エンジンのシリンダーの中で火の粉が飛び、セルモーターの始動と共に燃焼が始まってタコメーターの針が跳ね上がり、車内の様々な電子機器がのっそりと動き出す。そして回転数が1,000rpm安定となった瞬間、前方の壁を下向きの前照灯のHIDの真っ白な光とフロントフォグランプのキセノンランプ特有の黄白色の光が入り交じって明るく照らし出した。
何だ?こりゃ……。不思議に思ってステアリングコラム右側のレバースイッチをよく見ると、前照灯のスイッチがポジションからオートモードに入っていた。いつの間にかオートライトコントロールを起動させてしまったらしい。だからエンジンを切った状態だと前照灯も消えていたし、スモールと連動するフォグランプも当然消灯していたのだ。
それでも、オートモードに入ったら入ったで、前照灯や前後霧灯と同じくメーターパネルのインジケーターに『AUTO』と云う警告表示が赤く点灯するから、エンジンを切る時に嫌でも気が付くと思うのだが……。そんな事を考えつつ俺はオートモードを解除し、スモールランプとフロントフォグが手動で点灯している状態にした。
よく見ると、灯火関連のインジケーターの他にもう一つ、燃料が残り少ない事を示すインジケーターが黄色く点灯していた。そういえば初奈島からここまで一度も給油していない事に思い至った。よく途中でガス欠に見舞われなかったな……、と俺は妙に感心した。
どっちみち早くガソリンを補給しなければ……。手近なスタンドの場所を番頭に訊ねる為、俺は一度車から離れる事にした。
どうせ1分も経たぬ内に車から戻って来る心算だが、盗難等の万が一の事を考慮し、エンジンを停止して車を施錠する事にする。ライトは点けっ放しでも差し支えなかろう。発電機が稼動していない状態でヘッドライトを点灯し続けても10時間程度はバッテリーの電源が持つものである。
シリンダースイッチに挿した鍵を手に取り、『ON』から『OFF』へ回して外した。そして、さて外に出ようかと運転席のドアを開けようと手を伸ばした時、俺の眼前でとんでもない事が起こった。
突然、カチッっという耳をよく澄まさなければ聞き取れない位小さな音と共に、ウインカーレバーのヘッドライトスイッチユニットが動き、勝手にマニュアルからオートモードへ切り替わり、同時に忽然と車の前の壁を照らしていた光の輪と自発光式メーターのバックライトが消え、辺りが薄闇に包まれた。
どうも、今まで知らなかったが、ライトを消し忘れてエンジンを停止させた場合、ある一定時間を過ぎると前照灯関連の設定が自動的にオートモードになる機構がこの車に組み込まれているらしい。もう10年近く前になる型落ちの自動車とは云え、流石21世紀生まれの国産高級車という事か、それとも単に龍さんが善意でこういう絡繰りまで仕込んでくれたのか……。
普段は一部車種のスイッチの構造上から夜道やトンネルでロービームに入れる時しか使わず、車種によっては日産やメルセデスのようにポジションと『OFF』の間にスイッチがあって暗い所で車幅灯を点ける度に(純正のフロントフォグランプは車幅灯が点灯しないと点ける事が出来ない構造になっている。)一瞬だけロービームが光ってうざいとすら思っているオートライトコントロールを、この期に及んで初めて案外便利だなと俺は実感した。
車を施錠し、一度旅館の玄関の方へ踵を返して番頭に下の国道にあると云う村唯一のガソリンスタンドの場所を教えて貰うと、俺は改めて出発する事にした。
運転席に乗り込んでシートベルトを締め、エンジンを掛ける。
ライトのスイッチをポジションに合わせ、序でにフロントフォグを点灯し、ハザードランプのスイッチをポチッと押す。そして、シフトレバーをリバースに入れてサイドブレーキを解除し、そのままブレーキを踏みながら左へ上半身を捻って後ろを振り返る。
黒い熱線が横に何本も引かれた緑掛かった黒いスモークのリアガラスの向こうには、濃緑色に染まったアスファルトの路面と沢の一部と向こう岸の景色が綺麗に切り取られている。車や人の往来は全くなさそうだが、万が一の場合にもすぐ急停止出来るように俺は徐々にインスパイアを後退させた。
正直言って、この手の横列駐車で前から突っ込んで後ろから出るというやり方は凄く苦手だ。入る時はまだいいが、後退しながら狭い所から広い場所まで出る事位最悪なシチュエーションも無いと本当に思う。ただでさえ車の後部視界なんて、運転席から硝子までの距離が大きい分、有効視界が狭い且つ死角が広範囲に及ぶのに、外輪差と云う物にも気を配らなければならない。少しでも気を抜けば、物陰から子供でも飛び出そうものなら、事故を起こす自信がある。だから、横列で駐車する時は、『排ガス被害低減の為、前から駐車をお願いします』等と但し書きされてない限り、極力俺はバックで入って前から出るという方法を取っている。
さて、そうボヤいた所で仕方がない。運転席のの背もたれに左腕を掛けて上半身を乗り出し、ステアリングホイールの頂上に右手を載せて段々と下がって行く。そして、そろそろ操舵する地点に着て初めて左手をシートから離し、センターピラーとシートの隙間から右側後ろの窓の景色を眺めるように右の方へ振り返ってその方向へハンドルをグルグルと回す。
川へ落ちない、左後輪が崖の縁にギリギリ接する辺りまで、下に倒したドアミラーで確認しつつ後退し、一度前進してハンドルを左へ切り返してから再びバックして車の姿勢が道に対して平行になるように整えた。
そうして、ハザードを切ってギアをリバースからセカンドに入れると、俺は坂道を国道まで向けて下りだした。
エンジンブレーキを十分利かせてディスクブレーキの負担を軽減し、ベーパーロック現象(ブレーキの過度の使用によってブレーキオイルが熱せられると、オイル内の微量の水分が沸点を迎えて水蒸気の泡と化し、その気泡を潰す為に本来パッドをディスクへ押し付ける役割を担う筈の油圧のエネルギーが使われる。その所為で一時的にブレーキが効かなくなる現象。)やフェード現象(ブレーキの連続使用によりローターの熱気によってパッドの摩擦材が劣化してガスを出し、そのガスがパッドとディスクの間に挟まる事でブレーキによる制動が不能になる現象。)を発生させ難くする為に低いギアに態と入れて走行しているものの、やはり何百キロも走ると相当量のガソリンが消費されるのか、燃料系の針が今にも『E』の所を指そうとしているので、燃費を犠牲にする事でスタンドに辿り着くまでにガス欠で立ち往生する憂き目に遭わないかとヒヤヒヤしつつ俺はハンドルを握っていた。しかし、この辺りの年式以降の車だと、下り坂で燃料消費をする必要が無いと判断した時は、アクセルを踏まない限りポンプからシリンダー内へ燃料が噴射されないという電子制御機構が標準で装備されているから、実際の所そこまで心配する必要は無いと思うのだが……。
まあ、下手にガソリンをけちってエンジンが止まってブレーキもステアリングも一切の機械支援が無い状態(エンジンの回転力をタイミングベルトやチェーンで伝達して油圧装置を動かす事で、ブレーキペダルやハンドルを動かす時に運転者に掛かる力学的負荷を3分の1程度まで軽減している。)で下り坂に挑み、制御不能に陥って馬鹿を見るよりは、燃料切れになって恥を忍んでRAF(リライフ自動車連盟)の路上救援サービスを呼んだ方が賢いというものだ。
それでもガソリンを節約する為に、俗に言うエコドライブに励む辺り、俺って小市民だなあ、としみじみ感じてしまった。
途中のY字路を国道の方へ左折して下り、続いて突き当りの国道とのT字路を右折する。
左手に川を眺めて進み、やがて右に逸れて住宅も兼ねているような木造家屋の店舗が道の両側に立ち並ぶ商店街に入って行く。相変わらず軽自動車と大型トラックという両極端な交通車両相が印象的である。普通のセダンなんて数える程しか走っていない。それも黒くないどころか赤と白のツートンという派手な色をしているにも関わらず頭の上に行灯を載せていない、5ナンバーのコンフォートとY31セドリック・セダンとクルーだけが地元ナンバーであり、後は他地方から旅行に来たと思しき地元以外のナンバーの車だけである。
しかし田舎って、その郷愁を擽り古き善き物が随所に残る風景から、走っている車も懐かしい車種や年式落ちの物ばかりかと思いがちだがそんな事はない。どこからそんな金が湧いているのかは知りたくもないが、タクシーやバスといった公共の乗物に関して言えば、都会にすらまだそんなに普及してなさそうな最新設備を満載した新型車が何気なく走っていたりするので吃驚する。
暫く走ると、右手に小さなスタンドが見えてきたので、右ウインカーを焚いて対向車線を横断すると、俺はその敷地内へ車を進め、2ヶ所計4つある給油機の内、奥の方の裏側に静止し、停車措置を施した。
だが、客は俺だけにも関わらずスタッフらしき者が現れる気配が一向に感じない。たとえ2分弱でも、夕闇の中無人のスタンド内で放置されると、あれ?今日はもう終わったの?と不安になってくる。
でも、よくよく回りに目を通せば、決して誰も来ない事は明白なので、自分の愚かしさに俺は笑いが堪えられず思わず噴き出してしまった。だって、給油機にこんな案内板がでかでかと掲げられていたからである。
『お客様へ
本日はセルフ給油ショップ・エネゴン・幻想郷八雲店をご利用頂き誠に有難う御座います。
本店はセルフ式ガソリンスタンドです。ご面倒をお掛けしますが、下記の手引きに従ってお客様自ら給油装置を操作してお車に給油して頂きますよう、お願い致します。』
俺は給油口のロックを解除して降車し、車の左後部へと回り込んだ。
給油装置に付いている静電気除去シートを右手の人差指で数十秒触った後、給油口のリッドを開け、栓をしているコックを回して外し、孔を露出させる。
次に給油機の液晶のタッチパネルを操作して、電子払い、ハイオク、満タンを選択し、今一度静電気除去シートに触れてから黒くて長いホースの付いた黄色のノズルを給油口にしっかりと突っ込み、レバーを引いて給油開始!
後は、注ぎ込まれたガソリンが給油ノズルの先に取り付けられたセンサーと接触して自動停止するまでのんびりと待つだけである。
給油を終えてノズルを定位置に戻し、給油口をコックで栓をしてリッドをパタンッと閉め、料金を精算すると俺は車に乗り込んでシートベルトを締め、発進させた。
歩道の手前で一時停止し、右からの車の流れが途切れるまでやり過ごす。普通のスタンドだと店員が誘導してくれる事が多いが、その点はセルフ、田舎のコンビニやファミレスの駐車場から路上へ出るのと変わらない。
右から来た銀色の平ボディー車の2代目日野・デュトロの4t車が路肩に居る俺の車に向かって一度パッシングしながら減速するのが目に入ったので、俺はステアリングを左に切りながらアクセルを踏み込んだ。そして、車道に入ってから後ろに向かってサンキューハザードを3発焚くと下向きの前照灯を点け、旅館に向かって走りだした。
日が完全に山稜の影に消え、少ないとは言え人家が立ち並ぶ区間にも関わらず街灯の光が殆ど無い藍色の闇が立ち込める道を、自分のヘッドライトとフォグランプの白い光だけを頼りに進む。
俺は、ウインカーレバーを奥へ押し込んだ。途端にヘッドライトがロービームからハイビームに切り替わり、30m程手前の辺りしかぼんやりと照らさなかったのが、100m先の向こうの方までパアッと一瞬で照射されるのは実に心地良く、且つ安心感を得られる。ほら、今走っている緩やかな右カーブの向こう、先程まで暗闇に包まれて何も見えなかった所に、無灯火の黒いE110カローラの後期型の後ろ姿がはっきりと白い光輪の中に映し出されている。
この世界に送り込まれるまで意識する事は無かったが、最近は日本以外にも世界中の元プレーヤーが転送されて各地にコミュニティーを形成している事を見聞きするにつれて、はっきりと分かった事がある。東アジア人、特に日本人はギリギリまでライトを点けようとしない馬鹿が多い。
もうとっくに日が暮れているのに、まだ見えない訳ではないからいう理由で、今目の前にいる馬鹿みたいに平然と無灯火走行をやらかす。お前が良くても、俺がお前を見つけ難くて危ない、と云う事を全く解ろうとしない。黒と銀色のような地味系の暗い色は暗がりに紛れ易いのだから、頼むからスモールだけでも点灯して欲しいものだ。
前に車が走っている事が判ったので前照灯を下向きに落としたが、今度はあれだけはっきりと見えていたカローラの影が完全に薄暮の闇の中に隠れてしまう。テールライトだけでも点いていればどれだけ有り難い事か。闇夜の中、突然目の前でブレーキランプが輝く事がどれ程後続車のドライバーを混乱させ、自身にも危険が及ぶ事になるのか早急に理解して欲しいものだ。
やっと、前のカローラがヘッドライトを点けた。が、やれやれと思って見ていると、何処か違和感がある。
またまた右カーブに差し掛かったところで、俺は漸く気が付いた。前の車の黄白色のヘッドライト、オレンジ色の実線のセンターラインを殆ど照らしていない。しかも右側のスモールも切れている。ロービームまでの電球に限って言えば、完全に左側のライトしか生きていない状況だ。
はっきり言って、これは非常に危ない。何故なら対向車には、まるで路肩の付近を1台のオートバイが走っているようにしか見えないからだ。もしもその対向車が右カーブの度にセンターラインを大きく食み出す事を常態化している『勘違いアウト・イン・アウト馬鹿』だった場合。バイクだからと思い込んで平気でセンターラインを越えて突っ込んで来る事があるのだ。
もしもハイビームの方は生きていた場合、そのままヘッドライトをハイビーム固定にする。もしくはやむを得ずロービームにする時は、レンズカバーの上半分にガムテープなどを貼って光の照射範囲を人為的に制限してやればいい。
そして朝が来れば有無を言わずに信頼できる修理工場へ車を委ねれば良い。面倒だが、故障箇所が狭い範囲に集中している内にコツコツと直し、何時でも万全の体制で整備しておけば、結果的に車検費用や全体の整備費用を節約する事が出来、同時に長く車を走らせる事も不可能では無いのだ。
旅館の駐車場に車を停めてライトをきちんと全て消灯し、停車措置をしてエンジンを切ると、俺は車から降りて施錠し、ジャケットのポケットの中でガチャガチャと鍵を弄りつつ旅館の中に入った。
部屋の中に入るや否や、
「お帰りなさい、あなた。何方へ何をしに出掛けていましたの?」
と言う玉緒の声が俺の耳に流れて来た。
「ああ。車のガソリンが空になっていたから入れてきたんだ。……っ!」
と、半分本当、半分嘘の答えを吐いて女房の方へ顔を向けると、俺は思わず息を飲んだ。
俺の居ない間に着替えたのか、白いスカートと黒いタートルネック、そして明るい茶色の革のジャケットを着ていた筈の玉緒が、藍染めの絣のように旅館の社章ロゴが小さく一面に染められた白い浴衣姿で、俺の前に座って寛いでいた。もともと大きな胸が目立つ方だが、薄手の浴衣によってそのスタイルの良さがいい具合に強調されている上に、浴衣の裾から垣間見られる乳房の谷間の影や股間を覆う淡い桃色の布地の一部が何とも艶かしい。
元々PC上で操作して俺の理想に敵う様に作成したのだから、ある意味当然とは云え、そんなあられもない格好をした玉緒の姿はとても魅力的で、俺は息を呑んで彼女に見とれてしまった。
「あなたもこれに着替えれば宜しいのに。ゆったりしていて結構気持ち良いですよ。」
「俺は、普段着の方が落ち着くよ。」
「ふふっ……、あなたらしいですわね。でも、そろそろ上着を脱がれたらどうですか?」
玉緒に笑われて、初めて自分が上着を着っ放しだという事に俺は思い当たった。
「あ、うっかり忘れていた。道理で暑い訳だ。」
俺は羽織っていた茶色のテーラージャケットを脱いだ。そして、それを宿の備え付けの木製のハンガーに掛けて壁に掛けていると、
「あなた。御夕飯を食べる前に一風呂浴びに行きません?」
と玉緒が声を掛けた。
「風呂か、折角温泉に来たんだものな。疲れを取る為にもそうするか。」
「ここのお風呂、混浴なんですって……。」
混浴、だと……。思わず手を止めて咄嗟に家内の方へ振り返ると、彼女は頬を赤らめ、すっと俺から目を逸らして俯いた。
脱衣場が男女別に分かれているだけで、そこから先は男女共用、所謂『混浴』という扱いになる、半屋内型の浴場へ足を踏み入れる。
手前に石のタイルを敷いた床が外まで広がり、向かって右側の壁と、手前側、向かって左にある女性用の脱衣所への出入り口を越えた壁沿いに、鏡、シャワー、蛇口、石鹸、シャンプーとリンスがセットになった、この手の公共入浴施設でよく見かけるような洗面台が並んでいる。
周囲に目を遣ると、傍には板を3枚組み合わせただけの簡単な椅子と深めの柄杓が浴場の雑に積み重ねられ、如何にも普通の浴場と云った風情である。
風呂自体もどうって事はない。向かって左側の壁が無く、奥にある竹を編んだ塀の傍の庭まで自由に入れる様になっており、屋根の下にある此方側に赤茶けた花崗岩の石材を組んで造られた長方形の浅い内風呂があり、外へ一歩出ると白玉のような大きな砂利が一面に敷かれ、黒い玄武岩で造られた、歪んだ円形のまるでちょっとした日本庭園の池の如くお粗末な造りの露天風呂が仲良く並んでいる。既視感も甚だしい、何とも面白みのない光景だ。
これで露天風呂から見える景色が絶景ならば遠路遥々来た甲斐があると云う物だが、極めて残念な事に、この風呂場を囲む竹塀の高さは優に3m以上もありそうだ。頭上の星空位しか見るものも無かろう。
露天風呂も内風呂も、浴槽に入っている源泉の種類は同じなのか、炭酸カルシウムが多く含まれていると思われる青白く濁った湯が濛々と湯気を上げている。
風呂の大きさも大した事は無い、精々合わせて30人弱も入れればいい方だろうにあまり人が居ないように感じるのは、本当に人が少ないからだろう。仲良く内の方の湯船に浸かる夫婦らしい中年の男女が一組、洗い場で小学3年生位の男の子の背中を流している父親らしい男が一人、仲間内の旅行だろうか、露天風呂の方でイチャイチャわいわいと人目も憚らず騒いでいる3人の若い女と1人の若い男のグループがいる程度である。
そうして風呂場全体を一瞥すると、俺は体を洗う為に、男子側の脱衣所口に近い向かって右側の方の洗い場に向かい、腰掛けと柄杓を手に取ると、10枚並んだ鏡の内、手前から数えて3枚目の前に椅子を置いてその上に座った。
眼鏡を液体石鹸のボトルの傍の眼鏡置き、シャワーヘッドを手に取って蛇口の栓を捻る。バシャバシャと頭から湯を浴びていると、女性用の脱衣所へ続く水切り場と浴場を隔てるアルミサッシの磨硝子の引き戸がガラガラと開く音と共に、誰かが此方に向かって歩いて来る足音が背中の方から聞こえてきた。
きっと玉緒だろうか。そんな事を考えながら俺の左側に座った女性の方へそっと顔を向ける。眼鏡が無いのでぼんやりとしていて細かな所ははっきりと判らないが、俺は彼女が妻だと云う事だけはしっかり認識した。
体や髪を洗い清めて再び眼鏡を掛けると、俺は玉緒と一緒に内風呂の方に入って湯船の真ん中辺りまで進み、座り込んで湯の中に体をどっぷりと浸けた。
「はあ……。」
程良い暖かさまで下げられた温水に体表を撫ぜられ、あまりの気持ち良さから思わず溜息が漏れる。
「いい湯だなあ……。」
たとえ見て呉れはショボくても、やはり天然温泉はそれだけで良い物だ。
「来て良かったですね、あなた……。」
「ああ、そうだな……。」
白い湯気に覆われて良く見えないが、向かって左側、露天風呂と正反対側の内風呂の壁に凭れて静かに談笑する中年夫婦と、母親が合流したのだろうか洗い場でから戯れつつ湯船の方へ歩いてくる先程の父子と女性の家族連れの話し声が俺の耳へと流れ込んでくる。露天風呂と違って内風呂の方はとても穏やかだ。
突然、ばっっしゃあああああああああん!と轟音と共に派手な水飛沫が内風呂の中から上がった。先程の子供が飛び込んだのだ。
少年は水面から顔を出すと、そのまま犬掻きをするように手足をばたつかせて泳ぎ始め、間髪を入れずに彼の両親が、
「こら!タダシ!お風呂の中で泳いじゃ駄目だ。今すぐ止めなさい!」
と叱り付けた。確かにお風呂の中で水泳をするなど言語道断だが、そこは小さな子供である。俺だってあの子位の時は似たような事をよくし、その度に親父から絞られていたものだ。人だって多い訳ではないし、躾の為に注意するのは理解できるが、少し位多めに見ても良いのではなかろうか……。そんな事を思いながら、俺は玉緒と共にその家族の様子を観察していた。
少年は父親と母親に厳しい顔で怒られて渋々と泳ぐ事を止めたが、やはり不満そうに父親の方へ振り返り、右腕を伸ばして露天風呂の方を指さしてこう言った。
「でもお父さん、あのお兄さんとお姉さん達はお風呂の中で泳いでいるよ。どうして僕だけ怒られるの?」
確かに、顔を右に向けて湯気の向こうの露天風呂の方を望むと、連れの女達に煽てられた男が湯船の中で下手糞なクロールを披露して調子に乗っていた。男も女も俺や玉緒と然程変わらない年頃だと見受けられたから、確実に二十歳は超えていると考えた方がいいだろう。いい歳をして何を見っともない事をしているのだろうか……。同世代の者から見ても情けない。
注意した方が宜しいのだろうが、無駄に黒く小麦色に日焼けた皮膚、相当な醜顔の癖に濃い化粧をして雰囲気だけ取り繕った顔相、どきつい金色に染色した短髪、そしてやたら筋肉が付いた体躯、そんな如何にも柄の悪そうな男と、ほっそりとして色が白くて髪も長い以外は男と同じ様なオーラを身に纏った女共の様子を鑑みるに、本能的に関わらない方が無難と直感したので、俺は同じ湯船の中に居る他の客と同じ様になるべく平静を装い、苦々しく思いつつ露天風呂の方から目を逸した。
彼らが立ち去ってから露天風呂の方に行こうと考えていたが、中々上がる気配を見せないので、不本意ながら俺は玉緒と共に内風呂から出て、屋外へ向かった。
彼らと出来るだけ距離を取るように、湯屋から出てすぐの所、広い浴槽の隅の方に二人で身を寄せ合うように湯に浸かる。
君子危うきに近寄らず、されど虎穴に入らずんば虎児を得ず。虎さんに睨まれないようにそっと息を殺し、大して湯に浸った気分も起きぬ間に、頃合いを見てそそくさと上がる事にした。
そうして玉緒が立ち上がって砂利の上に右足を下ろした刹那、
「ねえ、そこの彼女!こっちで俺達と一緒に遊ばない?」
と、明らかに男だと判る低くて軽薄な声が彼女に向かって掛けられた。言うまでもなく先述の金髪男である。
俺もそうだった位だから、玉緒も驚いたのだろう。彼女はビクッと肩を引き攣らせると、ゼンマイが戻ったブリキの玩具のように体を硬直させた。しかし、俺が咄嗟に両手で彼女の両肩を掴み、軽く揺すって促すと、今度は糸が切れた操り人形のように脱力した。
そんな彼女を支えつつ脱衣所の方へ小走りに避難すると、俺は彼女を女性用の脱衣所の方へ押し込み、自分も男性用の出入り口を潜り、手にしていた手拭いで体の水滴を拭いで役目を終えたそれをよく絞った。
直ぐ様、衣籠にいれた自分の浴衣に着てもともと着ていた服や持ち物を小脇に抱えた俺は、宿の廊下へ移動して玉緒が出て来るのを待っていた。
ガラガラ……、という音と共に男側の脱衣所の引き戸が開き、振り返ると先刻の金髪男が眼前に立っている。洗面台の鏡でも見ながらワックスでも掛けていたのか、それとも無造作ヘアの心算なのか、短い髪を不恰好に真ん中の辺りをちょこんと立てて前髪を不揃いに分けている。以前、美容師をしているという若い女をたまたま客として拾った時、
「運転手さんもまだ若くて可愛い顔をしているんだから、もっと髪型に気を遣えばいいのに……。」
と、赤信号で止まる度に彼女から見せられた、ヘアスタイル用のカタログか雑誌の見開きに沢山並んでいた男性モデルの髪型とよく似ている。おまけにレイバン辺りが出してそうな、濃い茶色の角の取れた大きな四角いレンズの金縁のサングラスを掛け、赤い火の点った白い紙巻き煙草を加えているから、宿の浴衣ではなくて極彩色の背広なんかを着ていたら、深夜の繁華街を流していたら面白い程よく拾うホストその者である。
そして男と前後するように女側の脱衣所の出入り口も開き、奴が連れていた、だらしなく着崩れた浴衣を除けばこれまた場末のキャバレーがよく似合いそうな、無駄に肉付きの良い身体以外は貧相な女3人組が、次に彼女等に続くように玉緒も現れた。
自意識過剰だろうが4人組の視線を甚く感じるので、俺は玉緒の手を引こうと手を伸ばし掛けた。
「ねえ、彼女!」
「ちょっとお!タケル。まだあの娘に声を掛けるの?やっぱり彼氏持ちっぽいよ?」
と、男の声と共に、これが女の声なのか?と我が耳を疑いたくなるような黄土色の濁声が聞こえてきた。
明らかに男が傍にいる女を引っ掛けようとする金髪野郎の往生際の悪さにも閉口したが、それを面白がって茶化す女達の方もどうなのだろう?
俺は慌てて、不安そうに俺を見る玉緒の左手を利き手で掴むと、そのまま彼女を庇うように抱き寄せた。
「おい、お前。行こう。」
「え、ええ……。」
そうして二人でさっさとその場から退散しようとした刹那、唐突に俺は誰かに右肩を掴まれた。振り返ると金髪の男が蟀谷の辺りに青筋を立て、サングラスのレンズの向こうから俺を睨み付けている。ただ、所詮は下っ端のチンピラ風情に過ぎぬのか、ハッタリを噛まして威勢良く脅している心算らしいが、全く威圧感の欠片も無ければ怖くもない。前に黄という香港マフィアの若頭を乗せて以降、ここ最近暴力団の組長とかアメリカのギャングの親分とかに指名を頂く事が妙に増えた所為か、この程度の雑魚に凄まれたところで何も感じなくなっていた。我ながら慣れと云う物は恐ろしい。
俺は振り返る序でに男の手を払って玉緒を背中の後ろに匿い、背筋を伸ばして男と正面から相対した。
「何の用ですかね?いきなり人の肩を掴むとは、不躾な奴だなあ。」
「何の用か?じゃねえよ。さっきから他人の邪魔ばかりしやがって。」
おいおい逆恨みの挙句絡んで来やがったぞ……。顔にこそ出さない様に心掛けたが、俺は開いた口が塞がらず、ただ男の顔を凝視した。
「お前一体、その女の何なんだよ?!」
「夫ですが、何か?」
逆上している男にこう平然と言い放った次の瞬間の彼の顔を、俺は一生忘れないだろう。日焼けをして濃くした顔でも、場合によっては手に取るように解る位、はっきりと鮮明な青色を浮かべる事がある、という事を知れたのは貴重な経験である。
「あなたこそ何様ですかね?他人の嫁に手を出そうだなんて。」
「…………。」
「何も言う事は無いみたいですね?それでは失敬させて頂きますよ。……ほら、行くぞ。」
今度こそ玉緒を促すと俺は彼女と手を結び、並んで歩き出した。
「全く、さっさと出てくれば絡まれずに済んだのに……。」
部屋に入って腰を下ろしてお互いに落ち着いてから、俺はつい玉緒に小言を漏らした。
「どうせ、放っておいても乾くんだから、ドライヤーとか掛けなくても良かっただろ?」
「でも……。」
シュンと項垂れて、だけど何かを言い返さんとするように上目遣いに此方を見る玉緒の様子に、流石に少し言い過ぎたかな、と俺はちょっとだけ心の中で反省した。
「まあ、いいさ。結局何も無かったのだから……。でも、次からは気を付けてくれよ。」
そんな事を話していると、パシャン……ズッ……バタンと襖が開閉する音がし、藍色の小袖を着た中居が部屋に入って来た。
「お寛ぎのところをお邪魔致します。もう間もなくしたら御夕食の用意が出来ますので、皆様揃って『鶯の間』の方へお越し下さいませ。」
どうやらこの旅館では、食事は大広間で他の客と一緒に食べさせる、という形式を取っているらしい。という事は、あのウザい団体さんと三度遭遇する羽目になる訳だ。
正座をして頭を下げている中居に向かい、俺はダメ元でこう請うた。
「あの、夕食の方は此方へ運んで頂いて、此処で食べる、という事は出来ませんか?」
きょとん、とした顔で俺達の顔を数拍眺めた後、
「それは致しかねます!」
と全力で首を左右に振った彼女に向かって、先程風呂と脱衣所の前の廊下で起きた顛末を、俺と玉緒は交互に語った。そしてその上で、
「生理的にあの客達と食事とはいえ同じ空間を共有する事は生理的に嫌悪するし、家内の身の安全の為にも、我々としてはこの部屋に隔離して頂く方が一番いいと考えているんです。何とか都合を付けて頂けないでしょうか?」
と、俺は中居にお願いをした。
しかし、次の3点の理由から、あっさりと却下されてしまった。
まず、食事を運ぶ手間、そして食事が終わった後の片付けや掃除などの手間が煩わしい。
次に、客が夕食を摂っている最中に部屋の卓袱台を撤去して押入れの中の布団を畳の上に敷くので、出来れば大広間に移動して貰えた方が有り難い。
最後に、他の客も同じ条件で承諾して貰っているのだから、自分達だけ特別扱いするとなると、別室の客から苦情が寄せられる可能性がある。だから出来ないのだそうな。
まあその代わり、該当する客とは出来るだけ距離を離す等、此方に対する配慮をするように担当者に伝言すると約束してくれたし、実際にその場へ出向いてみると、他の何組かを間に挟んで隣り合わない様に計らってくれたので、俺と玉緒は一先ず良しとする事にした。
尤も気配りは気配りでも、部屋に戻って来たら床に布団が1枚しか敷かれていない光景が待ち構えていたのには、二人で苦笑するしかなかった。どうせすぐ眠る心算だったから、別に隣り合わせで2枚でも全然構わないのだけどなあ……。